昭和二十六年 八十歳
一月 歌集「山と水と」を出版した。
山黙(もだ)し水語らひて我に教へ我を導くこの山と水と
横山大観画伯は山と水との雄渾な表紙画を、安田靭彦画伯は清楚な題簽をおくられた。(寄贈した人々よりおくられた文詞の中に、新村出博士の「楽山楽水」、児山敬一君の「山と水との九首」、吉田精一君の「自在の境地」、村田邦夫君の「山と水と随想」、音代節雄君の「雪の小田原海岸の英訳」等は、心の花に掲げたことであった。)
三月 大磯に安田画伯を訪うた。古経切の床にかかっておる室での雅談の中に、西行上人の像の鎌倉時代末期の画を当地の内田巌君が所持しておられるとの話に、直ちに同君を訪うたところ、快く示された。まのあたり上人にまみゆる如き高雅な像で、上なる色紙形の「月の色に心をきよくそめましや」の上人の歌は、伝後二条院の宸筆である。今日の日にふさわしいこよなき眼福を喜びつつ鴫立庵なる西行上人歌碑建碑式に列した。円位堂に向って右側に建てられたので、第十八世庵主鈴木芳如刀自の喜びもさこそと思われた。
風のおと汐さゐの音松かげに立ちつつあらば聖きまさむか
わが作詞「磯の松風」を、山城一水刀自が作曲、一絃琴にて弾ぜられた。式はてて大内館に竟宴が催された。父君虚子翁代理の高浜年尾君をはじめ俳人の方々が多いので、自分は根岸の子規庵を訪うた思い出、河東碧梧桐君が伊勢物語の歌について訪われた夜の話などをした。
同じ日、越中高岡なる正法寺の万葉植物園の植樹式が行われた。当日のかの地の新聞を見るに、高辻県知事と道前方丈とが鍬をあげて植樹される写真が載っている。五年を国守として在任した家持の霊もほほえんでおられたことと思う。
四月 村上直次郎博士の小田原に移られる惜別の会が、曽我氏の小嵐亭に滞在の山田三良博士によって催された。主賓は八十四歳、主人は八十三歳、俵国一博士と自分は八十歳、佐々木隆興博士は七十六歳、五人みな老齢ではあるが、学芸、趣味、とりどりの快談に時の過るをも忘れた。春日煦々たる緑の芝生にすえられた椅子に倚るに、老松の間に遠く海が望まれ、園内をたぎちくだる和田川の清流、紫の色深き藤棚、ことに一もとの丈高き石南花の美しさ。忘られがたき半日の清遊であった。
五月 皇太后陛下が崩御あそばされた。「皇太后陛下と敷島の道」という文を謹みて執筆、毎日新聞に掲げた。
やはらぎの世はまぢかきを大宮の上おほふ雲のかしこく悲しき
静岡県文化協会の顧問を依嘱せられた。
西郷春子夫人は、年久しい教え子であったに、永眠された。父君原三渓翁、母君安子刀自、兄君善一郎君、いずれも社友であった。姉君原寿枝子ぬし、及び親しい河杉はつぬし等の嘆きの歌を読みつつも、悲嘆の情に堪えなかった。
大正大学において心の花歌会を催した。遠山光栄さんがかかれた記事を抄記する。「多くの方々が会場で待ち迎えられていた。杉栄三郎博士、鎌倉の大竹さんもおられる。選歌カードの整理其の他が順序よく進められ、中村、平山、金子さん方はお茶の斡旋をして下さった。自己紹介の後に、今日の母の日にちなんで先生の母の歌についての御講義があった。」
湯原一夫君に伴われて湯河原の柑橘園にいった。
かぐはし花橘の香ごもりにみどりの海とほく展くるを見る
安井曽太郎画伯を訪うた。
ゆるやかなる階段をのぼり入りし画室ひろらに宋窯の壷とその絵と
奥湯河原帰途、
三段(きだ)四段(きだ)堰堤をたぎちおつる水まぎれずきこゆ河鹿の声の
手うちうたふ炭坑ぶしと川の瀬の河鹿の声と湯の宿は暮れて
月白し河の音清しこの良き夜を万葉人ようたひも来ずや
六月 伊東めぐり。仏現寺、
わらぶきの山門ふりて海光山仏現寺をかこむ椎の青葉若葉
魚市場から唐人川に、
船ゆあぐる籠々々に満ちあふる鯖々々の光きららに
遠つ洋(うみ)にわが船やりて安針(あんじん)が夕べを一人立ちけむ磯か
浄(じよう)の池にて、
樟(くす)を吹き榎(え)をふく風の音はげしみふるさとの夢を結びかてじ魚も
ほのぬくう湯気たつ池の闘魚どちあわただしうも右し左す
一碧湖に遊んで、
大室(おほむろ)は天城は霞み湖(うみ)のうヘ青水無月の風による波
こぎ進み湖心(こしん)にいでて猶きこゆ岸の木群(こむら)のひぐらしの声
折々の歌、
おほけなくかつは思へど一日いきば一日を我もつくさばや道に
今の世に友あり、後の世にもあらむ楽しみてとる校正の筆を
悲願あり明日の命をいたはるとスタンドつけて眠剤をのむ
七月 文部省から文化功労者顕彰状(第二号)を受けた。
治綱君の「秋を聴く」の出版記念会が東大の集会所で催され、歌壇の人々、竹柏会の同人百数十氏が来会された。林大君の司会で、土岐善麿、長寿吉、久松潜一、岡山厳、中河幹子、長谷川銀作、吉田精一、木俣修、阿部静枝、五島茂、生方たつゑ、中野菊夫、千代国一、伊藤祷一の諸氏が祝辞と批判を贈られた。熱海を出る時に泰山木のつぼみの枝をもらったので、持っていって治綱君の前の卓上にさしておいたに、諸氏の祝の詞のうちにほっかりと開いた。夜鶴の情かかる事さえも喜びに堪えなかった。外祖母延子刀自や雪子が世にあったらばとしのばれもした。
小城正雄君に伴われて西片町にイグナチオ教会司祭ヘルマン・ホイベル氏が来訪され、もっぱら万葉集の訳について語りかわした。廿余年を日本におられる氏が、万葉秀歌の訳を発表される日が待望される。
九月 竹柏会大会が大隈会館で催された。遠山さんの記事を抄記する。
{同人下村海南博士、西原民平氏等の追放解除、杉山りつ子氏のナイチンゲール記章受賞、また石井衣子夫人のアルゼンチンからの帰国、心の花叢書の出版記念と数々の喜びが重なっての集りである。快晴に恵まれ、芝生を側面にしたこの会場には、和気が満ち溢れている。参会者凡そ二百人。中に、土岐、山岸、玉井、金子の歌界学界の長老、詩壇からは星野慎一氏も出席されていた。五島美代子氏の愛嬢いづみさんが母君に代っていらっしゃったのも印象が深い。先生が今日の為に昨夜録音機に録音せられたお話の再生放送をなさった。杉山さんは明治四十三年から日赤に勤務せられ、此の度この世界的な名誉を得られるのである。その杉山さんが敬虔な態度で挨拶を述べられた。石井夫人は十四年振りでの帰国。遠い地の果と思われる向うから蛙の鳴き声が起ったと思うと、それが次第に群をなして近づいて来て雨の来襲を知ると云う――それは詩的感覚の鋭さに私達の憧れを十分にさそうものであった。同人の歌集については伊藤嘉夫さんが紹介せられたが、「機関士の歌」の飯田さんに対しては、若い前途を励まされる意味で、久松潜一博士からその真摯なる性格と環境と相まち、今後の作品上に加えられるべき深みへの期待が語られた。大阪から来られた音代氏は、先生の「夢殿」の英訳を、日新丸船長なりし岡元管太郎氏は南氷洋上の捕鯨の実況を。プログラムの進行につれて、或は盛り上る拍手となり又折にしずかに内燃しつつあった。……小畑勇吉氏の笛、その他の余興があった。}
十月 東大における詩歌学会に「実朝の歌とその集について」を講じた。
伊東の長島氏夫妻の案内で、その郷里なる富士宮に遊んだ。白糸滝、
かけめぐらす白いと千すぢ秋の日の光さし貫(ぬ)きたまゆらの虹
富士鱒養殖場、
視野遠く黒き富士たてり養魚池の矩形の水をさゆらがす風
べに鱒は水面(すゐめん)につと背をみせて沈みたり、又しづかなる池
浅間大社に富士曼荼羅図を観て、
練行し苦行し登り登るお山頂上(いただき)の左右(さう)の日輪と月輪と
月清き夜に、
月しろき今宵今の今もアジアの民族どちが戦へるなり
仰ぎ見る月の光清くしづかなりうつそみの世はさやぎてあるを
BK第一放送で「私のふるさと」を放送した。
十一月 浅草竜泉寺町一葉公園のたけくらべ記念碑が藤田善吾博士、上島金太郎君らによって成り、その除幕式に列した。碑の歌、
紫の古(ふ)りし光にたぐへつべし君ここに住みてそめし筆のあや
そのかみの美登利信如らも此の園に来あそぶらむか月白き夜を
原口喜美子さんの邸の志野流香筵につらなった。松尾刀自に久々逢って、片山貞次郎君の紹介で、父君臣善翁が入会された頃の昔がたりをしたことであった。
石榑千亦君が世を去られて十年、武井さんの会社で君を偲ぶ会が、安藤寛、鵜木保、小宮良太郎君らの協力のもとに、歌壇人の会合を得て盛んに行われた。君の達筆になる遺墨が、会場の壁をうるわしく埋めつくした。
昭和二十七年 八十一歳
一月 吉田四日市市長、宗熱海市長と同道で山副博士(ひろし)君が来られ、刊行の遅延せる評釈万葉集のために、熱誠な援助を与えられることとなった。さきに校本万葉集のために熊沢君の激励補助された日のことと共に、自分の生涯に最も記憶すべき感謝の日である。
市の観光課から、梅園に来て歌をよみ短冊にかくところを読売ニュース映画にとりたいとのこと。しばらく梅園にゆかぬので幸と思い、かつ治綱君や幸綱も泊っておったので同行したところ、あまりにも大仕掛な撮影であった。(数日後に来られた谷崎松子夫人から、この間は映画館で先生におめにかかってといわれたには、当然の事ながら驚かされた。)
うつくしいクリスマスカードが届いた中からの数葉。一は、米国の湯川秀樹博士ので「ニューヨーク・セントラル・パークにて、ならび立つビルも見なれつ冬枯のパークを走るカァの行く手に」と書かれ、一は、英国ケンブリッジのキーデル君ので「謹賀新年」と実に立派に書いてある。一昨年来訪の日のことが思い出される。ワシントン滞在の原口武夫君からは、普通のよりも三倍ほどの大きさの絵葉書に「当地も二十年間の変化多く、興味深く感ぜられます」とあった。
「紅葉山人をしのぶ座談会」が富士屋ホテルで催されるので出席した。紅葉さんの三女横尾夫人が夫君と共に出席された。年長者とて自分が第一になつかしい思出がたりを述べたが、鳥羽中学の山下校長、甲子園の妻島夫人、千葉の多田君などが凌寒荘に来られたと次々の電話で、第二の勝本氏の話の中途で退席したことは遺憾であった。
伊豆山神社宮司鹿島則幸君より元禄十六年出版の「走湯行記」を借りた。熱海紀行としては古いもの、歌も文もたくみに、古雅な画が数葉入っておるが、著者は不明である。
三月 心の花に、ナタラジャン博士におくった手紙を掲げた。
歌日記、
天寿国曼荼羅を究めたる人と語り心、遠つ世に遊びて楽し
人いゆき帰りこなくに山庭は紅梅の花咲きにけらずや
明治神宮献詠歌会の出張歌会が来宮神社で催され、鷹司宮司、高沢祢宜、酒井出仕が来会され、近県の熱心な人々がつどうた。社殿で歌がたりをし、来宮の雨宮宮司などと記念撮影をした。
国立公園候補地視察の為に、吉阪俊蔵氏らと九州に赴かれた下村海南博士は、五島の平戸川内鄭芝竜旧趾内の周囲八尺に近い竹柏の木の数葉をおくってくれられた。今は昔というべき頃、巌谷小波山人がかの地への旅中、絵葉書を送られた、その大樹の竹柏の葉である。緑の色あせぬ葉を手にしつつ、昔も今も知友の厚き志を喜んだ。
日本放送協会放送文化研究所から、「音のライブラリー」の為に、録音機をたずさえて数人が来られた。「万葉六十年」という題目で、十四分間話をした。それは放送の為ではなく、肉声を長く保存される為であるという。幸に自分の声がこれによって世に残ることであろう。
伊東の権藤充子さんが越後に移られる送別歌会が、藤田邸の聴汐庵で催された。老松の間から熱海の海が一望のもとに見渡される一室、床に応挙の若鮎のうつくしい幅のかかっておる前で、半日の歌談は、帰郷される権藤ぬしの胸に永く残ることと思う。
伊東でも権藤さんの送別の会が隣家の長島邸で催された。庭には石南花のたけ高いうるわしい二鉢がおかれてあり、伸江さん、石黒伊保子さんの送別の歌を、西原民平君が朗詠され、思い出の深いつどいであった。
別離の宴一抹こもる寂しさを救ふくれなゐの石南花の鉢
飯高一郎博士、高畑雄治君、栗原、遠山ぬし等十余人の歌友が、双柿舎に来られたのを訪うた。名におう二もとの柿の木はまだ芽吹かぬが、その樹間に遠く見える海、塔の形をしたおもしろい書庫をめぐって咲いておる椿、こぶし、山吹等の花々は、同人(どうじん)の歌嚢(ぶくろ)を充たしたことと思う。自分は、書庫の中に陳列してある数々の遺品を見て、かつて故博士を訪うた折、自身案内されて楼上にのぼった日のことがまざまざと思い浮べられて、今昔の感に堪えなかった。
室伏秀平君に導かれて、大島初島を遠く見はるかす桃山の熱海中学校の自分の作詞した校歌発表の式に列なった。千余人の若々しい声で合唱される校歌は、天上の音楽でも聴くような心地がした。生徒諸子が余興に演じた劇も、老の胸に若い命を与えるように看まもったことであった。
嘉朝原田二郎翁の廿三回忌が、青山墓地で執行された。十七回忌の日と同じく久原房之助氏らも来られた。配られた袱紗には、翁のかかれた蘭の絵の傍らに、「天地のいかなることか成らざらむ強きは人の力なりけり」という歌が染めてある。まことにつよきは人の力で、翁が生涯の努力の結晶は、原田積善会として多くの善事を積み、その社会福祉に関する理念の実践に就いて、一昨年の秋、陛下より奨励の御言葉をも辱うしたとのこと。歌の力もまたつよく、翁の真心を、この三十一文字の上に永くのこされたことと、久々で逢った戸田理事長や佐伯理事とも語りあうた。
四月 村岡典嗣君の七周忌辰の手向に「つねつぐ歌集」が撰ばれた。明治廿七年の歌にはじまり、大正十二年渡欧の作もあり、世を去られる前、奥州の疎開地での作もある。「日本思想史研究」の学者として日本学の体系をととのえた君にとっては、固より歌は折々の心のすさびであろうが、教を受けた大森氏、青山ぬし等の苦心によって、編集刊行されたことは、故人も感謝しておられることと思う。
五月 西郷春子夫人の一周忌に、令息によって清楚な歌集「慧春集」が出た。夙く「塔」を、後「あし原」を印行されたに、惜しくも世を早くされた。いとせめて如上の三冊の集が君の名を長く世に伝えるであろう。
去年世を去られた乾政彦博士の歌集文集二冊が、同郷の浦氏等の熱情によってうるわしく刊行された。予は序を、跋は令弟東季彦君が書かれた。同時に出た十津川郷友会の乾博士追悼録なる松本烝治博士のあつい友情のこもった文、杉浜子さんの「生きつづける父」の追憶記は、ともに涙を以て読んだことである。
上代文学を研究し愛好する人々を会員とする上代文学会が、森本治吉博士を初め数氏によって企画せられ、自分は会長を嘱せられた。その創立式と発表の記念講演会が朝日新聞社講堂で催されたので、「上代文学会に就いて」という講話をした。
大橋松平君の遠逝を悼んで挽歌を送って百日に満たぬうちに、山本実彦君の逝去を嘆かわしく思った。山本君の数々の事業のうちに、新万葉集の出版は、永く国文学史の上にのこる仕事であり、大橋君は改造社の社員としてその編輯に尽瘁せられたのであった。
来(きの)宮の杜の梢から咲き垂れておる定家かずらの花が盛であると聞き、紫川の川ぞいに立っていくたびか眺めた。今は昔ともいうべき頃、京都の客舎でなつかしみ見た花が、仮寓に近く咲いておることを初めて知って、喜びに堪えなかった。
遠世びと胸にひめつる悲しびの花とさきけむ定家かづらか
六月 三日の誕生日に、
八十歳(やそとせ)を今日し迎ふる老い歌人すむ山庭に竹柏(なぎ)の花さけり
緑葉のかたき葉かげをささやかにしづかに占めて竹柏の花さけり
多年苦しんだ評釈万葉集の全部を漸く書き終った喜びの日に、四日市から笹岡鉄男君が来られたので、山副さんに招かれた。広池博士のこと、川村又助翁のことなど数々の物語に、夜のふくるも忘れたことであった。翌日、笹岡君、山副君と同行して、蒲原と三保の軽金属会社の工場を、中川仲蔵君の案内で見学した。数年前にも、久我太郎君や藤田純一君と一緒に訪うたことであった。蒲原の宝珠荘に案内されて田中翁を偲んだ。
折々の歌、
朝山峡高樹木群(こむら)に一木まじる泰山木の花白光を放つ
「しろこ」と呼ばれふりむく白猫(しろ)が金の眼に玉ゆらうつる花畑のダリヤ
七月 学士院に「古文献の二三について」を報告した。
「立春」に「讃立春第壹百号旋頭歌」を寄せた。
藤田秋治君が、パリで開かれる国際生化学会議に列席のため羽田から出発されるのを、朝永研一郎君と共に送った。好去好来小宴の歌、
グラジオラス昼の日に映ゆる清き卓さきくまさきかれと杯をあぐ
T君が羨(とも)しみいはく久にして君がふまむマロニエの道は楽しくあるべし
にこやかにF君はいふ会議をへて旧師ワールブルグ博士と語らむ喜を
羽田にて、
空の港とぶ鳥の羽田い往き来(く)る迎ふ送ると人人人の波
きらきらし銀色(ぎんしよく)の機に夕日さし遠幸(とほさき)くゆかむエンジンの轟き
八月 松阪市の嘱により「松坂の一夜」を唱歌に作った。
熱海市開催の花火大会の夜、市役所の楼上で、
きらきらしちりちる光今宵此のあたみの海を荘厳(しやうごん)すなり
光華さと夜空にひらき海にちる瞬間(たまゆら)のいのち清しうつくし
まかがよふ竜の宮居か天(そら)に匂ふ万花(ばんくわ)の園か夜の海に現(げん)ず
人の生(よ)の憂へは長したまゆらをさきちる命うつくしきかも
新秋のうた、
紫川、岩にふれ、瀬にちりたぎち、新秋の声を伴なひくだる
紅蜀葵、蓼さき、渓の水(み)の音(と)さやに、新秋はわが山庭に来し
十月 茗渓会館で竹柏会大会が開催され、同人から満八十賀記念品を贈られ、「心のあと・八十首」を頒った。
十年前に心の花の編集を角利一君に担当を請い、中島義勝、梅田真男、上木彙葉、土屋行雄、金井明君が委員となり、小林、新井の二嬢が力を添えられたが、角君は古稀を迎えられ、担当十年になったのを機として編輯を辞したいとのことで、若い人々の相談の結果、治綱、林大、村田邦夫、中山昭彦君の四人が編集委員、安藤寛君が会計委員となり、由幾子、栗原潔子、遠山光栄、真鍋美恵子さん等も助力、発行所を西片町十番地とした。心の花十二月号に掲げた角君の「思ひ出話」に、君の家が戦災にあわれ、心の花のすべても焼失、印刷所も、長野へ、仙台へ、再び東京へと代(かわ)ったこと、用紙の問題等々当時の苦心が述べられてある。真に御苦労をおかけしたことであった。
伊勢三重郡朝日村小学校の校庭に、橘守部生誕地の碑が建った。
くちせぬ名を国つ学の道の上にのこせる大人はこの里ぞうみし
時じくのかぐのこのみのかぐはしき高き名仰がむ八千歳の後も
十一月 明治神宮に参拝した。明治天皇御生誕百年大祭とて道もさりあえぬ詣で人である。谷口課長の案内で林泉をめぐり、北休憩所の明治記念綜合歌会に列なり、自分は、「明治天皇の御製について」、金田一京助博士は、「アイヌの歌謡」について述べられた。当日の詠進歌、
大き御神しづもりいますくれ竹の代々木の森を清みさやけみ
明治天皇聖徳鑚仰会の嘱により、「御製百首謹抄」をものした。
皇太子成年式及び立太子の礼の御儀に御召を蒙り、崇厳なる御式に参列する光栄を忝うした。
豊秋の佳辰(よきひ)令月(よきつき)に継宮加冠の御儀受けさせたまふ
御冠(みかがふり)黄丹(わうだん)の袍おごそかになごやかに立たす吾が皇太子
豊秋のうづの白菊さきさかえ栄えをいませ幾久いく久
老(おい)歌人老の幸(さち)ありて畏きや今日の御式(みのり)に歌ほぎまつる
NHKより謹話を放送した。
次の日、宮中饗宴の御儀に召されて参内した。牧野富太郎博士の発声に和して、心の底より「万歳」を三唱した。
さきに湯河原観光協会の人々の来訪の折、湯河原に万葉公園をつくり、河の流には丹塗の万葉橋をかけ、万葉植物を植え、万葉小博物館を造って記念とせられるとよい。万葉集の中には温泉地は数カ所出ておるが、「あしがりの土肥の河内にいづる湯のよにもたよらに……」と、温泉の状態を詠んだのは湯河原の一首のみであるからと勧めたところ、協会と町会が一致し、神奈川県議会の容るるところとなって、三年にわたる工事の第一日、即ち万葉橋起工式に鍬入れをした。
木(こ)がくりに滝の音とよむ万葉人(びと)来遊ぶらむと思ひつつ歩む
十二月 万葉辞典重版本の終に、正誤表七頁を添えた。
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