鈴木梅太郎

 鈴木梅太郎博士には、自分の末女の夫が研究所で指導をうけたので、その書斎には博士の大きな写真の額がかけてある。それで学士院で、月々面会するをり、語りあつたこともある。末男の嫁の父なる鈴木庸生博士は、理研の研究室で同僚であつたに、不幸永眠された。その追悼会で、梅太郎博士が故人の学問をたたへられた懇篤な弔辞を聞いて、深く感激した。
 博士なき後、遠州御前崎の灯台にいつた。その途中、鎌倉時代の勝田(かつまた)長清の墓といふのがあり、鈴木博士の生家もあると聞いてゐたので、共に立ち寄つた。長清の墓といふに詣でたのは、長清の編んだ「夫木和歌抄」から、幼い時より恩恵をうけてをる自分は、多年の望を果したのである。鈴木家を訪うたのは、博士を知つてをつたといふだけではない。さきに猪苗代村なる野口英世博士の生家を訪うての感銘が深かつたからであつて、日本人として、また日本人のために、世界的研究をされた人々を尊敬してである。門を入れば柿の古木があり、博士が折々帰つてやどられたといふ室に通された。
 さて、御前崎の町に行き、郵便局長なる下村氏の家に立寄つたところ、才がありながら早く世を去つた長男の遺著「遠江新風土記」を示された。繙いてゆくと、鈴木博士の語られた言葉の中に、胸にしむ一挿話があつた。博士が若くてスイッツルに留学した時、母君から来た絵葉書に、「シュワイツの冬をしのげよ梅の花やがて花咲く春を思ひて」と、博士の名に因んで梅によそへた激励の歌が書いてあつた、とある。自分は、母君の心に深く感じたことであつた。しかして、「伊達政宗が朝鮮の役に在つた時、母最上氏からの消息が来た。それを開くと、中から梅の花いく片がこぼれ落ちて、消息には、『秋風のたつから船に帆をあげて君帰りこむ日の本の空』といふ歌がかいてあつたといふ昔がたりがある、それと趣はちがふが」というて、下村氏や同行の落合裏次氏に話したことであつた。その後、博士の未亡人須磨子刀自が、竹柏会の同人となられたので、博士が学問の研究に熱心であつた数々の話を聞いたことであつた。

    滝精一

 日本学術振興会の事業として、万葉集の英訳が企てられるや、はじめ八人の委員――文化史の側から、滝、姉崎正治、新村出、阿部次郎、国史学から、辻善之助、英文学から市河三喜、漢文学から鈴木虎雄、国文学から自分――後、六人の原案委員――東大の橋本進吉、京大の吉沢義則、前東北大の山田孝雄、国大の武村祐吉、歌人として斎藤茂吉氏、自分――と翻訳担当の二委員-小畑薫良、石井白村氏――が嘱託され、滝博士が委員長となられた。各々専門の委員の会合であるので、訓義の上で、翻訳の上で、その他種々の議論がやかましく、時としては激しく、時としては長い論争になることもあつた。そのやうな場合、委員長がいつもたくみに処理せられたので、うるはしく花さき実を結んだのであつた。(巻頭写真参照。)
 また、学士院の「宸翰英華」編纂の事業には、同じく滝博士が委員長になられ、自分も委員の一人として、宮内省、各宮家をはじめ、ここかしこを歴訪し、京都東山御文庫の調査にも同行したが、鋭意事業の進捗を計られた。然るに、完了を見るに及ばず永眠されたことは、まことに遺憾である。
  附記 大正六年の竹柏会大会には「法隆寺金堂の美術」の講演を請うた。また心の花に「松本晩翠翁」{第二十一巻八号}「源氏物語絵巻に就いて」{第十八巻八号}を寄せられた。

    俵国一

 熱海に移り住んで後、西山在任の俵国一(くにいち)博士と親しくなつた。それは、博士の義姉松子刀自が門人なので、大臣になられた兄君の孫一氏とも交はつてをつたからである。その専門の砂鉄製錬法の為、招かれて折々地方を巡られたが、さういふ時は別として、平素は西山の坂道を極めて気がるな恰好で、登りおりしてをられた。
 ある年の文化の日、西山の有志の人々が、文化動章拝受の君と自分とを招かれた。膳部につくとて「俵さん正席に」といふと、「君は第一回の拝受者であるから」と譲られる。自分は、「二人は同じ明治五年生れでも、俵君は二月生れ、僕は六月生れ、月上(うへ)であるから」といふと、「ヤア佐佐木君にやられた」と笑つて、正座につかれたことであつた。
 近年鎌倉の令息の邸内に移られたが、隔世の人となられたことは歎かはしい。

    新渡戸稲造

 明治四十二年の春の竹柏会大会の折、新渡戸(にとべ)博士に講演を乞うたに、「ファウスト物語について」といふ題で話された。「敷島の道に心得のない私が、斯ういふ会に出ますことは、忠臣蔵の芝居に弁慶でも出るやうに、あまりに釣合のわるいことで……」と面白く前置をして、話を進められた。しかし博士は、敷島の道を心得られないのではなく、学生の会合とか結婚式などには、屡々訓誡の古歌を引用された。話が自分のことに移るが、三村起一氏の結婚披露宴の時、いつも出掛けるまで仕事をしてゐて、当時は得やすかつた自動車でその日も築地の精養軒にいつたところ、「いや、こちらには、其の方の御披露はありません」とボーイがいふ。上野の精養軒に電話をかけて貰ふと、上野の方であつた。微苦笑しつつ再び自動車をやとひ上野へいつたに、すでに食卓が開かれて、しかも新夫人の歌の師といふので、媒酌の新渡戸博士の前に席があつた。席に着くと、やがて博士は祝辞を述べられた。その中に古歌の上句を引かれたが、話をきつて自分に向ひ、「この下句は何といひましたかね」と問はれた。幸ひ答はなし得たものの、重ね重ねの苦しさであつた。
 また、時好倶楽部で桂川へ鮎漁にいつた汽車中、博士と隣席したに、最近のある国際的感想について、「かういふ歌を詠んだから」と十数首を示されたが、いづれも感慨のこもつた作であつた。
 軽井沢にをつた或る夏の夕べ、霧の深い山荘に、博士を訪うたことがある。喜んで迎へくれられ、歌語りに時をすごし、さて帰らうとして玄関に出たところへ、夫人が帰つて来られた。博士は、自分を、歌の道に何十年をささげた人であるといふ風に夫人に紹介され、夫人の答を訳して聞かされた。それは、短い言葉であつたが、意味の深い言葉であつた。
  追記 ブラジルに移住されて三十年に近い岩間春野夫人が、昭和三十三年来訪された。夫人は新渡戸博士の姪であられるが、祖父君新渡戸常澄翁開拓百年祭が十和田市三本木で行はれ、銅像が建つので帰国されたとのことであつた。

    山崎直方

 山崎博士は温厚の君子といふべく、地理学者として旅行をよくされたので、帰られての旅がたりをかの山上集会所の午餐の時よく聞いた。中でも、同人の石井衣子さん夫妻のをられるアルゼンチンから帰られて、彼の地の話をされたのは、印象に残つてをる。さういふ交はりから、わが家に丘浅次郎博士の女がとついでくる時、博士夫妻に媒妁の労をわづらはしたことであつた。

    内藤虎次郎

 湖南内藤虎次郎博士の「燕山楚水」は、若い頃、屡々愛読して、自分の南清行の一因ともなつた書であつた。
 曽て「南都秘笈」の印行を企てたをり、博士は、聖武天皇宸翰の「雑集」及び「杜家立成」のために解説を書かれ、また、「百代草」にも序文を贈られた。大震災の直後、「校本万葉集」の原稿も、製本所にあつた五百部も全部焼失したに対して、同情ある書面を各方面から贈られて感謝したことであつたが、殊に自分に深い感銘を与へて、再び「校本万葉集」の印行を成さしめたのは、自分を家に訪はれての月台荘主人熊沢一衛君の激励と、博士の書簡とであつた。
 博士は、時に和歌をも詠ぜられた。深遠なる谿谷から清冽な水の湧き出づるごとく、詠歌の窮極は畢竟その人である。博士の作は、気魄に充ち、高邁なる精神を以て貫かれてをる。
 欧米に官遊せられたをりの和歌六首、いづれも、命を奉じて赴くといふ大きな気格によつて統一されてをつた。また、山城瓶原(みかのはら)に新居を占められた折の作十首がある。
 恭仁山荘には、一二回おとづれた。久迩の古京は、万葉集の長歌に、「河近み瀬の音(と)ぞ清き、山近み鳥が音(ね)とよむ」とうたはれたごとく、鹿背(かせ)山は緑にそびえ、木津川の流は清くさやかである。老木の茂つた故宮の跡をよぎり行けば、小高い丘の半腹に山荘がある。古京の景勝を、一眸のもとに望む清楚な居宅の傍らに、堅牢な書庫がある。博士に案内せられて書庫の楼上にのぼると、その一隅には貴重な漢籍の数々が収めてある。数冊を抽出してかつ示しかつ語られた。
 君が華甲の記念論文集の第二巻に、自分は「成尋阿闍梨母集」のことを書いた。自分の還暦の際の論文集には、君は書くべきよき題目が見当らぬからといつて、短冊に万葉書(がき)に書いて、歌二首を贈られた。
 博士の歌は、よく万葉の精神を体得せられたものであつた。従つて博士は、万葉集を愛せられた。大阪朝日新聞社によつて、天平文化記念会が開催された時、当時の副社長上野君は、博士を山荘に訪うて、記念のために不朽に伝ふべき事業として何が適当なるかを問はれたに、博士は、万葉集古鈔本の複刻をと答へられた。しかして、かの「元暦校本万葉集大成本」十五巻の刊行となつたのである。自分がその事に当つたのは、実に博士の答に基づくのであつた。

    清水澄

 昭和二十二年九月十二日、学士院の会議室で、毎月と同じやうに清水博士の隣の椅子に自分はこしかけてをつたに、会議の終つた後、博士は近くよまれた歌を示された。それは金婚式を祝はれた日、近親をつどへられた喜びの歌と、他に二三首あつた。いささか筆を加へると、いつものにこやかな面もちで、「有がたう」といつて、ポケットにしまはれた。
 二十六日の正午前、わが熱海の凌寒荘に訪問の客と話してをるとき、毎日一回配達される郵便物が数通来た。自分の習慣で、話をやめて手紙に目を通してゆく中に、清水博士のには、歌が四首かいてあり、終りに、いつものやうに、「乞叱、澄拝」とある。その第二首めの前に、「辞世」と題がかいてあるのでおどろいて目を見張つたが、これまでも、老年の人々には、前から辞世を詠み試みて見せにおこせられた例があるから、さうであらうと思ひつつ、第四首の「秋季皇霊祭の日」と題された一首がすぐれてをつたので、来客にもその一首だけを読んできかせなどした。
 しかるに、その日の午後四時過に、熱海の新聞記者があわただしくもたらした悲しいしらせを聞き実に驚き、深く歎いたことであつた。送られた手紙の封筒を見ると、二十六日の熱海局の消印がある。おもふに二十五日に熱海に来られて、ポストにいれられたのであらう。
 二十七日に訪ひ来た新聞記者から、博士の遺書の写しといふのを見せてもらつた。国を憂へ、法を重んずる老臣の切々たる至情に、つよく胸を打たれたことであつた。
  追記 昭和三十五年十月、君の慰霊祭が学士会館で執行された

    西田幾多郎

 先輩知友から贈られた書簡のたぐひの収めてある箱をあけて見たところ、中に、西田博士の書簡があつた。大正十一年に、自分の歌集「常盤木」を、京都の朝永正三博士を通して贈つたに対しての書状で、「歌集など拝読いたすこと、此上なく楽みと致しゐ候」とある。後、学士院の例会に自分が出るやうになつて、語りあふ機会に恵まれた。君また作歌に志されて、「新万葉集」にもその作が廿七首掲げられてゐる。君にしてその深奥なる思想を猶多く詠み出でられたならば、大西祝博士と双璧といひつべき、哲学者の歌人となられたであらうにと、わが歌の道の上からも、君の逝去が惜しみ悼まれる。
  追記 西田博士歿後、七里が浜の中ごろの砂丘に、歌碑が建つて「七里が浜夕日漂ふ波の上に伊豆の山々果し知らずも」といふ歌が彫られてをる。

    藤井乙男

 紫影藤井乙男(おとを)博士は、気品のある俳人とおもはれる感じで、物やはらかな話ぶりであつた。京都へいつた折に、二三回訪うた。それは、君が上田秋成の事蹟にくはしく、自分も秋成の歌文を喜び、その著書を探索してゐたからである。大正八年三月に訪うた時は、秋成の万葉に関する著で、金砂、楢の杣以外に、三條中納言公則卿のために万葉集を講じた筆記の写し二十巻があることを聞いた。その折、足代弘訓の文政十二年の書牘に、万葉類語のことがしるされてあるからとて贈られた。
 石田元季氏の「俳文学考説」に学士院賞の授けられる前、上京された君に上野で逢ひ、会がをへてから、万葉と俳諧といふことなどについて語りかはした。

    長与又郎

 今は昔ともいひつべき頃の話である。三浦守治博士が来られて、「今日はまことに喜ばしい。今年卒業の長与又郎君は名家の出であるが、成績秀抜で将来性がある。自分の病理学の後継者山極君の跡を継ぐやうに、病理学者として一層勉強されよと説いたところ、承諾とのことで喜ばしい」と、話された。
 爾来何十年かたつて、山中湖畔に蘇峰徳富翁の別堂を訪うた折、隣家に住まれてゐた長与博士が来られ、共に昔がたりをしたのが縁となつて、移岳集の増補版ともいふべき「三浦守治先生歌集」が、病理学教室設立五十年記念に出版され、自分もその式典に列した。そのやうな関係から、自分の還暦の祝賀会には祝辞を述べられもし、またチェンバレン先生の記念講演会の前に、大学の総長室にいつて、君に講演を依嘱もした。
 君の後を継がれた緒方知三郎博士が来訪され、「病理学教室の講堂の裏の入口は、教職員や学生の出入するところであるが、独逸の某大学にならつて、そこの壁に、解剖用の大理石の盤を嵌入したいから、それに撰文を」と嘱された。しかして、「上部に、三浦博士の歌、山極博士の俳句、長与博士の書の額をも彫りたい」との言葉である。偶然にも病理学の初代三代の部長との縁をおもひ、撰文のことに当つたのであつた。

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