序
明治のよき時代に生れて、幸に今年数へ年九十の齢を迎へた自分は、多くのよき人々を知る好機会に恵まれた。自分は、世にいはゆる交際家といふのではないと自ら思うてをるが、父につづいて夙く斯の道を導いてゐた為に、よき人にあふことができもした。東大古典科に四年を学んで、あひがたき師友にあひ、和歌革新の時機に、得がたき先輩友人を得た。また明治三十八年より昭和六年まで、東大の講師たること二十有六年、その間に、多くの学者と法文科の控室や、山上集会所で語りあつた。昭和九年、学士院会員となつて以来、毎月出席して多くの会員と親しく語つた。同十二年、芸術院会員となり、会ごとに出席した。また、小説、詩歌、絵画、音楽など、芸術界の人々とも往来した。
かつてある茶人は、「よき銅鑼のよき音を出すも、たたきざまによる」といつた。よき人に逢ひ、よき言を聴きつつも、わが聞きざまのいたらなかつた憾がないではない。心の窓に残つてゐる影は、窓の狭いために、影が小さくもあらう。しかし、その世その人の面影は、かりそめに取りかはされた言葉のはしなどにも顕はれることがあらうと思ふ。ここに老齢の禿筆を馳つて、その世を語りその人を語ることは、単にわが回顧の趣味のみではない。今の若い人々にも、何らかの資にならうことを切に願ふが故である。
この書の中には、故人に対して知らず識らず礼を失してゐることもあらう。また、自らをゑがくことのみになつた場合もあらう。春秋の時節や相語つた場所など、記憶のまちがひも多少あるかも知れぬ。言葉づかひもその人の言葉そのままではない。けれども、自分の心に残つてをる影、自分の目に見、耳にしたことをありのままにしるしたのである。いつ、いづれのところで、再び故人に相遇ふをりがあらうとも、そんなことは言はなかつたといはれ、面を赤めることは無いと信ずる。
父の在りし明治二十年代以来、竹柏会に入会された同人の数は多い。故人であつて、ここに書き洩らした人々も尠くない。寛恕を請ひたい。
昭和三十六年一月 佐佐木信綱
吾が師
吾が師としては、東大古典科の諸先生の外に、幼時から庭訓を受けた先人があるが、父のことは終りにしるすこととし、古典科の先生は次に述べるので、ここには、四人の先生に就いて、まづしるすこととする。
高崎正風
明治十五年三月、十一歳の幼童なる自分は、父に伴はれて伊勢から東京の花見に上京し、間もなく高崎正風(まさかぜ)先生の邸を、父に随つておたづねした。それは麹町区永田町二丁目の奥まつたところ、大きな黒門を入ると、右に門長屋(もんながや)があり、左に馬車まはしの植込のある洋館であつた。
薩摩人らしいがつしりした体格、大久保公の写真のやうな頬ひげ、しかし目もとはやさしく、やさしみのこもつたお声であつた。
東京に永住することになつて後、父は先生に、手もとでは歌の教育が十分に出来ませぬからと、信綱の入門を切願した。先生は、「やんごとない御用をお勤めしてをるので、門人はとらぬ」とお断りになつた。父は、どうかしてお願ひしたいと、「どなたをもおとりになりませぬか」とお尋ねしたに、「例外が二人ある。一人は小池道子で、有栖川宮(ありすがはのみや)からのお詞、今一人は香川景敏(かがはかげとし)である。維新前京都にのぼつて国事に奔走してゐた際、かねて八田知紀(はつたとものり)翁に就いて歌を学んでゐたので、翁の師なる香川景樹の子景恒(かげつね)を時々訪うて、歌の話を聴いた。数年前京都に赴いた時、香川家がいたく零落してゐるといふ話を聞いて、名家の後の衰へたのがいたはしく、未亡人と二人の子とを束京へ伴ひ来り、二男は、山階宮家(やましなのみやけ)に勤仕させ、長男の景敏とその母とをあの門長屋に住まはせ、景敏に歌を教へてをる。景樹・景恒二代の血を引いて若いながら歌のたちがよいので、やがて御歌所へ出させようと考へてをる。ただ身体(からだ)の弱いのが心配である」とやうのお話があつたといふ。父は、「それならば、景敏さんをお教へになる時に御一緒(ごいつしよ)にお願ひしたい」と切(せち)に願つたところ、「そのやうに頼むのならば、暫くでも教へよう。景敏のを見るのは、これこれの日の午後であるから、その時に間違ヘずにくるやうに」とのお許しが出たとのこと、自分は天へものぼる喜びであつた。毎週一度、当時の小川町の住居から、先生の邸に通うた。景敏さんの詠草を御覧になつてから、自分のを直してくださる。そのあとで種々のお話を承る。いつも洋間の御書斎であつたが、時として、お庭の弓場で弓をおひきになる間、お待ちしてをつて、そこで直していただいたこともあつた。切通の広い通が中間にあるが、もとは日枝(ひえ)神社と地つづきであつたとおぼしい広い庭園の一隅(いちぐう)で、晩春(ばんしゆん)にはそのあたりに躑躅(つつじ)がうつくしく咲いてをつた。
先生のお教はきびしくはあつたが、懇ろに導いて下さつた。幼いながら、この尊い先生の教をうけてをるのであるからと、緊張して承つてゐたので、お教の詞は今も胸に深く残つてゐる。
「人間は至誠(まこと)を第一とする。至誠は尊い、至誠があつてはじめて人間なのである。至誠即ちまごころから歌は生れる。それで歌は尊いのである」と。
またある時、「歌は真心をのべるものであつて、真心が歌の根本である。それゆゑに、真心を詠んだ歌は永久に命がある。万葉集の中に、『今年ゆく新嶋守(にひさきもり)が麻ごろも肩の紕(まよひ)は誰かとり見む』といふ防人(さきもり)の母の詠んだ歌、『ひむかしの滝の御門(みかど)にさもらへど昨日も今日も召すこともなし』といふ舎人(とねり)の詠んだ歌がある。一は関東の野人の母、一は地位の低い属官の歌であるが、共に真心をうたつたものであるから、千年前の古い歌でも、千年後の今日に新しい感動を与へる」と。さうして、清く美しい声で、この二首の歌をおうたひになつた。そのお声は、今も耳の底に残つてをる。
先生のお教をうけたのは、一年とすこしであつた。それは、東大の古典科の第二回生の募集があるときまつたので、能ふべくは入学したいと思つたゆゑであつた。
古典科卒業の後、御歌所へ入るやうにおすすめを忝うしたが、御辞退を申上げたところ、度量の大きい先生は、「道の上で考のかはつてゆくのは当然である。根本(こんぽん)の至誠(まこと)さへかはらねばよい、信綱は信綱の道をゆくのがよい」と笑つてゐてくださつた。その後も盆と歳暮(くれ)にはお玄関まで伺つた。明治二十五年の六月、父の一年祭の歌会の前に、「懐旧」といふ詠草をもつてあがつて、この度のは特に御覧を願ひたいと申上げたに、二首のうち、前の方がよい。此のばらは咲いたのかとのお問に、門人の竹屋雅子(まさこ)さんから見舞にもらひました鉢のが咲きましたので、とお答へすると、「しかし、よくないところがあるが、わからぬか」、「わかりませぬ」と答へると、「臥しながら去年(こぞ)は見ましし花うばら今年も咲きぬ折りて手向けむ――この二句は、見ましし去年の、とすべきである。歌には、語句の親和といふことが大切である」とのお教をうけた。
附記 十数年の後、坂(ばん)正臣君が訪問されて、「高崎所長が、御歌所も段々よくしたいと思ふから、佐々木も入つてはとのお話を伝へに来た。お返事は直接申上られたい、いま葉山においでであるから」とのこと。翌日、葉山なる恩波閣に伺つた。通りの左側で、坂の上のこだかいところ、かつて皇太子のお成があつたので恩波閣とおつけになつたとのこと。立派なお座敷でお目にかかつたが、そのころ先生は耳がややとほくおなりとの事を聞いてをつたので、まづ、お断り申上げることをはつきり申上げた方がよいと、やや大きな声で、先年と申し、また此の度、二度の恩命は実に有がたう存じますが、御辞退にあがりましたと申上げた。先生は暫くだまつておいでになつたが、歌についての自分の考をいはうと、仰しやつて縷々とお話しになつた。自分は、涙がほろほろと膝にこぼれるのをぬぐひもせずお聴きしてをつた。さうして自分は「道の上では頑固な私をどうかお叱り下さいませ。それについて申上げたいことは、父の師足代弘訓翁は京に上つて三條実万公の御眷顧を蒙つてをられました。さういふ縁故で父は明治十年代に三條実美公に、勅撰集が室町の中期で終つたことはまことに遺憾である。明治の時代にお撰びになつたらば、と書(しよ)を上(たてまつ)つたことがありましたが、年代が長うございますから、新続古今以後、明治以前までをまづお撰びありたい。その実現の時がまゐりましたならば、私はその時にはお手伝を致させていただきたう存じますが」と申上げたところ、先生は、「それは自分もかつて考へて申上げたことがある。然るに何ともお詞がなかつた。後また申上げて、高崎が不適当と思し召さば他にも歌人がをりますからとまで申上げた。しかしお返事はなかつた。恐れ多いことながら、新しいことをお取入れになり、お興(おこ)しもなされるのであるが、一つのことをお創(はじ)めになるには深くお考へ遊ばされるやうであるから」というて先生はだまつておしまひになつた。自分は恐れ入つたことを申し出たと其のままじつとしてをると、小間使が夕けの膳をはこんで来た。「酒はのむか、今日は海の風が寒い。一つのめ」とのお詞、真に恐縮していただき、日が暮れてお暇した。外の通りに出ると、海の上に月がきらめいてをり、風が吹いてゐるやうであったが、夢心地で、幸に通つてゆく自動車(くるま)をひろつて、逗子の停車場に帰つたことであつた。
石原信明
古典科に入学したいと決心して、国学は幼くから父の教を受けてをつたが、漢学は石原信明(のぶあき)先生の門を敲いた。それは、先生が晩年歌を嗜まれて、父に学んでをられた縁故からであつた。上州小幡(をばた)の旧藩士で、神田今川小路の安中家(あんなかけ)の邸内に住んでをられた。もの柔らかではあつたが、しつかりしたかたであつた。はじめ文選(もんぜん)を、後に唐宋八家文の教を請うた。毎週四回、きまつた時間の講義と質問が済むと、国学を専修するのであるからと、古今集の真名序(まなじよ)、令義解(りやうのぎげ)の序、万葉の中なる漢文などを、次々に教へていただいた。それは、「此の次には何の書(ほん)を持つてくるやうに」といはれて、家の本を持つていつたのであつた。先生は、「歌人になるにしても詩も作るとよい。唐詩の類を読むがよい」といはれて、詩の講義をもせられ、自分が幼稚な詩を作つて持参すると、懇篤に朱筆を加へられた。ある時、「秋日過古戦場」といふ題を与へられたので作つていつた、「秋風蕭瑟草芊芊、懐昔戦場南北天、古木鳥啼人不見、碑文苔滑已千年」を、起承は少し加筆して下さつて、転句の「古木鳥啼人不見」といふ句を、褒めていただいて喜ばしく思つた記憶がある。先生のお蔭で、その後も長い旅行の時などに、偶々(たまたま)韻字の本を携へゆいて、作り試みたこともあり、また漢詩の深い味はひをさとることが出来た。
追記一 数十年の後、那智に遊んだ時、夜に入つて西行上人のことを偲び、「月色水光倶皓皓、巌頭半夜一人僧」の句を得たが、起承が成りがたく、翌々日、白浜に宿つた夜、夜ふくるまで推敲して、
月の色と水の光と倶に皓皓(しろ)し巌頭半夜一人の僧
緇衣(しえ)の袖に夜(よる)の山の気かそかなり月たかく白く滝白く高く
音、光、心、相照り月と人と滝とただにある夜(よる)の深(み)山に
の三首の連作としたことであつた。
追記二 近年、池上の田原紅梅刀自が入門せられた。刀自は石原先生の孫君であられるので、そのかみを語りあうたことであつた。
イーストレーキ
イーストレーキ先生には、磯部氏の国民英学会で教を受けた。それより前、自分は、英語をも学びたい、古典科を卒業した後は更に高等学校に入学したいといふ希望を持つてゐた。(六度の近視で眼科医からとめられ、父が大病後いたく衰へもしたので、遺憾ながらその希望は中止したが。)初め錦町の東京英語学校の夜学に通つてをつたが、イーストレーキ先生の教を受けてからは、進歩が早かつた。先生の教導は実にたくみであつて、例へば富士山の高さとか、利根川の長さとかを、西洋の歴史の年代などに結びつけて話されなどした。先生は日本語があまりに達者なので、指ざされた生徒の答が遅いと、すぐ日本語で話されてしまふ。「わかりよすぎるので」と、生徒は語り合つてをつたところ、母堂マダム・イーストレーキが米国から来られて教へられたに、日本語が全くわからないので、今度は「わからなすぎて」とこぼした。先生は冬になると、教場が寒いので、暖かさうな猟虎(らつこ)のチョッキを着て、にこやかに教へられた面影が忘れがたい。
数年の後(明治二十八年十二月)、米国の雑誌に、「日本の歌及び歌の会」についての一篇の文を書いて送るからとのことで、小川町のわが家の歌会に来られた。人々が当座題を案じてをる長い間をられ、兼題(けんだい)の披講や、それが終つてからの合評をも聞いてゆかれた。その翌日、使で、百分も同じ題で昨夜一篇の詩を作つたから、とて贈られた。後年、印行した「竹柏華葉」の中にそれを掲げて、長く先生をしのぶよすがとしたことである。
その詩は三節であるが、初めの一節の訳を掲げる。
冬の月
借りぎぬの光もて冬ざれの月
凍みわたる青き空をわたる
その照らす光も忽ち褪せぬべし――
盈つるはやがて消ゆるためのみ
附記 以下にも掲げる英詩は、多くは藤島昌平君に訳をわづらはした。
チェンバレン
王堂チェンバレン先生は、深く日本を愛され、広く日本を世界に紹介された。先生は明治六年五月に二十三歳にしてわが国に来られたのであるが、当時の日本は、新しい文化を設立するために、古いものを破壊しようとした時代であつた。東京の不忍池をうめて桑畑とすべく、京都の金閣寺の老樹を伐つて実用に供すべく、奈良の興福寺の塔を払ひ下げ、それを焼いて金具をとらうと企てたり、熱田神宮に納められてある経文を焼いて金泥の金をとらうとしたりした。また、かの百人一首の歌にある高師の浜の松をも伐つてしまふとの議があつたりした。(それは大久保利通公がとめられた為、松の生命がのびたのであつた。)
さういふ時代に、先生は、一般の日本人が殆ど顧みなかつた萬葉集の歌、謡曲・狂言等を訳して、「日本上代の詩歌」を明治十三年に出版され、日本にはかやうな立派な文学があるといふことを世界に紹介された。同十六年刊行の英訳古事記は、その訳のすぐれてゐるのみならず、総論は、日本上代史のすぐれた評論であり、かつ、国学の復興に大いなる刺戟を与へたのであつた。
東大における先生の講義は、新しい国語学・国文学の建設に大きな礎石を据ゑられた。またアイヌ語及び琉球語の研究には、不朽の足跡を留められた。
その、すぐれた文章と、精細な調査によつて、日本の自然・事物・言語等を、世界に紹介せられた「日本旅行案内」・「日本事情」・「文字のしるべ」・「日本俗語文典」等がある。かかる日本紹介の著述の影響として、かのラフカディオ・ハーンを、小泉八雲としたというてもよい。それは、八雲が日本へ来るやうになつた原因の一つは、先生の著書を読んだことによるので、八雲は横浜に着くすぐ先生を訪問し、先生の斡旋によつて松江に赴任し、後、先生と外山正一博士の推輓によつて、東大に講じたのである。《注:チェンバレン「ラフカディオ・ハーン」(「心の花」第十五巻一号)参照。》
わが生涯の恩人であるチェンバレン先生は、前記のイーストレーキ先生のやうに直接講壇から教を受けたのではないが、自分の学問への影響は大きかつた。
先生は殆ど四十年に近く日本に在られたが、明治四十四年三月、宿痾のため、瑞西ゼネバの湖畔に移るべく帰欧せられ、かの地にても著作につとめてをられたが、昭和十年二月十五日、享年八十五歳四ケ月にして世を去られた。
国際文化振興会は、三月九日、先生を追悼せむため記念会を開催して、広田外相、クライブ英国大使、長与東大総長の追悼の辞、三上・市河・新村・金田一博士、及び予の講演があつた。予は当日配附すべき先生の伝記一冊を記し、当日の展覧会の為に、先生の遺著遺品等の蒐集に努力した。
歳月は過ぎて、昭和二十三年二月、先生歿後十二年の忌辰に供ふべく、諸家の賛助を得て、「王堂チェンバレン先生」一冊を編纂し、十二月に印行した。
その書は自分の報恩と自誡の料にと心してものしたのであるが、掲げ洩らした数点をここに記すこととする。
明治九年頃の宮中の歌御会始に、先生の詠進された歌が、当時の新聞に報ぜられてゐた。明治十年十二月、根岸千引編の「新撰名家歌集」には「英国人王堂(わうだう)」として先生の歌三首が載つてをる。しかして、わが父が明治十三年七月に伊勢で編纂した「明治開化和歌集」には、その中の一首が「英国 王堂」として載せてある。また、東季彦博士の談によるに、明治十八年九月十日の羅馬字雑誌に、箱根に滞在中の先生が、ある日曇つて富士が眺められなかつたをり、友に寄せられた、「心あらばよそに宿かれ天つ雲我も見まほしき富士の雪の嶺(ね)」といふ歌が掲げてあるといふ。
先生の帰欧されることがきまつたので、横浜のホテルに訪ひ、「以前お詠みになつたうちの一首を」と短冊に揮毫を請うた。大抵のことは快くきかれた先生であるが、「拙い文字を遺すのは」と肯ぜられず、英詩の一節を書かれた。後に橘純一君から、先生の短冊を贈られ、「九如帖」に掲げた。「百年も千東世も絶寿かぐはしき花橘に鳴けほととぎす 王堂」。これは、橘守部の著書の未刊本を見るために訪はれた橘東世子(とせこ)刀自の年賀に贈られたもので、「ちとせ」を「千東世」、「たえず」を「絶寿」と書き、刀自の姓を「花橘」と詠みこまれた技巧には、先生の、日本古典に対する深い造詣も知られる。
先生よりさきに日本に来たアストン、サトーの二氏また、日本を世界に紹介された。そのアストンの和書の蔵書印は「英国 阿須頓蔵書」とあつて、印判師の彫つたものであるが、サトーのは「英国 薩道蔵書」とあつて、文字もよい。先生のは、これも典雅な書風で、「英 王堂蔵書」とある。先生の名のバジル・ホールを、王堂と訳されたので、英(はなぶさ) 王堂とも読まれる、気もちのよい印影である。しかして洋書には、石版で印刷した蔵書票がはつてあるが、それには、ラテン語の「希望と信仰」といふ文字が小さくかかれ、下に姓名がしるされてある。自分は、先生から生形見にとて、一六〇〇年刊行のコイヤードの文典を贈られた。それには蔵書票ははつて無かつたが、先生の多年やどられた箱根富士屋ホテルの女(むすめ)、メイトランド孝子夫人から、テニソンの小型の詩集を自分に贈られた。それは先生の親友のメーソン氏から先生に贈るといふ名刺がはつてあり、更に先生が「孝子さんに贈る」と書かれた記念の本で、蔵書票がはつてあるから、桐の小箱をつくつて入れ、愛蔵してをる。
なほ、先生が短冊に書かれた英詩は、ロバート・サウジイの作である。
学者
私の明暮(あけくれ)は古人の間に過ぎてゆく。
私は私の身辺に見る、
ふと眼をあげると至るところに
古への偉いなる魂を。
かかる魂こそ私の渝(かは)ることなき伴侶で
来(く)る日も来る日も私はかかる魂と語り合ふ。
サウジイ
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