東大の人々

 自分は、明治二十年以後、古典科の卒業、続日本歌学全書の編纂、新派和歌の樹立への参加、歌誌「いさゝ川」、つづいて「心の花」の発行、南清漫遊、木村先生の教訓による万葉集の研究、王堂先生の提撕による和歌の歴史的研究とつぎつぎにつとめて来たが、三十八年の夏の夜、上田、芳賀二教授がうちつれ訪問されて、「此たび東大で、独逸の員外講師の例にならひ、ある専門を持つた学者に週二時間の講義をしてもらふ。森槐南君には詩学、岡倉天心君には日本美術、有賀長雄君には日本上代の法律等を講じてもらふ。君には一時間を万葉集の精細な講義、一時間は歌学の歴史についてまづ講じてもらひたい」との委嘱であつた。自分はとくと考へて、足代翁から父に伝へられた「かつ教へ、かつ学ぶ」とやうに、教ふると同時に、猶自らよく学びたいとの考で、九月から講義をした。第一回の初めに、垂仁紀にある「神の神庫(ほくら)も樹梯(はしだて)のまにまに」の句を引いて、諸君がわが講義をはしごとして、学問の殿堂にのぼらるるやうにというた。(心の花は、初め華とし、後、花と改めた。)
 しかして年をつむこと二十有六年、昭和六年まで講義をつづけたので、その間、文学部の人々と親しく交はつた。ここに数氏について述べる。

    上田万年

 上田万年(まんねん)博士については、長逝せられた昭和十二年の廿日祭の翌日{十一月十六日}かいた文詞をここに掲げる。
 上田博士の長逝は、まことに哀惜の情に堪へぬ。多年知を辱うした自分としての追悼の情は言ふまでもない。すべてが人である、国のすべても人にかかる、博士のごとき人を失つたのは、わが学界の大いなる不幸である。
 博士は長い間病床に親しみがちであられたが、自分が訪問した時は、いつも学問を談り、世を憂へて、力づよい声で話されたのであつた。此の九月二十三日、学士院についての用事で朝とく鎌倉に訪うた時も、その話がをへた後、国家的経綸に就いて、かやうかやうであつたらばよからうにと、述べられた。その日の午後には鎌倉滞在より帰京せられるとのことで、隣室では荷物の片づけをしてをられる。長座をしてはと、辞して門外へ出たところ、家人をして呼び入れしめ、いま一言この事をいひ忘れたから、とて告げられた。それは用意周到な注意であつた。帰京せられた後二日には、かねて嘱されてをられた原田嘉朝翁伝の序文の訂正をされたが、その翌々日頃から病が重くなられたとのことである。
 博士を初めて識つたのは、明治十九年であつた。当時東京大学の和文学科の学生は、たしか博士一人であつた。自分らの古典科国書課は三十人であつたので、小中村先生、木村先生の講義のごとき共通のは、古典科の教室に聴きに来られた。その頃からである。
 博士は、歌を詠まれたことはたまたまであつた。ただ故芳賀博士遠逝のをりには数首を詠じ、莫逆の友の死を痛歎された。新しい国語国文の道を開拓せられた二博士の霊は、今や相遇うて、国運の隆昌を祈り、斯学の進展を語つてをられるであらうとおもふ。
 博士は、大学在学中にチェンバレン先生の指導を受けられ、その指導が、新たなる国語学建設の基礎となつたといふことをしばしば語られた。然るにさき頃、小泉八雲氏から王堂先生に送られた六十余通の書翰が日本にもたらされて来ることとなつた。その事を聞かれた博士は、それをたしかな所に保存したく考へられ、病中とて、それに就いての事を予に嘱されたが、幸ひに博士の意志どほりになった。この顚末を報告にいつた時の博士は、平素喜怒を色にあらはされる事が少いに、喜びが面にあらはれ、かつこれまで、いはゆる弱気(よわき)の詞を口にせられるのを聞いたことはなかつたに、「これで……」云々といはれた。
 博士の趣味が囲碁であつたことは、昨日の廿日祭の席上、塩沢博士の追悼談にもあつた。かつて共に、原田積善会の一行に加はつて、伊勢松阪の客舎にやどつた際、学問上の談話をつづけてをられたが、山田から碁の友の来訪後は、隣室に移られて石の音が絶えなかつた。また、津市に赴いて、田中治郎左衛門翁の邸に共に一泊したが、博士と主人とは夜ふくるまで烏鷺をたたかはされた。
 博士は、祖父君の名を嗣いで万年とよばれたとのことである。祖父君は歌に巧みであつて、御家流の美はしい筆蹟の短冊は、名古屋の片野氏から得て、架蔵してゐる。上に述べた如く、博士も時々歌を詠まれたが、それを色紙や短冊にかかれたことは殆ど無かつたやうである。博士と共に、須磨なる山辺丈夫氏の孤山荘に客となつたをり、主人の明治初年の英国留学談を聴き、ウヰスキーのコップを手にしつつ、老松の間に白帆の隠見する景をめでて即興の作を語られたので、翌朝、主人は色紙を出して執筆を請はれたが、これのみはと固辞された。
 短冊等は書かれなかつたが、博士から自分に贈られた内山真竜(またつ)筆の賀茂翁肖像の幅、富士谷御杖(みつゑ)集、英国の土産(つと)の陶製の「沙翁の家」の箱には、箱書や奥書などを書いて贈られた。耶和九年十月、自分の祝賀の小集会の日、「かつて講式の研究をして蒐めたのであるが、その多くは震災の時、大学の研究室で焼亡した。これはわづかに存してをる一つであるから」とて、建武五年弁暁(べんげう)書写の「聖徳太子讃歎講式」一軸の恵贈を忝うした。これらはいづれも厚情の記念と愛蔵して居る。
 なほ、博士は多年、「心の花」のために寄稿せられた。その中には、契沖伝、春庭伝資料、上世の童謡、真淵論等、博士の遺稿の出版せられむ日に加へられるものが少くない。
  追記 上田博士が番町にをられた頃、碁の会に招かれた。自分は碁はやめてゐたが観るのは好きで、招かれた夜に、よくいつた。二階にあがつた右の部屋が二番目のお嬢さんの寝室とおぼしく、夫人がおもしろいお伽噺をいつも読んで聞かせてをられ、左の奥が客室であつた。このお嬢さんが、今の円地文子夫人である。

    芳賀矢一

 「雲中雲を見ず」といふ語が漢土にあるが、人は、あまり身近くにあるものに就いては、その真の価を看過し易い。吾々は、先哲の業蹟を常に尊んでゐるが、近い人々の業蹟に関しても亦重んぜねばならぬ。
 契沖の実証的態度にはじまり、四大人を経て完成した近世国学は、伴信友(ばんのぶとも)のごとき考証の一面に寄与をなした学者をも出だし、橘守部(たちばなのもりべ)のごとき解釈批評の上に新機軸を出した学者をも育み、野之口隆正(ののぐちたかまさ)のごとく平田派の学風を推し進めて国家の学としようとした一派をも生ずるなど、完成はやがて次代の分化展開を示してをり、明治時代に入つては、まづ博学洽聞の横山由清(よしきよ)が出で、その後を受けて全体的国学の体系樹立に進んだのが小中村博士である。また、木村博士は万葉学の一面に深く研究の歩武を進め、飯田翁は専ら日本書紀の究明に力(つと)め、落合氏は、世を早くされたので完成を見なかつたが、古典研究に新風を興されようとした。其の他、新国学運動に力を尽した人々はあつたが、学術の世界も全く一新された明治の時代に、真の意味の新国学を確立されたのは、実に芳賀矢一(はがやいち)その人であった。博士の現代国学界に対する功績は、まことに大なるものがある。
 博士は、橘曙覧(あけみ)の門人芳賀真咲(まさき)翁を父に持たれた影響もあつて、天稟の資性に、父翁を通じて曙覧の感化が伝はり、さらに大学に学んでは、チェンバレン教授の新しい研究方法の示唆を得、学問による教養がそれを玉成したのであつた。
 博士は孝心に厚く、かつて大学の教員控室で、「今度、ささやかではあるが、力をこめた著書を出版するについて、それを亡父にささげたいと思うて歌を詠んだから見てほしい」と言はれて、その作を示された。「国民性十論」の巻頭に掲げられてゐる二首がそれである。
 博士は、人に接するに懇切であつた。酒を嗜まれて洒脱な方面もあつたが、一方学問上の話には非常に真面目であつた。自分について一二の思出を述べれば、自分等の「校本万葉集」の事業に就いては、上田博士とともに懇篤に助力せられた。また、チェンバレン先生から自分に贈られた「新謡曲百番」の翻刻出版に当つては、珍しい文献の公刊を喜ばれて、進んで序文を寄せられた。
 交友に対し、門下生に対し、実に親切で、その情誼のあつかつた実例の一つを挙げるならば、藤岡作太郎博士の葬儀のをりに読まれた文詞のごときは、その至情人々をして泣かしめた。それは、藤岡博士が、京大設立の際、教授の内命を受けられたが、「著書の参考書を見たいために東京を去りたくない」と辞退されたので、芳賀博士は、藤岡博士を東大の教授たらしめむと尽力せられたが、定員のあるため、其の時いたらず、終に助教授として世を去られたのを衷心歎かれたのであつた。しかしてそを読まれる博士の声は折々とだえて、涙をぬぐうてをられた。
 また、後進に対して寛容であつた。博士のもとを訪うた時、前からをつた某書肆がいろいろに云ふに答へて、「自分が教へたのではないが、頼まれたので紹介をした。目上にはやさしい詞づかひをしてをるも、よくない男のやうである。しかし勉強ざかりの年齢ゆゑ、我慢してくれ」とわびるやうにいうてをられた。

    藤岡作太郎

 わが国文学復興の機運を大成して、新しい意味に於ける国文学を学界に建設された功は、芳賀・藤岡二氏に帰すべきである。
 しかし、二氏は、その学風に於いて、互に特色を異にしてゐる。芳賀博士は、何処までも、新たに学問の道を切りひらくといふ態度で、国文学上の主要なる問題を提供し、大体の解釈の方針を指示してゆくといふ方で、いはば荒削りに国文学といふ一つの彫像の形を造りあげる人であり、藤岡博士はこれと異なつて、その学風が精緻微細で、部分々々を細かに仕上げていつて、荒けづりの像を美しく渾然たるものとなすといふ風である。例へていへば、芳賀博士は種蒔く人、藤岡博士はこれを培ひ、おほしたてる人である。
 藤岡博士は、京都の風物に親しんで、其の間に自ら養成せられた美術上の鑑識、華麗な文藻等、他人の企て及びがたい特色を有してをられた。加納諸平の長歌に、「事なさば十年(ととせ)も千年(ちとせ)、成さざらば千年何せむ」といふ句がある。「君は十年も千年」に当る不朽の著作を学界に成されたのである。
 翻つて和歌の方面から考へても、文学史家として、君のごとく和歌に同情を持ち、理解を有された人は尠い。君が「国文学全史平安朝篇」に於いて、和泉式部を称誉せられたごとき、特に西行を重んじて詳しく研究せられたごとき、いづれもこれを示して居る。また「国文学史講話」に於ける万葉集論、殊に家持の歌に関する見識のごときも、尋常を抜いて居る。
 自分が君を識つたのは、自分が大学に講師として出てからの事で、日は浅かつたが、しばしば往来して、語るところはいつも歌の上であつた。「悦目抄(えつもくせう)論」のごときも、君の指示によつて国文学界に起つたもので、自分が発表した論文も、それに促されて研究を重ねたものである。君が「異本山家集(さんかしふ)」を得て、出版せられた時は、自分のもとにも古写本を蔵して居たので、度々訪はれ、種々談り合うた。また君は、学問上非常に所信が堅かつた。神楽催馬楽(かぐらさいばら)や古今六帖(こきんろくでふ)が、平安朝篇に論じてなかつたことに就いてなど、君と自分と見解を異にして居た為、数回論じ合ひもした。
 去年{明治四十二年}十二月の初め、君を訪うて、いつよりも長座したが、其の折に語つた「定家歌集」が、やがて出来たので、大磯に避寒して居られた君のもとに一部を送つて、定家の歌に就いては多少観を異にするから、評をしてほしいといひ送つたに、「いづれ考を書いて送るから」といふ返書が来た。しかし、その評も聞く事は出来ぬ。また、十二月に語つたをり、従来世に埋もれて居た秘府本(ひふぼん)万葉集抄、為兼(ためかね)の歌論の書等を写して置いたというたに、使をやるから貸して貰ひたいといはれたが、その使も最早永久に来ぬ。数日前にも、山家集の古本を見るを得たが、それにつけても、古書に就いて、国文学上の事実に就いて、また考訟に就いて、研究するところある毎に語り合ひ、裨益を得た君を失つたことは、自分一個人にとつても又なき悲しびである。
 君の葬送の当日、君が書斎の前の庭に立つて、自分は哀悼の情に沈んで居た。その庭前の梅は、よわよわしい痩せた枝ながらに、清香を放つて居た。あたかも君が生来の多病に堪へて、学問上に多くの功績を挙げられた貴き一生を語るもののごとくであるのを思つて、更に深い感慨に沈んだことであつた。
 以上は、明治四十三年二月に君を偲んで記した文であるが、次に一二の瑣事を書き添へる。今の東大図書館が建つ前の図書館は、卒業式に臨幸のある時は、学生の閲覧室が式場になつたが、この閲覧室とは反対の側に、教官の閲覧室があつた。少し隔たつて、大きな木があり、極めて静かであつたので、読書には好適であつた。そこへ自分がいつた時に、ほとんど、藤岡博士を見ぬことは無かつた。ある時は、刊行以前の明月記の写本を熱心に閲読してをられたが、ある記事を指ざして、小さな声で自分に何かいはれた記憶がある。
 君は持病の喘息のために、家は西片町にあつたが、講義の日にはいつも人力車に乗つてゆかれた。講義の前に身体を疲らせないためである、といつてをられた。自分の小川町にも時々来訪されたが、その時はいつも和服であつた。

    藤村作
     
 藤村作(さく)博士が、「日本文学大辞典」を、昭和三年から九年まで、七度の春秋を送迎して編纂された労力は、容易ならぬことであつたとおもふ。二十年後の今日も多くの類書を圧してをる。初め、嘱せられてその相談にあづかつたので、旧版第三巻の後記には、上田万年、高野辰之、松井簡治博士とともに、自分の名も挙げられてをる。この辞典は、遂に君がかたみとなつた。
 東大の国文科は、明治三十八年から、上田、芳賀両博士が主宰せられてゐたが、四十三年に、藤岡東圃(とうほ)博士が卒去せられたので、同年三月、藤村博士はその後任に就かれた。その数日前、二三人のあつまつたところで、芳賀教授が、「藤岡君の代りに、今度、藤村君を広島から招きたいと思ふ。自分は文部省から嘱せられて、地方の高等学校や師範学校の国語国文教育を毎年視察に行くが、広島で視た藤村君の授業ぶりに心がとまつた。まづ教壇にあがつて教卓に着く前に、君は静かに教室内を見回して、生徒の心を集中せしめるやうにしてから椅子につかれた。大学の教授助教授も教育者である以上、『学者』だけではいけぬ、やはり『教授』であらねばならない」と言はれたことであつた。
  追記 今年{昭和二十八年}二月、エリセーフ君がアメリカから来て、自分の熱海の山荘を訪問された。君は、明治四十五年、外人として初めて正課を踏んで文学士になつた日本文学研究家である。自分はその卒業記念写真を示し当時の教授、助教授、講師のおもかげを語つて、「この写真のなかで、上田、芳賀、藤岡勝二、関根、吉岡、垣内の諸君は皆故人となられ、健在なのは、藤村君と自分と君とだけであることは、まことにうら寂しい」と話したことであつたが、その藤村君も世を去られた。

    三上参次
                   
 東大の国史科の教授としては、三上参次(さんじ)博士と黒板博士とが最も親しかつた。甲は先輩として、乙は友人として。
 三上博士とは、上述した無名会で、多年親しく交はつた。明治四十一年七月、三上・萩野・市村三博士と共に水戸の彰考館の古書を調査にいつて、清香亭にやどつた時、夜ふくるまで語り合つてゐたに、宿の主人から、「あまりに夜がふけますので」といはれた思ひ出がある。
 折々歌を詠まれては示された。手紙は謹厳な書きぶりで、終りには必ず年月日が書かれてあるのは歴史家にふさはしいと思うた。「扶桑珠宝(ふさうしゆはう)」完成の祝賀会を美術学校で催したをり、講演を請うたことがあり、王堂先生の追悼会にも講演せられたが、まことに明晰な話ぶりであつた。
 晩年、明治天皇御伝記編纂の主任をしてをられた。自分は御集の編纂に委員の一人として携はる光栄を得たが、御製の全体の数は承知しなかつた。宮崎市主催の講演会に赴く前、御製について述べたいため、博士に総数を調べられむことを請ひ、はじめて明確に知り得て、御歌数の多いのに驚歎したことであつた。

    黒板勝美

 黒板勝美(かつみ)博士は夙くから知つてをつたが、親しく交はるやうになつたのは、正倉院の御曝涼(おんばくりやう)の時からである。自分は万葉仮名の調査に三年つづいていつたに、君は、史料の出張で来てをられて、ある時、「秋ごとに奈良の御倉に通ひ来て髪白くなりぬ二十年まりに」の歌を示された。特に親しくなつたのは、大震災後、宮内省に御物管理委員会が設置せられて、御物の調査をともにすることになつた時からであつた。それは毎週一回の会議が、数年間続いたのによつてである。君は主査といふべき位置であつたが、君の円滑にしてしかも用意周到な性格は、事務を正確に且つ敏捷に進めた。この会によつて、定家自筆本の「更級日記」や、顕真の「古今目録抄」の雑芸等を自分が発見し得たことは、国文学上にも大いなる喜びである。
 君の円滑な性格のあらはれを一二いふならば、会議の正午の休憩時などには、「これは君、特によい御所柿だよ」とか、「鹿児島から送つて来た、かういふ小さい柿である」とかいうて人々にわかたれたりした。また自分は外出する前まで仕事をしてゐて、自動車でかけつけるくせがあるので、定刻より五六分ぐらゐおくれたことが一二回つづいたに、「先陣の佐佐木はいつもしんがりし」といふ句を短冊に書いて見せられたり、又ある日、電話で十分ぐらゐおくれるというていつたところ、「君、会議前にみるやうにあちらに掛物がかけてある」といはれるので、自分はいつもの例で、まづ軽く頭をさげて、掛物を仰ぎ見たところ、黒板君の高い笑ひ声が聞え、外の人も手を拍つ。見ればそれは、自分の幼い十歳(とを)前後に書いた短冊四葉をどこからか得られて、仮表装にしたのが掛けてあつた。また、ある日の正午の休憩に、「今日は君に特に見せるものがある」というて、古典科で教を受けた松岡明義(あきよし)先生の蔵書が図書寮に収まつた中の一冊を示された。それは、学期試験の答案で、当時は東京大学と柱にある十二行の青罫紙に墨書(がき)、それを綴ぢてあつたのである。自分は、おづおづあけると、「禁秘抄」、「職原抄」の答案が、幸ひ落第点でなかつたから、胸を撫でおろした。かういふ軽いたはむれを折々に受けたのは、自分一人ではなかつた。しかし罪のないたはむれなので、誰も皆笑ひ話になるのであつた。
 一方、君は、学問上のことに関してまことに親切であつた。河内金剛寺から、宝篋印陀羅尼(はうけふいんだらに)経の料紙に今様のかいてある一巻が発見せられたのを借り受けて帰京せられた時、また、京都大報恩寺の阿難尊者の胎内から明珍(みやうちん)恒男氏が和讃を発見して君に示された時など、「これは、佐佐木君の研究材料であるから」とて示してくれられた。また、奈良公園の万葉植物園の設置について、君も自分も委員として種々企画にあづかつたが実によく尽力された。専門の学問のすぐれてをられるのみならず、人としてもすぐれてよい君が、いかにしてか不幸病を得られて、晩年言語の発せぬやうになられたことがお気の毒に堪へず、お見舞にいつたが、いつも玄関で失礼した。自分ではさほど苦しんでをりませぬと家の人のいはれたのは、全く君の徳ゆゑであつたこととおもふ。

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