昭和二十八年 八十二歳

一月 新春の歌、
   来宮(きのみや)は樹齢二千年とふ樟(くす)のもとにこの年の朝も祈ることあり
   湯の山は春いたる早し窓前(さうぜん)の老梅のつぼみひらくこと三四
心の花に、川田順君は「おもひ草評釈」を寄せられ、廿九年五月まで十三回を執筆せられた。
三島の杉本武君に伴われ来た八重山群島の安里武恭君から、琉歌の話を興味深く聞いた。
   女(をみな)歌人(うたびと)恩納(おんな)ナビイのうまし調(しらべ)二百年(ふたももとせ)をうたひつぎこし
   うつる世に移らざるものナビイの歌ふしおもしろううたふを聞けば
二月 辻寛一君に招かれて伊豆山淙々園にいった。
   初島にそひてつららくいさり火の光ややにまし海またく暮れぬ
   これの世をわびしとはいはじ見るは聞くは海の上の月と汐さゐの音と
折々の歌、
   夕庭は一樹(ひとき)の梅の寂かなる光のもとにわが一人ある
   さき満つ花の枝々白光(びやくくわう)の散り乱れ散る風の中の梅
   枯生まじり春草生ふる間(あひだ)ぬひ赤きとさか動くプリマウス・ロック
三月 越中万葉植物園家持卿慰霊祭に長歌をささげた。
四月 佐々木家の中祖定政四百年忌を三重県三重村の光念寺に執行。祭文並びに歌を献じた。
エリセーフ君夫妻が米国から来られ、訪問された。英利世夫君は明治四十五年に東大を、外人の学生として正科をおさめ卒業された第一の人である。
   明治の代豊かなりし代に京を奈良をめぐり見し遠き思ひ出語
   上つ代のうた人の中に虫麿を殊によしといふ言のよろしさ
五月 和歌山県海南市藤白坂の麓に、さきに執筆した有間皇子の歌碑が建立された。
戦盲の田中長三君から、佐久間雪子さんの点字の手紙に訳をかき添えて送って来られた。田中君が「山と水と」を点写して点字図書館に寄贈したのを読んだ喜びの手紙である。田中君は、椿君の「かつ耕しかつ歌ふ」をも点写して図書館に贈り、いま治綱君の「秋を聴く」を点写しつつあるとのこと。自分たちの歌が、不幸な人々の心を少しでも慰めることが出来たらば、この上ない喜びである。
「万葉集選釈」の旧版を全部新たに組替え、新訂本として刊行した。
七月 来宮夏祭に、
   みょうねんみょうねんみょうねん、声々に神輿(みこし)は右し左しまはる
   夏祭これのきほひを見る時し胸にわきく時代の安定感が
   面(めん)あかき猿田彦の命(みこと)肩ひぢ張りこがし撒き撒く人・人・人に
「みょうねん」は、古くは「ほうねん」(豊年)というたのを後になまったのであろうという。
斎藤瀏君が長野市に殁せられた。心の花十月号に君を偲ぶ文を掲げた。
   力づよき君が声を又いつか聞かむますらをの歌を又いつか見む
八月 万葉集大成文献篇に「総説」「万葉集の古写本」を執筆した。
同じ篇に、久松潜一君の執筆された「佐佐木信綱と万葉学」という一章は、自分が多年斯の道に身心を献げきたことをつばらかに説かれたものとして、感謝される。
久留米に近い八女(やめ)の梅野満雄君が永眠された。君は早稲田の英文科を出、大隈言道について研究、言道に、歌論の書「ひとりごち」「こぞの塵」のある事は自分が知り、君が探索して世に公になったもの。当時「大隈言道」を君と合著で刊行した。君は青木繁画伯の作品の散逸を救われたこと、坂本繁二郎画伯が君の誘いを受けて、アトリエを君の家の前の畑中に建てられた事等、心の花十一月号に掲げた坂本画伯と三女大津清子さんの文、安藤寛君がこの一月に訪問された思出とはよく君の生涯を語っておる。
三村竹清君が逝かれた。君と初めて逢ったのは、下谷の文行堂の店頭であったと思う。短冊同好会でしばしば西片町を訪われ、自分も青山なる君のもとを訪うた。君は江戸時代の文物について精しく、書にも画にも篆刻にもすぐれておられた。青山の家が戦災にかかり、湯河原に移られたので、来訪もされ、訪問もして喜んでいたのであった。熱海の海蔵寺なる坪内博士の塋域には、金子博士撰文の碑が建っておるが、その書は竹清君が筆を執られたのである。
九月 熱海市主催の源実朝を偲ぶ名月歌会に十国峠にいった。夕映の富士はかがやかしく、穂薄は道の左右にゆらいでおる。半ばのぼった時、NHKから放送の話をといわれるので、考え考え話し終ると、日本文化でも話をとの事、やがて又テレビをと、度々撮影された。先着の人々が頂からおりてこられ、諸新聞社の一同の撮影があった。折から中秋の明月は高く澄みのぼった。
   心は空をゆけども老の足はこの山すその道ふみなづむ
   歌人の征夷大将軍がながめ見けむ沖の小島みつつ月の昇る待つ
   あき風の日金の山に穂薄折り手ごとにとりて月ののぼるまつ
   月のぼれり山の上の空に月のぼれり光おびたる穂薄ゆらぐ
朝日新聞社から「ある老歌人の思ひ出」を刊行した。
十月 間島愛刀自の喜寿の宴が工業倶楽部で催された。この日の記念に、刀自の歌集が美しく出来た。
小林一三翁、有島生馬画伯、米山春子刀自などと久々語りあった。
上野の表慶館にルオー展を見た帰さ、
   しづかに歩みをはこぶまなかひに今見しルオーの画よみがへりくる
十一月 大宮御所園遊会に召された。
   秋空は清らに霞み日の光しみみに匂ふ御苑(ぎよゑん)の木々に
   大き榎(え)の本(もと)真赤き舞台陵王のひるがへす袖きらきらしもよ
   平和(たひらぎ)をほりする国の象徴(しるし)とも日はうららなり御苑のつどひ
神奈川県高校教科研究会国語部会に講じた。
熱海図書館で、広津和郎君と予とを囲んでのユネスコ協会の座談会があった。
上京して、
   大きビルのどの窓にも夕日まばゆくて十一月三十日の東京の横顔
折々の歌、
   夕心しづかにむかふ向つ丘(を)はくぬぎの、桜の、いろいろの黄葉(もみぢ)
   ブラジルのコーヒーの香と向つ丘(を)のならの黄葉(もみぢ)と富人(とみびと)ぞ我は
十二月 平野順治君が「歌人新井洸」を出された。新井君は木下君と並んでわが竹柏園の俊秀であるが、はやく世を去って、「微明」「新井洸歌集」の二集がのこっているのみであるに、平野君は、新井君の作に傾倒して、歌風形式の母胎、暗欝なる情緒等に分けて細説せられたもの。自分がさきに満八十賀の祝にと同人諸君からおくられたものの残余によって出版したのであった。

    昭和二十九年 八十三歳

年の初に、
   十年(ととせ)を猶異国(いこく)にして祖国おもふらむ許多(ここだ)の人によき春よ及ベ
ラジオ東京の放送に、川田順君と対談した。
川田君と奈良の前川佐美雄君とが来られたので、案内して紅葉山人句碑除幕式に列なった。
   柳あり梅あり、句碑のもとによればおもかげに見ゆわが山人(さんじん)の
二月 木下利玄君の三十年に当るので、熱海ホテルの一室で志賀直哉君と対談し、録音をとった。志賀君の趣味に富んだ数々のものがたりを、木下君の霊は喜びきいておられたことと思う。
後数日、志賀君をおとずれ、帰途、谷崎潤一郎君を訪うた。両君の住まれるあたりは、岬が三段をなした海のながめがすぐれておる。
朝永研一郎君が遠逝せられた。心の花四月号に追悼の文をかかげた。思えばただただいたましい。
小城正雄君が、グンデルト博士訳の東洋詩集を携え来られた。エジプト、ヘブライ、アラビヤ、ペルシャ、トルコ、印度支那、日本の抒情詩の収められている五百頁の大冊で、日本の詩歌は雄略天皇の御製から、正岡子規にいたる和歌、俳諧、連歌、等が訳されている。明治以後では、与謝野鉄幹と予と各二首、子規の俳句二句和歌二首があって、巻がとじられている。鉄幹の前は香川景樹、その前は小林一茶となっている。小城君は、特にその翻訳の格調がすぐれておると語られた。
三月 大磯鴫立庵西行忌に、「人としての西行上人」を講演した。(後に、大石徳四郎君が小冊子として人々に頒たれた。)
四月 黒岩涙香君の三十三年ということを新聞に見た。君の母堂信子刀自はわが竹柏会の同人であった。それは社友なる蘇峰翁母堂久子刀自が伴い来られたのである。当時の国民新聞と万朝報との間はむつまじくはなかったのであろうが、二人の母刀自は同じくキリスト教徒として親しかったからであった。
藤岡喜美子ぬしの大観荘における喜寿の賀会は、めでたくなごやかなつどいであった。
   海を見さけ繁丘(しげをか)をせおふ苑ひろしひよ鳥鳴きて沈黙(しじま)やぶれり
   天つをとめ瓔珞の珠ぬきみだしみだれちりちる花吹雪かも
   花吹雪ふぶきしづもり苔庭は幾千(いくち)しら玉ちりばめたりな
石月毎日新聞静岡支局長が来られての話により、静岡市の静霊会館で歌会が催されることになった。あやにく前夜は豪雨、朝来、風雨は猶はげしかったが、静岡に着いた。まず葵文庫にいったに、加藤文庫長は数々の古文献を、石月君は愛蔵の短冊帖を、森豊君は先年の登呂訪問以後に発掘された遺品数点を示され、さて旧城内の濠ぞいに建っている戸田茂睡生誕之地碑を見、大里中学校に赴いた。日曜にもかかわらず、職員生徒諸君が登校されており、宮林校長の室で款待をうけ、校歌の合唱を聞いた。ついで、大石君のもとでは、浜松から来られた小山君に内山真竜翁贈位式典の日のことを聞いた。歌会には百数十名の歌の友がつどわれた。帰途、清水を通って、
   海にそひ道ますぐなる倉庫町プラタナスの葉が今朝の雨にぬれ
三保に和田英作画伯を訪うた。
   四(よつ)の時あした夕べかたちかはるとふ富士をゑがくと幾(いく)年を君は
相沢光君に伴われて、画伯と共に三保の羽衣ホテルに夕けを共にし、夜ふけて雨後の海岸を逍遥した。
   月白し波よせかへる真砂路は松の影おきわが影をおく
   ただにあるは一輪の月と富士の嶺と波静かによせ静かにかへる
   遠つ洋(うみ)を魂(たま)がよひ来て松蔭の清きに眠るマダムエレーヌ
翌日は、村松治平君の案内で、渡辺銀作君と同行、磐田に向った。車中作、
   牧の原昨日(きぞ)の大雨(たいう)が洗ひたる茶畑のみどりもえたつ如し
袋井駅に下車、太田川の流に沿うて森町にいたり、天の宮に詣でた。村松君の出身の地とて、町のおもな人々、同人の塩沢重義君、重年翁の曽孫小国君等に迎えられ、樹齢一千年という竹柏の老樹のもとで撮影した。
   天の宮神のみ前をかしこみと千歳さもらふなぎの大樹は
社務所にて、
   祭礼(まつり)の面(めん)陵王納蘇利(なそり)の数々に鼻あかき天狗狛犬もをる
森山焼の陶工松井君にあいて、
   語りあへば心は通ふ人も吾も同じく芸にたづさはる身の
五月 上代文学会主催の万葉講演会に上京した。会場に満ちあふれる熱心な聴講者、高木市之助君らとの久々の対面など、喜ばしい半日であった。
大石徳四郎君が「臨済寺五十首」を刊行された。今次の戦争で失われた唯一人の嗣子の菩提寺なる臨済寺についての歌をつどえられたもの、その序歌に、
   風は雲はうつりい行けど本尊仏(ほぞんぶつ)慈眼(じげん)おだひに立たせたまへり
「国師杉浦重剛先生」に題歌を詠じた。
伊勢石薬師小学校に校歌を贈ったに、一身田出身の城多又兵衛君が作曲せられた。
毎日新聞静岡版に、「静岡県と古歌」、「静岡県と国文学」を寄せた。
六月 熱海市の観光会館で催された東京交声楽団の演奏会に、外孫小島琢磨君が出演するので聴きにいった。曲目の中にオルフォイスの嘆きの歌があった。今は昔の明治廿年代に、東京音楽学校で初めて演奏せられたオペラ、オルフォイスのことを思い出した。
   うら若きアンサンブルのよきつどひともし火の色しづかに明(あか)く
   アルトのアリヤゆるやかに胸にしむやらむ方なきオルフォイスの歎(なげき)
   リゴレットわが娘(こ)いとしむ声切(せち)なり道化師にもまた涙はありて
   老の心遠き明治の代にかへるオルフォイス・ファウストを視聴(みきき)せし思出
さきに伊豆毎日新聞の三木君から竹柏蘭の鉢を贈られてベランダに飾っておいたに、園芸家の加藤光治君が訪われて、かねて研究しておるから行って見たいとの事に、同行して真鶴の林にいった。
   樹間(このま)もる雨後の日ざしは竹柏(なぎ)蘭の花に花の上の露に匂へる
   まなづるの林の端(さき)の椎がもとなぎ蘭の花のにほひかそけく
   林相の南国めくとふ樹(こ)蔭道樹洩日にゆらぐ小しだ小うらじろ
   木群の蔭しだの葉しげみ北限(ほくげん)のなぎ蘭の花を守れるごとし
   風外道人今の世にあらば蝸居(くわきよ)いでて言挙すらむか眼とぢあらむか
川奈ホテルに遊んで、
   秋の海ひかりきららに大島の煙ながれて白雲なせり
   川奈風海に吹くなりロビーの鉢に色こきプーゲンベリヤ
帰途、網代に下車、森医院を訪い、季樹院長夫妻に導かれて網代ホテルに赴いた。右に網代岬、左に真珠が岬、土佐から来たえさ買い船が岸におる夜景を味わった。
   つららけるいさり火のいろ明滅す汐さゐの音遠く又近く
七月 観潮楼の跡に永井荷風君執筆の鴎外大人の詩碑が建った。除幕式に参列して追悼歌をささげた。
   才・学・識、額の文字きよき書斎にして浄き机に向ひいましき
   しのべばわが眼前(まなかひ)にうかびくる雲中語のつどひ観潮楼歌会
   夜ふけて帰る時をいつも母刀自は門(かど)のもとまで送り給ひし
木曽の馬籠に旅された村田邦夫君から絵葉書が来て、藤村記念館に、竹柏園集や手ずれのした岩波文庫本の新訓万葉集、白文万葉集が陳列されている、とあった。藤村君の兄君も姪君も、小諸で世話になられた神津牧場の神津夫人も竹柏園の同人であった。「夜明け前」の舞台となった本陣には、安藤野雁も宿ったことがその長歌で知られるので、「夜明け前」を読んだ頃、島崎君に報じたに、その返事と共に、野雁の短冊を贈られた。裏面に、君の父君――作中の青山半蔵――の筆で「安藤野雁」とかいてあった。またさきに万葉辞典刊行の際、自分は知らなかったが、中央公論社から推薦文を君に委嘱したに、そういう推薦文は一切書かないことにしているが、佐佐木君のならば書こう、といって書いてくれられたとのこと、何くれとなつかしい。
鴻巣隼雄君が、父君の万葉集全釈の再刊本の第一冊を持って訪問された。好著の再刊は万葉学の為に喜ばしく、君の孝心は尊ぶべきことと感じた。
四日市婦人会のために、さきに作詞した会歌の作曲が成ったとのこと、その発表式に文詞をおくった。
平凡社の書道全集第一二巻(日本・平安Ⅱ)に解説を寄稿した。
八月 パリ国際短歌の会の日本支部名誉会長を嘱せられ、メッセージを贈った。{信綱文集二八八頁}
名古屋の多賀博君が日本短冊研究会を起され、雑誌「たんざく」を創刊。会の顧問を委嘱された。
九月 評釈万葉集巻七の刊行が完成した。この数ヵ年の苦心、山副君の好意等、感無量である。「喜びと感謝」という文をものした。
   七巻(ななまき)の書ここに成れる喜びをまづ礼(ゐや)述べむこの山と水に
   水の清さ山の寂(しづ)けさあたたかき人の情ありて成れる此の書(ふみ)
   万葉(よろづは)の繁道(しげぢ)森径(もりみち)わけなづむ人のしをりの七巻(ななまき)と此(こ)を
書斎の掛物を、久しぶりでかけかえた。はやく古典科時代に、小杉先生のもとにあがると、四季の折々に掛物がかけかえてあった。それに感じて、自分も書斎の掛物を折にふれてはかけかえることにしているのであるが、評釈万葉集の刊行が遅れた時、貞享時代奈良東大寺大仏殿落成式前の大きな図をかけて、あの大仏殿も公慶上人の力によって出来あがった。自分の小著も、出来あがるまではと、数年かけたままにしておいたのである。
新訓万葉集の決定版というべき「新訂新訓万葉集」が成った。
   巻五の五校からうじて卒(を)へながめやる眼に快し和田山の色の
   月いでたるらしく庭木の明るきに朱筆をおきてしばし見まもる
   二十二時眼のしほしほと労れたるに持ち重りせる拡大鏡をおく
熱海市主催の「実朝を偲ぶ名月歌会」は伊豆山神社で催された。東京より、宮柊二、近藤芳美、NHKの片桐顕智、藤沢より川田順の諸君と予との会合で、その献詠歌が広庭のかがり火のもと、老樹をもれる月明りに披講せられた。
   月のぼれり月はのぼれり伊豆の海の五百重(いほへ)さざ波きらら光るも
十一月 心の花大会が明治記念館で催された。
其のおり、今年と去年と二年間にできた歌集の紹介を伊藤嘉夫君と栗原潔子さんとが述べられたのを抄記する。
 {梅沢千丸君の「金物屋の歌」は、第一陸軍病院の修養部の衛生大尉であられたのが、戦後のはげしい転変の中に再起の記録、職場のもつ特異性があふれている。久我貞三郎君の「東南アジアの旅」は、園主のいわゆる旅で歌をよむのは、その土地に自分だけの記念碑をのこすもの、印度パキスタンをはじめ諸国におけるよき記念碑集である。東季彦博士の「樫の実」は、亡き令息をしのばれた集。久能謙一博士の「竹馬抄」は多年の作をあつめられたもの。岩淵兵七郎君の「押し花」は利玄に傾倒して、志操かたく一貫した歌風である。大竹虎雄君の「群竹」は、著者の誠実な努力に貫かれた誠実な集。白岩艶子さんの「芙蓉第二集」は夙くからすぐれた歌力をもたれた夫人の好歌集。井伊文子さんの「鷺ゆく空」は定型から新詩歌に歩まれたもの。島村光枝さんの「赤とんぼ」はよい人がらのにじみ出たよい集。広島における原爆のいたましい犠牲者となって逝かれた結城すゑ子さんの遺歌集「月光」は、三人のお子さんの孝心によって出来た尊い集。又、歌集ではないが、渋沢元治博士の「五十年間の回顧」は電気事業につくされたことを述べられた書、尾崎久助博士の「百日で見た欧米建築」はその名のようにあちらの視察日記兼図録であるが、共に平素歌に親しんでおられる事とて、折々の感想の歌が掲げられてある。}
鎌倉なる正田きぬ刀自の歌会に出席した。安藤寛、小柳渡風、三角いく代ぬし等。須賀真生子ぬしの点茶があり、貞一郎老主人も列席されて浜木綿の花の大きな鉢のもとに楽しい半日であった。帰途、材木座海岸を逍遥しつつ、
   中魚箱(とろ)をつみ重ねたる渚道ちさき蟹砂に跡つけ跡つけて
十二月 三条西尭山師が源氏香を見せたいと西山の香蘭荘に九人のおしえ子を伴うて来られた。香筵にふさわしい清らかな広間で、むかいの松山の緑いろこく、庭の池の辺のたけ低き木々も、一むらの大輪の白菊もうつくしかった。床には六条御息所の人形が飾られ、香組は、「明石入道」「如月の夢」等。香元は神崎漣子、執筆入江英子、助技は東菊枝ぬし等であった。つぎつぎにすすんで、烓継(たきつぎ)香の「月光」「白梅」「千代のためし」等を歌によみ入れるようとのことで、
   こよひよき夜千代のためしといひつべし月光のもとに白梅をめづ
鎌倉の間島愛刀自は、西山の根本さんの邸に桑木誠子刀自を伴うて毎月一回茶道を教えに来られる。ある日、椿山荘における藤波会歌会の古い写真を持ち来られた。古塔を背景にして今は九大の穴山孝道教授、学生服を着た治綱君の若々しいのは当然であるが、伊藤嘉夫君も自分も、藤田、藤瀬、間島、朝吹、杉山、中村、長夫人、いずれも若い。しかし、その中に、小花清泉、斎藤瀏君、伊東暁子、大河内国子、吉田雪子夫人、自分の妻の雪子、及び鶴江は今は世になき人である。(鶴江はわが家に年長くつとめ、身もたな知らにはたらいて雪子のためにもよくつくしてくれた。後に、深川の良い家に嫁いで喜んでいたに、かの戦災の業火で世を去ったと聞いていたましさに堪えなかった。)――小花君、斎藤君たちと縦横に歌を談じあったそのかみがなつかしい。
折々の歌、
   神の則(のり)天地にあり山庭にささやけき花も朝のひかり受く
   疎開地よりの書(ふみ)ふと見いで十年(ととせ)後(のち)の今宵月の夜に読みつついたまし
   秋の夜なりリシウム爆弾の原理などしづかに孫の語りきかすも
   原爆とふ死の灰といふ歎くべき詞消えざらむわが国語辞書に
   山庭は黄亜麻(きあま)の花の群落に冬の日ざしのかそかなるかも
渡辺氏の錦水荘にて、
   そそりたつMonkey(ましら)-Puzzle(たゆたひ)真黒(まくろ)き梢(こぬれ)かがよへり海の月のぼる

前頁  目次  次頁