長井金風

 金風長井行君とは、君が二六新報社に関係してをられ、自分も夙く同新報に歌を寄せてゐたので相知るに至つた。小川町の家を屡々訪はれ、学問に就いて語つた。「心の花」にも劇曲考(六巻十号)を初め、数回寄稿せられた。明治三十八年に、安南交趾の間を探険すべく渡海せられた時、自分は、「葱嶺の西三千里君ゆかば蹄の跡ゆうまし花さかむ」とよんで送つたが、惜しくも功成らずして香港より帰朝せられた。
 「国がらにやあらむ」といへる古語の如く、秋田県には和漢の学者にすぐれた人が多く出た。長井君も其の一人である。しかし君は和漢のすぐれた学才を懐き、説文土俗攷、医心方異字攷等着手せられたに、世に知られなかつた不遇の人で、特に晩年目を病まれたのはまことにいたましい極みであつた。君の著として所蔵してをるのは、万葉新採百首を註された万葉評釈と、歌集枯葉集、柘葉和歌集とである。枯葉集は、自分の「和歌百話」の中にも紹介したが、万葉以前の古風を詠じた、注目すべき歌集である。

    沼波瓊音

 沼波瓊音(けいおん)君は、教職を捨てて伊賀から上京せられ、万朝報社に入られた頃よりの知己である。殊に君の弥生町時代には、峰ゆり子夫人から度々消息を聞いたことであつた。峰夫人も、数年前、君と同じく暑いさかりに世を去られ、今また君もなくなられた。現今の国文学界に、君の如く情熱に富んだ学者は恐らく無いであらう。「国語と国文学」の芳賀博士追悼号に、芳賀博士より沼波君あての手紙の返事が載つて居る。それによると、博士は沼波君の手紙を涙を以て読んだとやうに書いて居られるが、沼波君にして、また芳賀博士にして、げにもと思はれる。
 君に就いて思ひ出の一二を記すと、自分が編纂した梁塵秘抄を贈つた時、君は、その歌謡の面白さに感激して、昨夜は夜を徹して読んだ、かの雑芸時代を中心として創作をつづり試みたい、といふ長文の手紙を送られた。また自分が小川町にをつた頃には、人々を招いた事があるが、ある時、依田学海翁と同席された君は、後、自分を介して書画帖へ執筆を請はれた。翁はやがて、「学海居士居酒屋に天下国家を論ずる図」と題して痛快な絵をかかれた。それを君に届けたところ、あの血色のよい面わに笑を浮べて、いたく喜ばれた思ひ出もある。近年の君は、国士として、雑誌に執筆せられ、また祖国愛の著作を種々公にせられた。日本の為に、日本文学の為に、まことに惜しむべき熱血の学者を失つて、痛嘆に耐へない。 (昭和二年七月)

    林古渓

 林翁は、東洋大学の前身なる哲学館の出身である。自分は、哲学の名にあこがれて、その創設された時に入学したことがあるので、翁と初めて逢つた時、さういふ昔がたりをした。
 翁は、漢学、国学の両方面を兼ねた学匠であつたが、松山高等学校の講師を辞して、上京された後は、立正大学、日本大学などに教鞭を執り、詩歌の雑誌を刊行して、人々を導いてをられた。
 田端の高からぬ坂の上の家、枝折戸をあけておとなふと、翁も、ますゑ夫人も、いつもにこやかに迎へられた。四時佳興と名づけられた楼上の書斎からは、富士がその上に姿を現はすといふ駒込の森から、本郷、上野、谷中辺までが低く眺められる。自分が漢文の疑義をただすと、懇切に語られた。梁塵秘抄について、その仏典に於ける造詣から、長篇の考証を「心の花」に寄せられたこともある。「万葉集外来文学考」は、翁ならでは成しがたい著書で、長く後世に伝はるべき書である。晩年に「懐風藻新註」を著はされ、組版も出来たといふに、印行されぬうちに戦禍にかかつて、世に出ぬことは遺憾である。種々考究された新説があらうと思ふに。
 翁も世を去られ、かの田端の家も、多くの蔵書も亡んだことは、ただただ歎かはしい。しかし、子息大(おほき)氏が家学を嗣ぎ、孫女たちの生ひ立ちゆかれるのを、翁の霊は、在りし世ながらに、にこやかに見守りをられることとおもふ。
  追記 「懐風藻新註」は、昭和三十三年十一月、明治書院から出版されて学界を益してをる。

    松井簡治

 無名会の会合は隔月で、年六回であるが、上田、芳賀、三上、三博士の発起で、国漢文及び国史の初期時代卒業の人々であつたが、会員同志の親しみは実に深かつた。
 松井博士も、自分もその会員とて、君の小日向の坂の中途の左側の邸を訪うて、古語の疑義をただしたことがある、初めての訪問の日、玄関からあがると、すぐ座敷であるが、書斎や土蔵はそこから段々を下つたところにあり、その向うには江戸川の流が見えてをり、当時はまだ早稲田の一部は本当の田であつたのが見える。「絵のやうなお住居ですね」といふと、「太田道灌のやうな歌でもつくりませうか」と笑つてをられた。折々は、「何々はありますか」と古書を見に来られたこともあつた。
 自分の座右には、松井さんの「大日本国語辞典」と、大槻さんの「言海」とがおいてあつて、毎日一二回はひくこととしてゐる。大槻、松井二博士の恩恵を日々うけてゐるというてよい。

    正宗敦夫

 正宗白鳥君は、読売新聞の記者時代に度々逢つたが、弟君の敦夫君は、岡山県から上京のをりに、何回か訪はれた。君の編纂にかかる「万葉集総索引」は、実に面倒な大事業につくされた事と感じ、座右の書架に置いてその恩恵を蒙つてゐる。
 さきに岡山県にものした折、午前に池田家の古書、手鑑等を拝見することが出来て喜ばしかつた。その夕べ、正宗君や、金光の佐藤金造君、岡山の田中文男博士、黒田克巳君らの発起で、後楽園の浩養軒で歓迎会があつて、それぞれが持寄られたものを示された。正宗君の携へ来られたのは、細川幽斎が、豊公の御伽衆なる竹田永翁に宛てて、万葉の外題の執筆を妙法院宮常胤親王にと依頼されたにこたへた書簡を掛物にしたもの。「これは近辺の道具屋で、いつからか目にとまつてゐたが、価がすこし高いので見合せてをつた。今日は佐佐木君が来られるので、かつて来たのです」と説明された。自分は、「正宗君が買つて来られたのでなかつたらば旅費の全部を出しても買ひたいに」といふと、君は、「ナニ、かつて来たのだよ」といはれる。傍からも誰かが、「正宗君はかつて来たのですよ」といふ。何の事かわからずにゐると、又誰かが「岡山では買ふことは買うて、借りることは借つてといふのです」と説明してくれた。自分は正宗君に、「それならば買ふことを自分に譲つてほしい」というて、限ないよい旅土産(づと)を喜んだのであつた。{「古筆凌寒帖」に収めてある。}

    山田孝雄

 最初の筆は、主題をはなれたことであるが、自分の長い生涯の中で、最も喜ばしかつた日が二日ある。その一日は「心の花七百号」にもかいた元暦校本万葉集十四帖本を初めて開きみる事を得た日、いま一日は、近衛家から京大図書館への寄託本を新村館長から許されて見るを得、琴歌譜一帖を発見した日である。後者の時は、帰京してすぐ上田万年博士を訪うたに、先客に山田孝雄(よしを)君がをられた。それで、記紀万葉にない十三首の古歌謡の発見を話したに、共に喜ばれたことであつた。
 山田君には、「心の花」にしばしば寄稿を請うて、すぐれた論文をおくられたのであつた。
 明治時代には、万葉の注釈書で活字になつたものは万葉集略解のみであつた。然るに大正・昭和の万葉研究は実に驚くべきものである。中でも山田君の万葉集講義はすぐれてゐるが、巻五まで五巻が出て、完成しなかつたことは遺憾である。
 英訳万葉集の会議の日には、ある一語一句の解釈について、長時間、論議をたたかはしたこともあつた。

    和田垣謙三

 牛込の弓場に弓を習ひにいつた時、傍の人と皮肉まじりのおもしろい話をしてをる身体の大きい人があつた。それが和田垣博士であつて、博士を知つた初めである。
 自分は当時万朝報の歌の選をしてをつたが、毎回、選歌の終りに、自詠一首をそへる例であつた。その歌のうちで、暴風の後の月を詠んだ一首を、博士が紙上で見られて、英訳の短冊をおくられた。
 自分の編纂した「鏡草」の中に掲げてある。{「短冊凌寒帖」にも掲げた。}

    井上頼圀

 明治時代の学者には、蔵書家が多かつた。今日のやうな図書館の設備の乏しかつた時代では、学者は、どうしても多くの書物を架蔵しなくてはならなかつた。
 小中村、木村、小杉先生、黒川真頼博士等皆蔵書家であつたが、就中、井上頼圀(よりくに)翁の蔵書は其の数が多く、自分は屡々訪うて、多くの益を得たことである。万葉集古義のごときは、印行前、翁所蔵の写本を十冊づつ次々に借覧して、自分の万葉集研究に最も大きい刺戟を与へられた。その他、自分の日本歌学史は、大学に於ける講義を本(もと)としたものであるが、其の材料の中なる鈴木雅之(まさゆき)の歌学正言、歌学新語等、他になくして、先生の蔵書中に見るを得たものがある。
 また当時、わが竹柏会の毎月十一日の歌会では、斯界の老大家に請うて講話をお頼みした。翁も数回来て下さつた。翁は座談が巧みに、また酒をも好み嗜まれたので、かの酒好きの安藤野雁の事を話された時は、野雁が一杯の酒を、なめるやうにして飲むさまを、手振を加へて話された様子など、今も目に見えるやうである。

    井上円了

 東京大学の赤門前に、哲学書院といふ哲学専門のささやかな書店ができた。それは井上円了博士が好事的にはじめられたものと聞いてゐた。やがて、博士の哲学館が開講されるといふ話がひろまり、国文学を専攻する身ではあるが、深玄な哲学へのあこがれを抱いてゐた自分は進んで入学した。場所は、湯島の麟祥院で、俗にいふ、からたち寺である。開校式は本堂の広間で行はれて盛況であつた。大学に通つてゐても、場所が近いので、大急ぎで往けば間にあふやうな時間の時には聴講した。のち英語も学ばねばならぬために、一年未満で中退したのはいかにも心のこりであつた。井上博士の純正哲学や、辰巳先生の社会学、課外講演の高島嘉右衛門翁の易の話など、有益で心に残つてをる。これが、今の東洋大学の濫觴である。
 十数年後、明治三十六年九月のある日、博士が小川町の家を訪はれた。「これは哲学館の名誉講師の第一号といふ証書である。君は哲学の専攻ではないが、『学問』にはげむ功に対して贈るから、受けとられたい」との懇篤なことばであつた。中退した自分にといたく恐縮し、感激してその第一号の証書をいただいたのである。

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