昭和三十三年 八十七歳

二月 石川不二子さんの歌集「円型花壇」は、短歌二月号に綴込歌集として収められた。
三月 静岡市の故青島藤次郎君の顕彰碑雛塚が、狐が崎遊園地に建った。
四月 野村望東尼全集が、安川、松本、麻生、貝島氏の厚意によって、世に出ることになった。明治三十六年に大阪の鶴原家で、向陵集を初めて見てより四十六年、志したことがここに成ったのは、喜びに堪えない。全集の終に、
   やまと女(をみな)いにしへ今の百人(ももたり)のなかの一人と君をたたへむ
   よき書巻(ふみまき)世に伝へむと校正の筆はとりき老の眼のしぶる忘れ
の二首を掲げた。望東尼は維新前の愛国の女丈夫であり、女歌人であり、文章家である。姫島の牢獄に流されてかいた姫島日記や多くの消息は、涙なくては読みがたい。女流の日記の作者としては、平安朝に蜻蛉日記があり、明治に樋口一葉があるが、その二人に肩を双ぶる作家である。人物としては、わが国上代以来現代までの百人の女性を選ぶならば、その中に入るべき一人とおもう。安川氏等から日本及び世界の大学図書館に寄贈せられたから、望東尼の真価は発揮せられる事であろう。
ブラジルから三十年ぶりで東北に帰国中の岩間春野さんは、祖父君新渡戸翁の開拓百年記念祭に銅像が建設せられたと喜びの便りがあった。岩間さんは稲造博士の姪で、来訪のおり、故博士の歌の短冊を示した事であった。
さきに、韓国婦人の和歌集の第一なる「戸妍歌集」を著した孫戸妍さんは、韓国の国花の名に因んだ第二歌集「無窮花(むくげ)」を刊行された。君は幸運にも、よき夫君李允摸氏にとつがれ、三人の子女の母となられたとのことであるが、その夫君が近く米国の各地方を巡られた帰途、日本に立ち寄り、凌寒荘をおとなわれた。日本語が実に流暢であるに驚いた。
   韓山(からやま)をおほふ狭霧はれて無窮花無窮花歌巻つづき花さけとこそ
七月 外孫河野哲郎君が、東大農学部を卒業。研究室に助手たること十有一年、この月農学博士の学位を授けられ、かつ米国のジョン・ホプキンス大学の研究所へ行く事になった。好くゆき好く究め好く帰ってくる日が待望される。
八月 藤田佐恵子さんが嫁いだ名大の吉原邦夫君が実験物理の学位を、九月、藤田純一君が理論物理の学位を、十月、佐々木秀綱君が良縁を得、十一月、古橋洋三君が欧米漫遊に赴き、十二月、小島琢磨君がピアニスト内田準子さんを娶った。
よいことがつづくと喜んでおったのに、好事魔多しで、数カ月を慶大病院に療養中の久松三枝子が十二月に世を去った。夫君は学問に進まれ、三人の男の子はそれぞれ家を成し、孫たちもできたに、まことにいたましい。
   幸ゆたに一生(よ)過ぎ来つ後の代も清くやすらに眠りてあらむ
今年九月は鹿持雅澄翁の百年祭にあたるとて、高知市では種々の行事があった中に、旧宅の跡に予のささげた歌三首の歌碑が建った。
   南の海この里にして万葉(よろづは)の道の八十隈ひらきましつる
   かしこきや明治の帝きこしめでて桜木にしも匂はしましき
   百(もゝ)年の今日をしのびて五百(いほ)年の千年の後の人も仰がむ
十一月には東京でも百年祭が催されたので、文詞を東京新聞に寄せた。
大和上市の阪本千代子ぬしが、亡き夫君愛蔵の古鈔本・古版本等、珍しい古書を収むる阪本文庫を邸内に建て、文庫の横に、先代仙次翁、夫君猷君の頌徳碑を建てられたが、その碑文は自分が撰した。
石榑千亦君の歌碑が、塩川、萩倉、勝田、安藤氏らの発起により、御殿場市駿河展望台に建った。歌碑の歌に曰く「よろづの物皆ひそまりて大地(おほつち)は一つの富士となりにけるかも」。千亦君は永久に富士を眺めつつ打ち笑んでおられることとおもう。
十二月 今年は大伴家持が因幡守に赴任して一千百年に当る。鳥取市では、国府の跡、いま県立図書館のある地に歌碑を建てたいと、図書館長山本嘉将君のねもころな依嘱があったので、「讃大伴宿禰家持歌」として、
   ふる雪の弥重(いやし)け吉事(よごと)ここにしてうたひあげけむことほぎの歌
の作を書いておくった。
夏以来、膝の関節炎を病んでいたみ甚しく、なお全く癒えない。去年は、
   夕べ近きアスファルト道おさふる如ふみしめ歩む長き杖つき
   猶我になさまくほしき事あるを老の煩悩と人笑ふらむか
   鉢の檉柳(ぎよりう)古(ふ)りたる幹のしだり枝(え)の細花(こまばな)、老の夢にかも似て
など詠んでいたが、近くはあまりにも苦しく、
   万葉のうた人の中にわが好める憶良の臣のくるしみを今
   かつては文の詞とのみ読みき「病(やまひ)に沈みて自ら哀(かな)しみし文」
   われはた「曽て作悪の心無」きを「鈞石をしも負へるが如し」
   今われ病み足のいたみうづき堪へがたみ自ら嘆く「あはれなるかなや」
   我に何の過ちありて此のいたみ此の苦しみにあふべきものか
   泣きていたみとどまるべくは幼びて声の限を泣きたつべきに
   心、千里(ちさと)の空はかけれど家のうちの一歩みだに歩み得なくに
   豪雨いたる台風いたる我やはた膝の痛みのすべなきものを
   ダツラ、カンナ、つくばねうつぎ山庭の花花はいたはる老の痛みを
と嘆きもした。

    昭和三十四年 八十八歳

一月 正月の歌舞伎座で「慶祝名歌寿(めいかのことぶき)」という一幕の中に歌をと頼まれたのでおくった。
   妃(みめ)の君むかへます年と天の原ほがらほがらに初日はのぼる
二月 岩波文庫本の新古今和歌集の新訂本が出来た。穂久邇文庫の伝為氏筆古鈔本を底本とすべく、久曽神昇、原田敏雄二君に嘱し、甘露寺親長本その他と校合したもの。この数年に、前版を改版した新訓万葉集、梁塵秘抄、山家集、及びこの書の四種の新訂本が出来たことは喜ばしい。
福原俊丸君は有名な福原越後の孫、夙く政界に入り、後、仏学をおさめ、歌道に親しまれること多年、大正八年の第一歌集をはじめ、廿七年には「有田憂田」をものされたに、遠逝はまことに嘆かわしい。
久我貞三郎君は太郎君の父君、「東南アジアの旅」を著わされたが、第二の集を出されずして永眠、深く惜しまれる。
三月 津田塾大学及び東京女子大学のフルブライト招聘教授であり詩人であるイタリア人タリアブェ君と、米人なるその夫人との夫妻の来訪をうけた(若い通訳と共に)。詩人らしい話しぶりに時の過ぐるのを忘れた。土産(つと)にともて来られた“Botticelli”には、目さめる画の数々があった。翌日、詩六篇と書状が来た。近所の工藤夫人に来てもらい、訳を聞くと、京都の禅寺の感想及び茶の点前等について歌われたもの。帰途ゆかれた錦が浦の海岸は、イタリ一に似ておるとの書状、やがて熱海の詩もその詩嚢(うたぶくろ)の中に入ることであろう。
銭稲孫君の漢訳万葉集選は出版がおくれていたに、新村博士を経て、吉川幸次郎博士の斡旋により、近く出版せられることは喜ばしい。自分はかねて、万葉集は世界のたからであるから、世界各国の語に訳したい。東洋は中国、朝鮮、印度、西洋は、英、仏、独、露、和蘭、西班牙、葡萄牙等の語に訳して一つのシリーズにしたいという夢をいだいておった。しかしてその夢を還暦祝賀会の折に述べた。然るに英訳万葉集は学術振興会の事業となり、数人の委員の努力によって抄訳が刊行された。その前後、自分が銭稲孫君とツァヘルト君とを知るようになり、それぞれに会の援助をうけて漢訳も独訳も大半出来た折から、あわただしい時代の風雲に帰国された。しかし共に自国において完成されたのであった。他に、露国のはモスクワのアンナ・グルスキナさんが、三十余年日本に留学し{一七四頁参照}、現在かの国における日本学の第一人者としてさきに「日本詩歌」二冊をも出版されたので、やがて出るであろう。他にフランスのはパリの国際短歌の会のグランジャン夫人に依嘱してある。スペイン語には永田寛定君が訳されるであろう。他の国々のも、と消えせぬ夢をいだいておる。《注:一七四頁は昭和3年3月》
藤島都さんが日本女子大学英文科を卒業、川村女学院の教諭となり、佐々木幸綱君が早稲田大学文学部に入学した。ともに喜ばしい。
加藤光治君が見事なカーネーションを携えて来訪、洋蘭などの話をしていた処に、川奈美智子さんが来られて薔薇の話、たまたま近隣の松崎さんから、七年前に苗木を贈られたアメリカ椿のエリザベスとシルクシャットが咲いたとて紅の八重の大輪を一花ずつ水に浮べておくられた。折から、オカモトヤから「三花集」が届いた。帙入のうるわしい小冊子三冊、それは東菊枝さんの薔薇、神崎漣子さんのダリア、迫水万亀子さんの萩である。心の華叢書数百部の中に最も小型の集{縦一〇・八糎横七・七糎}である。
   花・花・花、花ものがたりわくらばにべットのもとは花の香に充つ
四月十日は、皇太子殿下と正田美智子嬢と御成婚のめでたい日、一天清朗、竹苑の小鳥も千代八千代をほぎまつるであろうよき日である。宮内庁より御祝宴に御召を蒙った。かつて御成年式の荘厳なる御式に、また、海外より御帰朝、青山御所における園遊会にも御召を蒙って参列したに、この度は、去年以来の足のいたみで御辞退したので、午前十時、東京の空を仰いで心の内に万々歳を唱えたことである。
この日の自分の奉祝歌を、宮城衛君が作曲、文化放送から放送された。
正田美智子嬢の祖母君きぬ刀自は篤信のかたで、歌にも多年精進し、さきに夫君の恩恵によってという歌集松蔭集を著され、ついで、夫君の米寿記念に松蔭集第二を出された。こたびの御慶事については、つつましやかな喜びの歌が歌稿の数をましたことであった。
さきに、その歌集に対して読売文学賞を得られた五島美代子さんが、今年の宮中歌御会始の選者の一人によさされ、近くは正田嬢の御歌をお導きされた。道の為に、歩一歩進み、かつ尽くされることを喜ばしく思う。
五月 藤田秋治博士が、「ビタミンB1に関する研究」により、日本学士院賞を受けられた。また、長男の純一君は、米国のスタンフォード大学のリサーチ・アソシエートとして六月末渡米すべく、ピアニストなる夫人の美南子さんも、程近いサンフランシスコの音楽大学で更に研究するため同行するとのこと、まことに喜ばしい。


今年は数え年の米寿を迎えたので、社友相はかって六月七日の日曜に祝賀会をとのこと、諸君の厚意にむくいるべく、この「作歌八十二年」をものしたのである。それは、ベッドの上に机をおき、鉛筆にての走りがきを書き写させたのであるから、かくべきをかき洩らしたのもあろう。年月不明のため洩らしたのもある。心の花叢書のは、心の花七百号の終に掲げたのに多くはゆずった。同人諸君の動静も、或はしるし、或はしるさなかったのもあろう。ここに寛恕を請う次第である。