昭和二十四年 七十八歳
一月 成人の日、石薬師小学校の生徒に文詞を送った。{心の花三月号に掲げた。}
心の花に「雪子の追憶」を掲げた。
四月 学士院会員として宮中に賜餐の日、法隆寺五重塔の組子の落書について言上した。
筆のあとは千歳を消えず工匠(たくみ)らが組子に書きしそのすさびがき
「四月十一日の記」を心の花六月号に掲げた。
十六日に貰い湯に行こうとして石に躓き、左の膝の関節を強く打った。ただ一瞬時のあやまちが、膝関節内部損傷となって熱海国立病院の吉村国手の治療を受け、七月の末まで百余日を苦しみ、前後八回の抽血を請うたほどであった。初めて訪うた日の国立病院は、折しも院庭数百株の桜がまさかりであった。
疼痛もたまゆら消えて花山の花の白雲に心なづさふ
窓の外(と)を花吹雪過ぎ真下の海日は煌々とかがやけり見ゆ
注射をへし心しばらくしづめをるまなかひを又花吹雪すぐ
レントゲンの室を遠みとゆだねたる担架の上(へ)に見る満庭の落花
担架にして下る廊長し顔に肩にちりくる花を払ふともなく
五月 讃石南花集、
足(あ)なやみ心なやむ身に光与ふこれの一花の尊し石南花
さ庭にさくなげの花小床(をどこ)に鉄斎翁の秋成の像
庭も背戸も石南花に咲きつつまれし青厓詩宗の家し偲ばゆ
石南花の花みまくほり美濃の国谷汲の寺に結縁(けちえん)せしか
ひまらやの石南花探り図譜作(な)ししいぎりす人の羨(とも)しきろかも
病みて四十日(よそか)床中にをりさくなげの花開き花ちりにけるかも
これの世を清く静かに美はしく石南花の花さきにてあらずや
現(うつ)し世は胸いたましむる事多し石南花の花ちりにけるかも
ひまらやの山路、さくなげの花の上に高く舞ふとふ真白き孔雀
(ひまらやの石南花は、かつて高楠順次郎博士に聞けり)
六月 折々の歌、
梅雨に過ぎて頻(し)きふる今宵なり「テニヤンの末日」よみつつふけぬ
よみをへて「末日」を思ひ今を思ひ憂ひは深し雨の音やまず
七月 「佐佐木信綱全集」第十巻として、「日本歌学史」(刪補本)を第二回配本とした。
「新訂上代文学史」の下巻を刊行した。
九月 NHK朝の訪問に語った。
今しわがいひつる声を我にきかす録音機の白きと黒きとの回転
つくつくぼし紫川の瀬のおともまじらへ入れり録音の中に
病後散歩したに、紫川の橋のほとりの老樟の木が影も形もなくなっていた。時代相とおもえど嘆かわしかった。
家ごもり百日(ももか)がほどに橋もとの大き老樟(おいくす)きられけらずや
西山にのぼりく人ら立ちとまりまづあふぎ見しあたら老樹を
何せむに誰かもきりし幾百とせ渓流に影をうつしし老樹
夕山峡水(み)の音(と)さやさやさやけきに世を人をふづく思も消えつ
十月 芸術院会員として賜餐のおり、御隣の椅子にさぶろうたので、御幼時奉仕した弘田長博士が沼津での、「しづが屋のあひるの雛をめで給ふ御心やがて民おもほさむ」、樺山常子夫人が箱根での、「みこの宮片言宣(の)りて母牛にむつるる子牛めで見ますかも」の歌をきこえまつった。
歌主や畏み思(も)ふらむうちゑましそのかみの歌きこしめしつる
別室にて会員が次々に言上した。自分は古代の歌謡にあらわれた「鮑さだをか、かせよけむ」等の海産物についてきこえあげた。{心の花五十四巻第二号に「十月廿一日の記」を掲ぐ。}
姉崎正治博士が逝去せられた。竹柏会の同人杉さと子さんが、君の親友高山樗牛君にとついだので、君を知るようになり、井上哲次郎先生が折々の作を示されてから、君もその作をみせられ、爾来数十年間を交わった。特に晩年熱海水口の南北荘にうつられたので、相往来したのであった。
十一月 学士院に「五巻本拾玉集と慈円の歌について」を報告した。
熱海市在住の文化勲章受賞者の一人として、市長の富士屋ホテルの招宴に列席した。俵博士とは兄君の事、松子夫人の事、佐々木隆興博士とは移岳集の歌のこと、コーヒーの事等々、閑談三時間にわたった。
山形県宮内なる須藤氏の水園邸内に、歌碑が建った。
三重大学教授の武藤和夫氏編の「三重県詩歌人集」に序詞をおくった。
昭和二十五年 七十九歳
一月 心の花に、明治二十年の「高崎先生祝賀会図解説」を掲げた。
宮中歌御会始御題若草に、戦盲の歌人田中長三君の歌が入選し、妻君の江子さんにつれられて参内した。君の喜の歌にいわく、「長三われわが生涯にかくのごとありがたきことのありと思へや」「盲ひたる人々戦盲の友だちに代りておのがうけし御恵」。
二月 ブラジルのサンパウロ郊外なる三好綱一君の日本荘に、自分の歌碑が建った。その歌、
一日(ひとひ)の業をへし夕べの月に星に祖国おもふらむ人に幸あれ
三好君の来書を心の花四月号に掲げた。椰子樹の同人岩波菊治君、八千代会の岩間春野さんをはじめ、多くの人々がつどわれ、アルゼンチンの石井衣子さんからは「石ぶみに師の御歌ありと思ふ時ブラジルも亦古里に似る」の歌を寄せられたという。
四月 茗渓会館に、先人六十年記念講演会を催した。間島磐雄(祭文)、土岐善麿(国歌八論について)、久松潜一(石川依平の歌と書簡と)、服部四郎(石薬師の家)、印東弘玄(外祖父を偲びて)、伊藤嘉夫(西行の歌)、小城正雄(竹柏会の過去と将来)、栗原潔子(歌話)の諸氏。自分は「亡き父の教訓について」を述べた。記念に「佐々木弘綱小伝・鈴山六十首」を頒った。余興として上田万年博士の令孫円地素子嬢の舞踊、わが家の外孫小島琢磨君の独唱、曽孫なる朝永道子嬢のヴァイオリン。別室に近世名家の筆蹟及び肖像を陳列した。会の司会、林大君。会の記、阿久津心影君。兼題「懐旧」のうち、田中館愛橘君「むそとせの夢の年月かへりみれば共にありき時の東京大学に」、斎藤茂吉君「わが国は戦の後の世となりていよよますます君を偲ばむ」、窪田空穂君「み親み子二代をかけて歌の道ひろめ深めし竹柏園貴と」、太田水穂君「竹柏園の那木の若葉にふりそそぐ今も子恋のちちのみの雨」、佐々木治綱「春の夜の静なる夜を披きよむ更科日記俚言解に祖父を偲ぶも」、佐々木由幾子「梨の花はなほのじろし逢ひまつらぬおほちちのみ声偲ばるる宵」。
わが手向の歌、
久方の天つ白雲の奥かにしてわがどちの道見つつをいまさむ
本居宣長大人百五十年祭に、文詞を献げた。{心の花六月号に掲げた。}
五月 心の花に「ウェーレー氏とトラウツ氏」を掲げた。
信濃路に林大君と共にいった。
書(ふみ)の上を心はなれず山ごもりこもりゐしかも此の幾年を
旅ごころすがすがしもよさ緑の武蔵大野の風、窓に入る
高崎駅にて、佐々木国子ぬし、母君、故公三博士の遺児亮三君らに迎えられて、
亮三君大きうなつた父君が守つてをられるからと窓ゆ手(た)握る
戸倉、笹屋ホテルについた。
門を入れば棚の藤波ゆらゆらに湯の香こもれる風になびかふ
長野より斎藤瀏君が来られた。
よき友あり夜の宴(うたげ)たのし紅ゐの大きなるトマト千曲川の鮠(はや)
朝とく起きたに、夜来の雨が晴れていた。
ふき井の水ほとばしりあがる白玉のくだけ又くだけ朝の池清し
静かなる池上(ちじやう)をとゆきかくゆく鶺鴒笑はば人間はと反駁やせむ
斎藤史君が来られた。
筑紫の旅桂花(けいくわ)はなさく門の辺に語らひき、早も二十年(はたとせ)を過ぎし
千曲川河畔の万葉歌碑(東歌の、君しふみてば玉と拾はむ)の建碑式に列した。(心の花八月号に清水信雄君、九月号に予の文を掲げた。)
向つ山みどりつららき千曲川玉なしながる音さやさやに
遠つ世のをとめをおもひ万葉の歌のいのち思ふ千曲の岸に
石ぶみに万葉びとの霊こもり更に千年をうたひつがしめ
吉野朝の初め、冠着(かぶりき)山の麓に権少僧都成俊(じようしゆん)が住んで、万葉集を写し、奥書を加えたりした。
万葉(まんえふ)の歌碑よろこぼひいほり出でて成俊僧都も訪ふらむ、月夜は
梨の花りんごの花のさきつづく道いゆきのぞむ冠着山を
りんご咲きあんず咲き此の山村の春たけなはに人憂(うれへ)をいはず
姨捨駅で清水君等に別れた。
ゆく春の信濃の国に二日ありて見のたのしもよ山の水の若葉の
車中、
空くもらひ筑摩野の春のさぶしもよ山国(やまぐに)にして高山を見ず
白樺の杖たたきたたき「異国の丘」声ひくう唄ふ若きは戦盲か
辰野駅にて林君に別れ、久曽神君に迎えられて天竜峡ホテルに宿った。
流のおと瑠璃鳥(てう)のうた此のあした天龍峡にめさめたるなり
もやうすれ朝日さしくるにたらの木の高木真青葉目を射る如し
たぎちくだる峡流のとよみ朝の日は花崗岩壁に光をそそぐ
天竜峡、
おしおす浪をどりあがる浪とがり浪声あぐる浪黙(もだ)しくだる浪
轟々と鞺(たう)々と流れくだる水己(し)が思ふ如ゆくは楽しからむ
海へ海へひたぶるに急ぎゆく水の海にいたりて悔なからじか
山峡はいま朝の日の寂光ににほひかそけき藤波の花
ひたくだる水のたぎちのあふり風高処(たかど)におよび藤の花ちる
藤かづら花はらら散りむらさきの雨ほろろ落つ清き流に
伊那電鉄車中、
峡流にそひてたまたま家群(いへむら)あり青葉がおほふ屋の上の石
三河一宮駅で草鹿砥祐吉君が乗車、宣隆翁の著述について語られ、豊橋にいたり、波多野文庫のあとにそのかみをしのび{一九頁参照}市役所内の集会室なる談話会に出席した。《注:一九頁は明治15年3月》
跡見学園の七十五周年の祝に招かれた。花蹊(かけい)先生も、李子(もも)校長の父君万里小路通房伯も自分よりはるかに年長ながら歌の道では教え子で縁故が深い。校長室で憩うていると、李子さんは扇を手にしつつ入って来られ、これはといって出された。白檀骨(ぼね)の女扇である。何かと思うて開くと、先年外遊される際に贈ったのである。自分は全く忘れていたに、今日出席するとのことで殊更にとうでられたものと恐縮した。――平安時代には「逢(あ)ふ期(ぎ)」にかけて旅の餞別に扇を贈ったのにならったのであった。
八月 鵠沼の三井美尾子夫人の「一もと松」が印行された。亡き夫君の七めぐりの記念に、さきに住まれた東京麻布の邸の地名をもて名づけられた歌集である。
九月 近く帰英されるキーデル氏が来訪された。氏はケンブリッジ大学で日本学を講じておられ、記紀万葉等を専ら究めておるので会いたいと来られたのであった。二時間余をほとんど上代文学に就いて語りつづけた。「上代をおもに研究しておるが、古今集や源氏物語までは読んでいます。最近にも古今の仮名序と真名序との比較研究の論文を書きましたが」との話――日本とは学縁の深い英国に於ける日本古典学の近況の一端を知り得て、喜ばしく思ったことであった。
十月 大磯の鴫立庵を訪れ、鈴木芳如庵主の案内で、茂睡や三千風の碑を読み、庵に襲蔵されている伝西行筆の源氏物語の断簡を観た後、橋本町長や庵主に導かれて大内館に行くと、樺山愛輔翁と矢代幸雄氏とが待ち迎えられ、大内道子さんとは四十年前の大塚楠緒子夫人の思い出がたりをし、歓談を交えたことであった。
故吉田雪子夫人の十年祭で、外相官邸に招かれた。主客七人で、故人の思出がたりが尽きなかった。この日、玉堂画伯の装幀になる典雅な「雪子歌集」が成った。巻頭には父君なる故牧野伸顕伯の歌、予及び茂大人の序がそうている。夫人は夫君の伊太利大使であった頃、レマン湖の夕日を見て歌心がわき、西川義方博士を通じて作品を自分に示され、爾来日伊の間を歌稿が往来した。帰京されてからは藤波会に出られ、更に渡英しては、英国皇帝戴冠式の盛儀を数おおくよまれた。その歌稿は戦災ですべて焼け失せたが、心の花に載せた三百三十余首を令嬢なる麻生和子夫人が抄出されて、美しいかたみ草が世に出たのである。亡き夫人の霊はいかにその孝心を欣んでおられることであろう。
先人六十年祭に鈴鹿市より招かれていった。村田邦夫君同行。故郷の人々に贈るべく「加敝里見天(かへりみて)」を、帰って「鈴鹿行」を刊行した。車中作、
朝(あした)の富士ま昼の浜名みのり田と秋すみ空とよきかな窓の画
揖斐長良二つの大河(たいが)相より入る海のあたりかも靄流らへり
若松なる伊坂氏の邸にて、
ついぢ垣かたちふりたる椎と橿と寂かなるかも露地の石、苔
石山切(ぎれ)有栖川切みめでつつ秋の夜を、こころ王朝にあそぶ
若松浜にて、
この浦の松風のおと光大夫が異国の夢に通ひけむ音か
石薬師にと赴く。
伊勢国原あしたの空を雄々しかも鈴鹿なみ山の一線に劃す
すずか川いくつもの瀬が光り流る川原の砂の高きは赤く
旧宅の跡は、小学校の敷地の一部となっておる。
目とづればここに家ありき奥の間の机のもとに常よりし父
土蔵を石薬師文庫として村に寄附したことは前に述べた。{二一五頁参照}《注:二一五頁は昭和7年10月》
ささやけき種にしあれどよき土によく培はれよくみのれとぞ
文庫に近く井がある。
むすべば手にここちよし清き水の今もわきいづるわが産湯の井
小学校にて、
ふるさとのひびきやさしき伊勢言葉いたはりかこむ老いにたる吾を
日本語(やまとことば)いく千万(ちよろづ)の中にしてなつかしきかも「ふるさと」といふは
福岡法重君に導かれて鞠が野にいった。
まりが野に遊びし童今し斯(か)く翁さびて来つ野の草は知るや
山辺(やまのべ)の御井(みゐ)にて、
山辺の御井にとくだる山ぞひみち遠松風の音をすがしむ
山辺の御井のあとどころ秋の花の乱れさく中に真清水は今も
神戸(かんべ)に行く途上の甲斐川に、今は木田橋がかかっているが、はやくは橋がなかった。
生家(さと)にゆくと弱かりし母が我をせおひ徒渉(かちわたり)せしか此の甲斐川を
たらちねに負はれて越えしかひ川の水の音かも今わが聞くは
小杉村途上、
高々とつみあげたる赤き陶土の丘、道をへだて、乱れさけるコスモス
小向(おぶけ)神社に詣でて、
案内人(あないびと)指ざし語る鈴鹿嶺の稜角に今朝新(にひ)雪ふれりと
四日市高等学校講話、
千七百の若きらが胸にわが言の一言だにも残らばとこそ
月の富田浜、
夜空きよく澄み澄む月に千よろづ波、波のことごと光もちゆらぐ
さくさくとふむに音する真白砂月まさやかに海きららかに
人の世はさやぎてありなり月よみの光の海の静かなるかなや
光り満つわたつみよ月よささやけきうつそみの身のありとし思へや
月よ月よ海よ海よこれの世に我も人もなしただに月と海と
真砂路は汐気しめらひ小夜(さよ)風のやや動き、現の夢ゆるがすも
月よ海よ世に執着の猶ありて人間の家に帰るかも我は
成田市に、木村正辞先生生誕之地の碑が建立された。碑背の歌、
万葉(よろづは)の繁樹(しげき)が丘に美夫君志(みふぐし)もちよき菜つまししみ業はもとはに
長らく家に蔵した先生の胸像に添えて成田図書館に、
ふるさとの読書子の伴(とも)日々日々に来寄るを見つつ嬉しとおぼさむ
十一月 名古屋放送局より「愛知三重岐阜三県に於ける万葉集の歌」を放送した。
毎日新聞静岡歌壇の選を嘱せられた。
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