昭和十八年 七十二歳

一月 熱海来宮荘にて、
   海の風西山に吹き竹群の秀(ほ)は一やうに朝光(あさかげ)はじく
   西山のなぞへ並松あさの日てり貯水池の水ひかりを湛(たた)ふ
   山すそは湯の気(け)あたたかし紫川あさ澄む水(み)の音(と)聞きつつ歩む
   日は昇れり近つ渚のさゆれ波遠つ沖辺の蒼波を染め
清水市に赴き、渡辺聡子ぬしの案内で日本平に登った。
   下(しも)つ半(なから)おほへる雲の上に立たし天つ峯なり神富士が嶺は
   天つ雲客に遊べりわさび沢清き瀬の音(と)に聞きしみをれば
日本文献学会の理事長に推された。
東大に於ける日本文学報国会国文学部門総会に「国文学と和歌」を述べた。{心の花三月号に掲ぐ。}
二月 東京府思想対策研究会に講じた。
三月 蒲原及び三保なる軽金属会社にものした。
   日の一日を二日に工員ら勤しめば機の動かざる時なし寸時も
   リゴレット型に鋳そそぐ白熱火はつはつ散りて銀の花さく
   濛々と白きアルミナの煙まひおぼろなり工員のたくましき顔も
   はしきかもまろがりおつる清き雪掌(て)にすくひみれは暖かき雪
   今の世の美しきものアルミナの回転機の雪と清女は書かむ
清水船渠会社にて、
   清見潟ひるじほ寄するしほの香に新(にひ)船つくる木の香まじれり
四月 さきに宮崎県で作った「日向(ひうが)の御(み)船出(ふなで)」を心の花四月号に掲げ、後記を添えた。(後に題名を美々津(みみつ)の御船出と改めた。)
小田柿捨次郎君の委嘱により編纂した「盲人歌集」を刊行した。
軍事保護院の嘱により、遺家族及び出征家族慰問の歌「星影花蔭」を作った。杵屋佐吉師作曲、藤蔭静枝氏振付で東宝に演ぜられた。
この月、肺炎にかかり、死生の間を彷徨すること数日、仰臥数十日、読むなかれ、聞くなかれ、考えるなかれとの医禁を守りつつも、おのずからあふれ出た作百余首、その中より十数首を抄録する。
   日に幾たび注射また注射道の為に生かまほしき望あり堪へざるべからず
   あはまほしき人の幾たりなさまほしき事の幾つに命はかかる
   疾(や)みては月日あらぬなりゆくりなく日を問へばあらぬ日を答ふなり
   生(せい)か死か最(もと)も厳(いか)しき現実の真(まつ)ただ中によこたはりをり
   死や生や常おもはぬにあらなくに今直面し狼狽す何ぞ
   苦しき夢さめて苦しき夢に入るひねもすを庭木に風ある日なり
   二人三人うらなきどちと青葉道日ささぬかげをゆくと夢見し
   久にふりし雨はれぎはの窓明り遠き鳩舎の鳩が音きこゆ
   指のかげ壁にうつして童さびひとり笑(ゑみ)すも浅夜の床に
   わくらばに熟睡(うまい)ゆ覚めし枕頭にあな浄らめづら石南花(さくなげ)の花の
久我太郎君日々に、三角いく代ぬし日まぜに牛乳を持ち来らると聞きて、
   日々日々に音なひ来(く)とふ教へ子の情誼(なさけ)思ふにも生きざるべからず
思いせまりし時、
   五十年(いそとせ)をただに斯(こ)の道にいそしみ来つ五月(さつき)の風に静かに眠らむ
   我を待たす父にきこえむことぞ多き大御代のこと万葉(まんえふ)のこと
助けられ起きて、
   枝はれる老木高槻(つき)緑すがし五月の朝の何ぞありがたき
   心はずむ再び生きて文机によらむ日ちかし朝の光きよし
   久に見る芝生の庭も珍らしく青葉が隅にがくの花さける
   接骨木(にはとこ)のさゆらぐ青葉色ちりて風の前に舞ふ真白なる蝶
起き得るようになって、人々のねもころに訪い来られたことを聞いた。川田順君は京都より上京、二週間を日々午後より夜九時の熱の時までおられ、大阪より大久保文子ぬし、伊勢より熊沢照子ぬし上京、某君は特に祈願を、また薬師仏になど、くさぐさ聞いて、
   聞きつつも涙しこぼる真心のまもりぞ我を蘇らせし
山川一郎博士、西川義方博士の幾たびという御来診、さては、附添看護婦の熱誠により、蘇生したことを深く感謝しておる。
六月 放送局の嘱により、病中ながら軍歌「アッツ島二千の忠烈」を作った。堀内敬三氏作曲。
九月 快癒記念に「病林偶吟」「歌のみなもとと歌のこころ」「竹柏園文存」「行旅百首」を刊行、人々におくった。
十月 船橋市片葉の芦歌碑に歌を寄せた。
十一月 心の花に「産業戦士の和歌」を掲げた。

     昭和十九年 七十三歳

一月 明治四十二年に志した伴林光平全集が湯川弘文社によって刊行された。心の花一月号の「新年言志」に詳記した。
出陣学徒におくる歌、
   大いなる歴史の中の一人としいゆく若人よ今ぞ此秋ぞ
   続きいゆけ今の瞬間(たまゆら)も海に陸(くが)に大き勝どきはあがりてあるを
   大君の遠(とほ)の御楯と雄々しかも学徒はい征く生死(しやうじ)をこえて
久我太郎君の出陣壮行会を催した。入営二日前、「出陣歌抄」を知友におくられた。
二月 村田邦夫君が応召の前日に来訪された。
   国つ学国つ意(こころ)を胸にたもちい征(ゆ)くにいかでむかふ敵(あた)あらむ
   海ゆかば水づく屍(かばね)と講ぜし君身をもてい征くみ召のままに
戦禍が次第にきびしくなるに、建築家にきくと、わが家の書庫は鉄筋コンクリートでなく、ブロックゆえ、これこれの距離へ爆弾がおちれば云々とのこと。偶々(たまたま)蘇峰翁にお逢いしたに、大事な書物は文化事業協会にうつしたといわれる。協会にいったに、いかにも堅牢な地下室で、万安全のところ。協会では、翁のは譲りうけたゆえ、同じならばとのことに、万一を憂うるあまり、万葉学上の貴い書の一部を委ねることとした。
印東昌綱君が永眠せられた。心の花五月号に追悼録を掲げた。
   小川町雪一面にふりしとふ君が六歳(むつ)の歌、人かたりつぎし
   幼くて書(もじ)もたくみに画の道も仕舞のわざもすぐれたりしか
   父母君とくうせましし広き家に兄弟(はらから)二人さびしく住みしか
   父母は笑(ゑ)みつつ見まさむ「かへりみて」「家」と「細雨」と三巻(みつ)の歌書(うたふみ)
   歌に書(もじ)に園の楓のかげふみし教へ子の胸に生きてをあらむ
   我ままなる兄を助けて生(よ)の限つくししなさけいつか忘れむ
日本文献学会より水戸家本日本書紀神代巻を刊行した。
   戦の今のこの時に新たしき命かがやき古き書出づ
   我朝是神国也と言挙せし学僧剣阿微笑みてあらむ
五月 皇室に関して特に御縁故浅からざる典籍を、万一に当って護持に欠くることあらんことを懼れ、松平宮相を経て御府に献納した。後深草天皇宸翰(一幅)は、八条院領御伝領に関する史料として貴き御消息。後奈良天皇天聴集(一冊)は、天文四年一歳に亙る宸記で、巻末に御花押がある。霊元天皇宸翰(一冊)は、延宝三年、後水尾法皇八十御賀の記の御草案で、御孝心深くあらせられたこと、かつは、時勢に就いての御感慨のほども伺われる。皇室御撰之研究によるに、御記八冊の第一であって、たまたま民間に佚したものである。明治輝光(一軸)は、明治天皇の御生誕あらせられた際の文書、及勤皇の歌人佐久良東雄の上った懐紙を輯めたもの。中山大典侍績子消息(一軸)は、明治天皇の御幼時に就きて記したもの。耕雲千首(四冊)は、その奥書が、長慶天皇の登極を証した貴重な資料である。
数日後、宮相より御召があり、参内したに、御嘉納あらせ給うたと承るだに畏きに、御紋附銀花瓶を賜わった。
   しろがねのうづの花がめ、遠つ祖も畏みてあらむ家の光と
学士院会員及び本年度の受賞者を宮中に召され、拝謁を賜わった。
   まゐのぼる大内山の緑わかく五月(さつき)の空のひかりすがしも
   大前の御苑の躑躅くれなゐにま清水は高く真白に清らに
   謁を賜ふ、大き戦の時にあれどまなびの道を重みしますと
   御稜威のもと、翰林(まなびのはやし)としのはに瑞枝さしそふ弥(いや)としのはに
六月 「万葉五十年」を刊行した。
九月 日本放送協会亜洲部のために放送した。
十一月 京都市伏見区深草の宝塔寺の朝永家墓所に、京大工学部長朝永正三博士追慕の歌碑が建てられるので詠んだ歌、
   わが道に一世ささげつよき人をよく養ひつ大御国の為
同じ月の作、
   地軸ゆるぎ世界きしろふこの秋ぞすぐれ人いでよやまとみ国に
   今の今の命しりがたき厳(いか)し世も息ある間はと筆とりつづくる
   壕に入る準備(まうけ)ととのへて中庭の山茶花の花にわがむかひをる
   壕を出でて庭畑にあふぐ真蒼(まさを)空飛行機雲は経緯(たてぬき)に白し
   月高く虫の音すめる夜を静かに大き戦を思ふ切(せち)なり
十二月 韓国の孫戸妍(そんこけん)嬢は、わが国に留学する事四年、その間、枡富照子さんに歌を学んでいたが、卒業して帰国した記念にと、「戸妍歌集」を京城で出版、おくって来た。朱の扇(ぶちえ)、翡翠の指輪など、朝鮮情緒を詠んだよい歌が少くない。韓国婦人の和歌集の初めであろう。
情報局の依嘱により、緒方総裁の官邸で第二回愛国行進歌を撰定した。それが十六日、十七日は野間奉公会より帝国ホテルにおいて第四回野間賞を贈られたのに列し、翌十八日熱海市西山なる西原氏の別墅凌寒荘に移った。時局もきびしくなり、昨年の大病後とて、山川博士、下村博士の勧誘によってであった。

    昭和二十年 七十四歳

一月作、
   山の色微かに明けて朝鳥の声おこる、谷のあなたこなたに
   暮ちかき空に黄ばめる雲ありて夕庭くまの竹群さむし
   西山の傾斜(なぞへ)杉むら光あせぬ今日の一日も暮れむとするか
   世を思ひ人を思ひはた我を思ひ涙はこぼるさ夜のくだちに
   和田山は雨けぶらへり昨日(きそ)よりも声ととのへる今朝の鷺
   山庭の夕かげりとく木々がかもすくらさの中にあしびは白し
   何をなししぞ我をかへりみ今日の日のいのち思ひてスタンドを消す
   わが道とほくはろけし飛躍は望むべからず一歩一歩をゆく
藤島正健翁の未亡人延子刀自を悼みて、
   国をあがめ神をゐやまひ清かりし心の鏡家を照らさむ
   言葉少なに心おだひにうまごらを身もたな知らにはぐくみましき
二月 戦火により、組版の成れる「国学先賢書簡」、「橘曙覧全集」は東京にて、「野村望東尼全集」は大阪にて湮滅した。遺憾の至である。
三月 心の花編輯部の石榑正君は深川に住まれたが、大空襲のため、奥さん、二人の子どもさんと四人がともに劫火の災にかかられた。いたましいともいたましい。
   吾妹子ら手とり助けてもえさかるほむらが中を進みけむあはれ
心の花は、角(すみ)鴎東君に編輯を依嘱したが、印刷所及び用紙不足等の為、二三四合併号、五六七合併号を出して、廿一年一号まで休刊した。
六月 藤田徳太郎君が、下関にて戦災にあい、失せられた。いたましいともいたましい。
   ふるさとに父母(ちゝはは)をとへる孝子(かうし)君(きみ)戦火身に浴みしこと悲しもよ
いま数年の齢があったならば立派な著作が世に残ったであろうにと遺憾に堪えない。
七月 情報局総裁の下村海南博士が歌集の原稿を携えて来訪せられた。君の「終戦記」に俊成忠度に擬して、西山歌の別という文詞を掲げられた。
   筆とりゐし歌稿をおきて物がたり又もみ国の運命(さだめ)にうつる
   友黙し我ももだして丘の上の三もと老樟の夕ばえ仰ぐ
   坂路下る友の姿を見まもりぬ又逢はむ日はいつの日ならむ
八月 十五日――十七日。
   天を仰ぎ地(つち)にひれふし嘆けども嘆けどもつきむ涙にあらず
   わが心くもらひ暗(くら)し海は山は昨日のままの海山なるを
   なげきあまり熱にたふれし耳の辺に人間ならぬ鳴咽(をえつ)の声す
   身に熱あり胸に憂あり門川(かどかは)のたぎつ瀬の音(と)を夜深く聞くも
折にふれて、
   かなしきかも身にしみ骨にしみとほる今年の秋の秋風の声
   世を離(さか)りこの山かげにこもりはをれ夕べの雲にうたた思あり
   古(ふ)りし書よみつつはをれ海の内外(うちと)雲の去来(ゆきき)にわが心馳(は)す
上京して、
   あき風の焦土が原に立ちておもふ敗れし国は悲しかりけり
   夢にあらずまさに現なり見の限見のきはみ赤くただれし焦土
豪雨の夜、東京より帰り来て、
   飛礫(つぶて)なす闇夜の大雨(ひさめ)、たぎちくだる水にひたりひたり石坂路のぼる
   やみのうちを雨白うしぶく悔いて今せんなしただに石坂路のぼる
   今の世の相(すがた)おもへば今宵の此の黒闇(こくあん)豪雨なほしかずけり
久に逢いし人、あまりにもわが痩せたりというに、
   国をおもふ心はも燃ゆかたちこそ痩せさらぼへる老(おい)歌人も
著作にいそしみつつ、
   み国のためささげまつらむ老の身に残る血汐の一しづくをも
停電の夜、
   暗中(あんちゆう)に端座しおもふ光明を国のゆくてに見む日はいつぞ
   停電の黒闇(こくあん)の中にある吾に残り蚊一つ声たて寄りく
   一ときのやみもいぶせし戦盲の田中長三をいとしみおもふ
上京した帰途、
   からうじて乗り得し貨車の一隅(ぐう)に身をよせて仰ぐ春の夕雲
小城正雄君帰還す、
   ビルマやけに黒うなれりといふ顔のゑまひやさしきわが正雄なり
   幾年(とせ)の辛苦は語らず万葉をたづさへゆきしさいはひをいふ
ある時、
   かつて思ひき今はた思ふこれの世に人の一人のあらましかばと
   雑草(あらくさ)は道をおほへり真中に立ち我(われ)ここにありといはむ声もが
上京せし時々に、
   極熱(ごくねち)の三人(さんにん)がけの列車ぬち身をちぢめ読むアミエルの日記
   あき風の駒込通(どほり)家建たざる雑草(あらくさ)原にさく曼珠沙華
ある時、
   教育を求むとしいはむ「教育者に何を求むる」と問はれし答に
   四(よつ)といふ子が目の澄みの深きかも廃頽の風景うつることなかれ
   思ひは思ひを生み嘆きは嘆きを積み、ふか夜こほろぎ
十月 落合裏次君の案内にて遠州に赴き、川崎なる清浄寺に夫木抄の撰者勝田(かつまた)長清の墓に詣でた。
   老松(おいまつ)のあき風たかき丘にしてしづかに眠る古人に礼(らい)す
   歌書(うたぶみ)のいさをし人(びと)の奥つきにささぐ、手折りこし野の草の花
   今いづら大き館(やかた)は、君が編めるうた巻夫木(ふぼく)とはに命あり
白羽は、防人の古歌にある地である。
   穂薄のつづる松原古へのしるはの磯となつかしみ踏む
御前崎にて、
   岬風つよくあたればたけひくき椿木群(こむら)の葉ごもりの花
   半(なかば)崩(く)えし灯台の下(もと)ちらばれる瓦礫(ぐわれき)が中の一もと野菊
   この頃の思和(な)ぐやと遠つあふみ大き海の波見に来(こ)し吾を
   天城嶺(ね)ゆ石廊崎(いらう)にかかる白雲の真下(ました)内海(うちうみ)の真青(まさを)さざ波
十一月 歌集「黎明(れいめい)」を刊行し、序言に「この小歌集を新日本建設にいそしまむとする若人に貽(おく)る。集の名はわが葦原の中つ国に照り明(あか)る時のとくいたらむを待ち望むが故なり」とかいた。巻頭に掲げた「若人に示す」より、
   道の前途(ゆくて)はろけくとも直(ただ)に進み行かな天(あめ)は広し高し日は明(あか)し浄(きよ)し
   八十(やそ)の曲路(くまぢ)い行き進まなぬばたまの夜空にも星の光はあるを
   明治の御代興れりし時をおもひみよ若人(わかうど)にして国を背おひき
   天地のいかなるものか若人の若き力にあへてまさらむ
   進み動く世界の音を聴きとめつつ日の本の直き大道(おほみち)をゆけ
   い行き行け光の道を国新たにつくりなすべきわが若人よ
   今あらたに興る皇国(みくに)の黎明(しののめ)に雄々しく立たむ若人を見よ

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