昭和十六年 七十歳

一月 学士院から、宸翰英華編纂委員を嘱託せられた。
三月 東京音楽学校同声会、日本教育音楽協会、全国高等女学校協会の嘱によりて「皇后陛下御誕辰奉祝歌」を謹作し、信時潔氏が作曲せられた。
東京放送局の海外放送に「和歌について」を執筆した。
四月 金沢文庫をとうた。
   金澤の入江おだひに丘きよみ七百年(ななももとせ)を文ここにあり
   岸ざくら池の心にさしおほふ真盛りの枝にかかる雨ほそし
   ともなへる三人の孫に語りきかす片仮名字本古今集、金澤氏のこと
日蓮上人書写の円多羅義集唐決を見て、
   是聖房生年十七歳の筆のあと雄々し力はすでにこもれり
館下の室に、京都より来た三人の少壮学者が滞在しておる。
   戦の雲おもき世を若き学徒専念に抄写す古き聖教(しやうげう)
千代本にて、
   ま白つばさあざやかに張り鴎は舞ふ曇り日の江の水すれすれに
戦地なる宇野栄三君に、
   このあしたよきあしたなり鴬のこゑす、仏印の君が便りきぬ
   ゆく春の山吹に藤に牡丹花に吹きつぐを君が遠き夢に入れ
国分青厓翁の石南荘にて、
   遠つ世びと端正楼に見めでけむ花さきつぎて千とせ匂ふを
藤田富子夫人の歌集「ゆふ汐」の出版記念会が、椿山荘で催された。古代雛の数々が飾られ、湯浅半月翁は、平家琵琶の薩摩守忠度を奏せられた。
七月 国学院大学万葉夏期講座に講じた。
八月 「万葉辞典」を刊行した。
盛夏を軽井沢万平ホテルにものして、「万葉集の研究」の校正に専心し、十数日を過した。
   高原道林に入りて昼雨のふりますぐなり山砂にしむ
   もやの底に花さきしづむ月見草(ぐさ)ほのぼのとして夜の道遠し
   ひねもすを筆とり暮らし山窓に白樺の風を聞く十日なる
   郭公(くわくこう)に鳴きつぐ声の赤腹に山まどの朝は全(また)く明けたり
   ますらをの火の山にしてひさかたの月の下びにいぶき嘆くも
たまたま一日を、小海線により、延山が原に遊んだ。三十八年前、同人小尾保彰君の案内で、甲州清春村より、乗馬にして八が嶽の麓を越えた思い出の地ゆえである。
   千くまあがた川上郷(がう)は川原(かははら)も山高原も月みぐさの国
   八が嶽天そそり立つ一嶺(ひとみね)の半(なか)らに白く雲ながれたり
   駅裏(えきうら)はひまはり咲けりたけ長く切りそろへたる白樺の材(ざい)
   山の霧ここに追ひ来て小駅(せうえき)に別を惜しむ人をつつめり
   棚田より棚田におつる水しぶき浴みて色こし蓼の花萩が花
バスにて志賀高原にいった。
   のぼるままに林相(りんさう)かほり白樺の幹々に明るし山の秋の日
志賀高原ホテル、
   おりゆきてストーブのもとに書よまむ身にひしひしとせまる夕冷(びえ)
   ストーブの白樺の薪(まき)もえさかれり独ソ戦の記事を火明(ほあかり)に読む
   夕山の光しづかなり山原に切(せち)におもふも世界のうごきを
仏印なる宇野栄三君におくる。
   たか原の天(あめ)の足夜(たりよ)を月ふけたりはろばろしかも遠人おもふに
朝とく、山人を案内にここかしこをめぐって、
   カミルレの白花つづく坂路せまし山の朝冷はだへにとほる
   声高(こわだか)に「よう」といひかはす山人が言葉の中を走る朝もや
   茅草(ちぐさ)かる山人どちがものがたり征野(せいや)の子らの上なるらしき
征野にある同人を思うて、
   山の雨乱れふしたる穂すすきの道ゆきゆくと思ひはるけし
野尻湖にて、
   木もれ日の光やはらかし埴(はに)やきの郭公笛(くわくこうぶえ)を児はふきすさぶ
   手ひたせば湖の心のあたたかさ真ひる日はにほふ青葉を透きて
柏原駅に一茶をおもうて、
   秋風に蕎麦畑白しいとけなき弥太郎童ゆきけむ道か
一茶終焉の土蔵がのこっておる。
  「蚤さわぐ」この蔵にしてと悲しめどほろにがき笑(ゑみ)にゑみてをあらむ
九月 銀座の三越にて、万葉名勝写真及典籍展覧会を催した。
   千載(ちとせ)の後今まさやかに見るものか万葉人(びと)のふみし跡どころ
陸軍病院なる傷痍軍人諸士七十余名が、梅沢衛生中尉に引率されて参観せるに説明した。健かにみえるもあれど、看護婦の附添えるのもあった。
   松葉杖に身をよせつつも古りし書に静かに対(むか)へり病める健男は
   まなこ一つ国に捧げし大丈夫のまほるがに見る海の山の図を
十月 学士院に「古鈔万葉集十五種の印行に就いて」を報告した。古鈔本十五種を印行しおえたのである。
外務省の若き外交官八十余氏の為に、万葉集について、三回講演した。
情報局で催された紀元二千六百年祝典記念の夕べに「大和の春」が作曲者宮城道雄氏の合奏団によって演奏せられた。
長谷川時雨女史が永眠された。
   慰問袋送りしか送りしかと今はの言の雄々しく悲しき
   今は昔小川町なる講義の日源氏をきくと必ずこしか
下野烏山にものして、
   崖高みはろかに遠く光り流る那珂川の水秋の日に映(は)え
二宮尊徳命を偲んで、
   大土を足しかとふみ山すその此の道や行きし二宮(にのみや)の老翁(をぢ)
那須国造碑、
   飛鳥(あすか)浄御原(きよみはら)の代の筆の蹟(あと)を千載に伝ふ、那須直(あたひ)韋提(ゐて)の名をも
   よきことを世にのこしつる国造(くにつこ)の名はも朽ちせず千歳の後に
この行、黒羽に戸田茂睡の兄の家渡辺氏を訪い、茂睡伝について得る処があった。
十一月 海外在住同胞の為に放送した。
十二月 イランなる市河公使をおもいて、
   今宵月澄みきはまれりみ国おもひ事とる窓に仰ぎてあらむ
米国なる小畑薫良君に、
   今この秋(とき)遠つ朝廷(みかど)に仕ふらくますらたけをと生けるしるしあり
三好海軍大佐に、
   積乱雲艦上にして見さけつつ胸にわかむやまとますらをの歌
文永の古文書を見つつ、
   異国(いこく)云々(しかしか)の文字の力つよし国を思ふ心ひたぶるに筆はとりけむ
水道のとまることがあってはと、厨に近く井を掘った。
   ほりほりて中つ土底土(にしはに)ほりきはめこれの真清水わきでけらずや
   うまし水あたへたまへるみ井の神に清(すが)塩まきて御酒(みき)奉る
六日に読売新聞記者が来て、近く重大なる発表あるべく、その日の新聞に載すべき歌をとのこと。辞したが聴かれぬままに、
   元寇の後(のち)六百六十年大いなる国難来(きた)る国難は来(きた)る
の歌と他に何首かをおくったに、九日の朝刊に載せ、歌の前に大きなる白ぬきの文字で、「国難来る国難は来る」と掲げてあった。当時、相次ぐ捷報に、面ほてる心地がしたが、終戦の後おもえば、この国難来るのことばは、老歌人の杞憂にして巳まなかったこと、嘆くにあまりある。
東部第三部隊第五中隊の為に隊歌を訂正した。
文学者愛国大会に、歌壇を代表して述べた。{心の花十七年二月参照}

    昭和十七年 七十一歳

-月 熱海来宮荘より家に送った二枚つづきの画葉書に、「二日の午後三時より夜の眠以外には、独坐静思、筆をすすめて唯今(四日午後一時)、第一稿完成いたし候。これよりは字句を修正するのみ。日清日露の役に軍歌を作りし身の、幸に此の大御代に長らへゐて、歌人としてまことに有がたききはみに候。記念のため来宮荘のこの葉書さし出候。一月四日 信綱」。東京日日新聞社より依嘱された、ハワイ海戦の歌であった。
大政翼賛会三重支部歌人会の顧問として宇治山田市の結成式に列し、神宮皇学館講堂に講じた。
二月 東大文学部の芳賀博士を偲ぶ会に、「新国学樹立者としての芳賀博士」を述べた。
訪書会で、集古談をした。
大東亜戦争戦歿者慰霊祭に、大日本舞踊連盟よりの依嘱にて作成した「忠霊にささげまつる」の舞踊が、靖国神社広場で奉納された。
三月 国民学校児童のために、朝礼訓話を放送した。
満洲国十周年慶祝会の嘱により、「蘭の花」を作詞した。
心の花三月号を、小花(おばな)清泉君の追悼号とした。
四月 宸翰英華の委員として京都に赴き、東山御文庫の御物を精査し、津市にいたり、川合村に稲垣兵曹長の家を訪い、大里村なる陸軍療養所を慰問して帰京した。
五月 「若き教師の出征」(詩)を心の花に掲げた。
六月 「ハワイ海戦の歌」及びその作成についての感想を心の花に掲げた。(五月に発表演奏会が一つ橋共立講堂であった。)
牛込陸軍病院の白衣勇士諸君の歌会第百回記念会が駒込吉祥寺で催されて、伊藤嘉夫君と共に出席した。陸軍病院から傷痍軍人の描かれた南京陥落の水彩画を贈られた。(竹柏華葉に掲げた。)
七月 日本文学報国会の短歌部門の部長を委嘱された。
服部四郎君来訪、蒙古談を聞いた。
   城の趾(あと)陽炎もゆとふ今の秋(とき)に成君思汗よ又生(あ)れ来ずや
朝永正三博士挽歌、
   私のなげきはおきつ人として正しき清き君を惜しむも
   額にめがねおしあげ語りましき事毎に意見もちたまひしか
馬来にて戦死した農学士陸軍中尉荒井保行君の母君撓子ぬしを訪うた。
   新嘉坡へ新嘉坡へといひつつも逝きけむ君か密林地帯に
   最期まで肌(はだ)に添へし手帳血ににじめる中に挟みありき母の写真(うつしゑ)
   写真(うつしゑ)の裏に記せり「死を覚悟する時常に浮ぶは母の面影なり」と
   今はの手にとりしとふ双眼鏡砕け散りてただにケースのみ帰りこしはや
   生死(しやうじ)の地に学の資料と拾ひしかも図嚢が中の護謨(ゴム)の実いくつ
八月 某省より嘱せられしことに専心数日、資料探訪のために、講演になど、東西した。
   あわただしう走り又走る大御国に報いまつらむ片はしにもと
鎌倉なる源実朝歌碑除幕式に式辞を読んだ。
  「おのづから山の蝉なきて」清く涼し今日のこの式を喜ばすらし
伊勢朝日村に「讃橘守部歌」の碑が建った。
   小向(をぶけ)のやこゝに生ひ立ちし橘の高きかをりは天の下に永久(とは)に
大阪に赴く。
   ボンボン船(ぶね)堀江さかのぼり夾竹桃岸に咲き群れ暑し真昼日
重要美術委員会委員として一行と共に讃岐に赴き、高松松平家の披雲閣で、佐理の詩懐紙をはじめ重宝を見ることを得、白鳥の猪熊(いのくま)信男君を訪うて宸翰の数々を拝観しておる半に、旅行前、大学病院に見舞うた、石榑千亦君遠逝の電報がとどいた。入院はしておられたがさほどと思わずに、猪熊氏の調査がすめば一同解散する予定であったから、土佐に赴き、鹿持雅澄翁の墓に詣で、徳島に出て阿波文庫の蔵本の残存しておるのを見、宇野に近い高島に、神武天皇をお祀りした社、そこに遠祖盛綱のささげた灯明台の址があるというのを訪うべき心組であったが、すべてをおいて急ぎ帰京した。
石榑君挽歌、
   荒海をむしろよろこびて船航(ゆ)きし海の歌人世を去りしはや
   うたびとの古泉千樫新井洸(あきら)君によりてこそはぐくまれしか
   いとせめて君が御霊(みたま)の前にささぐ此の一つきの酒をうけませ
   わが心うらさびしもよ五十(いそ)とせのよき友、君をうしなひにける
九月 読売新聞の嘱により、一日記者として「日本の母」を訪うべく群馬県に赴き、帰途、江間清子ぬし夫妻の案内で、多胡の碑等にものした。
麻布長谷寺に、歌壇人の石榑君追悼会があった。前田夕暮(胡麻豆腐と酒)、吉植庄亮(石博さんと酒)、土屋文明(石榑千亦先生を悼む)、岡野直七郎(石榑さんの書)等諸氏の追懐談があった。兼題、秋雲。
   久方の天の白雲あき風にみだるるなしてわが心いたし
佐々木公三君、鳥山榛名君をおもうて、
   秋づける風さはやけし此のあした北の国を南の国を思ふ切なり
十月 共立講堂における日本文学報国会主催の平田篤胤百年祭に「平田先生の歌」を講じた。
十一月 大東亜文学者大会に讃歌を朗吟した。
   皇国(みくに)の花菊さき薫るよき日今日を遠つまれびと海越え来る
   外(と)は喧擾(さや)げり内ゆたにして神(かむ)富士の護らす国と文人(ふびと)はつどふ
   天つ使命(よさし)天(あめ)ゆ声ありうから広き圏内(くぬち)に文の華さかしめと
   言霊の幸(さき)はふ国の言(こと)以(も)ち寿(ほ)ぐ光あれ力あれこれのつどひに
東京朝日新聞に「銭稲孫君と万葉集」を寄稿した。
東京日日新聞の発案、日本文学報国会の事業、情報局の後援の下に計画せられた愛国百人一首の選定委員の一人となり、その選定後、選衡に関する文章を諸新聞に寄稿し、東京日日の講演会に講じた。
鈴鹿市が新たになり、石薬師村が市に編入されることになったので、祝歌を伊勢新聞に寄せた。
久我貞三郎君の案内で、千葉県成東(なると)に下車、小松つるぬし等と東金(とうがね)八鶴湖畔の小集会に赴き、会おえて、片貝にいたり、君の別墅に一宿した。
   真白砂光を帯び来(き)影をゑがき松原の上の月夜となれり
   ここかしこ芝生のうへに影ありて松いく本の月夜なりけり
   遠汐さゐ東方(ひがし)になりて浜の家の夜がたりの間に月かたぶきぬ
九十九里浜にて、
   汐の八百路(ぢ)今あけぼのの光にほひ天の八重雲を日はさしのぼる
帰途、成東への途上、伊藤左千夫君生誕の地の標木が立っておる。観潮楼歌会当時、夜ふけて、与謝野君、啄木君等と語りつつ帰ったことを思い出て、
   夜ふけたる千駄木の通(とほり)声高(こわだか)に左千夫寛(ひろし)かたり啄木黙々と
   ゆくところ槙垣ぞ多き声高(こわだか)にかたりし声のきこえずや今
   かぞふれば泉下の人多し黄ばみたる枯生が上の木洩日のかげ

前頁  目次  次頁