芸術界の人々

 芸術界で、先輩としてまた友人として交はつた人々の思ひ出を次に掲げる。

    樋口一葉

 平安時代の女作家の小説は、ある意味において歌の延長であつたともいへる。それはいづれも歌から入つて物語に及んだのであつた。近代の女流のうち、最も大いなる天才樋口一葉に於いても、平安時代の女作家と似た関係を見るのである。一葉の小説をその歌の延長といふことは、固より妥当でない。しかし、歌から文学的経歴に入つた女史の歌と小説とには、少くとも多少の関係が認められる。
 一葉は、明治十六年十二歳の冬小学校を退き、その翌年十三歳の一月、父君の友なる和田重雄の門に入つて歌を学んだ。これがその文学的経歴の第一歩であつた。十五歳で萩の舎中島歌子の門に入り、田辺竜子(後の三宅花圃(くわほ))、伊東夏子(後、田辺)と並んで、三才媛と称せられた。樋口家にある女史の遺稿について見ると、十三歳の春の詠章、即ち歌を詠み習つた最初の作と見るべきものの中に佳作がまじつてゐて、すでに歌才を示してをる。その一葉が、年と共に、また環境と共に、その作歌の進んだことは、次の数首によつても知られる。
  人言のいとさがなきを聞けど、いひとかむもなかなかうるさしとて、
   行く水のうき名も何か木の葉舟ながるるままにまかせてぞみむ
  隣に酒売る家あり。女子あまた居て、客のとぎをすること、うたひ女の如く、あそび女に似たり。つらね文かきて給はれとて、我がもとにもて来る。ぬしはいつも変りて、其の数はかりがたし。
   まろびあふはちすの露のたまさかはまことにそまる色もありつや
  丁汝昌が自殺は、敵なれどもいとあはれなり。さばかりの豪傑を失ひけむと思ふに、うとましきは戦なり。
   中垣のとなりの花の散る見てもつらきは春の嵐なりけり
 一は、半井桃水氏とのことに就いてであらう。二は、かの「にごり江」の女たちをうたつたもの。三は、その時事観をつらぬく一識見を見るべきである。
 一葉と自分とは同じく明治五年の生れで、一葉が幼い時、親類であるので裁縫の稽古にいつてをつた松永さんの主人正愛氏はわが父の歌の門人であつたので、自分が松永さんへ遊びに行つた折に逢つたことがある。
 その後、自分は、歌の修行のため所々の歌会に出席するやうに父からいはれて、小石川安藤坂の左側なる萩の舎(や)歌会にいつた折、久々で一葉に逢つた。一葉は歌会の席の次の間で、机の前に坐つて、競点の歌のあつまつたのや、当座の歌合(うたあはせ)の巻の清書などをして、披講の始まる頃から席上に出た。小説家として其の名のきこえるやうになつた後も、歌会で折々逢つた。
 明治二十九年六月、三陸地方に大海嘯があつて、博文館から義捐小説を出すとて、短歌の出詠を歌子さんに依頼したとおぼしく、一葉が代つて自分のもとに問合せの手紙をおこせた。それは、歿する五ケ月前のことであるが、当時も師のもとを折々訪うてゐたものと思はれる。その手紙が残つてゐないのはまことに遺憾であるが、後、時好倶楽部の会で、半井桃水君と隣席した折この事を話したに、一葉の書簡一通を贈られた。それは明治二十五年三月号の「武蔵野」に、「闇桜」の掲げられた前のである。
 大正元年、一葉の十七回忌の折、記念にその歌集を刊行したいと、妹君邦子さんが、幸田露伴君の紹介状を携へ来られたので、自分は喜んで、その編纂のことに当り、「一葉歌集」一巻が出版され、十一月廿三日の法会の席上、来会の人々に配られた。自分の蔵してをる「一葉歌集」の扉には、その日、来会した次の人々の文字が書かれてある。「姉夏子十七回忌の日本願寺にて 邦子」、「泥酔して小石川の一葉女史の宅に如来と倶にあばれこみしことあり 大野洒竹」、「煙草代の借もある人 関如来」、「柳橋の芸者といはれたる馬場孤蝶」、「十年後には眉山の子にお父さんの逸話を語り聞かす人 来島琢道」。
 大正十一年十二月の「心の花」は「一葉女史記念号」を出した。それは、一葉の父母が甲斐東山梨郡大藤村の出身であるから、同村の人相謀つて露伴君に撰文を請ひ、一葉の記念碑を同年の秋建てたのであつた。その碑の文詞は一葉の生涯を五百五十余字に簡明に叙し、「鳴呼女史、その文や鋒発韵流、その人や内剛外柔、命薄けれども徳薄からず、才名千載留まらむ。」と、とぢめられた名文である。碑の写真、碑文、及び、馬場孤蝶君の「人間を透観せる一葉女史」、戸川秋骨君の「文学者の国籍」、邦子さんの「姉のことども」、及び予の文等を掲げた。中でも邦子さんの追懐談は、幼時から記憶のよかつたこと、近眼であつたこと、小学校時代のこと、上述の松永氏のこと、「たけくらべ」のみどりや信如、「別れ途」の吉公などのモデルのあつたこと、源氏物語を愛読したこと等、等で、一葉文献として貴重なものである。
 さらに歳月が流れて、昭和十一年七月、菊池寛君の撰文で浅草大音寺前に碑が建てられた時、その除幕式に列なり、また、帝国ホテルの演芸場で「たけくらべ」の演ぜられた時にも招かれていつたが故人と面識のある人だに殆ど無いことを寂しく感じた。帝展で鏑木清方君の一葉の画すがたを見たをりも、同様に感慨の切なるものがあつた。
  附記一 かつて夏目漱石君が来訪された日の雑話の中に、東京府の官吏であつた一葉の父君と、夏目君の近親としたしく、一葉との間に縁談が進んでゐたとのことを話された。一葉の日記にある渋谷三郎氏のことであつたらうか。どういふ近親であつたか、記憶がおぼろげであるが、書き添へておく。
  附記二 一葉が「たけくらべ」を書いた龍泉寺町の一葉公園に、記念碑を建てたいからと、一葉公園協賛会長藤田善吾博士、幹事上島金太郎君の依嘱で、「紫のふりし光にたぐへつべし君ここに住みてそめしふでのあや」「そのかみの美登利信如らもこの園に来あそぶらむか月しろき夜を」の二首の歌を書き、昭和二十六年十一月廿三日の建碑式に列した。邦子さんの孫君が除幕の幕を曳かれた。

    山田美妙

 明治二十年代には、種々の方面に改良といふことが唱へられ、萩野博士は「和歌改良論」を、末松博士は「演劇改良論」を発表された。わが父は、其の頃の歌人の詠む長歌が、単に対句の羅列ともいふべく生命の無いものとなつてゐたので、明治二十一年に「長歌改良論」を雑誌「筆の花」に寄せたところ、海上胤平(うみがみたねひら)翁は弁駁の一冊を公にし、その他の人々の攻撃も亦多かつた。然るに、十一月六日の読売新聞に、美妙斎主人として賛成の論文が掲載され、九日に父から手紙を送つたに、美妙君が訪問された。その日自分は留守であつたので、父が「お前も話を聞きにいつたらば」といふままにおとなうた。駿河台を水道橋に下りようとするところ、鈴木町十六番地で、後にケーベル博士の住まれた家の筋向う辺、曽我子邸の側であつたと記憶するが、坊城伯家の門長屋に住んでをられたのである。しかし此の日は、母君が、「武太郎(美妙君の名)はをりませんで」といはれ、逢ふことは出来なかつた。(後に紅葉君に聞いたに、紅葉君もしばらくこの長屋に同居してをられたとのことである。)
 やがて、万世橋に近い平永町に移られた。その頃に訪うて、語りあうた。眉目秀麗、才気の豊かな人で、室内の飾りつけも、後の言葉で云ふハイカラであつた。内田不知庵(後に魯庵)の「文学者となる法」といふ書の挿絵の文士の書斎は、美妙君のをゑがいたもののやうである。
 何年の夏であつたか、武州高尾山に一緒に遊んだのは、浅川に萱草の花の咲いてゐた頃で、君が当時出してをられた雑誌「いらつめ」に、その日の紀行文を寄せたと思ふ。
 明治二十四年十一月、鎌倉時代の小説起草中の君と、佐藤球、柵(しがらみ)山人、自分との四人で、鎌倉に遊んだ時の紀行が、廿六年刊行の「明治文庫」第五編の君の文集に収めてある。
 君は、言文一致体の創始者として、また国語の辞書にアクセントを註記した先覚者として、長く記憶せらるべき人である。然るに、晩年は極めて不遇であつた。自分が明治時代の交遊の筆蹟を帖にしたいと思うてゐた時、美妙君の手紙は数通あるが、と塩田良平氏に話したに、令息旭彦君から詩をかいた一葉を贈られた。「座右の唫 美妙 日も月も、天も地も、宇宙も歳月も、火も水も、何もかもいそがず休まず、忍びて黙す。あゝ人も学ばん。右明治三十八年一月試筆」とある。籠居して友人等とも全く交際を絶たれた君が、晩年かかる考を懐いてをられたことと、深く感じたのであつた。

    尾崎紅葉

 博文館から「やまとにしき」といふ、金港堂の「都の花」に対立させようとした雑誌が出て、広津柳浪(りうらう)君がその編輯主任であつた頃、自分は当時著作を博文館より出版してゐたので、ある日谷中なる柳浪君の寓居を訪うたところ、談笑まさに酎(たけなは)で、紅葉山人をほじめ、眉山人(びざんじん)、漣山人(さざなみさんじん)(後の小波)思案外史など、硯友社の同人がをられた。眉山と漣とは瀟洒たる貴公子の風、思案はがつしりした人であつた。紅葉は江戸つ子風で、しかも総帥の重みが備はつてゐた。自分は、はやく「我楽多文庫(がらくたぶんこ)」を読んでゐて、その文章に親しんでをつたので、喜んで快談した。
 人々と共に帰路につき、話しながら歩いてくると、湯島天神下の通りで、紅葉氏は道具屋の店先に立ちどまり、表が黒く中の赤い六角か八角かの大きな菓子器を買はれた。何をいれるのですと問ふと「自分は落花生が好きだから、これに容(い)れよう。自分の好きな落花生は、今に文昌星といふ名がつけられて世に喧伝されるであらう」と笑ひながら答へられた。
 後、親しく交はるやうになつてからは、牛込横寺町を訪ひもし、わが小川町にも迎へた。自分の家は、小さい通を隔てて依田学海(よだがくかい)居士の住居と筋向うになつてをつたので、居士を中心として、知友諸氏を時々招いたが、さうした折、山人も幾度か来られた。
 山人は、講演はあまりされなかつたやうであるが、明治三十三年四月の竹柏会大会の講話を依頼したに、「君のところの会なら行つて話さう」といはれたが、少病で断られた。後に逢つた時、「女の会員にきいてもらはうと、ある題で案を立てたが」といはれたので、聞くと、「汝の夫をサンドイッチにせよ」といふ題であるといつて笑つてをられた。翌年四月の大会には出席されて、「御託宣」といふおもしろい話をされた。又ある年の大会に招いた折、当日記念に頒つた絖(ぬめ)の栞に、同人の請ふまにまに、達筆で俳句を揮毫された。このことは「紅葉書翰抄」なる欧州滞在の小波山人あての手紙にも書いてあつたとおもふ。(巻頭写真参照)
 山人の書簡は、文章・文字、双絶といはれてをる。ある年の一月大雪の日に、双鶴の絵葉書に、「あゝふつたる雪哉 一寸御見舞申上候 卅一日」とかいて「紅葉」といふ印をおして、贈られた。佐渡から帰つて訪はれた翌日、佐渡土産の変つた笠を持たせおこされた書状には「御約束の佐渡真光寺(シンクワウジ)笠入御覧候」として、笠をかぶつた半身図をゑがき、上に、「メクラ縞ノ縁ガ頸ヲオホフヤウニカブル」と説明が書き添へてあつた。最後の病中に寄せられた数通の書簡には、切々胸をうつ文字がある。その一つに、「この両三日の時候は可恐き大敵にて、今朝も頭痛いたし、筆取る力もよわくと甚だ苦しき事に御座候。明日よりスッポンスウプを吸ふ事に御座候。此頃は牛乳玉子うどんなどにて露命を繋ぎ居申候事なれば、議論風生の勇なきは当然。おもふにこのスウプの力に因りて、学海老人の気焔を倒すべくと相楽み申候」。
  附記一 山人の歿後某氏が借りて返されなかつたといふ山人の日記一冊が坊間に出た。恰もわが竹柏園に来られたある日のことが出てをる。その日の午前、わざわざ本郷に赴かれ、蟹水仙の鉢を購うて贈られたことや、その夜のさまなどが記されてあつた。その日記のことを「中央公論」の記者が伝へ聞き、掲載したいとのことで、未亡人の許容を得、小註を加へて寄稿したことである。
  附記二 紅葉の晩年に、紅・露・逍・鴎とよくいうたにより、次には、露伴、逍遥、鴎外の順に掲げる。

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