幸田露伴

 今は昔といふべき年代のこと、駿河台に住んでをつた山田美妙君が、自分の小川町の家を訪うて、「神田御成道(おなりみち)の通りの幸田露伴といふ人に逢つて来た。それは『都の花』への寄稿がすぐれた作品であつたから、今、訪問して来た帰りである」と話された。それで「都の花」が出るとすぐに、まづ「露団々(つゆだんだん)」を読んだことであつた。後、「五重塔」、その他露伴子の小説の愛読者となつた。初めて向島に訪うたのも、其の時を忘れるほど古いことである。なんでも言問からさきの堤を右におり、折れまがつていつた所であつた。屡々訪うて、西洋将棋を教はり、釣の話もいろいろ聞き、「何羨録といふ釣の本を探してをるが」といはれたので、農商務省水産局の知人から借り得て用だてたに、いたく喜ばれたこともある。また、「新小説」の編輯主任をしてをられた頃、春陽堂の楼上に訪うた。それは和歌の懸賞募集の選者を依嘱されたからであつた。(和歌の懸賞募集は、新聞では時事新報、雑誌では「新小説」が早かつたとおもふ。)
 明治三十三年の竹柏会大会に講演を請うたに、快諾された。或ひは、これが最初の講演ではなかつたらうか。まづ初めに、歌、詩、俳句に、共通の点があるといふことを、おもしろく話された。また四十四年の大会には、「日本の古い文学の一つに就いて」といふ題目で、毘耶離(ビヤリ)国の長者のむすめ、月上女のことのかいてある「月上女経」と、竹取物語との類似について講演をしてくれられた。
 小石川の表町に移転されてからも、折々訪うた。その頃、「石」の歌を多く詠んでをられて、その時ごとに話された。いつもは下の座敷であるが、ある日、初めて二階に通された。窓に近く「表町の榎」といはれる大きな榎が見えてをる。明窗浄几といふべく、机の上に数冊の本が置かれてある外、何も置いてない。床の間には、伯牙弾琴の図に詩の題してある拓本の掛物がかかつてをつた。自分はながめつつ、「面白い絵ですね」というたところ、「大方いつもこれがかけてあるよ。君は忘れたのか。君が南清から帰つて来た時、漢口の古琴台にいつたとて、土産にもらつたのを装幀したのた」といはれ、自分は面を赤めたことであつた。明窗というたが、机のそばの障子のガラスに、墨でいろいろの字が書いてある。不思議に思つて聞くと、「あゝそれは、本を読んだ時、ふと心覚えをガラスに書いておく癖があつて」と笑つてをられた。
 戦争後、疎開先の長野県の坂城から伊東に移られ、しかも病んでをられるとの新聞記事を見て、「近日見舞に伺ふから」といふ書状を熱海から出したところ、いつもは墨で巻紙の自筆の返事が来るに、代筆で、来訪されてもまだ逢へぬから、よくなつたらば知らせる、とのことであつたが、便りが無いので、或る日、突然に伊東なる松林館にいつた。宿の者に、「お逢ひせずともよいが」というたところ、年とつた女が来て、「幸ひ気分がよいので、お目にかかりますから」と云ふ。導かれて中二階にいつた。次の間附ではあるが、広くない一室の寝床の上に坐つてをられた。赤ら顔はいつもの通りであるが、髪も髭も手入をされぬままに長くのびて、仙人のやうな心地がした。自分は、「西行の『命なりけり』の歌のやうに、お互に命があつてお逢ひ出来たことが喜ばしい」といふと、暫らく沈黙してをられたが、「ムゝ、命なりけり有耶無耶(うやむや)の関ぢや」と大きな力強い声でいはれた。「東京で焼けたものの中では、自分が特に工夫して作つた釣の道具や、多年あつめた釣の本が惜しい。君の世話で借りて写したあの本も焼けたよ」など話され、現代に就いても種々辛辣な批評を語られた。自分は、「今住んでをる熱海の西山は、字(あざ)を立石(たていし)といふほど石が多い、坂の上ではあるが、全快されたらば遊びに来られて、石の歌を詠んでほしい」というた。君は「あゝ石の歌……何首詠んだかね」などいはれた。長座してはと思うたが「久々であるから」といはれて、なほ何くれと語りあつて辞した。其の後、しばらくして、千葉県の市川に移られたとのしらせがあつた。
 おもへば、かの松林館の一時間余が、多年交誼を忝うした先輩との最後の面談であつたかとおもうと、うらさびしく歎かはしい。
  附記 那木の葉会から刊行した「鴬」の創刊号に、「石いろいろ」といふ題で寄稿せられた歌六首が掲げてある。それは、賀茂川の川原の石、砥石、道の砂利、蛇籠の石、蘭亭の石、ヴヰクトリヤ女王の宝冠を飾つたといふ宝石コヒノールが詠まれてをる。さすがに露伴学人の歌であるとおもふ。
 日本学士院では、物故された会員の略歴及び業蹟を、総会の会場で、同じ学科の会員が述べる習はしとなつてゐる。幸田会員について自分の述べた文詞が、「日本学士院紀要」第六巻第一号に掲げられてある。

    坪内逍遥

 自分は熱海に住むやうになつて、間もなく双柿舎(さうししや)を訪うた。未亡人にお逢ひはしなかつたが、名刺を置き、海蔵寺なる博士の墓に詣でた。
 博士を知つたのは古いことで、明治三十四年の「心の花」七月号には「浦島を作せし顚末」、三十九年の一月号には、「謡物に引直したる竹取に就いて」の寄稿を請うた。文芸協会の公演の第一回に招かれて、松井須磨子の演じたのをも観た。
 大正元年十一月、横浜のゲーチー座で英国の旅役者が演じた「ハムレット」を看て間もなく、舞踊研究会に招かれて紅葉館に行つたに、博士の隣席であつたので、はじめて令嬢に紹介されなどした。その折、先夜の話をしたに、「劇中劇の終の所はどんな風にしましたか」と問はれるので、持つて居たプログラムをこまごまに切つて、天井に向つて投げつけるやうにしましたと答へたところ、「あゝそれはヽヽヽの型です、ヽヽヽはこんな風にします」と、仕種(しぐさ)をして見せられたので、驚いたことであつた。
 関東大震災後、博士の紹介で平山晋吉君が西片町へ来た。君は黙阿弥の晩年の弟子で、所謂芝居の座附作者であるが、「桐一葉」上演の際以来、牛込の邸を訪うては教を請うてをつたに、博士が、歌謡を作るには短歌を学んだらばよからうと勧められたとのことで、爾来わが会の同人となつた。ある日君は、博士の作られた短歌を持つて来た。それは、蔵書を演劇図書館に寄附されるに就いての作、震災の所感などであつた。「早稲田にも教授に歌人はあるが、歌稿を示すと、遠慮してであらうか、あまり直してくれられぬから、十分に見てほしい」との伝言であつた。
 紅・露・逍・鴎といはれた中に、紅葉は俳人、露伴・鴎外の二氏は、長詩をも短歌をも作られた。ただ逍遥博士は、短歌にはあまり趣味がないやうに思うて居たこととて、斯道に深く入つてほしいと思ふままに、無遠慮に、改むべき所は改めて、平山君に返した。其の後、博士は何回か西片町へ来られた。或る時、小野務(つとむ)の「浄瑠璃百首」、中村良顕(よしあき)の「演劇歌合」などを示したに、「めづらしい本がありますね」と、ここかしこ読んでをられた。
 某年の秋、八月十五夜の月を見に、熱海ホテルに宿つた翌日の午前、双柿舎を訪問したに、喜んでいろいろ話され、園内の塔の上まで自ら案内された。そこは書庫ともいふべきであつたが、実によく整理されてゐるので、自分は感心して話すと、「いや、ちんまりし過ぎてをる上に、いろいろの物が置いてあつて、芝居の小道具部屋のやうですね」と、微苦笑するやうにいはれた面影が、今も眼に浮ぶ。帰らうとすると、門外まで送つて出られ、東の方を指ざして、「あすこに海蔵寺といふ寺があり境内にあなたの竹柏園の竹柏の老樹があります。急がれずば、御案内してもよいのであるが」といはれた。
 それが博士と長く話した最後であり、しかも博士はその海蔵寺に葬られ、竹柏の老樹のもとには、金子馬治博士撰文の記念碑が建つてゐる。その樹下に立つて、指ざされた彼の日のことを切に偲んだことであつた。

    森鴎外

 「国民の友」の「舞姫」を愛読し、「しがらみ草紙」をも読んでゐたが、その当時は未だ森博士と語る機縁が結ばれなかつた。それは、自分は未知の人を訪問するにたゆたふ癖があるからであつた。しかるに「めざまし草」を出された時、歌を送つたに、音信があつたので、初めて千駄木の邸を訪うた。明治二十九年三月某日のこと、玄関に近い書斎に通された。
 博士は、石見津和野の出身、十一歳で父君に随うて上京、独逸語を学ぶ為に壱岐坂(いきざか)の進文学社に入り、通学の便利のため、郷土の先輩であり親戚なる西周先生の神田小川町広小路の邸に寄宿してをられた。西先生の夫人升子刀自は、亡父以来わが竹柏園の社友であるので、初対面のやうでなく、爾来親交が結ばれるにいたつた。
 当時「めざまし草」に掲げる為に、観潮楼――団子坂から品川沖の汐が見えるので汐見坂といふ古名によつてつけられた――の楼上で、雲中語(うんちゆうご)のつどひがあつた。それは、学海・篁村・露伴・思軒・緑雨の諸家のあつまりであつたが、自分も員外として招かれて列席し、二三度筆を執つた。(学海翁は文のみをおこされた。)
 「めざまし草」なる自分の歌の非難の文が「帝国文学」に出た時、「鞆の音」を書いてその難を反駁せられもした。自分は、詩文や故事の出典などに就いて、屡々教を請うたに、書斎の奥の方にある土蔵に行つて種々の書物を持ち来られ、その出所を指し示される。ある時、あまりに度々士蔵に行かれるので、もうこれだけわかればよいからといふと、「いや、君はそれでよいかも知れぬが、僕自身が知りたいのである」といはれた。孝子万吉の碑や、その他おもだたしい文詞の刪訂を請ひもした。しかし、たまたまは相談をうけたこともある。山県公の小田原の別壁は、古稀の記念で古稀庵と名づけられたが、「小石川の椿山荘の記は、長三洲(ちやうさんしう)に嘱して漢文の額がかけてある。古稀庵のは、自分に国文で、と公よりの言葉であるから」とて草稿を示された。また、文部省の文芸委員会の委員としての分担で、「ファウスト」を訳された時は、一読してもらひたいとのことで、自分は喜んで毎夜のやうに千駄木を訪うた。その頃は新築された奥の室であつた。「君が読んで、文脈や用語のいかがと思ふところを指摘されたい」といはれる。「ここがわからぬやうであるが」といふ毎に、傍らなる原書を開いて、「かう訳してはどうであらう」といはれ、「まだどうも」といふと、幾度も訂正された。自分がファウストを卒業したのは、此の時のたまものであつた。
 この奥の室で聞いた言葉、その他を二三記さう。ある日訪問すると、「君、今日も亦蛙を一疋のみこんだよ」といはれる。不審な面もちをしてをると、「あ、話したことがないかも知れぬ。外国の某が自分の著作に酷評をされた時、それには何ら答へないものの、生きた蛙をぐつと呑みこんだ気持であると書いてゐる。今日も自分の何々に対してつまらぬ評が何々に載つてをる」といはれた。当時森さんの発表された創作に対しては、かなりな悪評があつたのである。
 ある時自分は、訳して雑誌に載せられる短篇小説のどれもが、すぐれた作品とおもふが、といふと「いや、すきだからではあるが、あちらの雑誌やいろいろのものをかなり沢山に読んで、その中から選ぶからだよ。むかうのだつてまづいのが多い。また来月の雑誌に訳して出さねばならぬと思ふと、まるで、台所の者が今日のお総菜はと苦労するやうなものだ。しかし未知の若い人たちへの教へとはいはぬが、贈り物といはう、その為に毎月時間を費してをる」といはれた。
 若くてすぐれた学生や学士を愛された。小山内薫君も学生時代に激励されたと聞いた。大久保栄(さかえ)君や木下杢(もく)太郎君が、医学と文学と両方の才人であつたのを喜ばれもした。その大久保君が外遊中に世を去つたことを、いたく惜しんでをられた。
 鴎外全集第廿二巻の書簡篇には、自分に贈られた書簡三十通が載つてゐるが、多年にわたる交誼であるから、思ひ出は尽きない。
 中にも、自分の企てた万葉学の基礎事業に就いて、博士が心をいたされたことは、「文芸評論」の「鴎外特輯号」に委しく記したので、ここには再録せぬ。
 博士は、細心周密であつた。大正十一年四月の来書に、「帝謐考中……」云々といふのがある。それは、帝謐考を贈られた時、版を改めて長く世に残したいから、訂すべき箇所あらば、といはれたままに、心づいた点をいひ送つたに対しての返事であるが、此の書を寄贈された際、「これは百部だけ印刷したので、巻末に番号が記してある。君には特に三十一号を贈ることとした」といはれた。
 書簡は数おほくかかれ、清痩ともいふべきすぐれた書風であるが、短冊とか額などを書くことは好まれなかつた。明治三十八年五月、第二軍々医部から寄せられた葉書に、「福陵 あめつちの若ゆる春のにひ草の緑のなかに石の馬たつ」とあつた。帰朝の後に短冊にと請うたに、万葉がきに書いて贈られたのを「短冊凌寒帖」の中に掲げてある。博士の短冊は、恐らくは十指を数ふるほども無いであらう。また、自分が鎌倉に小宅を営んだをり、命名と、そを額に認められむことを請うたに、さかさ川といふ小川に家が臨んでゐるからとて、「遡川(そせん)学堂」と撰ばれた。大正十年五月の書簡に、「早晩勇ヲ鼓シテ書可申候」とあつたが、遂にそれが実行されなかつたことは遺憾であつた。(因に云ふ。博士の筆蹟としては、「舞姫」再版の序詩なる「世間留綺語、海外咏佳人、奄忽吾今老、回頭一閧塵 丁已孟春 鴎外湛」といふ横物一幅を愛蔵してゐる。これは岡山高蔭君が椿山荘で同席して執筆を請ひ得たのを、君から譲りうけたので、「鏡草」の中に掲げてある。)
 自分が小川町にをつた明治二十九年に、歌誌「いさゝ川」を発行したが、その中に鍾礼舎主人――鍾礼舎はシグレノヤの万葉がき――といふ名での寄稿に、短歌を五行にかくとよいとの文がある。短歌五行がきの論の嚆矢といふべきであらう。その「いさゝ川」から進展した「心の花」には屡々寄稿を得た。ここに森於菟(おと)博士の書かれた文詞を引用する。「心の花には父も度々筆をとつたやうで、ことに明治三十七八年役前後には、多くの長詩・短詩・訳文などを寄せた。創作小説にも、「朝寝」、「有楽門」、「大発見」、「牛鍋」の四編が載つて居り、その初めの二つは腰弁当といふ変名で出た小品で、作としてはあまり価値のあるものとおもはれないが、「舞姫」、「うたかたの記」「文づかひ」の独逸淹留記念の三部作と、明治三十年八月の「新小説」に出た「そめちがへ」以後、しばらく創作の筆を絶つた後、明治三十九年十一月の「心の花」に掲げられた「朝寝」は、それにつづいて、盛んな活動をする契機をつくつたもので、その意味で重要なものと思ふ」と。
 「心の花」に寄せられた「営口で得た二書の解題」、「高瀬舟と寒山拾得」の原稿が保存してあるから、次に書き添へておく。
 「営口で得た二書の解題」は、明治三十七八年役当時従軍された田山花袋君が、営口で古書肆を漁つて得た西洋の小説ハインツ・タヲオテの「死骸マリイ」と、アナトオル・フランスの「蜂姫」との二部の解題を、あちらの大きな紙にこまかく書いて、陣中からおくられたもの、「心の花」八巻六号に載せてある。
 「高瀬舟と寒山拾得」は、美濃紙に毛筆で書き、消したり直したりしてある全くの草稿で、はじめに「近業解題」とあり、二著執筆の動機を書かれたもの。まづ、高瀬舟の名称の由来を考証し、作中の主人公が二百文の銭を持つた喜びと、自殺未遂の兄を死なしめた行為、即ち医学に所謂ユウタナジイを彼が行つたこととに興味を感じたとあり、しかして、医学者の立場からユウタナジイに対する意見が簡単に述べてあり、「寒山拾得」に就いては、寒山詩に対する令息の質問に答へられた事を書き綴つたのがそれであり、子供の質問に対する答へ方についての所感等が述べてある。両著で三千字ほどの短いものであるが、博士の遺著の中でも重要なものの解題で、「心の花」廿巻一号に載せてある。
 明治三十九年四月の竹柏会大会には、「ゲルハルト・ハウプトマン」を講演してくれられた。桑木厳翼博士の森博士追憶談に、「竹柏会の大会に招かれて博士の講演を聴聞した。軍服姿のキチンとした態度で、長時間にわたり、何等のヤマもなく平板な調子で、併し極めて明晰な弁舌で、伝記から著作梗概を十分に講じ、為すべきことを為し了へたといふ風に、頗る満足気に講演を終られた。私はそれを見て、これこそ真の学者的態度であらう。このくらゐ心根を据ゑなければなるまいと思うたことである」と。当時まだ少年であつた於菟君は、「父はカアキー色の軍服姿で、殆ど二時間ばかりであつたと思ふが、その癖の右肩を少し上げた姿勢もくづさずに、熱心に演述したのであつた。最も感銘が深かつた」と書いてをられる。
  追記一 名古屋の西村郁郎君は、鴎外遺墨蒐集の第一人者である。実によくあつめてをられる。故博士も喜びをらるることと思ふ。
  追記二 巻頭第一の写真は講演を請うた当日のである。一葉に入らなかつたので二葉に揖影したのであつた。

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