昭和三十二年 八十六歳
一月 新春の歌、
春きたる春きたるとふ言葉我に力与ふる空の色なり
わが力の限のわざを成さまくと仰ぎつつ祈る年の初日に
地図ひろげゆびさして孫が言葉はげし世界史の中のハンガリアの命
二月 「心の花七百号」を刊行した。巻首にかかげたわが歌、
明治大正昭和三代を咲きつぎて心の花百枝七枝を吹き出けらずや
写真七葉。掲載の文詞、知友同人の筆になるもの百五十四篇、同人の一人一首は八百七十首、巻末に、「心の花展望」として、第一巻第一号よりの主なる目次を掲ぐること二千八百五十九項、終りに「同人歌集印行目録」と題して三百五十五部の書名、作者名、出版年月を挙げた。総頁は四百五十頁である。掲載の文詞はいくつもの項目に分って、歌壇人よりの祝賀、子規君以下の思出、石榑君等主なる同人について、海外人の寄稿、海外漫遊、古典研究、随筆等々とした。あらためて全巻を通覧するに、はやく竹柏会の方針として、西欧文化の息吹(いぶき)をも作歌の上に注入しようとした。大塚保治博士のイブセン談はイブセン文献史の日本に於ける最初のもの、松村みね子夫人のタゴールの詩の紹介もそうであり、近くはパリの国際短歌の会との協力なども一貫した精神に根ざすものであった。今回の編輯のことは、信綱、治綱、林大、村田邦夫、島綾野、中田敏子の六人が当った。海外の詩誌にも七百号をかさねたというのはないとのこと、そういう長い齢を重ねたのは、創刊以来編輯に携わられた諸君、会員の協力によるものと深く感謝する。この七百号を新しい出発点として、更に八百号への堅実な、謙虚な一歩一歩を踏みだしたいとおもう。
歌舞伎座で、予の旧作「静」{二二一頁参照}を中村歌右衛門君が、宇野信夫君の演出により上演された。あやにく、病臥中で上京できなかったが、テレビを借りて床上で観賞した。さきに小萩の役で出られた歌右衛門君が、新しい感覚で静を上演されたことは喜ばしかった。《注:二二一頁は昭和8年5月》
をだまきのいともめでたき舞の袖むかしの秋を今のうつつに
二十六日。昨日は千秋楽であると思うていたに、午後、歌右衛門君が清楚な背広すがたで来り訪われ、くさぐさの思い出がたりがつづいた。
三月 片山広子ぬしが永眠された。一流の女歌人として、また夙く愛蘭土文学の翻訳者として文壇に功績の多かった夫人は、近年病中にも、歌集「野に住みて」、随筆「灯火節」を著された。その遠逝はわが文壇の上にも大いなる損失というてよい。心の花五月号を追悼録として諸家の文詞を採録した。
四月 岩波文庫本梁塵秘抄は、旧版の文字訓法等をすべて改版した新訂本を印行した。
五月 同じく山家集は、聞書集、残集等を加えて改版の新訂本を出した。
木下利玄君の三十三回忌に、
君ゆきて三十まり三とせ牡丹花の花のにほひは春とこしへに
東亜の歴史に直結したともいうべき風雲児高木陸郎君は、さきに歌集「洗心臥霞」を刊行、その人間的体験をうたわれたに、こたび第二次世界大戦前後の作をつどえ、第二歌集「碧水濯足」を編まれた。
故荻野佳子さんの遺歌集が、十三回忌に子息晴一氏によって成った。母君はその孝心を喜んでおられるであろう。
大和の太田智代江さんは結婚十五年の記念に「谷間の百合」を出された。夫妻が長男善夫君を伴うて凌寒荘を訪われた日の写真が掲げてある。
七月 谷中の五重塔が焼けた。
朝日に夕日に映えてそそりたちしかの宝塔の亡びけるはや
七宝厳飾の塔は焼きつる、現(うつ)し此の世の心から人の心から
物のいのち限あることは嘆かざらむ嘆くかも世を人の心を
千々の霊(たま)目守(まも)り嘆きけむけやけやと炎になりしその宝塔を
塔に近うとはに眠れるわが父母(かぞいろ)その夜は覚(さ)めて嘆きたりけむ
いく春秋墓まうですとゆくさ帰さ仰ぎ見し塔なしといはずやも
宝塔は目には見えなく十兵衛の雄々しまごころ永遠(とこしへ)にあらむ
「鎌倉三種」を公にした。戯曲「静」は先代歌右衛門のためにかいた脚本{二二一頁参照}、「権律師仙覚」は日蓮の松葉が谷焼討の夜に比企谷におった仙覚の事をかいたもの{一三一頁参照}、「鎌倉百首」は鎌倉の村荘に遊んだ折々の作。以上を一冊にした。ここに百首中、鎌倉懐古八章を掲げる。《注:二二一頁は昭和8年5月。一三一頁は大正6年11月。》
しらぬひ筑紫にありてしのびけむ美奈能勢(みなのせ)川の潮(しほ)みつ瀬の音(と)
大き海を前に青垣山めぐらせるわが鎌倉は実朝を生みつ
渡唐の志はや新(にひ)船のいたづらにして日あかき砂浜
予感か運慶を召して薬師仏造らしめましき戊寅十二月
谷戸(やと)におつる夕日ながめけむ万葉を訓(よ)みかうがへし古へ人も
入道のあとふむ人の一人だにあらばと思ふ今のこの世に(最明寺趾)
ここにありて蒙古百万の兵をゆるがしし相模太郎の雷(いかづち)の声
さやけかりき法の月光(かげ)めでたかりき文の華(はな)のにほひ、五山、春に秋に
八月 谷口茂寿牧師が久々来訪されて、病の快くなられた夫人や、一族の写真を贈られた。本郷の教会時代にしばしばお訪ねした昔がたりに時の過ぐるをも忘れた。谷口牧師や、名古屋の中西栄作君は、それぞれに吾が子の恩人である。
永田寛定君から草径集のイスパニヤ語訳一巻を贈られた。言道は新しい感覚をもっていて、近代短歌の先駆者であるから、今年のペンクラブの大会に出そうと思うて訳されたとのこと。言道の霊の大いなる喜びであろう。
凌寒荘の来訪録より抄出する。「八月八日執海晴海荘に四日間の解剖学用語委員会を終りし後佐佐木先生をお訪ねして――森於菟」、「独逸カッセルに於けるYMCA世界同盟会議に連なるため六月廿九日発、スイス、ドイツ、デンマーク、イギリス、フランスをめぐり、北極の空を飛びて七月廿九日帰国、コペンハーゲンにて得たるアンダルセン物語のマーメードの陶像を携へて拝訪、八月九日――武井大助」、「八月十一日箱根強羅にて二日間の細菌毒素研究会を終りしあと久々に先生をお訪ねして――大沢忍」、「八月二十一日、Lobectomy only~No.1600――清瀬、吉村輝仁永」。
山庭の花を、
黄蜀葵カンナ檜扇山庭は炎暑の昼を花の饗宴
老の歩みしづかに庭におりたちぬ夕顔の花さきたりといふに
しづかなる色を親しむ咲きて年の半ならむとするつくばねうつぎ
終の、つくばねうつぎは志賀直哉君が東京に移られる前日ふりはえ携えおくられたもの、盛り長くしずかな花である。
十月 短冊凌寒帖が成った。表の三十六葉は在満、真淵、士清等短冊の少い人々、チェンバレンは日本文字で、ケーベル、タゴール、バチェラー氏は各国語でかかれたもの。裏の三十六葉は佐々木高頼臣{二三三頁参照}、亡き姉の幼時の歌、父の辞世、父の十年祭の時の直文君、子規君等のをあつめたもの、中にはいわゆる天下一品というものがある。《注:二三三頁は昭和10年4月》
折々の歌、
道添ひの夾竹桃の花みあげゐしか口笛ふきつつ馳せ去る童
世を思ひ国を憂ふる老い心しみじみと対(むか)ふ秋の灯火
山腹をむざんにさきて分譲地つくるなりとふ昼の日寒し
十一月 古筆凌寒帖が成った。愛蔵せる古筆切及び古文書から特に選んで、精細な解説を添えたもの。日本書紀神代巻は、最も古い写本の切、自氏文集巻二十七は、平安朝の優美な筆蹟、御堂関白記は、宇治関白頼通の書、万葉集巻四目録、類聚古集抄は、従来未知のもの、天寿国繍帳銘文、蚕養祭文は学問上珍しいもの、亀山天皇宸翰は歴史上貴いもの等である。
川奈美智子さんが、随筆「こんな日こんな時」を印行された。序文に「誠実な眼で、本質的なものを直視し、表現しようとする努力に感じる。その聡明な表現が、爽涼として読む者の心をうつ」と述べた。川奈夫人は、歌の愛好者なる吉田勲生君を伴い来られた。吉田君は、北海道の栗林家に親しく、当主友二君の亡き母君への孝養の志をわが会に寄せられた。{二六四頁参照}《注:二六四頁は昭和14年10月》
蘇峰徳富先生の永眠は痛嘆に堪えない。自分は若くして「将来之日本」を愛読し、また国民之友に寄稿もし、国民新聞の和歌の選にたずさわったこともある。亡き妻雪子が、先生の姻戚に当るので、大森の山王草堂にも逗子の老竜庵にも、屡々おたずねした。竹柏会大会には度々講演を請うた。先生は国民之友時代に歌を示されたこともあったが、何十年を経て終戦後の憂憤の情を歌に託され、その歌稿中より百首を選んで、「残夢百首」一巻を出版された。後世、昭和時代の和歌の選集を公けにする人があらば百首の中の数首を選出することとおもう。此の一事のみが、いとせめて先生に報いまつったことである。
尊きかも永き一生(ひとよ)を生(いき)のきはみ筆とりましき国民のために
迎へまして現(うつし)し世のさま聞きいまさむ新島先生一敬先生
十二月 海南下村博士が遠逝せられた。文子夫人がさきに門に入られ、つづいて数十年を同人であった君の遠逝は嘆かわしい。
高砂の島に残れるいさをしと共にたたへむガランピーの歌
ブラジルに移住二十五年、今春しばらく日本に帰られた田中麻三美君が、「ぶらじるに於ける家庭短歌会」を出版された。日本人植民地(コロニア)の第一世の一人として、希望と苦悩の交りあう時代を生き貫かれ、よき家庭をなしてこの一冊が生れたのである。
宗教の道と歌の道の融合なる歌集「道」をさきに著わされた石井千明君は、長野県小県郡青木村の旧家の出身であるが、故郷にあられる父母君のために家屋を新築され、祝賀の日に帰郷された。孝心に感じておくった歌、
喜の父母(かぞいろ)いよよ安らにとよき家つくるわが千明君
天つ神よみしたまはむかぞいろのためにとつくす孝子の心
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