昭和十三年 六十七歳

一月 旧臘からしごとを携えて熱海ホテルにいった。
   はらからは戦へるなりのどかに朝海にむかふ此のおほけなさ
   思ひは思ひを生みてまなかひの大海は夜の色となりにし
   命ささげ戦へる健男(たけを)おもひつつ心つつしみ文机による
   人と人と民族と民族と手とりあひ笑みつつ語る日よとく来れ
   海鳴にめさめておもふ戦の後の戦に光あらしめ
御講書始に「御歴代の御製に拝せらるる御聖徳」について進講した。御進講をおえて心のうちに思いつづけた歌、
   海遠(をち)は風雲さやぐ わが大君内外(うちと)の書(ふみ)のことゆたに聞かす
   国を民をおぼしし代々の大御歌かしこみきこゆ大み前にして
府立第二高女に講じた。
心の花に「総攻撃の前夜」(口語体)を掲げた。
万葉集講読会、及び東京農業教育専門学校に講じた。
林大氏の応召送別会を清澄公園に催した。
   鴨ゐる島この広池のさざらなみ野営の夢に入る夜あらむか
三月 印東昌綱君の華甲祝賀会が宝家で催された。
   浅夜寒みストーブつけてはらからが語らひかはす小川町の昔
   唯一つのわが誇らひの思ひ出は泣くを背負ひて須田町にゆきし
   須田町まで鉄道馬車のかかりしを見せにぞゆきし泣くをすかしつつ
   本にのみかじりつきゐし「本虫」の一人の兄にさびしくありけむ
四月 京都にトラウツ君の独逸に帰られるを見送って、
   七年(とせ)を君が在り見し東山かすむ春べを君往なんとす
大阪商船の高千穂丸にて神戸より門司にむかう。大沢忍、源豊宗、村田達枝、富岡とし子君同行。
   闇の海光いささか帯び来れり月は伊予路の山を離れつ
   せとの海夜汐早しも見つつありし左舷の月は右舷になれり
   紫に嶋々かすめり神の御手に作らししは春の曙なりけむ
下関にて赤間宮に参拝、長門本平家物語、豊太閤の短冊等を見、いわゆる七盛の墓のうち特に右京大夫のために資盛の墓前にぬかずき、長府にものし、山口にては図書館に大内家旧蔵の古書を探り、常栄寺に雪舟の造ったという庭をながめて、
   画の聖心の筆に石すゑしめ池つくらしめ成れる庭かも
瑠璃光寺の五重塔を見、下関に帰り、宇佐神宮参拝、富貴寺にいった。その途上で、
   山椿花咲きしだり荘厳(しやうごん)す大き岩にゑれる此の摩崖仏(まがいぶつ)
富貴寺に壁画を見た。
   石磴(せきとう)はゆがみくぼめりおびただしき落花なるかも踏みつつ登る
   春の鳥山のみ寺に声すなり白鳳仏のましますみ寺
別府途上、
   定印の阿弥陀ほとけはしづもります藤原の代の板画(いたゑ)の前に
   豊の国これの峠(たむけ)の大木桜まさかりの日にわが逢ひにけり
別府に鰐を飼える湯を見て、
   ゆぶねの湯ほのあたたかみ鰐の群そが故郷を忘れたるらし
   一(ひと)ゆぶねに一(いち)の大きわに一(ひと)ゆぶねに身に身よせあへる二三十の鰐
   己(し)が身のさかれむ日まで湯の気(け)ぬくきこれの湯ぶねに眠れる鰐か
和声会の嘱により、「帰らむとする浦島」を作詞した。{二〇四頁参照}《注:二〇四頁は昭和6年7月》
東大病理学教室五十年史下巻に、故三浦守治教授のために、「人間性を表現せる歌人」を寄稿した。
五月 武田君及び弘文社の人々と榛名湖より榛名神社に詣でた。
   山に対(むか)ひみづうみに臨み友も吾も長き思出のよき一日なりし
田中光顕翁に招かれて袋田温泉に遊んだ。
米国なるバーネット夫人より、ポトマク河畔の桜の画の出ておる新聞に自らの歌をかき、かつ其の川の水を壜に入れて二荒君に寄せ来った。その水で書いておくった歌。
   ぽとまくの岸をめぐりてしき島のやまとの桜さきにけらずや
   此の水やいづくの水花ざくらかげをひたせるぽとまくの水
   花にそみしぼとまくの水硯にうけかき流したるやまと歌ぞ之(こ)は
六月 東京女子大に「良き師良き教子」を述べた。
七月 立正大学国文学会に「桑門の歌人」を講じた。
八月 鎌倉ペンクラブ主催夏季大学に「源実朝」を講じた。
原善一郎君の一周忌に歌集、「夜(よる)の雪」を出版すると、村田邦夫君と共に校正をした。
   君が性(さが)をおもひ、幾たびか校じつつ成れる一巻(ひとまき)を供養(くやう)じまつる
   ぬばたまの夜(よる)の白雪真しづかに浄き境に君いますべし
三渓園なる天授院に、新月会同人と共に原君を偲んで、
   流にそひ木蔭(こかげ)の道をとめゆけど君が姿の見えずもあるか
   むかつ丘暮れもてゆくなりたましひの底にしみとほる筧の音か
斎藤瀏君を豊多摩刑務所に訪うた。乾政彦、中村徳重郎君が同行せられた。
九月 臨時東京第一陸軍病院に、伊藤嘉夫君と共に隔週作歌を指導し、万葉集を講じた。
   会場の壁によせかけし松葉杖かずおほかるに心はいたむ
   みとりめに手ひかれ歩みく戦盲のおも朗(ほがら)かに曇れる色なし
   傷うづく勇士もあらむ歌がたりうなづき聞きて笑(ゑ)ましげにをる
   足断たれし白衣の勇士わが説くを手押車の上にして聴ける
これは百回以上つづいた。その間に傷病兵諸君の真情のこもった力づよい作品をあつめて、伊藤君と合編の傷痍軍人聖戦歌集、及び、御楯、失明軍人歌集戦盲及び心眼を刊行した。
十月 海軍省より海軍旗制定五十年記念の為「軍艦旗の歌」の制作を嘱せられて作成、十一月三日の佳節の海軍大行進に演奏合唱せられた。
十一月 文部省小学読本に「万葉集」の執筆を嘱せられた。
長崎熊本の医科大学、福岡佐賀の高等学校に講ずべく出で立った。
   若人(わかうど)に古歌(ふるうた)の力説かまくと防人(さきもり)がこし筑紫路に来つ
福岡にて大隈言通の旧宅さゝの屋にいたる。言道が世を去った室、眺めた池もさながらにある。その著「ひとりごち」を思うて、
   さゝのやの窓にかこちし「ひとりごと」きく人はありき三十年(みそとせ)の後
   あるじあらば歌はまし、池の枯蓮の茎の上(へ)わたり鶺鴒のあそぶ
野村望東尼の平尾山荘にて、
   屋の砌(みぎり)に落葉多かりある宵は落葉の音を聞きしみ居けむ
   藁びさし散りつめる落葉おびただし今おちて赤き紅葉の一葉(ひとは)
穴山孝道君の指導のもとに、児玉寿子夫人の催さるる歌会の会員の博多ホテルにつどわるるに歌がたりをした。
   新(にひ)しき道、言道の老翁(をぢ)が拓きし郷(さと)いま新(あら)た代にうまし花さけ
太宰府を望み見つつ、
   いにしへの水城(みづき)のあたり小草黄なり東歌(あづまうた)うたひ防人は来ずや
   梅花(ばいくわ)の宴憶良の大夫が下つ座(くら)に佐氏(さし)信綱のまじり得ばとおもふ
佐世保に、朝永造機少将に迎えられて鵜渡越に登る。綱子、峯子が同行した。
   秋晴の坂路足迅(ど)にのぼる峯子をとめに近き大きさになれる
車中にて、
   国今し戦へるなり夕山村紅葉の村に日の旗は立てる
   夕背戸に童ら遊べり戦地にして此の山村を思ふ兵あらむ
   山畑にわら火たく子ら目ざとに見兵士のれる汽車に万歳を投ぐ
長崎医科大学に講じて、
   若人のつとめはも重しひむがしのあじあの空に光みたしめ
川西知事夫妻に招かれて、増田図書館長と共に「満月」にかたる。
   冬晴のかがよふ海を見つつ聞く紅毛がたり三菱造船所の繁栄(さかえ)
浦上天主堂にて、
   彩色(いろゑ)ガラス洩る日光(ひかげ)濃しマリア立たす聖壇の前の消えざる聖(きよ)き灯(ひ)
   浦上の山のやま風あらびもしつ消えせず聖(きよ)きこれのともし火
天主堂の附属室の陳列棚に、平仮名でかいた古き教義本を見て、
   村女(むらをみな)ひそかに筆とれるか宛字(あてじ)がちに三丸太(さんまるた)など書ける教義本(をしへぶみ)
その傍らに古き信者がもっていた麻縄の鞭――そのにぎりの棒は古び、縄がよれよれになっているのを見て深く感激し、「麻縄の鞭」一連の作を詠じた。
   苦行人(くぎやうびと)この麻縄の鞭とりあげ血ぶくまで我をうちけむか我を
   炎なす信(しん)の心をもちつつなほ我を呵責しうちけむ鞭か
   この鞭や神の真鞭(まさむち)うつそみの身も心をもうちくだけとふ
   悲しかも苦行足(た)らざる我を我とむちうちうたむ此の鞭とりて
   心おぞくい行くべきをも行きがてぬ懦弱の我をわれむちうたむ
   こころをしひておさへて忍びをり恇怯の我をわれむちうたむ
   感(かま)くるこころのまにま直(ひた)進む軽躁の我をわれむちうたむ
佐賀高校長森岡氏に案内されて、市の郊外東与賀村に三浦虎次郎君の墓を訪うた。
   縁(えにし)ありてわが歌、君を世に伝へき今日し吾が詣づ「勇敢なる水兵」の墓
   刈田には稲こづみ多しただむかふ金立(こんりふ)の山に虹たてり見ゆ
         (稲こづみは稲むらの地方言)
佐賀高等学校に講じて、
   大き陸(くが)の広く、大き洋(うみ)の果知らず、ひた進みゆかむ若人を寿(ほ)ぐ
熊本医科大学に講じて、
   懸崖の菊の一鉢咲きしだり広き講堂をなごやかにせる
細川家別邸に、玄旨法印書写の典籍を見て、
   むかし人心のどやかにまめやかに合戦(たたかひ)の間にも写しし歌書(うたぶみ)
鹿児島県阿久根には、冬の初め、朝鮮から鶴が多く群れ来ると聞いて、毎年行き見まほしく思ひつつ果さずにおった。今年五月に文部省から、十一月九州に文化講義をとの嘱をうけ、むしろ「人やりの道」なりせばと思うて、熊本までは来たのであった。しかるに熊本で病むことになった。
   隼人(はやと)の国海わたりくる鶴群(たづむら)を見むとは来しか旅の途(みち)に病む
   阿久根のや百千鶴群ゆき見がてぬ熱ばめる目に百千(ももち)乱れ飛ぶ
   熱ばめる目をとぢてをり我死なばなげくらむ顔が濃くうかびくる
すべなくて熊本より帰京した。車中、英霊十一柱と同乗して、
   車窓(まど)ゆ仰ぐ夜空に月の光きよし英霊も見ませ筑紫路の月ぞ
先人の遺著土佐日記、更科日記、十六夜日記等の俚言解を口訳国文叢書として補訂出版した。
南京飛行場なる展望台の前に自分の歌碑が建った。
   神国(かむぐに)の海のあら鷲大き陸(くが)の空とよもしし功(いさを)はかがよふ
南京航空隊の上阪司令官からその写真をおくられた。
   わが歌にわが魂(たま)ごもりとこしへに仰ぎたたへむ海の荒鷲を
         (かくは詠んだが、事変後とりくずされたことであろう。)
小林愛雄、葛原しげる、弘田竜太郎君と協力して「愛国唱歌」第一集が刊行され、予の「正義の軍」、「総攻撃の前夜」を掲げた。
十二月 斎藤茂吉君と共選の「支那事変歌集」が読売新聞社から出版された。

前頁  目次  次頁