昭和三十年 八十四歳
一月 熱海の新年歌会は、島田氏の好意によって紫川荘で開かれた。親しい人々三十余人のつどい、仏人仏蘭久弁成(フランク・ベルナール)、独人G・ヴエンクの二君も来会、流暢な日本語で語りあわれた。
また荘の主人の好意で、白河切一幅を床の飾りにと、東京からふりはえ持たせおこされたのはこよなき眼福であった。司会は中山さん、小城さん、競点の高点者は、飯高一郎、平山邦子氏らであった。
和蘭のピァソン君から、英訳万葉集巻八を寄贈された。君の多年にわたる絶えざる努力は、真に敬服される。二十巻全部完成の日を遥かに祈っておる。
梅園行。
たけ長き木材つめる牛ぐるまなづみゆく道のかたはらの梅
水清らによき渓選び梅をうゑしよき人の心かをらむ千春に
岩により見あぐる梅のいくもとの花かげ淡きたそがれの色
三月 金目村の平和記念碑除幕式に列した。空うららに晴れた午前に、平塚に下車して、高麗山を左に見、花水川に沿うてゆくうちに、花水川は金目川となる。この秦野街道の喜ばしいのは、雪の富士の嶺が真西に、丹沢山が西北に、大山が北に見えることである。しかし釣人等は、
流れに立ちやまめつり人(びと)専(もは)らなり此の朝の富士も知らざる如く
金目村に着き、村役場に憩うて式場に案内される。坂東七番の観世音寺――楼門には正平の年号の鐘がかかっている――の境内。高い石組の上に、東郷元帥の書かれた忠魂碑、新たな平和記念碑はその左に建てられた。村長柳川力君の熱誠に感じて自分の詠んだ歌がうるわしい碑となったのである。
世の平和願ひつつあらむ古里に安らにねむる亡き霊は今
NHKの放送に五島茂君と対談した。
四月 森町天宮神社に執筆の歌碑除幕式に文詞をおくった。
浅草待乳山なる戸田茂睡の「あはれとは夕越えてゆく人も見よ待乳の山に残す言の葉」の歌碑が戦災に砕けたのを、横田真精君らの熱誠によって再建した式に列した。副碑は自分の文詞である。
五月 四日市市松原町聖武天皇社の一千二百年大祭に、謹書せる御製記念碑除幕式に寿(ほ)ぎ歌をささげた。
毎日静岡歌壇の大会に、石田君、村田君と同行、静岡につき、まず臨済寺に赴いた。
山をつつみ白光(びやくくわう)にほふ椎若葉清く寂けき臨済禅寺
寺庭のつつじ花群いとけなき家康も見けむ紅ゐの色か
浄らなる几(つくゑ)のもとに古へを今をかたらふ松堂禅師と
禅堂のうちひそやかに、作法問へば答ねもころなり若き雲水
会場なる県民会館の楼上には、多くの人がつどわれた。なお、会館の一部に短冊展覧会が開催されており、名古屋の多賀君が来られた。
二十四日、熱海駅から「はと」に乗った。老の身を案じて、人々がホームまで送ってくれられた。この数年、山ごもりをして、自身の歌集、文集、万葉集事典等に専念していたが、漸く原稿がまとまったので、久々の旅だちである。
豊橋では、久曽神君ら数氏、名古屋では、田中君などの心こもる送迎を受けた。車中ゆくりなく、渥美育郎君と同乗したので、新月会の思い出を語りあって、時の経つのも忘れた。午後八時半、大阪駅着。布施博士・中西・高木・城戸崎・近藤の諸君に迎えられて、新大阪ホテルに着いた。
二十五日、布施博士及び令息敏信博士に伴われ、国立大阪病院で健康診断を受けた。まず眼科の藤原博士、次に内科、レントゲン科、検査科などで、懇切をきわめた診察を受けて、感謝した。
正午、網島なる藤田美術館に赴く。薬師寺の橋本貫主が、二十九日の打合せの為にふりはえ来られた。館長藤田富子夫人の歌碑除幕式は、午後一時から盛大に催された。神官の修祓の後、美しい孫君周子さんの手によって幕は除かれ、献花・献茶の儀が済んで、自分も式辞を述べた。
祝賀のパーティーは、新みどり葉の装いもすがしい庭の天幕のうちで開かれた。折から急にはげしい雨が降り出した。幸いに風はない。天幕のまわりには玉簾を懸けたように雨滴がきらめく。天幕のひまから雨の雫がもるので、美しい傘や、新しい番傘がそこここに開かれるのも、時にとっての珍しい趣と語ろうているうちに、拭うたような快晴となった。
須臾にして豪雨は晴れつ多宝塔かこめる木々の清きぬれ色
茶室光雪庵は、橋本貫主が正客で、床には久我通親の熊野懐紙、青磁浮牡丹の花活には、鉄線、縞芦などが生けられ、本手絵高麗平の茶盌、寸松庵伝来の菓子器等々の名物ぞろいであった。
熊野御幸王子の夜を見めでましし詞の華はかをれりとはに
美術館に案内される。二代の蒐集になる貴重な美術品の数々を、今朝来た外人の一行も、感嘆時久しく観覧していたと聞く。香雪男在世中、高崎府知事の案内で訪うた折に観ることを得た深窓秘抄一軸は特になつかしかった。能舞台まであった広い邸宅は戦災で焼け失せたが、倉庫五棟が残って、かく公開の美術館となったことは、芸術学問を貴しとする天の恵と喜ばしい。
久々で大阪城の城内をめぐり視、高津なる円珠庵を訪うた。門を入った左の大樹も跡方なく、かつて契沖全集完成報告のため、集うた庵――あの煤竹の天井も、「春水満四沢」の額も焼け失せて、新しく建った二戸の家があるのみ。阿闍梨のおくつきは幸に無事であったが、長流翁のは、いたんでおる。香華を手向け、低回去る能わぬ思いがした。さあれ阿闍梨の学業は永久に不滅のもの、「火もまた焼く能わざるもの」である。惨憺たる旧跡に佇立して、人間の貴さを思うたことであった。
花外楼の晩餐会に赴く。天満川の流に面した楼上、木戸松菊公の筆になる「花外楼」の額のもと、布施博士・藤田夫人・児玉米子夫人など、雅談清話は尽きず、この家の女主人は、わが会の同人であるので、近作の詠草を示しもした。高木君に送られて天満の駅から京都へいたり、京都ホテルに宿った。
二十六日、朝とく、まずなつかしい東山を望む。食堂の壁の大きな絵の一つに、鈴屋大人の書斎の図があった。大人の前なる愛嬢の膝のもとに、鈴が置いてあり、うしろの窓から桜の枝の見えておる構図は、本居学の基礎をはぐくんだ京都の地にふさわしく、ゆかしい装飾であると思うた。
ホテルを出て、黒谷に青柳安誠博士を訪うた。浄土寺に吉井勇君をたずねたに、少病とのことであったが、玄関まで迎えられた。再会を期して辞し、冷泉家を訪う。とおされた奥の間には、京極黄門の詩懐紙がかかっており、黄門自筆の恵慶集などを示された。庭には、かの宮城野の萩が、緑の新芽をふいておる。惜しい才を秘めて戦死された為臣君を偲ぶ物語は、この庭に面して相対する主客を、しめやかな追憶へと誘うた。
新村博士の書斎には、内外の松かさが飾ってある。夫人との対面はまことに久々で、夫妻の君と、何くれの物がたりが、次から次につづいた。富岡家を訪うて、とし子刀自、益太郎君、弥生ぬしと語る。故鉄斎翁のこと、惜しい女歌人として夭折した冬野さんの思い出話りは尽きぬが辞して、下賀茂なる谷崎潤一郎君の潺湲亭の客となった。夫妻の君や高折夫人の款待はもとより、樹々の若葉のめでたい庭に対しておると、時の移るのを忘れがちである。閑雅な茶室が、庭の木の間隠れにあるに案内された。
鈴木豹軒博士、《一字カスレ:「菅」か》原教造博士を初め、訪わまほしい家々があったが、大久保文子夫人が、大阪から来て待っておられるとの電話で、ホテルに帰った。病気と聞いて案じておった夫人の元気なのを喜び、正夫君が母君に尽くされる孝心の深いのに感じたことであった。
別室で竹柏会京都支部の歌会が催され、新村博士、加藤順三君、尾崎久助博士、寂光院の小松智光尼等、盛会であった。批評は熱心で、毎月の例会のさまも想われる。会果てて後、大沢忍博士の案内で竹苞楼に行く。久々に訪うたのであるに、夫妻のもてなしも嬉しく、故能勢博士や小西博士のことを語りあう。数々の書籍を観るを得た中に、江戸時代に擬作したものながら万葉文献の一として珍しい文書を購う。竹僊堂に寄り、これも擬作であるが実朝に関する初見の一冊を得た。アラスカ楼上の卓に就いた頃は、古き都の街もネオンの華やいだ光に彩られ、清少納言が見たならば、いかに美しく書かれるであろうなど語りあった。
二十七日。朝早く、鎌倉の村田邦夫君が、公務の許可を得て、来てくれられた。三条から京阪の特急で大阪に向い、新大阪ホテルに入ると、支配人の好意の百合が部屋を飾っていた。
布施博士に導かれてロータリークラブの会場なるホールに招ぜられる。正田建次郎博士と暫く物語りした後、振鈴の合図でメーンテーブルに着く。老人とて自分が中央、右へ順に村田省蔵翁、塚田公太君、ロータリヤンであるフィリピン人、湯川秀樹博士、伊藤武雄君であった。正一時から三十分間、日本のロータリークラブの創始者米山梅吉翁がわが竹柏会の同人であったことをまず話し、万葉にあらわれた上代日本文化について語った。
次いで二時からは、阪神竹柏会支部の歌会が、釜田喜三郎・久保喜兵衛君らの司会でロビーで催された。枚方の音代節雄・芦屋の山川幸子・尼崎の酒井清・俵松子・住吉の高木貞子・西宮の妻鳥よし子・淀川の重浦春水君ら四十余人の参会者は、旧知も新人もことごとく道の友である。歌がたりに加うるに、多年の同人なる佐野湊の里井柳枝、宝塚の山辺君代ぬしなどとの話は尽きなかった。
五時半からは、自分が招待した北島・平林・東・伊藤・犬養君らと食卓を共にした。自分は京都で求めた書籍・文書などを取り出して示し、北島君から万葉大和地理に関する書、犬養君から名にし負うみ熊野の浦の浜木綿の種などを贈られた。学芸の物がたり、まことに楽しいつどいであった。
会散じてのしばらく、ロビーのソファに椅って、外国人の静かなピアノの弾奏に耳傾けつつ、旅らしい宵を過した。
二十八日。早朝、上野精一君らが来訪せられた。薬師寺から松久保秀胤比丘が、自動車で迎えに来られた。初夏らしい朝のラッシュアワーの街に出る。御堂筋の南久太郎町の並木の蔭に車を駐め、旅に病んだ芭蕉の終焉の地、花屋の跡という所を弔う。簡素な句碑の前に、誰が手向けたのか、白菊の花のあわれが深い。自分も、昨夜の宿を飾ってくれた百合の一たばを供えて黙祷した。「随分、自動車の往来のはげしいところですね」と、小林看護婦がいうと、秀胤君は、「この下には、地下鉄も通っております」という。しかし、翁の眠りは静かに安らかであろうと思った。
大阪の市街を出はずれて、道は美しい大和川の清流に沿う。生駒山から二上山へかけての空は涼しく曇り、秀胤君の心をこめた道々の説明と、運転手さんの注意深い操縦に、まことに快い大和入りである。
「あれが平群、ここは竜田」といううちに、はや麦秋の大和国原が展け、菜種がらを焼く煙の棚引くあたり、柿若葉のあざやかな築地の家々には、旧暦で祝う端午の鯉幟が翻っておる。やがて法隆寺の伽藍を左手に見つつ車はひた走りゆくうちに、真昼の靄のこめた奈良の市街が遠望され、興福寺の塔や東大寺の鴟尾が、南都一千二百年の歳月を夢みるごとく見えはじめた。
かしこ平群いま龍田路と年若き秀胤比丘の案内(あない)ねもころに
大和なれば塔(あららぎ)は見ゆいらか見ゆ菜たねがらやく畑の遠(をち)に
道にそふ切づまの家柿若葉生駒遠嶺は淡々(あはあは)と霞み
大和路は此のここちよき五月風飛鳥藤原の花の香やまじれる
修学旅行に賑う市街に入って、前川佐美雄君の家を訪い、奈良ホテルに入る。永島福太郎君が待ち迎えられて、中臣祐春の百首の巻子一軸を示される。この喜ばしい眼福に、数時間の自動車の労れも消えて、片仮名がきの百首をよみ味い、メモを取った。
静かな、幅のゆったりした廊下を踏んでゆくにも、旧家と言いたいこのホテルの風格が感ぜられる。庭には楝の大樹があって、うす紫の花が煙っておる。昼の食卓には、能登から来られた井幡弥生ぬしらと共に就いた。薬師寺の高田副貫主が貫主に随行して来られた。
正一時、奈良女子大学に行く。外山倭文子さんが玄関に待ち迎えられ、学長室で落合学長と久々に会うた。やがて大講堂の設けの座に招ぜられ、司会者なるNHK奈良支局長安部君の紹介の後、村田君まず起って、わが歌集から抄出された歌について明快に述べられ、自分は、「心のふるさと」なる大和と、万葉研究の足跡について、立錐の余地もなくつどわれた若い男女の聴衆に講話した。力強い拍手を聞きつつ、この老学究を歓び迎えてくれた人々の心を強く胸に刻みつけた。次いで保田与重郎君が、混乱の世における文人の在り方について語られ、「山と水と」に好意ある辞を述べられた。かつて君の論文集の受賞を、「白玉は人に知らえつ」と古歌に因んで詠み祝うたことも思い出でられ、旅で聴く知己の言は心に滲みた。次に東京から来られた中河幹子夫人が、アメリカ視察中の体験を語られ、新しい愛を以て古典研究の興らねばならぬ所以を力強く語られ、今朝枡富照子夫人と共に羽田を発って天翔りつつこの会に参ぜられた五島美代子夫人が、入門された頃の思い出から、女歌人として踏み拓かれた苦悩と歌悦との世界を心こめて語られた。また、瀬戸内海の旅から奈良に駈けつけてくれられた川田順君が、新古今時代から説き起して現代の新しい歌に及び、歯切れのよい警句を飛ばせつつ、暗示に富んだ歌話をせられた。最後に、間島琴山君の朗詠があり、自分は一人の聴衆として、おのが作品の美しく吟ぜられてゆくのを聞いた。「思ひ草」の昔から半世紀を超える作品につき一集一首の抄出ですべて十二首、感慨深く耳傾けてきいた。
講演会が果てて控室に退くと、阪神支部の歌会の用意が別室に整うている。歌評を済ませて疲れた体を自動車のクッションに沈める頃には、青葉をうつ雨の音が激しかった。
ホテルの私室に入った自分の疲れた顔を見て、秀胤君は心入りの茶を点てて進められる。菓子は前川君から贈られた名もゆかしい三笠山であった。
夕六時、大食堂の歓迎晩餐会に出る。橋本貫主と落合学長との間の椅子を進められた。七十四名の出席者で、おもだたしいつどいではあるが、歓談は初めから賑わしく取り交された。吉野川のであろう、香魚の料理も初夏らしい。テーブルスピーチは、奥田県知事、落合女子大学長、高階橿原神宮宮司、平岡東大寺管長、足立教育委員長、和田軍一君、川田順君、森口奈良吉翁、平田春一君、松尾四郎君、丹羽五郎君など、それぞれに心をこめて健康を祈ってくれられた。自分は謝辞を述べた後、万葉植物園を例に引いて、この地に古代文化の花のいよいよ咲きつぐようにと説いた。九時近く散会。遠来のまれびとと今暫くを語りあいたく思うていたが、明日は大切な除幕式の日なので、部屋に退いた。この日、小清水博士から「万葉植物と古代人の科学性」の好著を、奈良高校美術部担任の大庭君から「興福院」の景の油絵を、吉永君から「文楽首の名作」一冊を贈られた。ともにこたびの好記念である。
夜とともに、雨は激しい。明日の晴れ空を念じつつ、深い眠りに入った。
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