古典科の師友
明治十四年頃、時の大学総理加藤弘之先生は、明治の文化が外来文化の善きを能く採り入れて美はしい花と咲いたのはよいが、我が国固有の学問を棄ててしまひ忘れてしまつてはよくない、国学者の中には老境に近づいてゐる人が多い。後継者を養成しておかねば、国学の種子(たね)がなくなつてしまふとの考から、小中村清矩(こなかむらきよのり)博士に謀られ、文部大臣に幾度も上申して、明治十五年に、文学部に古典科国書課を開設され、翌十六年には島田重礼(ちようれい)博士と謀つて漢書課をおかれ、共に第一期生として三十人づつが入学した。十七年に、国書課・漢書課とも、さらに、三十人づつが第二期生として募集された。自分は幸ひにその第二期に入学することが出来たのであつた。
第二期の先生は、律令(小中村清矩)、万葉集(木村正辞)、日本紀(飯田武郷)、中世文学(本居豊穎・久米幹文)、国史(内藤耻叟・小杉榲邨)、有職故実(松岡明義)、漢学(岡松甕谷)、論理学(坪井久馬三)、等の諸先生であつた。
上述のやうな趣旨で設けられた古典科であるので、諸先生はいづれも吾が学問を後に伝へるといふ考で、熱誠のこもつた講義をされた。自分らはさういふ尊い講義を聴講する幸を得たのであつた。
小中村清矩
当時は、九月が新学期であつたが、その初めての日に、小中村清矩(きよのり)先生が古典科設立の主旨を諄々と述べられたので、胸のひきしまる思ひに謹聴した。先生は令義解を講ぜられた。声は低かつたが、よくとほつて、江戸児らしい、はきはきした講義であつた。
先生は、幕末時代に、江戸に於ける紀州藩の古学館の頭取(とうどり)であられたが、その当時わが父は江戸にをつて親しかつたので、明治十五年に上京して間もなく、湯島切通下(きりどほしした)の先生のお宅に父に伴はれていつた。角(かど)に土蔵があつた。後に、その書庫に許されて入つて、夥しい蔵書を見せていただいた。先生の蔵書には、「陽春廬記(やすむろのき)」の印が押されてあつた。後、不忍池のほとり、横山大観画伯が住まれたあたりの二階家に移られ、ついで西片町の中通りの奥まつたところ、つきあたりに士蔵のある家で世を終へられた。
古典科卒業後にも屡々伺つて教を乞ひ、「歌の栞」その他のいまだしい著書の序文をもお願ひしたに、いつも快諾して下さつた。先生に「歌舞音楽略史」といふ名著があり、(チェンバレン先生が序をかいてをられる)伺つた折々に、歌謡についてのお話をお聞きした。いつも懇篤な物静かなお話ぶりであつた。自分が、専門とした万葉学についで、歌謡の研究に趣味をもつやうになつたのは、先生の学恩である。
先生の夥しい蔵書の大半は、紀州家との古い縁故で、南葵(なんき)文庫に収まつた。自分は、南葵文庫で、戸田茂睡(もすゐ)の隠家百首(かくれがひやくしゆ)をはじめ、陽春廬記の蔵書印のある古書の恩恵をうけた。又かつて調布の女学校に講話を頼まれていつた折、芝野六助君が控室に来られ、「これを御記憶ですか」と、古い文車(ふぐるま)を携へ来て示された。それは小中村先生の座右に置いてあつたもの、後に、芳賀矢一博士が先生の遺族から得られたのを請うたとのこと、借りて模品を造らせ、わが座右に置いて、先生を偲んでをることである。
木村正辞
木村正辞(まさこと)先生は、明治の国学界の諸先生の中でも最も学界に功労の多い碩学であられた。明治の初年に「語彙」の編纂を政府に建議し、師範学校の創設に力を尽くし、「憲法志料」を編し、民法制定の事にも与かられ、且つ大学をはじめ公私の学校に教へて、人才の養成に留意された事など、明治文化の建設に直接貢献せられた。さういふ教育法政等の方面の功労に就いては、他に説く人があらう。ここには、万葉学者としての方面のみを述べる。
仙覚にはじまつた万葉学は、季吟によつて一応完成し、さらに、契沖によつて興つた新しい万葉学は、真淵に発展し、雅澄によつて集大成された。先生は夙く万葉研究に志され、古写本を蒐輯して、その校勘にいそしまれ、慶応年間にすでに、「万葉集書目」のごとき万葉書誌学上の著書を刊行し、万葉の音韻に関する著述も脱稿されたのであるが、明治に入つて、江戸時代の学者の万葉の訓詁を補正せられ、同時に、集中の文字を私案によつて改竄することの非なるを切言せられた。斯くして現今の万葉学の基礎を固められたのである。
かつて先生に、その経歴を承つたことがあつた。先生は、文政十年四月、下総成田に生れられた。父は清宮(せいみや)仁右衛門、母は多古藩の藩医松井氏の女。幼くて母君に漢学を受け、学問に志して江戸に出で、木村家の養子となられた。伊能穎則(いのうひでのり)が佐原の人であるから、初め穎則に就いて学ばれた。当時すでに音韻をきはめてをられたので、その質問をされると、穎則は虚心坦懐の人とて、「自分はさういふ方面に精しくない。幸ひ親しい岡本保孝(やすたか)が、和漢梵の三学に精しいから」というて伴ひゆかれた。保孝は、「自分は自ら学んでをるので、人に教へることはしない、ただし、友人としてならば知る限りの事は伝へよう」というたので、保孝から指導を受けられた。(後、先生の自らしるされた伝記一篇を見るを得て、心の花第十八巻五号に掲げた。その中には、「保孝の門に入り」とある。)
先生は声はやさしかつたが、儀容が正しく、着物の襟は白襟の時が多かつた。晩年には腰がまがられたので、学校などで待たせてある人力車に乗られる時の様子は、おいとしいやうであつたが、それでも講義はつづけられた。
自分が万葉集を一生の研究題目としたことは、全く先生の学恩である。また万葉集の典籍についての知識は、先生から得たのである。それは夏休みの際に、蔵から万葉に関する全部を持ち出され、自由に披見してよいといふ厚遇を与へられた。また、前田家の書物掛なる永山氏及びいま一人と三人のために、蔵から出された万葉関係の書について、先生の説明をお聞きし、これによつて、自分の万葉文献に対する眼は開かれたのである。
幕末時代に、和学講談所から神戸(かうべ)に人をやつて影写せしめた元暦(げんりやく)万葉十四冊は、三珊だけ出版されて、他は影写本のまま先生の蔵弆に帰した。原本の埋もれてをつた当時では、唯一の本であるので、先生は学士院の会員であられたから、学士院よりその複本を出すやう企図してをられた。然るに、明治四十三年の夏、自分が水野家の土蔵から、元暦に校合した原本を発見することを得た。その翌日、入谷に先生を訪うた。万葉学の上に実に喜ばしいことであるが、足は重かつた。あれほど大切にしてをられる影写本も、原本が出ては印行の企も中止されねばならない。しかし、此の学問上の喜びを第一に先生に報告せねばならぬと、発見についての顛末を述べた。然るに、先生の喜びは自分の喜び以上ともいふべきであつた。影写本の価値を失ふといふことについて考へた自分を心ひそかに恥ぢた。
当時の先生からの葉書が残つてゐる。それは、元暦万葉を見るために水野家にゆく日に、自分にいつてほしいとの文面である。当日は書記一人を伴ひゆかれ、所々肝要な所を自らも抜書され、書記にも写さしめられた。先生は晩年、所蔵の和漢の書のうちのすぐれた数部を、宮内省に献上されたが、その中には、山岡浚明書入の万葉集があつた。
また、先生の書斎の床には、常に尊信せられた本居宣長翁の像か、然らずば岡本翁の訓誡の文の幅、応接間といふべき小間の床には、賀茂翁の書翰の小幅がいつも掛けてあつて、他の幅を掛けようとせられなかつた。ささやかな此の一事にも、先生の真摯な性格の一端が伺はれる。
先生は、真に学者らしい学者であられた。先生のごとき学者と世を同じうし、あまつさへ厚き教を受けた自分が、先生に対してなしたことは、「美夫君志(みふぐし)」第二帙刊行の賀会に頒たれた「欟斎(つきのや)後集」の歌を、先生の嘱によつて選んだことのみであつた。
附記 後年、自分が成田に講演に赴いた時、先生の生れられた家はどの辺であるかと、駅に出迎へた人に聞いたに、新勝寺にゆく途中の右側で、此処であると示してくれた。その日の講演の終りに、彼所に、「木村正辞博士生誕之地」といふ石標を建てられたいものであると述べた。静岡市の旧城内には、自分の企てた「戸田茂睡生誕之地」といふ石標が建つてゐるから、先生のをもと希つて、その後、成田の人々に謀つたに、小学校の境内に建てられた。裏面に歌をとのことで、
万葉(よろづは)の繁樹(しげき)が丘に美夫君志(みふぐし)もちよき菜つまししみ業はもとはに
の一首をかいた。また、先生の胸像をさきに上田万年博士から贈られて大切にしてゐたが、その際、成田図書館に次の歌を添へて寄贈した。
ふるさとの読書子の伴(とも)日々日々に来寄るを見つつ嬉しとおぼさむ
飯田武郷
飯田武郷(たけさと)先生は、信州人らしい、いかにも意志の強さうな容貌であつた。日本紀の講義は実に綿密で、万葉の木村先生、日本紀の飯田先生といはれた。先生は講義の際、「どうもその、くしびなことで……」と、よくいはれたので、失礼ながら生徒間で、「どうも先生」、また、「くしび先生」といふあだ名をささげた。かういふことをかきつけておくと、先生からいかにお叱りを蒙ることであらう。
本居豊穎
本居豊穎(とよかひ)先生は、明治十三年、宣長翁の祭典が山室(やまむろ)山であつた時、東京から松阪に来られたので、その折に幼いながらもお目にかかつた。自分が上京した時、下谷御徒町(おかちまち)におたづねし、後に、江戸川端に、晩年、青山に移られてからも伺つた。
鈴屋翁・藤垣内(ふぢがきつ)翁に人々の送つた書状が、二帖にはつてあるのを見ることを許されて、国学史の資料を知ることを得、また鈴屋翁の「自撰歌」が従来公になつてゐなかつたのを、「続日本歌学全書」に採録することを許されたり、亡父の二十年祭の記念に出版した「金鈴遺響(きんれいゐきやう)」に序文を請ひ、且つ、解説のために教を乞うたりした。
先生の源氏物語の講義は、名調子であつた。先生は、夙くは神田神社の社司を兼ねておいでであつたが、祝詞を読まれる声は実にうつくしかつた。
久米幹文
幕末の歌人間宮永好(まみやながよし)同八十子(やそこ)は、夫妻の歌人として知られてをるが、久米幹文(もとぶみ)先生は、たしか甥であられたと聞いた。大鏡を講義された。自分等はその頃出版になつた史籍集覧本を教科書に使つてゐたが、先生は、古写本によつてまづ本文の誤を訂してから講義をされた。ある時、百鬼夜行の條の説明で、先生は.真面目な顔で、「この頃はさういふ事がたしかにあつたので」といはれた。をかしいとは思ひながらも、真面目なので謹聴してゐたことであつたが、今にして思へば、いつの時代にも、形をかへた百鬼夜行、否、昼行があるのである。
小杉榲邨
小杉榲邨(すぎむら)先生は、市ヶ谷見附の近くに、後は、目白台に、また、牛込納戸(なんど)町に住まはれた。卒業後屡々訪問して古筆や古典籍に就いてお聞きした。床の掛物は、その時々にふさはしい懐紙とか色紙とか短冊とか、いつも変つたのが掛けてあつた。先生は筆蹟にすぐれ、はた筆まめであられたので、自ら書写された本が多く、話の半で立つて、「ここにかうある」とひろげて示された。近世名家の書簡を書き写された「浜千鳥」といふ数冊の書の中には、国文学者の伝記資料が多かつた。自分が、故人の伝記を調べるに、特に書簡に注意を払ふやうになつたのは、先生のたまものである。先生は所蔵の書を快く貸して下さつた。自分は何日間といふ日を限つて借用し、その日を守つてお返ししたに、ある時、伴信友(ばんのぶとも)の蔵書印のおしてある本を示された。「若狭(わかさ)酒井家々人伴氏蔵本」と中央にあつて、南側に片仮名字で 「コノフミヲカリテヨムヒトアラムニハヨミハテテトクカヘシタマヘヤ」とある。「君は信友に誉められるであらう」と先生は笑ひながらいはれた。
「類聚証」といふ書は簡単なものではあるが、現存せる歌論の書のまとまつた最古のものである。恩借して「日本歌学史」に紹介したが、それは影写本で古体を存した本であつた。先生の歿後数年、その原本が世に出たのを見るを得て、世にいまさばと偲んだことである。
内藤耻叟
久米先生よりは、内藤耻叟(ちさう)先生の方がずつと水戸人らしかつた。他の先生は洋服が多かつたが、時として和服でも靴をはいて来られたに、先生だけは和服で日和下駄のことが多かつた。近世の国史の講義に、黒板に向つて、関が原の戦の両軍の位置を書かれつつ、うしろ向で音吐朗々と講義をされ、みづから興に入られると、トントンと下駄を踏みならされたことがあつた。記憶がよく、原稿をもたないで、何年何月とはつきりいはれた。実に立派な講義で、後に述べる和田君のかかれたものによると、三上(みかみ)参次博士は、内藤先生の講義を聞いて国史に志を立てられたのであるといふ。
当時、森有礼氏が文部大臣になつて、学制改革を企てられた。英語を国語とすべしといふやうな極端な時代であつたから、古典科の国書課・漢書課などは廃止すべきであると、大学総長に話されたとの事、それを洩れ聞かれた先生は、官邸に大臣を訪問して、国漢文の必要なこと、且つ第一期生は卒業が出来ても、第二期生の学業の中途で廃止するのはよくないと、熱弁を以て、熱心に論ぜられたので、大臣も、それならば第二期生の卒業を待つて古典科を閉ぢてしまふ。かつ五年の卒業を四年で卒業させよとのことになつたといふ。そのことを伝へ聞いた自分ら第二期生一同は、深く感激した。全く先生によつて学業を継続し卒業することが出来たのである。それで第四年目には、諸先生も一層熱心に講ぜられ、生徒もひたすら勉強した為、その一年間は、二年にも三年にも当つたやうに思はれた。
岡松甕谷
岡松甕谷(をうこく)先生からは、「制度通」の漢土の方面の講義を受けた。いかにも漢学者らしいかたであつた。先生の講義のある朝、教室の傍の大きな木に梟(ふくろふ)がとまつてゐたので、いたづらな誰かが捕へて来て、先生の卓子の上に置いておいたに、入つて来られた先生は「ホホオこれはめづらしい」といひつつ、自ら教室の隅におかれて講義をされ、帰る時に、「これは貰つていつてもよからう」と、風呂敷に包んで帰られた。次の週の講義の前、「あの梟はどうなさいました」とある生徒が聞いたところ、「荘子に梟の羹(あつもの)のことが出てゐるから食べ試みてみたがうまくはなかつた」と真面目にいはれたので、みんな驚いた。何十年かの後、或る結婚式の席上で井上匡(きやう)四郎君と隣席した折、ふと思ひ出して此の話をしたに、「父が梟を持つて来たので驚いたことを覚えてゐる」といはれた。
坪井久馬三
坪井久馬三(くまざう)先生からは、論理学の講義をうけた。文学士・理学士として当時の少壮学士であつた先生は、明治十八年から、海外に赴かれる二十年まで、その新著「論理学階梯」を参考書として、文証を古今東西、ことに国漢文を引用しての周到明快な講義は、深い感銘を与へ、いはゆる言挙(ことあげ)すくなき国学の若人等に、強き力を養はしめられた。当時先生は真砂(まさご)町に住まはれ、図書館に返されるのであらう、毎週必ず数冊の洋書を風呂敷包とし、そを重げに携へて教室に入つて来られた。
明治三十八年の秋、自分は和歌史を講ずべく大学の講師を嘱せられたので、学長である先生の弥生(やよひ)町の邸を訪うた。たけ高い黄菊白菊の幾株の咲き薫つてをる庭に面して、先生は、講義といふことに就いて述べられ、話頭一転して、夙く浅草小島町に、黒川真頼博士のもとに通ひ、博士及び佐藤誠実博士の万葉の講義を聴いたことをいはれ、「当時は歌をも詠み試みたが」など語られた。
学士院の晩餐に、たまたま先生の隣の椅子によつた時、論理学講義聴講の昔がたりをしたに、論理学といふことに就いて、詳かに語られた。総会の日、その担当された日蘭交通史料謄写事業に就いて、精細な報告を述べられ、いくばくもなくて世を去られた。「庭の菊ゆびざしつつも奈良の代にわたらざりしを惜しみまししか」と一首を供へたことであつた。
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