昭和二十一年 七十五歳
一月 元旦作、
み空仰げ八重棚雲(たなぐも)をおしひらき赫々(かくかく)として初日はのぼる
四月 終日著作の筆をとって、
かへりみて今日の一日(ひとひ)に悔(くい)あらずあらむ限の力つくしし
遥逍博士をおもう。《注:「遥逍博士」は底本のまま。》
双柿舎は名におへる柿若葉せりこと問はまくも主人(あるじ)いまさぬ
沼津の出身でイランの公使たりし市河彦太郎君が世を去られた。
今さくら咲かむ春べをやがて君が時いたらむを逝きし君はも
沼津のや千もと松原もとごとに問ふとも君がありといはなくに
米山梅吉君が、郷里なる静岡県長泉村で世を去られた。
珍ら花竜舌蘭のさける丘に万葉をロータリーを語りかはしし
幾十年にわたる交わりを思うと、うら寂しい。
五月 村岡典嗣君が世を去った。君の母はわが母の従妹の子で、早稲田通学前を小川町におって小花君に英語を学び、竹柏園集の作者であり、心の花に、さすらへびとの名で詩をかいておられた。「本居宣長」の名著から次々に日本学上の名著を公にし、海外にも遊び、波多野精一博士の推挽で、広島大から東北大、後に東大、教育大の講師をもされた有望な学者であった。
新たしき日本学(やまとまなび)の正(まさ)道を更に広らにひらくらむ君
石南花の歌、
いらだたしく憤ろしき思消えてさくなげの花にそむ心かも
校正に日のひねもすをつかれたる目に夕映の石南花をめづ
十まりの花さきこりて一花ににほひしづもる石南花をめづ
物ぐさのあるじ信綱朝なさな庭におりたつ石南花さけば
夜半の雨晴れて風あり紅玉は乱れ落つ石南花の花のひまより
田つくりの椿一郎とまりに来て朝目に見めづさくなげの花
六月 藤田徳太郎君の一周忌に、君をしのぶ文を心の花に掲げた。
十月 明年の歌御会始詠進歌の選者にとの御内命を承ったので、従前は五六首であった預選歌を十五首に、口語、漢語、外語をもよみいれてよい、二三字を改めてよくなる歌は改めてとる、よき歌は、書式のたがえるもの、文法仮名遣の誤をも改めて加えること、等の御許しを得て後、お引受した。しかして「詠進歌に就いて」の一文を発表した。それをここに掲げておく。「明治の初、宮中の歌御会始に、国民の詠進を御嘉納になり、ことに十二年からは、その中のすぐれた作を、預選歌として御式に披講せしめられた。万葉集には、応詔歌とて、仰言を承って、少数の歌人官人の献げまつった作があるが、広く国民の心の声を御聴きになる慣例は、ここに開かれたのであった。爾来約七十年、年ごとに詠進の数を増し、うるわしい新年の行事となったのである。今般宮内省官制の改革に伴って、種々改革せられ、昭和二十二年の選者として、元御歌所寄人の千葉胤明氏、同島野幸次氏と、新たに民間より、斎藤茂吉、窪田空穂氏及び佐佐木の五名が命ぜられることとなった。千葉、斎藤の二氏は、未だ地方に疎開中であるので、窪田、島野の二氏と自分とが、宮内省に参上した日、表拝謁の間において、両陛下に謁を賜わり、三人が数分間ずつそれぞれ言上したのを聞し召された後、「歌道をとおして、皇室と国民との結びつきに就いて、一層努力するように」との御言葉を賜わった。これは我等三人のみならず、歌壇全体に賜わった御言葉と、感激して承ったのであった。かくも深く歌の道に寄せさせ給う大御心に応え奉って、全歌壇の人々の詠進を待望する。万葉集の歌に、「新た世」という詞がある。今や日本国憲法も制定せられ、我等はまさしく新た世のあけぼのに立とうとしておるのであって、ここに「あけぼの」の御題を御示しになったことは、まことに意義の深いものがあることを覚える。新た世のために、新たなる歌のために、重ねて、全歌壇の人々の詠進を待望する次第である。」なお参内した当日、御卓子の傍らに花瓶があった。
瓶(かめ)の花ゆたに清らに大き菊の真しろなる黄なる、梅もどきは赤く
十一月 中山昭彦君から、理研の詩歌会が熱心なあつまりであると聞いて出席した。正門を入ると公孫樹黄葉(もみじ)がうつくしい。所員の男女諸子が研究にせわしい時をさいて注意深く聴いておられ、西川正治博士、佐橋佳一博士、久々で逢った中原和郎博士なども臨時に傍聴者として、また鈴木梅太郎博士の未亡人須磨子夫人もおられたので、故博士が若くてシュワイツ在学中、母堂より贈られた梅の歌のこと、去年遠州の博士の生家を訪うて詠んだ自分の歌のことなどをも話しそえたことであった。
十二月 日本古典全書の監修を依嘱された。
折々の歌、
久にして味はふ珈琲のかをりよし主人(あるじ)は示す古版伊曽保物語
よきまらうど半日を談り帰りしか生活の苦悩に触るるなかりき
昭和二十二年 七十六歳
一月 歌御会始の御式後、「あけぼの」の選歌について、今度の選歌には漢語や洋語のあるも選んで、ケージ、視野、祖国、大地しっかとのごとき歌、「あけてゆく」とあったのを「あけもてゆく」と「も」を加えた事等についてつまびらかに言上した。
三月 村田邦夫君と共に、野中なる山川博士邸の傍らを過ぎたに、歩みを留めて、隣家なる蜂須賀家の庭を指さしつつ、「みもさですよ、西片町で花瓶にいけてあったのを見ましたが」という。げにもそうである。
おぼおぼし夕光(かげ)浴みてみもさの花、さき満つ花の黄なる明るみ
見つつあれば散り散るみもさゆく春の日はたそがれの薄ら明りに
金色(こんじき)の群小童子舞ふが如みもさ細(こま)花はららき散るも
はるかな以前になるが、吉田茂君の夫人故雪子ぬしが、蜂須賀家よりおくられたみもさの幾枝を携え来て、伊太利に、南仏に多く、花のちる頃は黄いろい雨がふるようであると語られたことを偲んで、
いたりあの野にかも遊ぶかつて此の花もて来つる君のみ霊は
四月 昭和十四年以後中絶していた竹柏会大会を、小石川後楽園涵徳亭において開催した。自分は「命なりけり」を述べ、久松君は「後拾遺集と女歌人」を話された。兼題春を、
いま桜さきの盛を憂なき目もて見む春よとく来れとく
奈良市春日大社の万葉文化会理事を嘱せられた。
五月 「万葉年表大成」を刊行した。
七月 奈良万葉植物園の歌泉堂建立に歌を献じた。
熱海綜合夏季大学に「万葉集と現代」を講じた。
八月 心の花に懸巣の歌を、
おもふこと多しかけすのなく声もしみじみと胸にしむ夕べなり
つつみあまる胸の思を一ときに堰(ゐせき)きる如(な)す語るかけすか
かけすは鳴きやまずけり諦念をいひきかせたる胸さびしきに
なくをやめよ懸巣よなきてかひあらば汝(いまし)にまして我こそなかめ
かけす笛作りてふかむ吹き吹かばまどへる胸に響く日あらむ
清水の港祭を見にと招かれて渡辺氏を訪うた。翌日登呂に赴いて、
三十人の若き学徒ら学(がく)のためと土ほりいそしむ真夏真昼を
人は世は時はうつろふ登呂人の柵戸(きへ)の真柱そが根のこれる
語りつぎ歌ひつぎてし古言もうもれてかあらむこれの炉の辺(へ)に
田舟とめ聞きけむ声か葦原の風さやさやによしきり鳴くも
あし原を吹きくる風よ上つ代の登呂少女らが歌つたへこよ
発掘品を牧牛寺に見て、
木鍬掘串(ふくし)網の錘石(おもりし)いにしへの人も専(もはら)なりき生きむがために
泣く子にと母が持たせし猪(ゐ)の牙(きば)か鹿の角かも形やさしき
せとの蔵にかけし樹梯(はしだて)、をさむとてこぼしけむ稲も稗の実も斯(か)くは
登呂幻想、
眼前(まなかひ)にあるは登呂の部落(むら)森かげに趺坐(あぐ)み語るは登呂の老翁(をぢ)かも
老翁(をぢ)よ我に語りを聴かせ遠つ祖ゆ歌ひつぎこし古(ふる)東歌(あづまうた)
一天をくれなゐに占むる夕べの富士ゆびざしをるは登呂童べか
阿倍をとこ待つとにし有らし老楠(おいくす)の葉もれ夕日に笑みて立たす児
とろをとめ阿倍をとこらが歌垣のうた声にまじる遠つ汐さゐ
登呂の野の月夜(つくよ)さやけみ釧(くしろ)つけし手をさしかへて嬥歌(かが)ひうたふも
九月 十二日、学士院の会議室で、例月のごとく、清水澄博士の次の椅子に自分はかけておったに、会議の終った後、博士はいつものように近詠を示された。いささか筆を加えると、いつものにこやかな面もちで、「有がとう」といってポケットにおさめられた。廿六日の午後、訪問の客と話しておる時、郵便物が数通来た。自分のいつもの習わしで客との話をやめて目を通してゆく中に、清水博士のには歌稿四首があり、その第二首に、「辞世」とあるので目を見張ったが、従来も高齢の人の詠草には辞世を詠み試みておこせられたことがあるから、そうであろうと思いつつ封筒に収めた。しかるに、その日の夕べ、悲報を伝え聞いた。且つ驚き且つ嘆きつつ来簡の封筒を見ると、廿六日の熱海局の消印がある。おもうに前日の夕方か夜、熱海に来られて投函せられたものであろう。翌日来訪の新聞記者より、遺書の写(うつし)を見ることを得た。国を憂え、法を重んずる老臣の切々たる至情に、つよく胸を打たれた。多年の知己であり、同人であった博士の冥福をお祈りする。
まめやかに道につくしし老学者身をわたつみにささげつるはや
十月 学士院に「万葉仮名にてかける最古の筆蹟について」を報告した。
朝日新聞社の古典講座に「長歌の反歌に就いて」を講じた。
大宮に友を訪うて、
武蔵野は木立すでに秋の色ふかし駅に迎へたる友と語りゆく
老槻(おいつき)の森と森との間隙(かんげき)をうづみてしろき晩秋の富士
麦まくと陸稲(をかぼ)刈り干すと専念なり吾も徒らに道ゆくならねど
彼処(かしこ)と友は指ざす竹林(ちくりん)と杉の疎林につつまるる家
胸ぬちに停滞せる深き苦しびも全(また)く忘れし半日なりき
伊豆長岡に赴く。江の浦より長岡に、
入江はなれ山あひに入るのぼり道夕かげりさむき穂薄の風
夕山はさ霧追ひくる狭き道山帰来(さんきらい)の実の赤きもさびし
うすら寒う風だちし山いゆきめぐり夕月しろき湯の里に入る
南風村荘にやどって、
わくらばに心しづけく秋晴の稲田の畔をあゆみけるかも
昭和二十三年 七十七歳
一月 歌御会始の召歌に懐紙をささげた。御題 春山、
春の日はやはらぎにほふ磐山のこのこごしさもふみさくみ行かむ
伊東市なる仏現寺の鐘に彫るべき歌を請われた。
初日のぼる一天四海やはらぎの春きたれりと初日はのぼる
印度のガンジー翁の逝去をラジオに聞いて、
老(おい)梅にかぜたつ日なり浄行の聖者(マハトマ)逝くと伝ふラジオは
命を民族のためにささげつる人ありしなり逝きにけらずや
魂(たましひ)の力愛の力を喪(うしな)ひつ世界一つのものを欲(ほ)りしねがふ日に
二月 「新訂上代文学史」上巻を刊行した。
三月 「原本複製 梁塵秘抄」を印行し、各種の研究を附巻とした。
五月 心の花本月号を自分の喜寿祝賀記念号の一、七月号を二、九月号を三とした。同人諸氏から数々の文章をおくられた。わが自伝の一部ともいうべきである。
六月 喜寿祝賀会が保険協会で開かれ、北から西から上京の同人も少くなかった。武井大助、川田順、西原民平君の祝辞、武田祐吉君の万葉集に於ける慶祝の歌、金田一京助君の七十七のユーカラびとの講話、間島琴山君の披講があった。ここに長寿の方々の歌と詩を掲げる。田中館愛橘翁「七十ぢにつぐ七十ぢの数とりに七とせ経たるわが竹柏園(なぎぞの)の大人」、尾崎行雄翁「歌をもて天地(てんち)うごかさむ力もたずただになげうつ喜寿いはふ筆を」、徳富蘇峰翁「集成万葉志漸酬、紹述先賢未肯休、喜字遐齢為君頌、精神一到自千秋」。記念に「浴恩記・熱海七十七首」を人々にわかった。余興として、田中允君の鼓の蟻通、平井保喜氏が特に作曲された「宍道湖舟中月下賦」の演奏、椎の木会のかわいい合唱、藤蔭静枝ぬしの華やかな舞踊等があった。村田邦夫君は会の記、伊藤嘉夫君は竟宴の記を記された。自祝の歌、
喜のよはひ迎へてこの道につくさむの思いよよ切(せち)なる
雪子の歌をもかきそえておく。病中ながら、荒川光枝さん、加藤静江さん、小林看護婦に助けられて出席した。「わが胸の喜びをいはむすべ知らずただひたすらに神に謝しまつる」。
「佐佐木信綱研究」が千日書房の長谷川銀作氏により編集刊行された。窪田空穂、斎藤茂吉、尾上柴舟、市河三喜、吉井勇氏等が執筆された。
学士院に「藤原公重の集について」を報告した。
八月 ザ・カレント・オヴ・ザ・ワールドに国分氏との対談「万葉集と海外」が掲げられた。
九月 西山の上なる玉峰庵にて、
夜の山かぜとみに吹き起り漂よへる雲ちりぼひて月昇る早し
天地(てんち)寂として月と吾とありわれはた消えてただに月はある
たへがたき苦悩に堪へてかにかくに今年の秋の月もわが見つ
感傷に心おちいりやすき此の老い歌人をあはれむや月
渓の瀬の音(と)脚下にふみて暗き明き山路くだりく月と我と影と
十月 心の花第六百号記念自選歌集に巻頭言をものした。
多年わが為に、わが会のためにつくした妻雪子が逝いた。心の花十一月号を追悼録とした。
その初めの小伝をここに掲げる。――明治七年一月廿九日、東京に生る。熊本藩士藤島正健の長女なり。父が仏国リオンの領事となりしをもて渡仏し、リオンにて小学教育を受け、帰朝後、明治女学校を卒業し、明治廿九年二月、佐佐木家に嫁ぎ、内助の功多し。昭和廿三年十月十日の夕べ脳溢血おもり、十九日朝殁す。享年七十五。夫妻合著として刊行せる書に、「竹柏漫筆」「筆のまにまに」あり。
人いづら吾がかげ一つのこりをりこの山峡の秋風の家
呼べど呼べど遠山彦のかそかなる声はこたへて人かへりこず
夜ふけにたり筆をおきてふとかへりみる壁にありわが孤独の影は
雲流る水たぎちくだる人はろかにいゆきて山の秋はむなしく
門(かど)川の流のおとを聞きつつ立つ一人の我の此の夕べかも
あはれとのみ思ひて読みきエマニエルをうしなひし後のジイドが日記
うつそみの人の一人が悲しみてあふぐにただに青き空なり
天地のいづこの隈をとめ行かばいゆきし妹にあへて逢ひ見む
こころさぶし杉群の間(ま)に一もとのくれなゐ深き梢は見つつ
幼な日のリオンの写真色あせしをとうでながめつ幾年(とせ)ぶりに
鎌倉の文綱は油画を折々のすさびにかいておったが、初めて出品した日展に入選の通知が、雪子世を去った後数日に来たので、いま何日か早かりせばとしのんだことであった。
十一月 「佐佐木信綱全集」の第一巻として「評釈万葉集巻一」が、安田靭彦画伯の美しい装幀によって刊行され、第一回配本とした。全巻は十六巻の予定で、一~七評釈万葉集、八~九廿一代集抄釈、十日本歌学史、十一和歌史の研究、十二国文学の文献学的研究、十三万葉文献解題、十四万葉学論叢、十五佐佐木信綱文集、十六佐佐木信綱歌集と定めた。
今年二月、王堂先生の殁後十二年に当るので「王堂チェンバレン先生」を十二月に刊行した。新村出、市河三喜、金田一京助、ジョン・バチェラー博士及び自分の文詞、筧五百里君の著作並論文目録等を収めた。
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