二十九日。雨もよいの朝空は雲のゆききが速いが、吉野の方は晴れ初めたと聞いて元気づき、庭苑から公園に出た。
   朝窓のそとに来遊ぶ鹿を見る奈良にやどりし喜びの一つ
   大木あふちむらさき淡きいろしづかに朝の庭苑の一角(いつかく)を占む
   袖ひろげゆたかに立たむ吹き来(きた)るこは春日野の朝の風なり
朝の食堂は、川田君夫妻と五島美代子さん、いづみさん母子のテーブル、それに、上市の阪本千代子さんと鎌倉から来られた妹君伊東昌子さんのテーブル、「まるで竹柏会で占めたようですね」と、笑いながら朝の挨拶をかわす。
九時、薬師寺から迎えが来た、興福寺の境内をぬけ、猿沢の池を左に見つつ古雅な奈良駅前を通り、車は一直線に西の京への道を進む。幸いに雨はあがった。片桐且元の造営にかかるという本坊の広間に招ぜられて小休、床には実仇英の楼閣山水の幅がかかってい、小西行長が朝鮮から持って来たという螺鈿の卓が置いてある。貫主からねもごろな挨拶を受けて、茶室白鳳庵に通された。寄付には鍾馗が鬼をつかまえておる幅、それは明治時代に富岡鉄斎翁が山陵修理のために薬師寺におられた頃描かれたのが掛かっておる。相客は落合学長、床の軸はこたび石に彫られた「ゆく秋の」のわが懐紙で、表装のおちついた藍地が拙い文字を引き立ててくれる。花器は絵唐津とか、一本の菊が簡素に生けられたのも僧堂らしい。浄衣の胸に学生らしい襯衣をのぞかせた暎胤君が、茶を点ぜられる。「茶の銘は」と問うと、貫主の好みで名づけられた「又玄」とのこと、悠々として迫らぬ貫主の胸奥に去来するものは、衆妙の門に到り得た古聖賢のおもかげであろう。
時刻が来たとの報せに、薬師寺の浄域に入る。まだ見ぬおのが歌碑は、かの三層の宝刹の下、菩提樹の青葉蔭に、とは聞いていたが、今は紅白の幕をめぐらされている。会衆はすでに場の内外に集われ、人人の挨拶を受けておる内に、土岐善麿博士が東京から来られた。
式は緋の法服をまとわれた貫主の着座に始まり、前川君の司会で進められる。昨日から今朝まで黒い法衣姿の秀胤君を見馴れて来たが、今は君も、素絹紋白の五条袈裟に中啓を胸にして、華籠を捧げた一山の大衆と威儀を正して列んでおられる。荘重な唄(ばい)が香煙とともに立ちのぼり、散華の蓮弁は幾たびか玉砂利の上に舞うた。その頃から静かな小雨がこぼれ落ちてきたのも、法雨とも慈雨ともいうべきであろう。貫主のおごそかな表白、続いて信徒総代なる戸尾氏の女昌子ちゃんによっての除幕――人々の拍手と共にその姿を表わした大理石の白い肌に刻まれたわが文字を見、ふと雨に煙る宝塔を仰いで、あまりのおおけなさに胸が迫った。知事の式辞に次いで、土岐博士の懇篤な祝辞が述べられ、発起人を代表して落合学長、竹柏会の総代として川田君が、それぞれに真情にあふれた言葉をもって、歌碑の落成と自分の長寿とを祝福してくれられた。栗原潔子夫人からささげられた美しい花束に目を向けて、ともするとはふれ落ちそうになる涙を抑えた。やがて碑前に進み、自分も表白を読んで感謝の真心を述べた。
 {あをによし奈良の都、なつかしき西の京は、光顔魏々たる薬師三尊、端厳微妙にましまし、亭々たる宝刹、相輪高く聳えて、天人妙楽を奏でたまふ。草創已に千三百年、薫風永く扇げり。
 此の地、我に於いて一首の旧作あり。近き頃わが友ら相謀り、適々本尊仏須弥壇の修理のため引かれたる大理石に彫りぬといひて、今日しも、建碑の式行はる。梵莚、列なる人多し。吾亦八十路を過ぎし杖ひきて参ゐ到る幸ひを得たり。
 この庭のこれのところや、海の外より移し植ゑられしといふ菩提樹の瑞々しき若葉さしひろげたる下蔭、やまと言の葉を金石に刻める始めの祖なる仏跡を恭ひまつる歌の碑の御堂に近し。
 文の華のにほひ豊かなりし上つ御代に、万葉人言挙して、言霊のさきはふ国とこそうたひしか。わが拙き言の葉にも霊ごもりて、歌思ひ国思ひ、まことを思ふ心、とこしへに朽ちせじ砕けじ。
 仰ぎ願はくは、薬師瑠璃光如来諸尊聖衆、冥助を垂れて願主の所願を成就せしめたまはむことを。}
万葉集の創成をもはるかに見おろして、千二百年の月日を今日に聳え来ったこの古い宝塔に向って、たまたま一旅人として、明治の末年頃におとずれ、晩秋の日に思いを寄せた諷詠が、かく久遠に遺るということは、夢のような心地がする。
   天そそる宝刹のもとおほけなくわが歌碑ここに建たむと思へや
   瑞々し菩提樹の蔭にわが歌の石ぶみは建てりよき処得て
   夢かも散華の花、花、唄(ばい)の声わが歌碑の前にわが立ちてあるは
   星月夜天人の楽をわが歌碑は聴きてをあらむ幾代この場(には)に
間島君の、碑の歌及び新村博士から贈られた祝歌の披講があり、女子大附属高校生の合唱を以て除幕の盛儀が終った。小雨の中を傘をさしかけられて、本尊薬師瑠璃光如来をおろがみ、仏足石の歌碑を久々に見た。
再び本坊に帰り、二時から金蔵院での座談会に出席する。ここもまた熱心な聴衆が廊下まであふれている。司会は前川君で、まず自分が明治文壇の思い出を語り、たまたま村田君が携え来られた現代短歌大系の口絵の写真を示しつつ、竹柏会の古き同人の消息や追憶を話した。終って、故石榑千亦君の長男利寿君が挨拶され、川田・前川・間島・安部・安藤君、中河・五島・栗原夫人らが話をされ、拍手や笑声が次々に起った。打ちとけた和気に誰も席を立とうとされぬが、雨のあがった空にはすでに夕べ近い色が見える。朝鮮なる孫戸妍さんの祝歌を枡富夫人が披露され、村田君のとじめの詞で、今日の建碑式の公的な一切の行事は終了した。はるばる来られた、伊勢宮前の堀内、河原田の熊沢、米子の今井、山口の松山さんを初め、名残惜しげな人々の別れの言葉に送られて、三たび、本坊の朱の毛氈の上にいこうた。自分は、久しぶりで、たった一人になった。簡素な、しかしよく手入れの届いた庭の老松の葉ごしに、片面を夕明りした薬師寺の宝塔がすがすがしく立っておるのを望む。天と地と、人と――自分を囲む三才の恩を思いつつ、豊公以来の年経た柱を背に、古都の夕風を喜んでいた。
最後まで残った人々が座に着き、貫主を中心に一山の僧のもてなされる竟宴の酒をくみ交した。一番年少の五島いづみさんが「夏は来ぬ」を唱うてくれたのがきっかけとなって、婦人側から「雀々、今日もまた」の合唱が起れば、男子側から「勇敢なる水兵」や「水師営の会見」で応酬される。聴き入る自分は、遠き明治の御代を偲ぶ感慨が痛切であった。
本坊の玄関で記念撮影の後、灯ともし頃、奈良ホテルにもどる。村田君は鎌倉に帰られた。
三十日。朝、川田君が、これからすぐ古寺巡りに行かれる由で別れを告げに来られる。前川君も、今日の万葉古跡めぐりのバスの東道役として、別れの挨拶に見える。二君ともに、わが竹柏会の最も古い同人として、おのがじしの歌境を開拓せられた人々である。談笑のうちにこの数日の好誼を謝して別れたが、君らを送って考えて見ると、自分も川田君も旅の身、前川君も一日の小旅行に発(た)つところ、思えば、三人が皆旅人としてこの古き都に互の前途を祝いあうのである。思い出は、ともにいつまでも消えぬことであろうなどと、晴れゆく窓外の若草山にひとり対していた。
九時、今日も薬師寺の好意で自動車を用意してくれられた上、秀胤君が案内の役を引きうけて同伴されるままに、ホテルの人々と別れた。まず聖武天皇の佐保山の南陵を拝し奉る。今年は天皇崩御ましましてから一千二百年、草莽の老学究として企てた記念讃仰の編著、及び北京の銭稲孫君の、パリのグランジャン夫人の万葉集の訳等について御報告申しあげた。
   さつき風あしたすがしく参道の並松は真砂によき影をおく
   佐保山を浄み寂(しづ)けみ千年まり二百年(ふたももとせ)をみ夢しづかに
   高々と白鷺は朝の群舞せり御陵をまもる木々みどり深く
   草莽の老うた人がかしこみとささぐる忱(まこと)うけさせたまへ
次いで、東大寺の本坊にいたるに、管長、執事長、図書館の堀池君や和田君らに待ち迎えられた。床には四聖の御影、即ち、上に聖武天皇、下の右に波羅門僧正、行基菩薩、左に良弁僧正の幅が掲げられてある。天皇の御影は実に尊く拝せられた。
   まさ目にあふぎまつらく開眼(かいげん)のみ場(には)の一隅(いちぐう)にさぶらふかとも
案内のままに庭におりたって、校倉の前をよぎる。正倉院のよりは小さいが、古容いいしらぬ風趣がある。かくて天皇殿に導かれ、謹んで、聖武天皇の御木像を拝する。冠と笏とは東山天皇から御贈りあそばされたものという。背後なる金色の障屏は御影をうつしつつ、尊容の気高さ、まことに匂うばかりである。深い感動に心の澄みゆくを覚えた。さらに森口君らに導かれて大仏殿を仰ぎ、天平の古えを偲びまた、近く堀池君からおくられた公慶上人の年譜を思うて、上人の上を偲びもした。
次に、春日神社に参拝する。水谷川宮司、千鳥祢宜に迎えられ、拝殿に参じ、巫女の捧ぐる扇の舞、鈴の舞を拝観していると、修学旅行の生徒たちが多勢あつまって来て、静かに観覧して行った。
   御巫女(みかむのこ)のかざし糸花、花さゆれふりふる鈴の音さやらさやら
宝物館を拝観し、なつかしい万葉植物園にいたる。森口君は植物園建設委員の一人であったので当時の事を話される。
かくて法隆寺に車を馳せた。講堂にぬかずき、修理の全く成った金堂や塔を仰いだ。さきに五重塔解体の時、そのかみ工匠らが組子に書いた文字が発見されたが、その組子はすべて天井に復原されたと、奈良で浅野博士から聞いたが、何らかの方法で残されていはせぬかと本坊に寄って聞いたに、ささやかな写真のみであることは遺憾であった。
郡山の町を通ってまた薬師寺にいたり、貫主に感謝の言葉を述べて更に車上の人となった。奈良山を越え、木津に出る。藤原宮の役民の歌が、現実の山河として眼前に展けて来た。木津川の堤を左に、井手の町を右に見、玉水、小倉を過ぎやがて深草――朝永研一郎君が永遠に眠っておられる宝塔寺の近くに車を駐めたが、老の足がおぼつかないので、遥拝して辞した。
<鉄斎翁画旅人卿像の前にて>
京都ホテルに着く。老人をいたわってここまで送って来られた秀胤君と外山さんに別れ、ロビーに入ると、富岡刀自が待っておられて、田中訥言のえがいた大伴旅人の像を鉄斎翁が模写された小品の画稿を贈られた。瓶子を持った童子の前に、杯を手にした旅人の酔態には、ゆたかな品位がただようておる。こたびの旅のこよなき記念と感謝した。{帰京後、直ちに表装した。前頁の写真の背後なるがそれである。}
三十一日。東京より昨夜来られた東・神崎・迫水の三夫人が来訪された。夫人たちは、京都の人形作家松本波さんの指導をうけて、人形師の長老岡本正太郎君の人形に、それぞれふさわしい衣裳を着けるのを趣味としておられる。それについて古代裂を切りきざむので、古代裂流しの供養を大堰川で催したく、自分にも列席してほしいとの兼約があったのである。やがて東京からの西沢笛畝画伯、佐久間、入江二夫人たちも来られ、車をつらねて出た。自分の希望で山紫水明処にいった。数十年前に訪うた時とはかわって、入口が狭くなり、ことに鴨川を隔てた対岸には、新式の大きな会館が二つ建っている。山陽先生がここで日本外史の筆を執っておられた時分には、川向うに梁川星巌詩宗が住んでおって、来往されたとのこと。先生世にいまさば、眉をひそめられる事であろうなど思うた。
   梅颸夫人孝子山陽この欄により見けむ朝の東山ひえの山
仁和寺、広沢の池、天竜寺を経て、嵯峨の祇王寺に着く。二十余年前に訪うた時より入口の道は広くなったが、あたりの大竹群は昔ながらにうつくしい。石段を上った右に茶事の席が設けられてあって、そこに先着の人々と茶を味わいつつ語りあった。中に麻田画伯がおられて、古い同人なる画家人見少華君の最近の消息を聞いて、なつかしく思った。かたえの苔庭に桜の実の落ちているのを、心幼びつつ拾いなどした。
   樹下かげ苔深く敷きかしこにもここにも落ちたる赤き桜の実
やがて、堂内で誰(た)が袖(そで)供養の式が始まる。智照尼の静かな読経は、二かけの小袖を前にして行われた。式の後、祇王祇女の墓に香を手向け、近世の歌人渡忠秋の墓にも敬意を表した。
渡月橋を渡って岸をおり、舟の上の人となったに、ラジオ京都の人が来て、何か述べよという。即吟の歌の話をしていると、折から河鹿の声がま近く聞えたのは嬉しかった。
舟は二艘、一艘は楽人が、笙・篳篥と笛とを奏でる音楽の舟、自分らの乗った一艘は、歌の舟に絵の舟を兼ねたもの。音楽の舟の清い調べに導かれて、嵐山の翠巒をめで眺めつつ川上に漕ぎのぼった。
   舟出でむとして調べあはする楽の音に和するが如も河鹿の声す
   楽の舟にみちびかれつつ青淵を舟こぎのぼす歌の友画の友
ゆきゆいて舟を留め、波のゆるやかな青淵に古代裂の上にささやかな花をのせ、供養じつつ流した。
   ささやけき花花、上におき供養じつつ古代裂ながす緑の淵に
また用意された色紙や扇の地紙に、歌をかき、絵をえがき、花々に荘厳して浮べた。清冽な水の上に、古代裂も、花も、歌反故、画反故(ほぐ)もたゆとうて見える。と、たまゆらに渦に吸いこまれ、水底(みなそこ)に消えて、跡かたもない。平安王朝の優雅な遊びに底ごもる物のあわれの愁いの影を、今しまさ目に見る思いであった。折から近づいた小舟は、谷崎・城戸崎二夫人が、奏楽の音をたよりに一行の跡を追うて来られたのであった。
やがて渡月橋の近くへ下って岸に上った。ふりかえりみる嵐山の夕べの色が、えもいわずうつくしい。帰さは、一直線に下京まで馳せて、新熊野(いまくまの)神社の前に車をとめた。それはかつて城下君から聞いた椰の宮町の梛の宮を訪いたい為であった。新熊野の社務所で聞くと、「町の名には今も残っているが、近くにあった梛の宮は今はない。しかし、この辺には梛が多く、ここの社頭にもあのように」と指ざし示してくれた。
ゆかしくも華やかであった今日の供養にふさわしく、竟宴の席は瓢亭に設けられてあった。まず通された室には、岡崎におった蓮月尼が、ここに来て書いたという詞書の長い歌の幅がかかっていた。次に茶室に、さて広間に移ると、布施博士も大阪から来ておられる。人々が着席した頃、座敷で先刻の自分の放送を聴いたりした。やがて、柳のかんざし、だらりの帯で人形のような舞子が現われる。すぐれた唄声をその舞にあわせた「京の四季」は、京に来たればこそと思う。かつて読んだ谷崎君の短篇「月と狂言師」のように、京の人々の酒宴の常とて、おもしろい隠し芸が大西君や山本君によって演ぜられ、席を立つ時も忘れてしまう程であった。
門外に出ると、月がさやかに澄んでおる。京都ホテルに帰って明日の帰りの用意をしておるうちに、夜はふけた。
六月一日。朝とく、菅原博士夫妻の来訪を受けた。京都駅には、新村博士、谷崎君夫妻、富岡刀自を初め、大阪から来られた藤田夫人などが見送られた。鈴鹿三七君は新聞で見たからというて来られたのも喜ばしかった。往路と同じく、「はと」の客となる。
車中、中山管長・和田君・東夫人の一行、笹岡さんなどが同乗せられて、時の移るのも知らぬうちに、名古屋では四日市から来られた飯田・石田・田中の三君に迎えられ、豊橋では久曽神君、清水夫人たちが待っておられて、旅の無事を祝うてくれられた。
夕べ七時近く、丹那トンネルを出つくすと、灯をともし初めた熱海の街が眼下に展がった。自分はほっとした安心を引き緊めながら、デッキに出た。土佐日記ではないが、出発の時はともかく、特に電報を打たなかった帰りなのに、思いかけず、山副君・城下君をはじめ、人々が喜んで迎えに出ておられた。自分はまた感謝を新たにして、踏み馴れたこの駅の階段を、ゆっくりゆっくりと降った。(三五七頁以下、「九日の旅」による。)
八月 前にも述べた室伏秀平君らに語った夢が実現して、湯河原に万葉館が完成し、その落成式に列り、祝辞を述べた。第一年に万葉橋が、第二年に万葉亭が、第三年に万葉館が落成したのであった。
九月 高碕達之助氏は幼くて別れられた母堂の悲恩を思い、人心荒怠の現世を思うて母堂の生地河内四条に悲母観音の像を去年の春建てられた。その副碑にと歌を請われて、
   世の為に母の為にとふ誓願をうけいれまさむ悲母観世音
実朝を偲ぶ名月歌会が伊豆山神社に於て催され、土岐善麿、橋本徳寿、五島茂氏等がつどわれた。
   台風それもちの月清しうた人のわかき将軍よ霊がけり来ませ
十一日会主催の大村八代子さんの追悼会が、鎌倉の浄智寺で行われ、朝比奈宗源老師も臨席せられた。多年わが会につくされた君を思い、追悼歌の朗詠にも涙がこぼれた。
十一月 十二日午後上京した。宮城の内の常磐木は、うららかな日ざしに緑の色が深い。義宮の御殿にさぶろうて、万葉集及びわが国上代の文化に就いて進講した。殿下は、いかにも若々しくにこやかに、しかも熱心に聴講あらせられ、南京遺文・南京遺芳のここかしこを抜いての御説明にも、よくお目を注がれた。やがて御成年式を挙げさせられる殿下の御胸のうちに、残るもののあらむことをねがうて、一時間四十分の進講を了えた。明治天皇御集御編纂の時代に賜わった名菓難波津をいただいて退出した。
さきに、和歌文学会が結成されたが、自分が年長者であるとのことで、会長に推された。二十六日、結成の発会式をかねた講演会が国学院大学であった。会場に入ると、聴衆は大講堂に満ちあふれ、立っておる人々もあった。高崎正秀博士の発会の辞、次に自分が、つづいて、斎藤清衛博士、山岸徳平君の講演――かなり長い時間であったに、中座する人が殆んどなかった。和歌文学に関心をもつ人々のかくも多いことをまのあたり見て、老学生の眼には、喜びの涙のにじむのをおぼえた。
熱海の同人で書道にすぐれた岡本久美子(号、静陽)さんが、日展第五科に最年少者として入選された。

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