学士院の人々

 上野なる学士院の会員の控室には、前院長として福沢、西、細川、加藤、菊池、穂積、岡野、桜井氏の写真の額が掲げられてある。福沢先生は、幼くからその著書を読んでゐて、憧憬の情を持ちつつも面晤の機会に恵まれなかつた。細川翁は、明治時代に駿河台の邸を訪うて、上代史について聴いたことがあつた。菊池博士は、大正六年、自分の「日本歌学史」及び「和歌史の研究」に学士院の恩賜賞を授与せられたをり、午餐の食卓で当時の院長なる博士の隣にかけたに、岡山県の歌人歌学者に就いて問はれるままに答へたりした。西先生、加藤先生、桜井博士は次に述べる。穂積博士は上に述べた。全く知らぬのは岡野博士のみである。
 いま「学士院一覧」によつて、その就任の順に掲げる。(但、前述の「古典科の師友」の條に小中村・木村・本居・岡松・坪井・萩野・関根・市村・和田、「東大の人々」の條に、上田・芳賀・三上、「法文科の教員控室にて」に、穂積、「芸術界の人々」の條に幸田、後の方に三浦(守治)・丘・徳富の会員がある。)

    西周

 西周(にしあまね)先生の肖像が郵便切手となつて、広く人々の眼に触れるやうになつた。(昭和二十七年)。自分は少年時代に、多年先生の謦咳に接することを得たから、ここに思ひ出の一文をしるさうと思ふ。
 先生は、和蘭の書を池田玄仲に、英語を中浜万次郎に学び、文久元年、蛮書調所の教授方(かた)となられた。翌年、榎本武揚、津田真道等とオランダに留学を命ぜられ、滞在二年、政治法律の学を究められた。帰朝後は幕府に召されて、国事に関し諮問せられるところが多かつた。かのナポレオン三世が駐日公使をして将軍家茂を説かしめ、漁夫の利を占めようとした時、幕府の重臣中にもこの檻穽に落ちようとした者さへあつたが、栗本鋤雲が先生と同意見であつた為、奔走して、遂にその謀略を成らしめなかつた。先生は、累卵の祖国を救つた蔭の一人ともいふべきであらう。
 維新後は沼津兵学校の教頭となられたが、明治三年、新政府に仕官して兵部省に入り、わが国の軍制制定の上に、大いなる功績を立てられた。また一方に、西洋哲学研究の先駆者であり、夙く百科辞書の編纂を行はれ、国語のアクセントに就いても述べられた著書があり、明治十二年の自筆稿本「ことばのいしずゑ」を見ると、全部が平仮名がきの上、語と語との間を空け、時に符号を附したりして日本語を改善せんとする努力のあとが歴々とあらはれてをる。先生の国語研究の熱意は、明治初期の国語学史の上に特記せらるべきものである。また、「西周哲学著作集」の序に井上哲次郎博士のしるされたやうに、新体詩の萌芽ともいふべき訳詩をものこしてをられる。
 以下、自分が、若い日に接した先生を語りたいと思ふ。
 明治十五年の春、父に伴はれて上京して数日後、京橋三十間堀なる西家を訪うた。といふのは、先生の夫人升子(ますこ)刀自は、兄君相沢朮(うけら)氏と共に父の歌の門人であり、詠草は絶えず東京と伊勢の間を往来してをつたからである。その日、途中で、父が幼少の自分に言ひ聞かせた言葉は、今に忘れがたいものであつた。すなはち、「今日おたづねする西先生は、福沢諭吉、中村敬宇(けいう)先生と並んで今の時代のすぐれた学者であられるから」といふ意味であつた。三十間堀の邸は、河岸の通に面した奥深い建て方の家で、左に庭がつづいてをり、その庭に沿ふ廊下を案内されて、通された部屋には、一杯に絨毯が敷かれてあつた。それが、少年の目に、いかにもうるはしく映じたことを記憶してをる。夫人は、先生のあつめられた奈良の仏像の写真の多くを示された。見てをるところに、先生が出て来られた。光のするどい目に、和らかみを湛へながら、いろいろ話して下さつて、庭を見て即詠をよめといはれたので、恐る恐る出したに、「日曜などに来たら、ひまな時は話をしてあげよう」とやさしく言はれたので、以後八九年の間に数回教を乞うたことが自分のノートに記されてをる。
 ある時、「いつか仏像の写真を見せたであらう。ああいふ立派な仏像が日本の大昔にある。あの中には帰化人などの彫刻した作もあらうが、それが皆、日本のものとなり切つてをる。そこが日本の尊さである」と語られた。
 自分が大学の古典科に入学できたことをお話にいつた時、「古典科のことは加藤(弘之)君からかつて聞いた。加藤君は明六社の仲間で、あの時分ははげしい著述も出されたが、古典科の必要を認められたのは喜ばしい」といはれて、「学問をしようとするには、深くせねばならぬ、精しくせねばならぬ」と懇ろな訓誡を与へられた。先生の論文の「学問ハ淵源ヲ深クスルニ在ルノ論」の趣旨をわかりやすくいつて下さつたのであつたと思ふ。
 先生は早くから海水浴を好まれ、横浜の西郊なる、日本最初の海水浴場といふに行かれた。その後、大磯の海水浴場が開かれてからは、毎年行かれた。(晩年は大磯駅裏の高台に別墅を営まれ、そこで世を去られたのである。)明治二十年の夏、百足屋旅館にをられたにおたづねしたに、「海へ行くから」といはれるに従つていつた。波の荒い日であつたので、自分は引渡してある縄につかまつたり、漁師の手にすがつたりした。その帰るさの道で、「今日は、ことに波が高かつたから驚いただらう。しかし、人世には思ひかけぬに襲つて来る浪がある。それに屈して溺れてはならない」と訓された。
 又こんな話をされたこともある。「若いからわからないであらうが、世の中には苦しいことや、いやなことが起つてくる。さういふ時はすべて忘れるやうに努めるがよい。ただし、生涯忘れてはならぬことがある。それは、日本に生れたこと、自分は日本人であるといふことだ。また君などは、おやぢさんの子だといふことも忘れてはいけない。」
 自分のもとには先生からいただいた写真がある。日本人の典型ともいひたいほど、威厳のある立派な顔だちであられた。先生は明治十二年に学士院の院長となられたので、今も上野の学士院の会員控室には、前院長として壁間に、福沢先生の写真の額の次に先生のが掲げられてある。毎月それを仰ぎ見ては、先生の風貌を偲んでをることである。
 古典科を卒業した折には、書簡を贈られた。先生は国語の方面から万葉をも読まれて、零冊ながら「万葉集字訓」の著もあり、和歌をも詠まれたが、短冊に書かれたことは極めて稀である。その短冊を一葉珍蔵してをる。
   賎が荷ふ蕢(あじか)の土のためしにもやむはしらずやおのがこゝろと   天根
 さすがに学者らしい歌で、「蕢の土の」は論語の句によつて詠まれたのである。時としては、周(あまね)を天根とかかれた。
 先生とオランダに同行されたT氏の外国から持ち帰られた断片の類が、後年坊間に出たのをもとめておいた。その中に、一八六四年七月十二日附で、ライデン区から西氏に出した転居届証明書一通がある。維新前は「周助」といはれたのでSiusueke Nisiとローマ字で書かれてある。
 森鴎外博士の家は、西家の親戚であつたから、森さんが若くて津和野から上京された年に、本郷壱岐坂なる独逸語を教へる学校に通ふ為、当時小川町にあつた西家に書生となられたことは、「ヰタ・セクスアリス」に、「東家」として出てをる。その初めての日の夜、西先生は森さんに「勉強は十分するが良いが、夜は十一時を過ぎではいかぬ」といはれ、傍なる升子夫人が「十一時の時計が鳴つたら、きつとランプをお消しなさい」と言葉を添へられた。その後の数夜は、十一時少し過ぎると手燭をともした夫人が、静かに部屋の外まで来られて、消灯をたしかめた上、また静かに帰つて行かれたといふ。先生もえらかつたが、刀自もさうした賢夫人だつたと、森さんから聞いたことである。このやうな少年時代の縁故から、後に西家の依頼で「西周伝」を森さんが執筆されることとなつた。森さんは慎重を期して、まづ少部数を印刷して西家の知人に配られ、補訂を請はれて後、更に精撰したものを公刊された。それゆゑ、装幀もかはつてをる二部の「西周伝」を、先生及び森さんの記念として架蔵してをる。 (昭和二十七年四月、文芸春秋創刊三十年記念号の為にしるす。)
  追記 大久保利謙氏によつて西周全集三巻が編纂され、その第一巻(七百十余頁)が出た。(昭和三十五年三月)

    加藤弘之

 加藤弘之(ひろゆき)先生は、明治初年には明六(めいろく)社の一人として、急激な思想を懐(いだ)き、「国体新論」を著されもしたが、その書は数年後にみづから絶版にされたといふ。さういふ思想の変化から、東京大学の総理となられて後、国漢学者の後継者養成のため、古典科の創設をも思ひ立たれたのであるといふ。
 自分ら古典科の卒業生は、創設の恩人なる先生を中心に、諸先生の来臨を請うて、隔年に謝恩会を催したが、いつも臨席を忝うした。先生はひきしまつた雄々しさの中に、やさしさのこもつた風貌のお方であつたが、先生の前にいつて自分の姓名を名のると、「歌学の上でどういふ研究を今してをられるか、研究の進みは」といつも問はれたことであつた。

    杉亨二

 杉亨二(かうじ)博士の女で後に高山樗牛の夫人となつた里子嬢が、竹柏会に入門して数月後、晩餐に小石川指ケ谷町の邸に招かれた。食事の前後に、統計学の話から、計数の上よりみた和歌の運命といふやうなことを語られたが、最も印象に残つてをるのは、その追懐談であつた。文政十一年に長崎に生れ、大塩の乱のあつたことを伝へ聞いたのは十歳(とを)の時、高島秋帆とは江戸で交はつた。秋帆が種々苦心して種痘を蘭人から得たこと。廿六歳の時ペルリの米艦が来たのであつたなど、自分らは古い歴史と思つてゐることを細かに話されるので、おもはず老博士の面わを見まもつてゐたことであつた。
 大正十三年七月の「心の花」{第十八巻第七号}には、「日本文明の曙光」と題する開国史の資料としての談話十頁が掲げてある。

    福羽美静

 古い話からかきはじめる。安改五年六月、当時三十一歳の吾が父は、琵琶湖畔の大津から八幡(はちまん)にゆく、いはゆる矢走舟(やばせぶね)に乗つた。傍にをる年齢二十四五の乗合の人に話しかけると、その人は、「八幡に本を見かたがた師匠の代理に講義にゆくのである」といふ。父は、「それは奇遇である。自分も同じく講義にゆく。自分は、足代弘訓(あじろひろのり)翁の門人佐々木弘綱であるが」といふと、彼方も、「それはゆくりなくも同船したことである。自分は野之口隆正先生の門下福羽美静(ふくはよししづ)である」と名のり合つた。講筵が終つた後、近く江戸に出ようとされる福羽氏の志を聞いた父は、その年の春を江戸に迎へたこととて、江戸の学者に紹介状を書いたりした。爾来親しく交はつてをつた。
 明治維新後、翁は新しい政府に仕へて高い地位にをられたので、石薬師なる父のもとに、上京してはと二三回うながされたといふ。父はその好意を喜びつつも、「わかの浦にわれだに一人のこらずば朽ちはてなまし玉拾ふ舟」の歌でおことわりをしたといふ。
 それで、明治十五年に上京して間もなく、麹町小学校の横側なる翁の邸を、父に伴はれて訪うた。通された座敷の前庭に、牡丹の花のうつくしく咲いてをつたことが目に残つてをる。
 次の間に待つてをつた自分の前に「百人一首一夕話」を携へ来られて、「お父さんといろいろ昔の話をするから、これを読んで待つてゐなさい、また、あの牡丹を歌によんでゐなさい」といはれて引きこまれた。やゝ暫くあつて座敷によばれ、「あの本は読んだことがあるか、それならばこれは何の画か」と二三を問はれ、鉛筆がきの牡丹の歌数首を見て下さつた。それより十数日後、花見もすみ、諸家の訪問も終つた頃、ある夕方、翁のもとからの使で父は赴いた。帰つて来た時の父はいつものやうでなく、だまつてをつたが、翌朝早く自分をおこして、「昨夜福羽翁のもとによばれて、翁から、信綱の教育は伊勢へ帰つては出来まい。東京に移転してはどうかといふ勧めをうけた。夜おそくまで考へたが、松阪の鈴屋の歌会にはよい人も出来たから、翁のいはれるやうに東京へ引き越さうとお母さんにむけて、信綱の教育の為に東京に移ることにした。書物をまとめ昌綱を伴うて上京せよとの書状をかいた」と示された。自分はただただ有りがたく、爾来父についでの恩人と翁をあがめるやうになつた。
 翁は、まことに情誼にあつく、父の病中も度々訪はれ、葬儀の日に谷中で読まれた誄辞の終なる、「……淵源ありて人の師となり、世に仰がるる事、これ人の名誉にて、友垣なるおのれらも誉ある事と思へり、猶おのれは、あまた年官に仕へたり。佐々木の君は官に仕ふるにあらずして世に誉を得たり。官にありて誉を得るは、人あるひは易しといはむ。官にのぼらずして名誉を高くするは、難き所なるべし。其の難きを経て、徳ますます高し。また君とおのれと、身のおきどころかはりながら、学の道につきて、いと睦まじかりき。官途の友垣ならずして、かかる高徳の友垣ある、おのれ之を栄とす。」の一節は、真に知己の言として、亡父の霊も天がけり喜んだことと思ふ。
 後に、角筈(つのはず)の銀世界といふ梅屋敷の附近に邸を移された。折々訪問して、維新前後の国学に就いてお聞きした。細長い地面で、入口に、かの福羽いちごを出された子息の宅があり、庭があつて、その奥に、先生の住居があつた。柴折戸のもとなる木の札に、「わが宿はここより奥は家狭し長尻の人心せよかし」といふやうな歌が書いてあつた。応接室には、暁斎の画譜が置いてあり、その帙に、此のおもしろい画を見て待つやうにとの意味の歌が書いてあつた。翁は隆正の学風を伝へて、世界の大勢と国学とを結びつけていつも語られた。その言葉には、今も胸に遺つてをるものが少くない。

    外山正一

 外山正一(まさかず)先生は、自分の古典科時代の東大文学部長であつたので、時々お話を聞くことを得た。卒業後、「日本文学全書」刊行完成の賀宴に、上野山下の松源楼に招かれていつたに、先生が正面に坐つてをられた。宴終つて後、落合直文君と共に先生の前にいつて、新体詩談を種々うかがつたことであつた。また神田の青年会館で、「日本の文明の黎明」といふ題目での二時間余の独演説を聴いた。「種が嶋は日本文明黎明の種が嶋である」といふやうな句があつたやうに記憶する。音吐朗々といふべき名演説であつた。(後に、高山樗牛君に話したに、君も聴衆の一人で感激して聴いたというてをられた。)
 自分の親友中野逍遥は、東大漢文科第一回の卒業生であるが、その葬儀の時、先生は棺前で手向の新体詩を読まれたが、その時は、きはめて低い声で、すぐ側にをつた自分にも聞きとれなかつた。後にお逢ひした時、そのことを云うたに、「あれは死者に手向ける詩である。合葬者に聞かせるためではない」と答へられたので、面ほてるやうに思うた。先生は、わが国の学政のためになほ多く尽くされるのであつたらうに、世をはやくせられたことは、我が国にとつて実に遺憾であつた。王堂チェンバレン先生は、外山先生の学長時代に大学に聘せられて講義をされたのであるが、よほど親しい交はりであつたとおぼしく、「マサカズさんが」と王堂先生のいはれたことを度々聞いた。
  附記 先生の愛された隆(たか)子嬢は、不幸病身であつたが、国文和歌に熱心で、竹柏会の同人となり、「口訳宇治拾遺物語」を著した。上田万年博士は、書物の序などは容易に書かれなかつたやうであるが、自分がこれこれであるといふと、「外山先生の令嬢のためならば」というて、すぐ序文を書いて送られたのが刊行された本に載つてをる。
 隆子嬢歿後、外山家から、故先生のシェクスピヤのシーザー独白の場を新体詩に訳された草稿と、フェノロサが先生夫妻を招待した時の手紙とを贈られたので、秘蔵してをる。

    井上哲次郎

 巽軒井上哲次郎博士と亡父とは、明治二十年頃大学の編修所で同僚であつた。それで、先生の海外留学の送別の宴が神田明神の開化楼で催された時、父は送別の長歌を贈り、自分も短歌をささげた。さういふ縁故で、亡父の十年祭の歌会を上野の梅川楼で催した際、追悼の辞を述べられた。然るに、五十年祭の記念講演会を東大の二十一番教室で開催する時、父を知つた先輩は殆ど世を去られたので先生に請うたところ、快諾され、「佐々木大人を追悼す」といふ講演をされた。
 先生の小石川の邸は、楼上が書斎で、一方の壁は書架であつた。大きなテーブルの上には、いつも種々の書物が置かれてあり、背後の壁には、外国の学舎から贈られた記念品などが額にしてかけてあつた。
 先生はたまたま和歌を詠まれ、その時は必ず示された。しかし短冊に書くことは好まれなかつたので、先生の短冊は、恐らくは数葉の外世にないであらうと思ふ。上述の五十年祭には、珍しく短冊に書いて手向けられた。「竹柏園はとこ春にして五十とせの秋をさきはふ言の葉の花」。「短冊凌寒帖」の中にかかげておいた。

    桜井錠二

 桜井博士が西片町に自分を訪問されて、「露国学士院の婦人書記アンナ・グルスキナさんが、一年間日本の古典を研究したいと、帝国学士院への紹介状を持つて来た。大学の貴下の講義や、他の国文の講義をも聞く便宜を与へてもらひたい」とのことであつた。
 八十歳にして渡英せられた博士の不在中、博士の外孫を我が家の末男の嫁にもらつたので、帰朝された博士、同じく帰朝された桑木・姉崎博士を中心に、清水澄、加藤正治博士等を招き、小宴を催した。席上、喜びの謡をうたはれ、かつて米国婦人と合訳の謡曲の一冊を贈られもした。

    北里柴三郎

 自分の末女と藤田秋治君との婚約が成り、藤田君が外遊前に近親の披露宴を催した時、北里博士が出席された。その祝辞に、「新夫人となるべき通子さんの母君、即ち佐々木雪子さんは、熊本出身の藤島氏の女である。自分が上京した当時、屡々藤島家を訪うて、幼い雪子さんを背負うたこともある。然るに、我が研究所員で、多年わが子の如く思うてをる藤田君に、雪子さんの末女が婚約されたといふことは、まことに因縁が深い」と、力強い声ではあるが、にこやかに話された。
 藤田君が帰朝して結婚の式を挙げた時にも出席されたが、喉頭を痛められて声が出なかつたので、宮島幹之助博士が祝辞を述べられ、北里博士は乾杯してくれられた。

    田中館愛橘

 学士院の毎月の会に田中館博士と親しく語りあふやうになつて、すでに満十八年の月日が流れた。
 博士は折々に歌稿を自分に示された。いつといふ時をも忘れるほど以前のこと、「山窓にタイプライターたたきをれば木つつきやをると人きくらむか」といふのを見て、おそらくはタイプを詠んだ歌の最初であつて、しかもすぐれた作であるというたのであつた。
 この五月十三日{昭和二十八年}に学士院の休憩室にをつたに、例のなごやかな面わににこやかな笑みをたたへつつ自分の側に来られて、鉛筆で紙片に、「ちはやぶる神代ながらの山と水春は花あり秋は月あり」といふ一首を書いて見せられ、以前に君から「歌集山と水と」をもらつたのでこんな歌をよんだといはれる。自分は下句を「花あり春は月あり秋は」とする方がよいといふと、うなづいてをられた。その時博士は、とねりこのステッキを手で撫でるやうにしてをられたので、自分もとねりこのを従弟の外国からの土産にもらつたのを、これこれでなくしてといふと、「ステッキはよく忘れるよ。中でも惜しかつたのは、瑞西の氷河を渉つた折の金具つきの杖を失つたこと、又をかしかつたのは、ある天文台で忘れて帰つたに、手紙で、杖をお忘れになるやうな元気は喜ばしい、あの杖は、記念にいただいておきますというておこせた……」など、話された。
 しかるに、わづかに数日の後、ラジオは博士の急逝を伝へた。
 さきに九十の賀を学士院の会員から受けられ、その日も一首の歌を謝辞の終にのべられたが、百歳の賀をもと思うてゐたに――学界の長老として常に尊敬してゐたに、まことに痛歎のきはみである。

    坪井正五郎

 坪井正五郎博士の若くして著はされた「看板考」は、博士の考古学の友人なる根岸武香翁が父の門人であつたので、翁から贈られて読んだ。後、翁を介して博士を訪ひ、記紀万葉の歌を研究する立場から、上代人の生活を問うたことがあつた。
 明治三十八年の竹柏会大会に講演をお頼みしたに、「野蛮未開人の歌ごころ」といふ題目で述べられた。長時間を、実に興味ふかく、未開各国の歌を、一々説明せられた。中にも亜弗利加のウガンダ地方の舟唄を、
 ウンソログンバ カンピテピテ クンヤンジャ
 ウンソログンバ ヲルイライタ クンヤンジャ
 ウンソログンパ カンピテピテ クンヤンジャ
 ウンソログンバ カンピテピテ クンヤンジャ
と節おもしろく朗読されたので、人々皆ほほ笑みつつ聴きほれてゐたことであつた。{心の花第十巻二号}
 後、大学の山上集会所で、博士の巧みな談話を幾たびか聞いた。坂井久良岐(くらき)君に、「から橋を渡れば坪井正五郎」といふ川柳がある。自分が西片町に住むやうになり、朝夕に博士の住まれた家の前わたりをしつつ、はやく露国で客死せられたことを歎かはしく思うた。

    未松謙澄

 未松謙澄(けんちよう)博士は、英国剣橋大学に在るをり、「源氏物語」を英訳され、帰朝後、演劇改良会を興したり、「日本文章論」・「国歌新論」を著したりなど、明治中期の文化方面に種々尽くされたことが尠くない。
 夫人の母堂なる伊藤梅子刀自が入門されて間もなく、夫妻でおとづれられた。その折の話に、「兄の房泰は地方で歌人といはれてをるが、自分は漢詩のみを作つてをつて、歌には縁がなかつた。今後自分らの作も見てほしい」とのことであつた。「心の花」を創刊した頃のこととて、時々寄稿を請ひことに服部躬治君と歌の語格の上での論争があつた。
 わが先人の十年祭に、父が鸚鵡を詠じた「言の葉をかへす鳥こそあはれなれわがうたふ歌聞き知らぬ世に」といふのを感じたというて、「皆人の心に今日や響くらむ逝きにし君がうたひにし歌」と書いて手向けられもした。
 芝公園の邸にも、城山の邸にも屡々招かれていつた。古書画を愛されたので、古筆手鑑を購はれた折などに赴いては、眼福を得た。(かの田中本神功皇后紀と同筆の神代紀の断簡は、もと池田家の手鑑の一葉であったのを装幀された、それを譲つてくれられたので秘蔵してをり、「古筆凌寒帖」に掲げた。)博士は、いつも葉巻をくゆらしつつ、時々高らかに笑はれる。よい体格であつたが、茫漠たる風貌は、明治時代の政治家の一つのタイプであらう。現代の人に見ることを得ぬ面影がなつかしく偲ばれる。
 自分の小川町時代には、よく訪問された。帝国ホテルから借りられるといふ馬車にいつも乗つてをられたが、小川町の家の前までは馬車が来にくかつたので、材木屋の角から下りて、時としてはシルクハットを手にしつつ、玄関から大きい声で、「佐佐木君、多賀良亭につきあひませんか」とうながされては、淡路町なる西洋料理店によく同行して語りあつたことであつた。

    佐藤三吉

 佐藤三吉博士には、弟の昌綱が若い時肋骨カリエスの手術を請うたことがあり、また三浦守治博士をとほして文通をもした。後、学士院の例会に、控室で時々語りかはした。或る日自分は、江戸時代の京都の名医吉益東洞の「くすしてふ名さへはづかし今はただ人に病のなき世ともがな」といふ歌を話したに、書きとめてをられた。翌月の例会に、「先月お聞きした東洞の歌には、深く感じた。今の我々の医学の極致は、人間に病なからしめるといふことである、よい歌を聞かせて下さつた」と、温容に笑をたたへつつ言はれた。

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