大槻文彦
大槻文彦博士の言海のことは、夙くから聞き知つてをつた。それは、自分の古典科の同窓大久保初男君が博士の助手をしてをつたからである。
明治の女流歌人の一人に、大野定子があつた。幕末時代に井上文雄の門に入つて、中世風に「さだむる子」といつたとのことであるが、下谷練塀町の家の歌会の発会で、博士が出席されてゐるのに、初めてお逢ひした。定子刀自の甥であるといふやうに聞いた。
木村正辞先生の逝去せられた折、博士が弔問されたので、自分ら教を受けた数人が、霊柩の中に収める銅板の先生の略歴の文を綴つたのを博士に相談したに、二三字について意見を述べられた。そのあとで、「年来の旧友とて今日は来たが、近来は一切かういふ所に出ぬことにしてをる。時間が非常に惜しい。惜しむやうにしてゐる。それは言海の修正を一日も早く成し遂げたいためである」と、静かにいうてをられた。(今になつて自分も、博士のこの詞が胸にしみじみとしみ入るやうに感ぜられる。)
高楠順次郎
雪頂高楠博士には、「心の花」に屡々寄稿を請うた。就中、第十九巻の第一万葉号の「奈良朝文明の外来的要素」の中に、「波羅門の」の歌に就いて明解を施されたことは、万葉学上不朽の考説といふべきであり、また、仏教演劇ナアガアナンダムの完訳を、第廿巻に九号にわたつて執筆せられた。
「梁塵秘抄」をはじめ、古書の上で仏教の疑義のある時には、自分はおとなうて問うたに、いつも精しく指示され、時としては門下の人々に問うて、懇切なる答をおくられた。また夏の休暇に調査に赴かれる高野山や東寺などより、よく便をおこされた。或る年、醍醐からの書状に、万葉学僧仙覚の日記を発見した。肖像の載つてをる巻物をも見出した、ともに借りうけて帰京するから、とのことであつた。伝記の知られることの乏しい仙覚の日記、画像、自分は夢かとばかり悦んで、博士の帰京を一日千秋の思ひで待つてをつた。帰つて来ていま大学の研究室にゐるから、との電話に飛ぶやうにいつて、日記を繰り、巻物をくりひろげたに、その仙覚は、万葉学の仙覚と同時代ではあるが、やや年が若くて、同名異人であるので、がつかりした。しかし、博士の厚意は長く忘れ難い。
時々歌を詠んでは示されたが、いはれるままに忌憚なき批評をした。或る時、印度から帰られての歌を見たに、非常にすぐれてをつたので称讃した。ヒマラヤ山では、黄なる石南木の花が盛りであるに、白い孔雀が羽(はね)をひろげて飛んでをつたなど話された。其の後は、専門の学事にいそがはしいゆゑか、しばらく示されなかつたので、大学の御殿で逢つた時に促すと、「いや、雪山(せつせん)へ旅行しないと名歌は出来ぬから」と笑つて答へられる。「ヒマラヤまで行かれなくては出来ないのでは」と、自分も笑つたことであつた。
博士の追悼会が武蔵野女学院で執行された時、挽歌数首を手向けた中に、雪山の歌のことをも詠みいれたことであつた。
姉崎正治
姉崎正治(まさはる)君の名をはじめて聞いたのは、君が大学の学生時代のこと、長原止水画伯が「めざまし草」の裏表紙に描いた君の姿は、瀟洒な秀才型の君を伝へてをる。
竹柏会の同人杉さと子さんが、君の親友高山樗牛君に嫁いだので、君を知るやうになり、井上哲次郎先生が折々の作を自分に示されてから、君もたまたま作られた歌をみせられた。
明治四十三年の四月、竹柏会大会に君の講演を請うた。「時代の告白としての叙事詩」といふ題でホメーロ、マハーバーラタ、ニーベルンゲンの歌、円卓の話などから説きおこされ、平家物語について詳しく述べ、法然上人の勅修御伝がこの物語の裏書をしてをると結ばれた、興味深い話であつた。
白山御殿町なる君のもとに、君の友人数子と共に招かれて、楽しく語りあうた。その夜、有栖川宮家仁親王のお短冊を贈られた。君は京都の出で、数代前には、宮家に仕へられてゐたとやう聞いた。
去年、熱海の南北荘に移り住まれて後、大和旅行の講演の際に病を得られたと聞いて案じてをつたに、全快せられて、上野にも列席され、熱誠な意見を陳べられるのを聴いて、喜んだことであつた。今年四月十一日、学士院の文科の会員が、御陪食の光栄に浴した日、別室で、各自が専門の学科に就いて言上した際、聖徳太子について述べられた。六月の末に凌寒荘を訪はれたをり、自分が尋ねるままに、法華義疏の海雲の説、唐本の御影(みえい)の年代、鳩摩羅什などに就いて語られ、また、竜華寺なる樗牛の胸像が戦時中供出させられたが、幸に原型の残つてをることがわかつたので、明年の五十年忌を記念し、再建されることになつた、と喜ばしさうに語つてをられた。いつまでも変らぬ樗牛との深い友情のやさしさに心をうたれたことであつたに、七月の末に世を去られた。畔柳芥舟君、笹川臨風君すでに亡く、君また逝かれた。はやく歿した樗牛と相会して、移りゆく現世のさまを、どう語りあつてをられることであらうか。 (昭和二十四年七月)
附記 この文を書きつつある室の床脇には、君がそのかみ外遊の土産にとて贈られた、巴里拉典区なるパンテオンのシャバンヌの壁画を模して浮彫にした小さい銅板の置物がおいてある。その原画の色刷一葉をも併せ贈られたが、うす紫の外光、さては、月光のもとに立つてをる清き尼僧ジュネヴィーヴの姿は、気品清逸、君のおもかげを示してをるかに思はれる。
また、短冊帖の中には、「やちまたをおのかさまさま行く人の皆いそきゆくおくつきの路 正治」といふ十数年前にかかれた短冊が挿んである。皆いそぎゆくおくつきの路――また一人、その路へ旅立つていつて還ることのない多年の友人が深く偲ばれる。
大塚保治
大塚楠緒子さんは、御茶の水時代から竹柏園の門に入り、女弟子中でのすぐれた一人であつた。それで保治博士が養子に来られてから、博士とも親しく交はり、西片町の家に三四人の晩餐に度々招かれた。
保治博士は美学の第一人者であり、講義を聞いた人の話に、その講義は実に深遠で、真に大学教授の講義といふべきであつたとのことである。ある時君の家での話の折、海外から取り寄せられた洋書数部を示されて、「明後年の講義の材料に求めたのが着いた」と、いうてをられた。大学以外には、目白の女子大学に講義にゆかれただけであり、諸所の講演も殆ど断られたやうであるが、明治三十四年の竹柏会大会には、「日本服の美的価値」といふ題目で、長い講話をしてくれられたのが、心の花{第四巻六号}に載つてゐる。また、「イプセンの社会劇人形の家に就いて」{第九巻一号}は、心理上から見た人形の家の批評で、わが国におけるイプセン文献では初期のものに属するであらう。「公設展覧会所感」{第十六巻十一号}は、「油画の萎微不振」、「日本画の混乱」について、実に峻烈な批評である。(因に云ふ、公設展覧会は、博士が帰朝のをり牧野伯と同船し、当時の建言によつて設置されたものとやうに伝聞してをる。或は異説もあらうが。)また、「美の領域」{第二十二巻二号}といふ論文をも寄せられた。
博士は後に、西片町から市ヶ谷に転居されたが、大学の講義の帰途に折々訪問された。門の戸を閉めずに玄関での立話であつたが、何くれの話があるので随分長い。それがいつもの例であるので、家の者が、台所口からまはつて静かに門の戸をしめておくやうになつた。
狩野直喜
「南都秘笈」に収むべき正倉院聖語蔵の蒙求古鈔本の解説を、上述した岡田正之博士に依嘱したが未完成のうちに世を去られた。それで京都に赴いた時、田中大堰町なる君山狩野博士の邸を訪うたに老学者にふさはしい、物静かな環境の地であつた。お頼みしたに快諾せられ、やがて執筆してくれられた。また著書や編纂書の題簽の揮毫を請うたに、いつも快く書いてくれられた厚情は忘じがたい。
附記 「君山文」九巻一冊は昭和三十四年に、「君山詩艸」一冊は三十五年に、吉川幸次郎博士によつて公にせられた。
木村栄
学士院の恩賜賞を第一回に授与せられた木村栄(ひさし)博士の名は、夙くから聞いてをつた。
昭和十一年五月、銚子市市歌の選定をしたに、市から招かれて、犬吠崎なる暁鶏館での午餐の際、醤油会社の重役篠木君も陪席された。君は木村博士の弟であるとのこと。博士は痩せてをられるに君は体格がよい。兄弟でも、学者と実業家の相違であらうなど語り合つたが、学士院で博士に会つた時、その事を話した。爾来、時々語りあふやうになつて、次のことを博士に問うた。
平安末期に叡山に十年山ごもりをして、経文を研めてをつた老僧が、ある時山を下りて京都へ出たに、何となく四辺の様子がちがふ。行きずりの人に問ふと、平家は亡んで源氏の代になつてをつたといふ昔がたりがあります。そのやうに、博士は水沢時代にあまりに勉強してをられたので、明治三十七八年の事変を知られなかつたといふ逸話を聞きましたがといふと、「そんな事があるものですか、学問に専心してゐても、国民の一人です、水沢の町の提灯行列の夜には、自分が先頭に立つて提灯をささげ歩きました」などいはれた。近く水沢の研究所に行くから一緒に行きませんか、と誘はれた。同行したらば、新しい歌が生れるであらうにと思ひつつも、あやにく差支へて行かなかつた。その後学問上の苦心談を聞いて、金沢の出身らしい、雅びやかな心と同時に、不撓不屈の心の持主であられることを知り、尊敬の念を一層深めたことであつた。
桑木厳翼
桑木厳翼博士は夙くから知つてをつて、心の花第十一巻{明治四十年一号}にも「和歌と謡曲」といふ文をおくられもしたが、長女の素子さん(後の小金井博士夫人〕が竹柏会の同人となり、歌才にたけて、歌集「窓」を出版された縁故などから、特に親しくなり、牛込北町の邸にも折々おとなうた。洋書のぎつしりつまつてゐる書斎兼応接間であつた。洋書の前に、海外から持ち帰られた小さな玩具の類がおいてあつた。
戦災にあはれ、茅が崎に移られた博士は、自分が熱海に移つて後、二度ほど訪問された。「英訳万葉集」につづいて、謡曲の英訳が学術振興会で行はれることになり、自分もその委員を嘱託されてゐたので、来られる折には、「あの謡曲の訳が完成するとよいが」と、話された。茅が崎に訪問した日は、生憎不在であつた。誠子夫人に請ぜられて室に通ると、書物の前に、牛込で見た玩具がおいてあつた。「よく無事で」というたところ、「少数の本と共に壕に入れておきましたので」とのことであつた。
学士院の例会の帰途、こみ合つた列車ではあつたが、幸にも君と自分と向ひあつて掛けたので、学問のこと、旅行のこと、京都のこと、新村博士のこと、亡き素子さんのこと、外孫小金井純子さんの歌のことなど、茅が崎に近づく数分前まで語り続けたが、その日が君との永い別となつた。
それより前に、学士院の控室で、「戦禍のためいろいろの物を焼き失つたさびしさに、歌を詠み試みた」というて示された。「心の花」にその幾首かを掲げたに、「死んだ素子に笑はれるであらう」と笑つてをられた。近く誠子未亡人が訪問された時、「これが最後の作となりましたが」といつて、博士が駅から家に帰られる途上の、松虫の歌を示された。なほ夫人が、亡き背の君を懐ふ歌の詠草を持つて来られた。見ると、腰かけて読書をしたいといはれ、狭いけれども書斎を建てられたに、そこでは、ただ二日間の読書を楽しまれたきりで、世を去られたといふ。また、運動にもなるからとて、手押ポンプの井戸水を自ら汲み上げられもした。その時、数をかぞへて、「五百で丁度よい」といつてをられたといふ意味の歌があつた。書斎のことは悼ましさに堪へず、ポンプのことは博士らしいと思うたことであつた。
追記 君の語られた謡曲の英訳は、委員市河三喜博士によつて、近く第三巻が出た。
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