昭和三十一年  八十五歳

-月 NHKからの人生読本に、上代の歌謡について四回連続放送した。
「佐佐木信綱文集」「佐佐木信綱歌集」を刊行し、信綱全集の第八巻と第九巻とした。全集に就いては三一三頁に述べたが、刊行が遅々たりしため、評釈万葉集(一~七)、訂正日本歌学史(一〇)の中間に、この二冊を入れて一応全集を完結することにした。しかしてこの二冊には新たに安田画伯に花あざみの画の装幀画を依嘱して、単行本ともした。《注:三一三頁は昭和23年11月》
昭和女子大学編纂の近代文学研究叢書第一巻に、亡父の評伝が載っている。執筆された松本幸さんは、熱海をも石薬師をも二回とわれた。
二月 伊豆山なる中尾温泉揚湯第一日、中田氏に招かれゆいて、
   刻々に迫る揚湯(やうたう)の時待ち待つ丘の中腹(なから)につどへる人・人
   一千尺大地(だいち)の底ゆ滾々と湯は湧き出でつ湧きでけらずや
   あふれ出づる地(ち)の喜びよ真昼日のゆたかににほふきさらぎ七日
   段々畑柑橘(かんきつ)照らし眼下(がんか)の海遠(とほ)はろばろに光りかがよふ
河出書房の定本書道全集第八巻に「正倉院文書より見たる書道」を寄稿した。
<凌寒荘の下庭にて>
歌日記より、
   吾はうたふわが歌をうたふ庭隈の竹群かげに今日もおり来て
   しづかに何思ひをるまだら日うけ竹群かげにつもれる落葉
   春日うらら燻し銀いろの葉の上にぬきんでて白き一輪のばら
   吾いづこにありやと求め求め得て偓促(あくさく)たるわが姿にまどふ
   人いづこの遠つ境に聞きしむらむしづかなる夜の静かなる雨
四月 一水会のつどいが、小畑勇吉君、鎌倉有宏君の尽力で三井クラブで催された。
五月 二日、聖武天皇千二百年忌奉讃の和歌文学会の天平祭が、神社本庁で荘厳に執行された。本居先生の後裔弥生君が斎主であった。聖の帝の御霊も、きこえあぐる祭文を御嘉納あらせられたことであろう。自分のについで土岐君の講話、上野芸術大学長は、「天平の美術」という題で、スライドを使用し、夢殿の観音や執金剛を委しく説明された。側面や背後の写真は初めて見るを得たことであった。
五日。武田祐吉博士古稀祝賀会が国学院大学で開催された。石川学長が、博士の業績、なかんずく、長慶天皇の御歴代に列せられ給うた際のことを述べられたので、自分も、博士によって明かにされた耕雲千首の奥書について語った。帰途、折から熱海に滞在中の金田一京助博士と同じ列車で、二時間の時間も短いとおもわれるほど語りつづけた。
十三日。大隈会館で竹柏会大会が催された。それは歌集文集の刊行、全集十巻完成の祝賀の会であった。愛川悦子さんの記事に曰く、
 {「正面には杜若の屏風、講演の卓子が置いてあり、左には高松宮妃殿下のお祝の歌の色紙の幅、鈴木豹軒博士の歌文集祝賀の詩の長幅が掛けてあった。林さんの司会で、川田氏は歌集中の遊清吟藻をとりあげて、作歌の目的を以て歌人が遠く海外へ遊行したのは、先生が最初というべきであろうと述べられ、次に、園主は謝辞を述べられた。その終りに、さきに「歌集」「文集」を宮中に献上申上げたに、昨日このお菓子を賜わりましたと、白い箱を手に取り上げられて、「子供らにわかちましたあとを失礼ながら籤引で差上げたく思います」とおっしゃる先生の暖いお心が、あたりにみなぎって、みんな子供のようにざわめく。係が配ってあるく紙撚(こより)……。あたった方が薄い紙につつんだ御紋章入の大きなお菓子をいただく。楽しいさわぎの中に、つづいて前年から今年へかけて出版された同人の歌集の紹介を伊藤嘉夫さんがせられた。落合裏次君の「葆光」、鵜木保君の「一教師の歌へる」、大久保文子さんの「樟の葉蔭」、藤林保君の「苔の華」、小松つるさんの「みやま草」、佐藤孝三郎君の「高岳集」、佐藤金造さく子君夫妻の「木綿崎山」、椿一郎君の「藪蔭(ほさかげ)の花」、遠山光栄さんの「褐色の実」、中村徳重郎君の「垂氷」、早川タカさんの「ゆく雲その二」、与田千代子さんの「音なき世界」等。合同歌集では「射手座」は八人の作者中、梅田真男、中山昭彦、稲垣健太郎、武田葛、三上芳郎君。癌研究所の所長中原和郎博士、事務長川上隆三郎君、助手の梅田君、司書の塚本朗子さんの「雁」。「渦」は角氏指導の上木彙葉君、新井貞子さんらの作品。「小さき存在」は治綱氏指導の細川義忠、白仁文子、成宮芳三郎君らの集。いずれも同人の努力が花さき実を結んだ事に気を強くさせられた。終って余興に入り、下村海南博士同文子夫人の浄曲、中村好美さん社中の筝曲等があった。」}
十四日。学士院授賞式の夕べ、岩淵悦太郎君に迎えられて、新村氏、及び柳田氏と同車して国立国語研究所にいった。途中、御成道で、神田祭の幼い子らの御輿の幾つかを幾年ぶりで見たことも喜ばしく、研究所では、西尾所長や、間もなく来られた土岐氏たちと、一時間余の談話は楽しかった。
六月 「万葉集事典」を刊行した。さきに公けにした「万葉辞典」は万葉語の辞典であったが、この事典は、総説以下、歌語・社会・人名・地名・動物・植物・典籍の八篇に分ち、また年表を収めて、項目一万六千八百余にわたっておる。ことに典籍篇は、万葉集に関する文献を網羅しようとしたもの、千種に近い書籍の解題である。さきに万葉集二百種簡明目録や、竹柏園蔵書志を編んだが、これは、それらに増補し詳しくしたのである。従前のこのたぐいの書よりも浩瀚なもの。中世以来の長い万葉集研究の成果の綜合ともいうペく、万葉学の普及、万葉学の進歩の階梯となることを志したものである。
六月十五日はかく喜ばしい日であったが、更級日記の鏡の両面の譬えにも似て、この十余年忠実に尽くしてくれた小林看護婦が東京に入院と決った日でもあった。(二年の後、病いえて帰り来た。)
万葉集事典に助力せられた林大君、野村貴次君、平凡社の大悟法進君、校正部の木佐木勝君、広瀬清君を招いて、上京のおり、晩翠軒でささやかな竟宴を催した。庭の竹群も涼しく風浄き夕べであった。
   いく年の心の重荷今日おりて喜の酒にゑひにたり吾
下谷正慶寺における北村季吟二百五十年忌法要に歌を供えた。
   北村を出でて都に東路に大き学の跡残しましき
   法印の筆によりいよよ光そひぬ湖の月春の曙
日本歌人クラブ主催の、「明治大正歌人展」を見にと高島屋に赴いた。森本博士等が懇ろに案内された。近代の和歌史をまのあたり見るごとき数々の陳列に心をひかれたが、中にも与謝野君が太田水穂君への書翰、新万葉集竟宴の日の写真、石榑君の大字の幅、木下君の書翰(父君へと、落合裏次君へとの二通)には心がとまった。
中村とよさんは歌集「いかだかづら」を出された。夙く台湾に行かれた時の風物の作や、空襲の火を、母君と共に逃げまわられた苦難の歌などを読むと、作歌するということは、わが思を自ら長くしのび、また読む人に同情同感の念を深からしめる種子(くさわい)であると思うた。
七月 マナスル登頂の一人、日下田実君の話を聞いて、
   一つ心一つ力の厳凝(いつこり)にこごしいただき極めけらずや
   千古 人 手ふれざりつる頂の石の破片と思ふにうつくし
八月 伊東なる伊でゆ荘の河野君に招かれて赴き、相客の元市長太田賢次郎翁と語りあうた。翁は太田正雄博士(木下杢太郎君)の令兄で、さきに杢太郎君の記念碑が伊東に建つとて編まれた「木下杢太郎の横顔」一冊を携え来て贈られた。表紙の表には木下君がスケッチされた、藤村、漱石、抱月、裏には鴎外、竹二君及び自分の肖像画が刷ってある。先輩や友人、中年頃の自分に逢ってなつかしかった。松川の灯籠流しの夜であるので、長島ぬし、石黒ぬし、島春潮画伯夫妻の一行と岡橋の橋づめに行き、初めて見る光景の興趣にひたった。
   流灯の光流れゆき消え去りて川ぎしはもとの月夜となれり
妣田圭子さんの随筆集「草の歌」に序を寄せた。妣田さんは多芸多才な人、絵も書もたくみに、小説をも作られ、宗教にも深く入り、舞踊の師として戦時中に女弟子数人を伴うて満州の野の果にもゆかれた。身一つにかく豊かな天分に恵まれた人は少ないであろう。
   虹を夢を目に胸にもちいつく人その物語聞きつつ笑ましき
長島弥一郎君夫妻が、宮城孝治君を伴い来られた。宮城君は米国及び欧州の旅から近く帰られたが、いたる所で撮影されたカラースライドを携え来、写してくれられた。ポトマックの岸の桜の満開、ハイデルベルヒのよき五月、ベルリンでのツァヘルト君訪問、三十分で実に楽しい外遊であった。さきに東博士も持参され眼福を与えられたので、西山の山ごもりの身も今年は外遊を二回したのであった。
九月 井幡弥生ぬし、寺西憲一氏等の尽力により、能登和倉に歌碑が建てられた。その歌、
   うた人(びと)の国守(くにのかみ)、巡り見し日にも山清らに海しづかなりけむ
建碑式の当日、代理に由幾子及び安藤、間島、栗原、遠山さんらが出席された。当日おくった祝の歌、
   天(あめ)にいます御霊(みたま)よ見ませ人皆の心つどひていしぶみ成りぬ
実朝を偲ぶ名月歌会は伊豆山神社で催され、松村英一、木俣修、四賀光子氏等がつどわれた。
   松風の楽(がく)にふきそひて斎庭(ゆには)浄し月かげに来ませ若き将軍
十月 愛知県蒲郡の竹島八百富神社の境内なる藤原俊成卿を祀った千歳神社の歌碑除幕式が挙行された。歌に曰く、
   歌人(うたびと)の国の司のみたまやどり千とせさかゆるこれの竹島
短歌研究十月号に、フランスの国際短歌の会の作品、予及び東博士、成宮氏の文詞が掲げられた。
十一月 「万葉集の心」を刊行した。民族精神のみなかみ、万葉集と現代、ひたぶるごころ等、万葉集の心を中心とした随筆集である。
十二月 富岡鉄斎翁の三十三回忌に歌をささげた。
   曼陀羅窟おく深うして木々青く広らなる庭に面せる画室
   わくらばに知遇の縁をうけ得しか朽ちせぬ言葉胸に残れる
   あらゆる絵具もとめて試みき心の色をいかにいだすと
「曼陀羅窟」は、室町の邸の玄関に、呉昌碩の額がかかっておった。「此の家は段々に建て増してまだらになっておるから名づけたもの」と翁は笑いつつ語られた。
「和歌ものがたり」を、さ・え・ら書房より刊行した。遠い上代から現代にいたる間のすぐれた作百四十首を抜き、解説や鑑賞の文を添え、画をも加えて、幼い人々の為にとものしたのである。

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