昭和十四年 六十八歳
一月 北京近代科学図書館二周年記念号に、心の花所載の「英訳万葉集に就いて」を洪炎秋氏の漢訳せる「関於英訳万葉集」が掲げられた。
二月 紀元節に、「肇国歌」が弘田竜太郎氏の作曲により放送せられた。
丁酉倫理会、東京府立第三高女、神奈川県立横浜第一高女等に講じた。
三月 帝国女子専門学校、お茶の水家庭寮に講じた。
四月 東京会館に英訳万葉集竟宴に列した。多年の希望の書が、多数の学者及び訳者の努力により完成したことは、喜びに堪えない。食卓に馬酔木の花をかざり、メニューも、一、豊御酒、一、薯羹物、一、焼魚、一、牛炙、一、春菜、-、氷菓、一、阿倍橘と上代風にさせたことであった。
東京日日新聞社の太平洋行進曲の審査員を嘱せられた。
斎藤瀏、小宮良太郎君らが、短歌人を創刊せられたに、ことほぎ送った歌、
現(うつ)し身の玉の緒触りてさやさやに清き響をたつる歌なり
真梶貫(ぬ)きいゆく船人に幸(さち)あれな歌の大海に朝びらきす今
五月 第一高等学校に「万葉の春」を講じた。
東京朝日新聞「新進歌人抄」に、伊藤嘉夫、小城正雄、村田邦夫、三氏の作を寄せた。
東郷元帥を讃うる歌の碑が、多磨霊園なる大森氏の邸内に建った。
大阪に赴いて、天王寺なる社会事業会館の歌会に列した。京都にいたり、京大楽友会館の金雀枝会に講じた。次の日は葵祭を見、行列について御薗橋を渡り、神前にぬかずいた。
南庭(なんてい)に東遊(あづまあそび)奏し橋殿に駿河舞まふ夢の代のごと
六月 東京商大に講じた。
愛国婦人会主催銃後家庭強化の歌の審査員を嘱せられた。
杉栄三郎、新村出二博士を招いた夜、近く得た古代の酒甕を花がめに用いて、
上つ代の大きもたひの花がめに真白百合さす客人料(まらうどがね)と
ま白百合いろをしづけみ夏花の紅こきをさしまじへたり
七月 新湊町柴氏邸内の万葉歌碑の除幕式があった。
聖戦二周年の日、放送局より放送すべく「七月七日盧溝橋」を作った。作曲は堀内敬三君。
日本女子大に「藤原定家の国文学に於ける寄与」を講じた。
鶴見和子さんの渡米、富岡冬野さんの上海行送別会に、堂本竜子さんは「米国から帰って」、西富貴子さんは「モスコーより帰りて」の感想を述べられた。
奈良に赴いた。橿原神宮外苑なる大和国史館建設委員会の顧問として、施設内容についての意見を開陳した。夜汽車にて帰京、東京駅にて、
鹿歩みし夕日の奈良に歌おもひつ今東京の雑音(ざふおん)にまじる
八月 国学院大学の万葉講座に「万葉集時代概説」、日本小児科学会に、「小児を詠じた歌」、司法研究所に「万葉集の時代」を講じた。
軽井沢に避暑中、独訳万葉集に就いて、ツァヘルト君を米田山に訪うた。木村謹治博士、小城君らと同道した。
老樅の木かげの卓に万葉の訳語かたらふまだら日淡し
ツァヘルト君も絵葉書に即吟をかいて示された。「樅のもと風清く涼し万葉の昔語りに時走りたり」。
米山梅吉君の浅間庵招宴に、関屋貞三郎君と同行した。
田舎家(や)は雨夜ひゆるに炉の火あかし世を憂へ語る客もあるじも
九月 厚生省主催の明治神宮国民体育大会歌の歌詞審査を嘱せられた。
十月 室蘭なる栗林家の会社創立二十周年記念に栗林加寿子刀自の歌碑の碑陰の記をしるしたので、招かれて北海道にわたった。
ひさかたの天の白雲に心うごき北海(ほくかい)にこゆる秋の旅人
秋空に鴎と化(な)りてまひのぼる松前丸がしぶく白波
タ浪の八重折(やへをり)が上に鴎まへり海をへだてて駒が嶽淡く
洞爺湖、
舟よする嶋岸淵に散りよどむいたやの紅葉かしは黄朽葉
足ふめばゆらぐ桟橋板間にも岸にも散れる島山もみぢ
この間(ま)がくり四十雀の声澄みとほる嶋山かげのここは風なく
室蘭に栗林家にいたる。製鉄所に案内されて、
とどろとどろ高とどろけるハンマーに新(にひ)亜細亜おこる声こもるなり
をのこにまじらひ、職場守る女、頭上を鉄塊は右往し左往す
わが立つ断崖(きりぎし)枯生(かれふ)こほろぎ鳴き千尺(ちさか)のしたは真青(まさを)大海(追直浜を望む)
登別小公園の歌碑建碑式は、いとも盛大に行われ、石榑千亦君も来られた、藤本鳥羽子ぬしの建設の記と写真とは、心の花十一月号に掲げてある。
家の風おこり栄えて栗林よき花かをりよき実みのりつ
公園の傍のグランドホテルにて、
ロビーの灯(ひ)かげやはらかし湯づかれの身を快く深椅子による
石榑君はさきに帰られた。地獄谷にて、
湧きたぎりのぼる湯の気(け)に日ざしつよく剣(けん)が峯の赫岩もゆるが如し
湿原、
大湿原かぎれる海のただに碧く真青(まさを)さ深き空の色なり
秋空は澄みきはまりて翳(かげ)もたず見はるかす海にただ一つの舟
白老、
秋風の白老村(コタン)段(きだ)屋根の上におりゐて浜鴉なく
聖戦(みいくさ)に孫が召されし誇らひを肩はりつつも嫗は語る
細工もの独木舟(モチツプ)にをるあいぬびと親子熊(カムイ)もかなしきものを
十勝野、
灰色にぬりつぶされし平野(へいや)過ぎ丘陵地帯になれり、木の、草のもみぢ
神威古潭、
崖と崖黄の一色(いつしよく)にいろどれるかむゐこたんの岩むらの秋
松浦武四郎翁を憶う。{二二頁参照}《注:二二頁は明治15年3月》
松浦の老翁(をぢ)し偲ばゆ石狩川岸の枯生の道ふみなづみ
山にいね雪の上(へ)に臥し遠つ蝦夷踏みめぐり書きし幾十冊の日記
大雪山、
夕日今し沈まむとして大雪山山(やま)なみの秀(ほ)の雪、光あり
層雲峡、
峡迫り天つ空せばし高岩のもみづる上に遊ぶ白雲
山風を千ぐさにそめて散り乱るいたやの赤きかつらの黄なる
岩垣を高み光の乏しかる峡の夕日にちりちる紅葉
入日まともに光をなげて山ひだの高き低き紅葉色もえむとす
山村、
山の家その子めされししるしの旗紙の日の旗軒高うたてる
道に出でて子を呼ぶ母がこゑひびく夕山村の秋風の中
やますそ小屋、夫、木を伐るに恵念なり泣く子あやせる女の声す
山裾道科皮(しなかは)はぐともはらなる女の白き三角帽子
路傍の家、
海つ物柳葉魚(ししやも)小竹にさし乾(ほ)してかそけき家のくらしなりけり
闖入者厭ひげもなく三人(さんにん)の炉ばたの女したしげに語る
戦地より昨日(きそ)便こしとあかき襟かけたる若き一人(いちにん)は云ふ
猛(まう)にして忠実(まめ)なる犬のアイヌ犬わが家の族(ぞう)と背を撫でて云ふ
唐黍(たうきび)を壁に掛け並(な)め雪ごもる百日(ももか)の冬の料とすと云ふ
また、十勝野にて、
時雨雲空につめたし広原は茫漠として日くれなむとす
夕ぐれの時雨にぬれてあはれなり無蓋車につめる大き木材
定山渓(じようざんけい)、
湯のけぶり紅葉の谷にまつはりて家々の窓夜(よる)ならむとす
朱(あけ)と黄といろ交錯す渓風に虎杖(いたどり)ゆられ山葡萄ゆれ
湯の沢川夜ふかく覚めて音近し胸にここだくの思あらしむ
定山寺に定山法印の遺物を見る。
魔を除(よ)くと獅子頭(がしら)もち村歩きつ身は北海の潮にさらされ
岩山の笹生よぢ、村々めぐりけむ定山坊の破(や)れたる法衣
帰途、西原民平君が露領ドウエより帰り来られたのと小樽より同車した。
韃靼の海の上(へ)の月に船追ひくるいるかの群を手真似し語らる
西原君を小樽に迎えた月岡社員の談を聞きつつ、
北サハリン荒海(あるみ)に沿へるドウエの山そが炭山に幾年(とせ)をありし
心の花十月号を「橘糸重子追悼号」として諸家の文辞を掲げた。
放送局より「陣中の歌」を放送した。
三菱倶楽部にて、「心の糧心の記録としての歌」を講じた。
女子会館に「曙覧を偲ぶ会」に講じた。
十一月 鎌倉山に、日ぐらし富士の歌碑が建った。
日ぐらしに見れどもあかずここにして富士は望むべし春の日秋の日
十二月 大和にいたり、中山正善、松尾四郎、阪本猷、川瀬一馬氏と香久山村にて、
久方の天のかぐ山冬の日の輝きにほふよき日にまゐきつ
二千六百年祭々器の埴採場に竹上氏に案内せられ、鍬鋤を手にとって、
香久山の厳(いか)し埴土(はにつち)とりつとふ神鋤神鍬かしこみ手にとる
松山町にいたり、阿騎野の旧蹟に「ひむかしの野にかきろひの」の歌碑の建つ所を見、薬草園を訪い、松尾氏の邸にいった。町の旧家で、二階の障子に三色の色硝子がはめてあったので、幼時を偲んだ。
コメント