法文科の教員控室にて

 自分が講師としての毎週二時間の講義は、ある年は月曜日、ある年は火曜日であつたが、いつも午前十時より十二時までで、十時十五分から講義をはじめ、十一時に控室に帰り、更に、十一時十五分から講義をする習はしであつた。後に聞いたのであるが、この時間は、与へられる時間としては、最もよい時間であつたといふ。従つて、先輩の人々や友人などとともに、短い時間ながら、法文科の建物の向つて右の方の教員控室で語り合つた。何にしても長い年月のことであるから、芳賀博士によく逢ひに来られたフローレンツ博士をはじめ、多くの人々と語りあつた。
 話は転ずるが、東大構内の山上集会所は、当時、御殿と呼んでをつたが、そこへ毎週一回講義の後に午餐にゆくことを、自分の二十六年間の講師時代の習はしとしてをつた。それは十時からの講義の前二時間と、午餐の後の夕方までを図書館の一室で読書の時間と定めてゐたからであつた。午餐には法・文・理・医科の教授が多く、食事後の一時間に、人々と語りあふことが楽しかつた。山川総長と会津人の歌について、神保小虎(ことら)博士と松浦武四郎の蝦夷の歌について語り、或は、来訪のアインスタイン博士と、田中館博士の通訳で、万葉集について話したこと等々の思ひ出も少くない。
 ここには、法文科教員控室での二三の人々に就いてしるすこととする。

    穂積陳重

 穂積陳重(のぶしげ)博士の名は、早くから知つてをつた。それは自分の若い時の最も親しい友で明治廿七年に世を去つた漢詩人中野逍遥(せうえう)君が、穂積家とつづきあひで、東大在学中、博士の兄君重穎(しげかひ)氏の神田南甲賀町の家に寄宿してをつた時もあつたので、中野君から、博士が学者として尊敬すべき方であるといふことを聞いてをつた。
 初めてお逢ひしたのは此の控室に於いてであつた。謹厳にして温和な、老紳士といふべき風格であつた。祖父君重麿(しげまろ)は本居大平(おほひら)の門人、父君重樹(しげき)は藩校の国学教授であられたので、博士も国文に趣味を持たれてをり、万葉や古今に就いてよく語りあつた。ある時自分が、祝詞(のりと)は歌の一種であるといふ考を述べたに、外国の例を引いて種々話してくれられた。博士は「貞永式目」をあつめてをられたので、古写本の所在を知り、また、書肆の目録に見出した折などには、書状で知らせもした。名古屋に古抄本が出たことを電話でいうた時などは特に訪問されもした。「法窓夜話」をはじめ、著書の成る毎に贈られたので、自分からも寄贈すると、必ず書状が来る。それは、単なる儀礼ではなく、懇篤であり、且つ趣致の深い文体である。歌もたまたま詠まれて示されたので、揮毫を請うた短冊を蔵してをる。「大岡忠相の御墓に詣てゝ 問ひてまし語りてましをあまた世をへたてゝけりな道の友垣 陳重」の一葉は、感銘の深い歌である。

    岡倉天心

 寺崎広業、村田丹陵画伯など美術家が主で、少数の人の毎月二十日にあつまつた、下谷伊与紋(いよもん)における二十日会に、自分も折々出席した。天心(てんしん)岡倉覚三氏にはその会で初めて逢つたが、美術界の長老にふさはしいその風貌は、長く忘られぬ印象をうけた。
 後、東大の講師として、日本美術史を講ぜられることになつたので、ある日、控室に入つて来られたをり、久々で語りあつた。「大学がここになつてからは殆ど来ず、浦島のやうに勝手がわからないので」といつてをられた。

    前田恵雲

 前田恵雲(ゑうん)博士とは、大学の講義が同じ日の同じ時間であつたので、職員室で語り合ふ機会も多く、また同じ西片町に住まつてをつたため、往来もし、示された歌を見たこともあつた。ある時書かれた短冊に、「埋火 すゑつひに霜と消ゆへき我か身にもしたしまれけり夜半の埋火 陶々半人 雲」とある。
 自分は、仏教者に逢ふごとに、桑門の中に、未だ世に知られぬ歌人もしくは歌学者がありはせぬかと、必ず質問する。それは、一般の歌人の家集、歌論のたぐひは大半渉猟したので、世外人に心の深い歌を遺した人がありはせぬかと、常に留意して前田博士にも同じ問を出したに、江州福堂村覚成寺超然(てうねん)(虞淵(ぐえん)と号す)のことを話された。それは「風湾葦響」といふ歌に関する随筆で、その後、活版に附せられた。

    ケーベル

 ケーベル博士とは、控室で会つては黙礼を交した。博士は日本語を解されず、自分は独逸語は一語も知らず、英語も不十分なので、言葉は交さなかつたが、泰西上代の哲人を見るがごとき高貴な風貌に、いつもやさしいまなざしで黙礼をかへされた。時間がすむと、人力車が待つてゐたが、正門まで歩いて、そこから乗られた。深奥な哲学者であり、高風な音楽家であられる博士の、力づよい演奏を、幾度か上野の音楽学校で聴くことを得た。音楽学校教授で竹柏会の同人なる橘糸重(いとへ)さんは、博士の愛弟子であるので、晩年博士のをられた横浜へよく訪問し、その折々の話の断片を伝へ聞いて、自分の心も浄まる思ひがした。ある時、「いつも日本服を着てゐて東大の教員控室でお目にかかつたのであるが、幸ひに御記憶があるならば、記念に短冊に染筆を請ひたい」と糸重さんを以て依頼したに「よく記憶してをる、あの日本服の人は」といはれて書いてくれられた。その後寄贈した「万葉集解釈」を久保氏に読んでもらはれて、「久方の天ゆく月を」の歌のごときは、ことにおもしろいといはれたと、糸重さんから聞いた。当時「英訳万葉集」のごとき訳があつて、博士の万葉観を聴くことが出来たならばと、今にして遺憾に思ふことである。
 博士の書かれた短冊は独逸語であるので、吹田順助博士に訳を請うたに、
    うつろひやすきものを求むる者は
    共に亡びゆかむ
         ジーラッハ 三一、五
 とのこと。(ジーラッハは、ユダヤの学者イエーズス・ジイラッハのことで、旧約聖書の中なる、ジーラッハ書の三十一章の五にある句。)

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