次に、第一期卒業生のうち、自分の最も親しく交はつた人々に就いて述べる。

    萩野由之

 古典科国書課の第一期生の先輩として、特に思ひ出の深いのは萩野由之(よしゆき)博士である。「日本文学全書」の編者三人の一人で、いふまでもなく国史の専門家であるが、国文にも和歌にも趣味をもたれ、従つて、「和歌改良論」を明治二十年に発表されもし、晩年には折々の作歌を自分に見せられた。亡父が古典科の第一期に講師であつたので、特に親しくしてくれられた。それで、父の三十年の追悼講演会を、震災前にあつた東大のいはゆる八角講堂で催した時には、上田・芳賀二教授と、古典科の代表として萩野博士に講演を請うた。
 博士は、江戸時代の和漢の学者の筆蹟の蒐集家であり、また鑑識家でもあつたので、東片町の邸に屡々訪なうて鑑定を請うた。ある時の談に、「古人の書の真偽は、種々の観点から考へられる。第一は、直観でおよそはきまる。しかし故人の書いてをられるのを、側で見てゐたわけではないから、断言するのはむつかしい。をかしいいひ方であるが、鑑定を請はれた時、これがもし売品であるならばもとめておきたいと思ふのを真といひ、ほしくないのを偽というてかへす」というてをられた。又ある時、あることに自分がいささか尽くしたといふので、方梅厓(はうばいがい)の横物を贈られた。梅厓は、王陽明時代の詩人、当時大陸へいつた日本人の石原守澄(もりずみ)に与へた詩であるので、愛蔵してをる。(後、京都に、内藤湖南博士を訪うた折に、床に梅厓の軸がかかつてゐた。それも邦人に与へた詩であつたと記憶してをる。)

    関根正直

 関根正直(まさなほ)博士の父君は、関根黙庵(もくあん)である。博士は江戸児とて、能弁でありかつ懇切であつた。大正二年四月、自分が戸田茂睡の逆修(ぎやくしゆ)塔を浅草公園内に建てて、伝法院で法会を行つた時の博士の講話「元禄前後の浅草名物」は、江戸弁の実に愉快な話ぶりであつたので、恐らくは地下の茂睡も、ほほゑんで聞いてをることであらうと思つた。また、加藤千蔭(ちかげ)の後裔の直種(なほたね)の家に、県居(あがたゐ)翁関係のものが多く伝はつてをつた一部を博士が譲りうけられ、それを知人にわかたれもした。自分は、県居翁自筆の門人録一軸を譲られて珍蔵してゐる。はじめ森川町に住まれ、後、小石川駕籠(かご)町に新築して移転された。その新築開きには上田万年博士を初め親しい数人が招かれて、おもしろい昔がたりがいろいろあつた。有職故実の事についてわからぬ時には、森川町によく訪うて質問をしたが、移転後は「さういふ簡単なことは、電話で答へるから」といはれたので、親しい先輩の事とて、よく電話で疑を質(ただ)したのであつた。

    松本愛重

 松本愛重博士は、萩野博士とならんで、国史学の大家であつた。その千駄ヶ谷の邸を一二回たづねた。古典科創立の際の本居豊頴先生の長歌の幅の、実に立派な出来であつたを示された。博士は熊澤蕃山を研究されたので、蕃山(ばんざん)がもと其の姓であつたことを種々語られ、蕃山(しげやま)父子が北小路(きたのこうぢ)俊光にあてた書翰を合装した幅が二つあるからとて、その一つを譲られたので、愛蔵してをる。

    平田盛胤

 平田盛胤(もりたね)氏のもとの姓は、戸沢。古典科在学中、平田家を嗣がれた。氏は神田神社の社司として、葬儀に誄詞(るゐし)をよまれるのを屡々聞いたが、まことに、清い澄んだ声であつた。宮城に近いお堀端に、和気清麿の銅像が建つた時、その側の碑の撰文は自分が委嘱され、書は岡山高蔭(たかかげ)翁の執筆であつたがその除幕式の日、平田氏のおごそかにすがすがしい声での祝詞を聞いたのが最後で、不幸にも地方に疎開中に世を去られた。

    市村瓚次郎

 東大の本科及び古典科の国語漢文の古い卒業の人々から成り立つた無名(むめい)会――上田、芳賀、三上の三博士を中心として年六回、上野の常盤花壇につどうたが、一月二日の新年会には会員の大部分が出席して、交驩を尽くすと共に、年の始の年夜を楽しんだ。市村瓚(さん)次郎博士は茨城県土浦在の出身であるが、新年には必ず帰郷されるので、新年会の定例欠席者といはれてゐた。博士は折々和歌を詠まれて学士院の会議の日、控室で示された。自分が「漢訳万葉集」を企図して、滞日中なる北京の銭稲孫(せんたうそん)氏に其の訳を委嘱し、市村博士及びその信頼せられる二詩人に校閲を嘱した。詩三百篇にならつて、集中の長短歌三百首を抄出した。殆ど完成したやうであつたが、戦時中北京に帰られた銭氏からは其の後、音信も絶え、校閲を快諾された博士も遠逝せられた。万葉学の上ではもとより、補助をされた会に対しても、まことに遺憾に思つてをる。
  附記一 話は市村博士から離れるが、これも自分が企図して、当時松本高等学校の教授であつた独人ツァヘルト氏に担当してもらひ、木村謹治教授に閲を請うてゐた「独訳万葉集」も、未完成のままで氏が帰欧し、木村教授も遠逝された。
  附記二 銭君のは後に完成し、鈴木虎雄博士に校閲を請ひ、出版については、新村出博士を経て京大の吉川幸次郎博士が努力せられ、文部省の補助を得て、昭和三十四年六月に「漢訳万葉集選」として日本学術振興会から出版されたことは喜ばしい。
  附記三 独訳の方も帰国の後完成したとの報を得、かつベルリンで出版せられたSEMMYO(宣命)一冊をもおくられた。万葉の訳もかの地の大学で出版されむ日が待たれる。

    岡田正之

 岡田正之(まさゆき)博士は、温情の学者であつた。無名会ではよく席を隣にして、「懐風藻(くわいふうさう)」や「本朝文粋(ほんてうもんずゐ)」の話を聞き、自分は万葉の話をした。病が重いと聞いて訪うた時にも、床の上に起き直つて、万葉集巻九なる大神大夫の歌のことについて語られ、林泰輔(たいすけ)博士の遺稿の序を病牀で書いたからとて示され、さきに委嘱した「南都秘笈」の一なる「蒙求(もうぎう)」の解題を、快くなつたらば必ず書くからといはれるなど、話は学問の上の事のみで、不治の病をいだいてをられる人のやうでなかつた。
 君が心の花の第四万葉号{第二十四巻七号}に寄せられた「万葉集の書名に就いて」の論文は、万葉学史の上に不朽に伝はるべき一説であり、同三百号記念号{第二十七巻四号}に寄稿された「万葉集時代の気分」も味読すべき文詞である。

 上述の六氏は第一期生で、次に第二期生のうち、自分の同窓として特に思ひ出の深い数氏に就いて述べる。

    井上甲子次郎

 井上甲子(かし)次郎君は、卒業後直ちに仙台の第二高等学校に赴任して、同窓中最も早く世に出た人であつたが、家事の都合で辞任、その後に佐々醍雪(さつさせいせつ)博士が赴かれた。井上君は帰京後、言語取調所の所員となられた。
 君は、自分の恩人の一人である。それは、自分は他の諸君よりも年が若くて、従つて、生意気であった。赤堀又次郎君の文に、自分のことを、「大童子」と人々からいはれたと書いてある。(大童子は、今昔物語に出てをる詞である。)入学の翌年の春、花の盛りのある日、二時間の休講があつたので、井上君らと共に上野にいつた時、池の端は人出が多く、君はずんずん先へ行かれたので、うしろから「井上々々」と自分は声高(こわだか)に呼びかけた。その翌日、君から長文の手紙がとどいた。同窓には黒川真頼(まより)先生の子息真道、大沢清臣(すがおみ)先生の子息小源太、鹿島大宮司の子息則泰(のりやす)君等、学者の子が数人ある。君もその一人であるに、とかく生意気である云々といふのであつた。「井上々々」と呼んだことは当時の書生の間の習はしともいへるが、同期生の一番の年少で、生意気であつたことは誡められた通りであるから、自分はその夜ただちに君を訪うてあやまり、かつ爾来深く自らを省みるやうになつた。
 君は、飯田町の土塀の真向ひに住んでをられたが、二階の書斎には古書が多かつた。君が晩年に、高槻の中学に教へてをられた頃訪問したに、その書斎に、見おぼえのある狂言記が置いてあつたのをなつかしく見たことであつた。《注:「心の花」第八巻八号「家書二則」に訪問の次第が記されている。》
  追記 高碕達之助氏は、なき母堂の供養に悲母親音像を建てられ、その副碑の歌を予に依嘱すとて、来訪された。その時、君は高槻の中学に学ばれ、井上君は恩師であると語られた。

    和田英松

 和田英松(ひでまつ)博士は、初め飯田町の通りに面した家の二階にをられ、後、湯島霊雲寺の境内に移られ、晩年は千駄ヶ谷に住まれたが、いつも訪うて、夜おそくまで語りあつた。君が「梁塵秘抄巻二」を、両国中村楼の古本市で求められて、間もなく自分が訪問したに、「歌謡の書物であるから研究したまへ」と貸してくれられ、希世の書ゆゑ出版したいというた時にも快諾され、論文をも書いてくれられた。初め合編のつもりでゐたが、「君が研究したのだから」といはれた。また九條家で万葉集書写に関する最古の文書を見出だされた時にも、万葉学に関することであるからとて、いちはやくその写真を貸してくれられた。自分の古典籍や古人の筆蹟を愛好するやうになつたのは、父の感化もありはするが、上述の小杉先生、萩野博士、和田博士の影響によるというてよい。

    佐藤球

 佐藤球(たまき)君は埼玉県大里郡相上(あひあげ)の人、附近の冑山(かぶとやま)なる根岸武香(たけか)翁の紹介で亡父の門に入られた時は、須長姓であつた。我が家に暫く寄宿してをられ、古典科入学当時は、君とともに大学に通つた。(当時は御茶の水橋はまだ架かつてをらず、今は無い万世(まんせい)橋か、或は水道橋をわたつて壱岐殿坂をあがり、本郷にいつたのである。)君は「大鏡詳解」を著し、また、和田君と合著で「増鏡詳解」を著して、当時の学界に貢献された。

    菅沼貞風

 震災で湮滅した大学の法文科の建物の楼上の向つて左が、明治二十年頃の図書館であつた。(後に史料編纂所になり、更に教室になつた。)閲覧室が狭かつたので、窓に向つた側にも椅子卓子が据ゑてあつた。自分が図書館にゆくごとに、その窓際の一椅子に漢書課の菅沼貞風(ていふう)君を見ぬことは無かつた。君の不朽の名著「日本商業史」は、おそらく当時から執筆しつづけてをられたのであらう。君は肥前平戸(ひらど)の人、卒業の翌年明治二十二年四月に、図南の志を抱いてマニラに赴き、七月、病死されたことは実に遺憾である。
 君は文章に長じ、詩にもすぐれて、「北極の南、南極の北、地勢雄闊多島国」の長篇は人口に膾炙した。君の歿後五十年に追悼会が日比谷の公会堂に催されたをり、時の大臣某氏は、追悼演説の中に菅沼先生、先生とくり返しいはれた。故人を尊ぶ当然の言葉ではあるが、君が歿されたのは二十六歳の若さであつた。後に、東京日日新聞記者黒崎君がマニラにいつた時、マカヂの丘に新たに建てられた大理石の碑の前で撮影した写真を、帰京して贈られた。その碑も今はどうなつたであらう。

    島田鈞一

 島田鈞一(きんいち)君は、重礼博士の長男で、長く一高の教授であつた。佐藤球君と房州にいつた時、那古の客舎でゆくりなく逢つて語りふかした思ひ出がある。君の令妹繁子さん(服部宇之吉博士夫人)は亡父に歌を学ばれたので、父と共に自分も、篁村(くわうそん)島田博士の下谷の邸に招かれたことがあつた。後年君から、先生が歌を詠まれて短冊に書かれたのが家にあると聞いて、一見を請ひたいと思ひつつ、見ることを得なかつた。(亡父の還暦の宴に、篁村先生から寄せられた賀詩は、幅にして愛蔵してをり、「竹柏華葉」にも掲げてある。)

 「古典科の師友」の終に書き添へておく。古典科は、国書課、漢書課の第一期、第二期をあはせて卒業生は百八人であつた。{国前三三、国後二〇人漢前三五、漢後二〇人}わが国書課では、卒業後、折々に謝恩会を催して、諸先生をお招きしたが、前後二十五人の先生がたは皆世を去られた。それで、同窓のみの集まる会が、毎年もしくは隔年にあつたが、それもいつか絶え、同窓の学友は、殆ど幽明境を異にしたことと思ふと、まことにうらさびしい。
 なほ、古典科の友人としてここに挙げた数は少いが、同窓のうち、明治中期以後の国漢文に尽瘁した人は少くない。「東京帝国大学学術大観」の文学部国文学科の章に、古典科のことを叙して「その卒業生のうちからは、有力な学者が輩出して、斯学の普及進展に多大の效を致した」とあることは、創設者の加藤総理、小中村博士に対して、いささか負荷の恩を報じたもの、といふべきであるとおもふ。
  附記一 古典科の教室は、当時法文科の大きな建物の向つて右の平家(ひらや)の一棟で、左が国書課、右が漢書課であつた。国書課の側には、かの梟のとまつてゐたやうな大木があり、うしろは崖で、池に近かつた。本郷通りの赤門を入つて、左へ古典科の教室のある辺までは、現今の史料編纂所や図書館は無論なく、ただに広い空地であつた。それで、朝の早い時間に休講のあつた時は、本科生も古典科の自分たちも入りまじり、当時はやつたフランスゴッコといふのに時を過した。今おもへばほほゑましい若さである。
  附記二 第一期の国書課に入学されたうちには、以上のほかに、池辺義象、今井彦三郎、今泉定介、安井小太郎氏等、漢書課の第一期生には滝川亀太郎、西村時彦(天囚)、林泰輔氏等、第二期の国書課には、西田敬止、赤堀又次郎、鹿島則泰、平岡好文、生田目経徳氏等、漢書課には、児鳥献吉郎、西村豊、長尾槙太郎(雨山)、桜井成明、黒木安雄、三島桂、山田準氏等があつた。

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