校本万葉集・契沖全集の人々

    橋本進吉

 上田博士の後をうけつがれた東大国語学の教授橋本博士の学問上の主なる業績としては、上田博士との共著なる「古本節用集の研究」をはじめ、「天草版切支丹教義の研究」や、悉曇学者その他の事蹟、音韻史、上代語に関する幾多の論文、教育の上に大きな影響のあつた新文典とその別記などがある。中でも、上代特殊仮名遣の事実と、それに関する石坂竜麿(たつまろ)の業績とは、博士を俟つて、はじめて学界にその意味と価値とが広く知られるやうになつたもので、上代の国語、及び国語の系統を論ずるに当つては、博士の研究を忘れることは出来ない。
 しかしここでは、自分と多年親交のあつた橋本さんについて述べる。
 東大の古い法文科の建物の向つて左の隅が国語研究室であり、その一隅が上田教授の室であつた。自分は講師となつてから屡々国語研究室を訪うて、当時、助手であつた橋本さんと親しむやうになつた。文部省文芸委員会の事業として成立した校本万葉集の企画について、まづ君に謀つたところ、君は、「自分の研究はいふまでもなく国語であるので、多くの時間を万葉にささげることは出来ぬが、上代国語の研究のためにも研究すべきことであるから」とて、共同研究を受諾された。はじめ準備の事業を嘱託した千田憲君は準備が出来あがつて間もなく神宮皇学館に赴任し、その後、武田祐吉氏、また後に久松潜一氏が参加することになつた。文芸委員会が廃止されて東大国語研究室の附属事業となつた時、上田教授の室、そこには木村博士の胸像が置かれてあつたが、その前で、上田・芳賀二教授と橋本君と自分とが、種々の計画また順序等に就いて語り合つた。この日の感激は、長く忘られがたい。
 橋本君は、まづ基礎事業の校合のため、当時築地にあつた古河家にいつて元暦校本万葉集十四帖本の校合をされ、中野の神田乃武(ないぶ)氏の邸に赴いて、神田本万葉集{今の紀州本}の校合もされた。大矢本万葉集を研究しては、通行本巻七の錯簡の原因を発見された。また君と武田君、久松君と自分とは、吉田知光、田中親美氏、写真撮影の倉田実氏と一緒に奈良に赴いて、時の博物館総長森林太郎博士の好意により、正倉院に尚蔵されてをる六百余巻の古文書について、上代の仮名その他を二年にわたつて精査したが、その結果が、君との合編にかかる南京(なんきやう)遺文・南京遺芳の二部である。また古葉略類聚鈔(こえふりやくるゐじゆうせう)も、君の研究によつて発明されるところがあつた。
 君は公私の別の正しい人とて、二人で対座して語る折は種々親しく話されたが、そこに誰か一人加はると、話ぶりも違つた。君は越前敦賀の医師の家に生れ、はやく父君に別れ、母君の手によつて育てられ、駒込浅嘉(あさか)町に住んでをられた。母君の病重き時、自分は親しい山川一郎博士に往診を嘱したに、母君は、皇太后さまの侍医の先生にみていただいたといたく感謝された。しかるに、間もなく逝去の報を得て直ちに赴いたに、君は亡き母君の枕もとに坐つて、しみじみと、「学問のためにはいかなる事をも何とも思はぬが、ただ一人の老母に対して、十分の孝養を尽くし得なかつたことは」と歎かれた。それより十数年後に訪問せられた時、「自分としてはすべて進み得る限度まで進み得た。母が在世であつたならば」と、声低く語られた。学者としての橋本博士は、多年行動の一部をともにした自分に、みづからの胸奥の語をもらされたものと痛感した。

    武田祐吉

 武田君は大正二年に国学院を卒へ、小田原中学に奉職された。その翌々年の何月であつたか、自分のもとを訪れて、浅草の柳瀬家の屏風にある文書につき、その写しを示して尋ねられた。次回は万葉集に関し、極めて熱心な質問を受け、数次の書信の往復もあつた。かうして自分は、篤学の青年学徒にめぐり合うたのである。
 それより前、明治四十五年から、自分は橋本博士と協力して、校本万葉集の事業を進めてゐた。当時は千田君に基礎的な仕事にかかつて貰うてゐたが、急に他の教職へ移られることとなり、後任の人選に迫られてゐた。橋本君に相談して、武田君を招き、二人で君の気持を聴いてみたに、熱意のあふれる口調で、「是非参加したい」とのこと。それで、大正五年の五月から、東大国語研究室の別室で校訂に専心せられるやうになつた。この仕事は後に久松潜一君も加はつて、四人の協力が実を結び、美しい製本の成るのもいま一歩といふべき時に、十二年の大震災に襲はれ、一切が焼け亡んでしまつたのである。幸にも、武田君と自分との手許に、校正刷が一部づつ残つてをつた。それで更に勇気を振ひおこして、和装二十五冊本を刊行するを得たのである。続いて、契沖全集、長流全集の編者の一人に参加し、また元暦校本万葉集の複製にも尽くされ、自分と橋本君とが協力した「南京遺文」、「南京遺芳」の資料探査、写真撮影のため、二年つづけて十数日を奈良の正倉院に通ひ、熱心に努められたこともある。
 また、大阪の湯川弘文社から、二人が協力して、国語の教科書や文学史を出した。駿河台下に家を借りて編輯所とし、毎年一回若い人々と一緒に、慰労のために、修善寺から湯が島に、伊香保から榛名神社へなど小旅行をもした。
 以上は、自分が君の協力を得た事業であるが、君の経歴のなかで、自分が触れてゐる二三を次に記すこととする。
 武田君の最初の著述「上代国文学の研究」は、よい研究をあつめられた書であるが、新進の学究の労作を引きうける書肆がないとのことで、自分の紹介で博文館から出版した。
 国学院で多年万葉を講ぜられた畠山健君がなくなられたので、当時の学長芳賀博士から「週一回、万葉の講義を」と自分に委嘱された。二年間ほど講義をしたが、自分には他に為すべき用事が多いので、武田君ならば母校でもあり、最も適任ではないかと学校側に相談した。いろいろ事情もあつたのであらう。その時は甘諾を得られなかつたが、たまたま一二ケ月を自分が病んだため、代講を武田君に頼み、そのまま大正九年に講師、十五年に教授となられた。
 その年の秋のことである。東大図書館長の和田万吉博士が、自分の蔵書のうち稀覯のものを見たいと希望された。喜んで種々の書物をいだし、良い折とて、橋本君、武田君、久松君、藤田徳太郎君をも招いて夜ふくるまで語りあつた。その翌朝早く、武田君が訪はれて、昨夜の本のうち「耕雲千首」の古写本を借りたいとのこと、この本は巻末所収の文詞が歌学史の好資料なので求めて大切にしておいたのであるが、君は奥書につき、長慶天皇御即位の資料となるべきものに気づかれたといはれる。喜んで用だてたに、それについての研究の論文を発表され、宮内省において芝葛盛君らが検討せられた結果、御即位の確認の最後の楔となるべき論文であるからとて、君は御紋章入の銀杯を下賜せられる栄に浴された。自分も欣びに堪へず、枢密院の二上君や、芝、橋本、久松、藤田君を招いて、武田君の光栄を燕楽軒で祝い、共に記念撮影をしたことであつた。
 昭和三十一年五月五日、君の古稀の宴が国学院で催されたので、上京して心から祝の詞を述べた。式が終へたので、先に帰途についた自分は、折から伊豆山に滞在してをられた金田一京助博士と帰さを共にした。その折の車中談に、早く国学院に教へられた金田一君には、武田君も数へ子の一人であり、試験の時、武田君が一番早く答案を出して、しかも一字一句難ずべき点のないのに感じたと語られた。自分は、「私の喜寿の祝の日、あなたは『七十七のユーカラ人』、武田君は『万葉の祝歌』を共に、めでたい話で祝つて下さつた。今日の祝辞で、あの日のお礼ができたやうに思へて嬉しかつた」など語つた。山ごもりの身とて上京の機もほとんどなく、その祝賀会が武田君と語り合うた最後である。かうしてペンを執つてゐても、感慨は尽きない。

    藤田徳太郎

 自分の大学講師時代に、講義を聴かれたのが縁となつて、今も親交をつづけてゐる国文学界の中堅学者数氏がある。その中で、不幸戦禍に歿せられた藤田君のごときは可惜(あたら)しとも可惜しい。しかも、それが、故郷下関に両親の安否を省み訪はれた時であるから、一層いたましさに堪へない。
 君は、卒業後、歌謡の方面を専攻せんとして来訪されたが、折から「契沖全集」刊行の時とて、その校正を依頼した。「あの校正は、自分の目を開かせ、大いなる力を与へてくれました」とは、その後、君がもらされた詞である。
 後年、歌謡研究のすぐれた著書二部が出たので、論文に提出されるやう慫慂したところ、君も意を決して、副論文の執筆に着手されてゐたと聞いたに、一切は空しく消え去つたのである。
 昭和十二年、日本文化振興会で、「文化動章に輝く人々」といふ書を出さうとした時、自分の小伝を書くことを会から君に頼んだところ、自分の話をも聞き、種々の資料をもあつめて書いてくれられた。その自分はさきに喜寿を迎へ、君も屡々寄稿してくれられた「心の花」は、十月に六百号を出すやうになつた。然るに年若い君がさきだたれ、齢老いたる自分が君の思ひ出をしるす寂しさは、しみじみと掩ひがたいものがある。 (昭和二十三年八月)
  附記 昭和三十年の命日には、東京大神宮内で盛大な十年祭が営まれ、昨年(三十五年)六月廿九日の君の命日に、下関市に於いて、市民の有志により、また、東京にても十五年祭が営まれ、記念出版として不二歌道会から、遺稿「橘曙覧」が刊行され、巻末に、その略歴、著書目録が掲げてある。なほ、君の墓は、芝高輪の証誠寺境内に築かれた。

前頁  目次  次頁