学海の人々(この項五十音順による。)
大西祝
操山(さうざん)大西祝(はじめ)博士は、明治中期の歌人の一人としても、また歌学者としてもすぐれた人である。
大西博士は和歌の価値をよく認め、和歌の意義をよく了解された点に於いて、明治の学者中第一のしかも唯一の人であつた。君が明治二十年四月、「六合(りくがふ)雑誌」に、「和歌に宗教なし」の一篇を公にせられて以来、「詩歌論一班」、「詩歌論」、「歌話数則」、「香川景樹翁の歌論」、「国詩の形式に就いて」「近時の和歌論」等の論文で和歌を論ぜられたのは、いづれも精到深邃の見解であつて、明治文学史上の一異彩とされる。自分は、その時ごとに読んで啓発された所が少くなかつた。君が和歌に対してかく、理解と同情とを有せられたのは、桂園派の池袋清風氏に歌を問ひ、夙くより斯の道に入られたゆゑであつた。しかして、その素地を開拓するに、泰西の学問の造詣を以てせられたのである。当時同志社の間に起つた桂園派の新運動は、明治和歌史中期の一現象として記憶せらるべきのものではあるが、実(み)は結ばなかつた。ただ君の諸論文は、此の運動から得られた最も貴き産物である。
君は単に歌を理解し、之を論ぜられたばかりでなく、また自ら歌を詠じて、一家の歌人たる境に達せられた。その学問的修養の間になし得られた一種の思想的の深みや新しみが加はつた点に於いて、当時の歌人に見られないものが君の歌には存した。君が世を去られて以来、和歌界にはさまざまの新しい運動が生じ、歌壇の面目は一新した。今日に於いて、君がをられたならば、その厳正なる歌論は、如何なる批評を今日の歌に加へられるであらうか。また君自らの歌風はいかなる発展を示したであらうか。これを見ることの出来ないのは、吾人の殊に遺憾とするところである。
自分が君と語つた想ひ出は、同人の安藤直方君に頼まれて、早稲田の少数の学生の文学会に出た時君は哲学を、自分は歌学を述べた後、かなりな時間を親しく語りあつた時が初めであつたと思ふが、その折の感銘は深いものがあつた。
「心の花」第十八巻一号には、大塚保治博士の「大西祝博士を懐ふ」といふ長文が掲げてある。「明敏な頭脳と、豊麗な感情と、堅実な意志と、三拍手揃つて発達した人であつた。宗教家で同時に学者、道徳家で同時に詩人であつた。しかもその諸方面を通じて、性格の根底となるものは、高い、清い、深い、精神的理想的情操であつた」と述べ、「君の哲学の傾向は進化発達を主とし、存在(ザイン)よりも生成(ヱルデン)を重んじ、所謂実相諭に対して縁起論に傾いてゐた」と、哲学者としての君に就いて語つてをられる。かつ一八九八年から九年にかけて、フィレンゼ、イエナ、ヷイマル、ライプチヒから送られた十九通の書簡を、一号と二号に分載し、二号には肖像及び筆蹟をも掲げてある。
自分は、昭和十二年五月、岡山医科大学に招かれて和歌を講じた時、学長田中文男博士の案内で、君が号とせられた操(みさを)山を近く東に望み見、君の記念碑のもとに立つて、君を偲んだことであつた。
附記 碑は、君の旧宅の跡なる山陽女学校の校庭に建つてをつたが、先年の戦火で学校と共に形を失つたとのこと、まことに遺憾である。
大槻如電
如電翁は、はじめ修次郎、修次、分(くまり)、後に修二といはれた。弘化二年中秋後二日、江戸木挽町に生れ、昭和六年一月、八十七歳で日暮里に歿せられた。
翁は、江戸児風の学者であつて、弟君の文彦博士とは性格が異つてをられた。しかし、博学の点は博士の兄君たるに恥ぢなかつた。はじめ浅草新堀端に住まれ、後、日暮里に移られた。多くの善本を蔵してをられた。自分の茂睡研究のをりに、種彦旧蔵の「紫の一本」を看るを得たのは、翁の書架に於いてであつた。梁塵秘抄について研究してゐた折には、天文本の梁塵秘抄に浅草文庫の印記あるものを贈られて、今に架蔵してゐる。
西片町にも度々来訪せられた。自分は短冊蒐輯の趣味から、名家短冊帖を印行したをり、翁に珍しい短冊を問うてをつたに、京都への旅中から、杉田玄白が信友に贈つた短冊を発見したとて、わざわざ、葉書を寄せられたのであつた。
大矢透
大矢透(とほる)博士は、上代の仮名の研究者として、実に熱心な、かつすぐれた学者であつた。自分がかつて万葉集の仮名に就いて、麻布飯倉の寓居を訪うたをり、万葉集の古写本を示された。しかして話されるには、これはかつて京都に旅したをり、細川書店で求めたものである。古写本のこととて、もとめたくは思つたが、旅中ではあり、思ひ断(た)つてもとめずに店頭を出たのであつたが、かかる古写本は二度手に入れることが出来るかどうかと思つて、数丁きてから、後(あと)戻りをしてもとめたものである、と言つてをられた。
その本は、後に校本万葉集の事業のため、大学に借り、橋本君の研究に依つて、流布本巻七の錯簡の理由が発見された等、学問上貴いもので、大矢本万葉集と呼んでをる。
後、博士は古経の研究のため居を奈良に移されたが、かの地の橋井善次郎氏のもとを訪はれた時、その所蔵にかかる嘉禎四年九月書写の和歌色葉集中巻の零本一軸を発見された。色葉集の写本中最も年代の古いものであるので、校本万葉集の諸本輯影に掲げたことである。
鴻巣盛広
五月三日(昭和四年)の朝、金沢にて下車すると、四高の鴻巣盛広教授、中島県立国書館長が迎へに出てをられた。公園のみよし庵に小憩して、午前に松岡三次翁の家を訪うた。それは、この三月に、松岡家から読売新聞社主催の名宝展覧会に春日万葉切を出品したいと、顧問であつた自分のもとに手紙が来た。喜んで、出品せられよといひ送つたに、やがて、数葉を携へて上京した使の人が、いま一葉、廿巻の巻末で年号のある所のは掛物にしてあるゆゑ持つて来なかつたといふ。巻末、ことに年号のある処ならば是非みたい。幸ひ五月には北陸の万葉旧蹟めぐりにゆくゆゑお伺ひする。それで勝手がましいが、近親や知友の方々の家の古典籍古筆の類をも同時に拝見する機会が与へられたいと依頼したのである。鴻巣君らも同行したいといはれるので、電話でどうぞとの返事を得て、一緒に行つた。室に入ると、閑雅な庭に面した座敷の床に巻廿の巻末五行、終に「寛元二年三月九日書写之 祐定」とある幅が掛かつてをる。喜び見めでつつ話してをると午餐が出た。一皿の慈姑(くわゐ)の根を小さくしたやうなのを指ざして主人が、これはといはれるから、かつて味はひました、「寺井の上のかたかごの花」の根でせうというたに、うなづかれた。おつぼに若布の酢の物のやうなのが入つてをる。これはといはれるので知らないといふと、雄神川の葦つきです。昨日人をやつて取らせたのですといはれた。主人の厚い志を深く感謝した。食後に、かねての御依頼で家にあるもの、また本家の主人が法事で東京から来てゐます。今日は先約で来ませんが、許しを得て蔵から秘蔵の数種を出して来ました、といはれる。いづれも貴い数点を見た後、古い箱に入つた綴葉本をとうでて見ると、題簽に金槐和歌集とあるは本文とは別筆で、本文の初め数葉は定家が書き、あとを、女の人に写させたものである。夢ではないかとしづかにひらいて巻末を見ると、「建暦三年十二月十八日」と定家の筆でかいてある。建暦三年は実朝廿二歳の冬である。従前は、金槐集の金は金玉集、金葉集の類のたたへ詞に鎌倉の金偏をよそへ、槐は大臣の義、実朝世を去つた後に侍臣があつめたものと思うてゐたに、廿二歳の冬に、おそらくは後鳥羽上皇に上(たてまつ)つたものを、定家が家にのこすと、初め数葉を自らかき、あとを家人に写さしめたものとおもはれる。さすれば将来廿八歳の正月まで五年と一と月の歌稿が出ぬとはいへぬ。実に尊いものであると感嘆時を久しうした。主人にきくと、本家の主人は五日前に来られ五日後に帰京されるとのこと、いま一週間早くてもおそくても、この眼福は得られなかつた。また、近親などのをも頼んでほしいと我ままをいはなかつたらばと感激しつつ、どうか主人が帰京の際持ち帰られて、東京でゆるゆる拝見したいと懇請した。
うまし書みる幸得たりみ越路の万葉の旅の第一日に
いく百年うづもれゐつるうづ宝これの歌巻を初(うひ)にわが見つ
北陸めぐりの第一日にこの大いなる喜を胸にしつつ、県立図書館に赴き、高橋富兄翁や藤岡東圃博士の旧蔵書{かの異本山家集もあつた。}を見、公園を歩いて、九歳の初夏に父と共に訪うて記憶に残つてゐる根あがり松を眺め、宝円寺の宗達の墓に詣で、夜はみよし庵の池亭の歓迎歌会に出た。
さて、鴻巣君の家に一夜の客となつた。君は、「万葉集全釈」の著者とて多年の知己ゆゑ、夫人も同席して、全釈の終り際に、頭が重いといふので、指圧療法を学んで云々といふ話を聞き、涙がこぼれた。(翌日から六日まで、君の案内で、能登の万葉めぐりをしたがここには省略する。)
なほ、子息隼雄君も同じく国文を研究してをられるのは喜ばしい。
佐々醍雪
佐々(さつさ)君にはじめて逢つた時、君が、帝国文学の附録に出された歌謡の変遷に関する論文について、自分も古歌謡に就いて研究してゐるので、長時間話をした記憶がある。
文芸雑誌での和歌の懸賞募集は、春陽堂の「新小説」(第一期)が嚆矢であるかとおもふが、佐々君が主宰された金港堂の「文芸界」では、かなり規模の大きな懸賞をして、数人の選者に委嘱したことがあつた。そのため度々君の訪問をうけた。
ある時、君が雑誌に書かれた文中に、引用された歌論の出所について問うた。その小唄は、
空たつ鳥か日本へ行かば 言伝しよも文副へて
といふのであるが、古歌謡集にある吉左右踊の唄と知らせてくれられた。それを見ると、「文禄年中豊臣家朝鮮征伐の時、金森法印父子、肥前唐津に在陣せり。然るに朝鮮に在る処の日本の諸将、速かに勝軍の事、唐津より告げ来れり。仍て下民是を祝して、高山城下に群参し、踊歌せしを濫觴とす。俗に吉左右の告げ来るといふを以て名とするもの也」とある。
君とは、無名会でよく話した。無名会の会員の中では、佐々君、保科孝一君、杉敏介君と、自分とが同甲であるが、君の早く世を去られたのは、まことにいたましい。
品田太吉
自分の小川町時代の早い頃、英語を学びたいと思うてゐた折から、誰かが来て、此さきの美土代町の裏通りに、品田氏の英語教授の看板を見たので習ひにいつてをるが、とのこと。自分もいつたに、温和な性格の先生であつた。二三回いつた後に、友人から、東京法学院の夜学で英語の選科があると聞いて、そこに入学した。
何年かの後、品田氏が来訪された。「太吉が本名、雅号は守信で、万葉研究を独りでしてをる。ここへ原稿を持つて来た」と示されるのを見ると、考証的のよい論文であるから、明治四十年九月以来大正十一年一月までに数種の論文が「心の花」に掲げてある。中にも「万葉集両巻考」のごときは、自分も考へてをつたことに近いので、喜ばしかつた。
その品田君が、はやい時分に、「こんな掛物を古本屋で見つけて買つて来た、万葉のことがあるから」とのこと。見ると、戸田茂睡が、まだ若い寛文五年に、歌についての意見を述べたもの、梨本集より数十年前にかかる文書をかいたことと驚いて見守つてゐると、「江戸時代まで研究する時間がないから、譲つてもよい」との詞に、深く感謝した。自分はその前から調べてゐた数種の書物も見いで若くて住んでゐた下野の黒羽をも訪ひ、ここかしこの歌碑や寿碑等にもおり立つて、大正二年九月「戸田茂睡論」を刊行したことであつた。
島地雷夢
大磯に暑を避けてゐた時、同じ地にあつた高山樗牛君と逢つて、屡々文学談を交へた。そのをり、樗牛君に、将来最も嘱望すべき若い人の名をきいた時、当時大学の学生であつた島地雷夢君が、頭脳もよく、文章もすぐれてをるといふ事を話された。
然るにその後、東京小石川なる画家松井昇氏の家に招かれた際、同じく客となつて晩餐をともにした年若い大学生の中に、偶然にも島地君があつた。しかして同じ時に会した人々は、いづれも島地君の親友で、当時の大学生なる斎藤野の人、内ケ崎作三郎等の諸君であつた。
これが縁となつて、君は斎藤君と共に度々自分の家を訪はれ、しばしば歌を示された。その後、君の妹君あつ子さんが竹柏会に入られて、君との因縁がいよよ深くなつた。君が神戸に静養せられるやうになつてからも、度々手紙に接した。ことに須磨にある社友朝場重三氏と親しくされるやうになつたので、折にふれては共に歌を書いた寄せ書の葉書などをおこされた。
然るに一昨年であつたか、大学に講義に行く途上、思ひもかけず、から橋のほとりで君の自分を訪はるるに逢つたので、大学までの道々物語をしつつ行つて別れた。その時は君も大分健かになられたやうに見うけて、心ひそかに喜んだことであつたに、後、君の訃を聞いて、かつ驚きかつ悼んだことであつた。 (昭和九年、追悼会にて)
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