森田思軒(以下、真山青果君まで歿年順とす。)

 森田思軒君の翻訳の文は、新聞に雑誌に早くから愛読してをつたが、初めて逢つたのは、「めざまし草」の雲中語の合評会のをりであつた。
 上野の緑の丘に真向うてをる階上、人々は床のある方の座敷に、そこの片隅には、いつものやうに低い机と、その側の乱れ箱には文房具がいれてあつた。次の間には、無地の金屏風が一双、その前には洋書が、十冊ほど、きちんと立ててあるのであつた。
 その夕べの人々は、露伴、篁村、緑雨、思軒の数氏であつた。主人の鴎外さんは、いつもの癖の、「ヤア」と声をかけて、親しみのある目もとでこちらを見られたまま、やがてうつむいて書きかけの筆を執りつづけてをられる。その用紙は、特に切らせた小半紙型の厚みのある洋紙である。
 雑談をしてをられる諸氏の前には、新刊の本や雑誌がちらばつてゐた。
 篁村翁は、盃を手にしてちびりちびりと飲んでをられ、緑雨君は、皮肉な笑みをふくみつつ、低いしかしよくとほる声で、ぽつりぽつり話をしてをつた。
 座中の人々はいづれも面識があつたが、唯一人思軒君は自分には初対面であつた。君は、目もとがくぼんで、声は一種特徴のある甲高い声であつた。かねて「国民の友」でユーゴーの翻訳を愛読してゐた自分は、その日の君のものがたりのうちの唯一つを記憶してをる。
 「国民新聞で磯辺千浪といふ人が、日本新聞の評林の詩のやうに、時事に関する歌を出してをるがどういふ人です」と君が問はれたので、それは実は自分の変名であると笑ひながら話すと、君も笑ひながら、昔、観世の家に年久しくをつた老女が、鉄瓶の煮えで若師匠の謡の進歩を知つたといふ話があるが、自分も歌を知らずして知つたわけであると語られたことであつた。

    高山樗牛

 ある夜、日本橋本町なる大橋氏を訪うた時、座に眉目清秀の一紳士が在つた。紹介されて、その樗牛君であることを知つた。しかも両氏の間の談話によつて、君が仙台の高等学校教授を辞し、雑誌「太陽」のために専心執筆しようとして、その話に来られたことを知つた。今から思へば、実に君が生涯の一転機たる日であつたのである。用談はやがて終へて雑話にうつり、共に酒を酌んで相語つた。あたかも独歩や花袋の長詩の集なる「抒情詩」の刊行せられた時であつたので、その話などをしあつたことを記憶してゐる。
 しかして、氏と自分とを親しくさせたには、氏の夫人里子さんが杉亨二博士の令嬢で、お茶の水の生徒であつた頃、自分の門に学び、故人となつた大塚楠緒子さん、また故大橋乙羽氏の未亡人時子さんと、三人うちつれて、土曜日ごとに来られたといふことも、少からぬ因縁となつたのである。
 君が大磯に病を養はれた頃、自分も、夏の盛りを同地に家を借りて住んで居たので、屡々相往来した。その年の十月、鎌倉に移られてから長い手紙が来た。「……体の工合よろしき日には、処々旧跡古社寺を歴訪し、七百春秋の短きを弔ひ居申候。……日蓮上人の事蹟も、小生年来研究致度志望候ひしが、この度の卜居を幸ひ、出来るだけ調べ見むと、先日より高祖遺文録を読み初め、昨夜第十巻読了候。上人の文、殊に消息文は一種異様の文体にて、上人の性格そのまゝの気魄光焔、真に鎌倉文学の一偉観かと被存候。……又この地の美術の残品をも調べ見たき念願有之候。宅間法眼と称する仏師の作に秀でたるもの甚だ多く候。右は諸書に見えざる名称なれば、何人にやと後日の研究を待ち侯。……秋晴の頃一日御散策如何に候や。当地は大磯より俗気も少く、心も落付き、観念の書窓にうつる月影もいとさやかに照りうつり申候。……」とあつたので、ある日長谷の寓居をおとなひ、史談美術談を聞いたことであつた。
 その後、君の賢弟斎藤野(さいとうの)の人(ひと)と親しくなつた。野の人は、詩人として風格の高い人であつた。
  追記 昭和十八年一月、清水市に渡辺氏を訪ひ、案内されて竜華寺に詣で、樗牛の胸像の前でそのかみを偲んだが、戦時中、供出させられたと聞いて残念におもうてゐたに、原型が残つてゐたので、再び鋳られてすゑられたとのこと、喜に堪へない。

    斎藤緑雨

 緑雨(りよくう)の号は、本所緑町なる藤堂家(伊勢国津の旧藩主)の長屋に住まつてゐたので、それに因んで名づけたものであるといふ。正直正太夫(しやうぢきしやうだいふ)の号も、同じく伊勢の御師(おし)の何太夫をもぢつたのである。
 藤堂高猷君(ぎみ)が津の藩侯であつた頃、亡父は召されて国学を講じてゐた。上京後、自分も父に伴はれて、本所の藤堂家に行き、匕医(さじい)をしてをられた緑雨君の父君のもとに立寄つたことがあり、その頃、明治大学に通つてゐた君が、小川町の自分の家に雨傘を借りに来られたこともあつた。
 鴎外博士の家なる雲中語のつどひでは、屡々遇つた。いつも其処では筆をとらず、骨を刺すやうな皮肉な言葉を吐くだけで、たまたま筆をとる時は、うつむいて、肩下りの字を書いてをられた。その風丯、上田秋成とはかういふ人ではなかつたらうかと思ひつつ、ながめてをつたことであつた。
 緑雨君については、ある日鴎外博士を訪うたに、新聞を手にしつつ、「これは斎藤が話したにちがひない」と、極めて不愉快げにいつてをられた言葉を聞いたことがある。しかし、その才を愛し重んじてをられたので、よくおとなうてゐたやうであつた。
 近く同人の椿一郎君が、明治三十五年五月発行の緑雨の著作「雨蛙」を示された。その附録に、「新詩見本」として、数人の作ををかしく作りなされたのが載つてをり、中に、佐々木調といふ面白い諷刺の作がある。自分もその頃新体詩を発表してをつた為であつた。それはたしか読売新聞に発表されたものと思ふが、読みつつ苦笑を禁じ得なかつた。
  附記 上田万年博士は、緑雨と同じく幼時を緑町に住まれ、小学校の同窓生であつたとのことで、晩年まで親しかつたやうである。上田博士が「帝国文学」に発表された「野暮ぢや先生こちむかさんせ」の俗謡数篇には緑雨の感化があるかも知れぬ。

    福地桜痴

 明治三十三年の春、竹柏会第二回大会の折のことである。幹事の人が桜痴居士(あうちこじ)を知つてをるから講演をお頼みしようといふので、同行して居士を訪うた。初対面ではあつたが、多年の交はりといふ親しみを以て話された。その折、居士が「幕末の勤王家の歌はもてはやされてゐるが、幕府方の歌はあまり人がいはないのは片手落ちではないか」といはれるままに、自分は、女ながらも彰義隊に入つて馬を乗り回したといふ木崎花野の歌のこと、又もと田安家の侍医で晩年は市井の歌人であつた井上文雄が、「諷刺新聞」に薩長に対する歌を掲げて忌諱にふれ、弾正台(だんじやうだい)によばれたこと、七十近い文雄が牢獄に繋がれながら雪の夜に詠んだ歌のことなどを話すと、居士はいたく喜ばれた。村垣範正が米国に使したをり多くの歌を詠んだ事、居士も同船して欧州にいつた高島烈の「欧西紀行」には、烈の歌が少からず載つてをることなどを話された。
 大会では、「歌と詞」といふ題の講演であつた。会場に出られると、席の前の方が空いてゐるためうしろに立つてをる人があつた。「まづ皆さん、もう少しこつちへお進みなさつてはどうです」というて、居士は人々が前に進む間しばらく沈黙してをられたが、さておもむろに、「皆さんに近くまでお進みを願つておきかせする程の話ではない。凡そ難儀な事は、玄人の中に素人が手伝ひにくることで、餅つきの手伝ひに、料理人が庖丁を持つていつても役にたたぬ。歌を詠まれる方々の今日のおあつまりに、素人の自分が出たのは、まことにこまつた話である。来た者も難儀、呼んだ皆様も難儀、しかし、来た以上は考へたことを話しませう」と、面白く一同を笑はせてから、本題に入られた。それは、「梅が枝になく鴬の」といふ句は聞いてはよい句であるが、俗曲に唄ふ時は「ア」の音が十二音の内に二音しかないため、調べが陰気になる。「さざなみや志賀の都は」といふ平忠度の歌は、内容はさびしい歌であるが、一首の中に「ア」の音が十八音あるので、うたふと陽気に聞える。自分はうたふ歌といふ立場から、かういふ調べの説をいふのであるが、と説き進められ含蓄のある講演であつた。

    国木田独歩

 独歩君を知つたのは、徳富蘇峰翁に紹介されてからであつた。それは、自分が「国民の友」に残月楼主人、又は無名氏として詩を寄稿したり、国民新聞に磯辺千浪(いそペちなみ)といふ名で評林体の歌を送つたりした関係から、社員の新年宴会に招かれた折、その席上に於いてであつた。後、矢野竜渓翁が雑誌を刊行されるにつき、編者として数回来訪された。ある時、君が平安時代の物語を味読してをられたことを知つて、且つ驚き且つなつかしく思つた。
 君は痩形ながら、一身に気魄の満ちてをるといふ風であつた。亡くなられた後、親友であつた中央新聞社の田村三治氏から、君の若い日の手紙数通を示され、いづれでも望まれるのを贈らうといはれたので、長文の一通を請ひ受けた。それは、廿三歳の年、大分県佐伯の鶴谷館に教頭として聘せられて間もない時の手紙である。文中に、竹取物語のことが評してあるも面白く、又その思想にも、後の独歩の面影が見えてなつかしまれた。
 後年、自分が日向を旅行して、佐伯附近を汽車で通つた時、案内をしてくれた同人が、ある海岸で沖の方の島を指ざしながら、「あの島蔭で若い独歩が、教師時代によく釣をしてをりましたので、今は独歩が島というてをります」と説明してくれた。明治の文豪の名が長く残ることを喜んだことであつた。
  附記 矢野竜渓翁は、識見ゆたかに品格の高い人で、話してをつてもその詞に教へられるものがあつた。晩年に翁の外孫がをしへ子となつたので、文通をもした。

    依田学海

 自分が小川町に住んだのは、明治十五年のこと。学海依田百川(よだひやくせん)先生は翌年向島から近隣に移り来られた。そのため、亡父以来二世の知を辱うし、予は文章の是正を請ひもし、漢籍の不審に教を請うた。(先生は門人はとられなかつたが、向島時代には森鴎外博士も詩文の添削を請はれたといふことを博士から聞いた。)それと同時に、令息美狭古(みさこ)君、令嬢の花枝さん、柳枝(やぎえ)さんが竹柏会に入られたので、一層親しくなり、時によると朝に晩に来られた。庭下駄をはいた女中が、お客様ですからと、迎へに来ることが屡々あつた。
 先生は、座談が実に上手で、談論風発といふやうに、力のある大きい声で、見事な白い髯を折々撫でながら、あらゆるものを罵倒しつくさねばやまぬといつた風に議論をされる。当時わが家では、知友を招いて折々小集を催した。尾崎紅葉、大塚保治、同楠緒子、上田敏、小栗風葉、沼波瓊音などの諸君であつた。千葉掬香、正宗白鳥君なども何回か来られた。先生はいつもその席上の談話の中心となつて、閑話もされれば議論もされる。いつであつたか、上田君がトルストイの話をされると、先生は大分酔つてをられて、トルトースイといひ違へて、「なんだ、トルトースイぐらゐが」と、頻りにトルトースイと言はれ、夢中になつて、側にあつた机を引くりかへされたので、たまりかねて皆が笑ひ出した。また、紅葉君と一緒であつた折、紅葉君が先生に「いつか拝見したあの一代記は、どうか自分に貰ひたい」といはれる。「一代記とは何ですか」と傍から問ふと「それは自分の一代記で、誕生から役人になり、官をやめ、死に至る生涯を自分が描いて、上に草双紙風の平仮名の文章が書いてある。葬儀の図には、一生不遇学海先生之柩、其の次には、どうせ漢学は流行せぬから、子孫が蔵書を焼いたりしてをる図がある」と説明された。さて先生は、「尾崎君の文は天下の名文である。且つ好きな人であるから、一代記は自分が死んだら君に差上げよう。併し尾崎君は弱いから、どちらが前(さき)にゆくかわからぬではないか」と云はれると、紅葉君は苦笑された。其の頃から紅葉君は少しつつ胃がわるかつたので、その時苦笑を浮べられた面影が、心に刻みつけられてをる。紅葉君の歿後、「あの時の言葉が讖をなした」と先生は歎息してをられた。
 先生は、折々のすさびに画をもかかれた。文人画や俳画とは趣を異にして、気力のあるおもしろい画風であつた。ある時、詩箋に「天下浪人学海翁七十四」と題して、長髯の翁の前に麦酒の罎とコップのおいてある画をかいてくれられたのを珍蔵してゐる。
 国文にも趣味ふかく、先生自らの書かれた国文も少くない。また、源氏物語を愛読されて、金瓶梅との比較論を屡々聴いた。先生の源氏一篇の大観論は、卓見、味はふべきものであつて、其の一端は「源氏物語に就いて」といふ文章にも窺はれる。{心の花第五巻三号}また鴎外逍遥二博士の浦島に対して「玉手箱の打こわし」といふ一篇の戯文をかかれた。その趣向は実に奇抜で、先生の作に成る此の種の文中、恐らく第一であるまいかと思ふ。{心の花第九巻一号}
  附記 尾上菊五郎丈が世を去つた時、毎日新聞の余録に、「団十郎の葬儀に伊藤博文の弔辞(依田百川作)を川上音次郎が代読した」云々とある。学海先生執筆の団十郎の弔辞は、必ずや名文であつたであらう。先生は芝居を好まれ、明治二十一年に脚本「吉野拾遺名歌誉」を出版され、また「文覚上人勧進帳」を川尻宝岑と合作され、後者は鳥越の中村座で、団十郎・福助によつて演出された。新劇の発起人ともなられ、川上が三崎町に川上座を創立した時、開場式に脚本「天の岩戸」を書かれた。伊井容峰が浅草座で旗上げをする前に命名を請うたに、君は好男子であるから好い容貌――三国一の富士山芙蓉の峰にあやかるとよいというて、容峰と命名された。また、粂八や当時粂八の弟子になつた藤蔭静枝(後に静樹)さんなども、小川町の邸に出入したと聞いてをる。

前頁  目次  次頁