上田敏

 上田さんの名を初めて知つたのは、君が大学生の頃、読売新聞に当時同じく大学生であつた榊博士と、音楽会の批評を書かれたのを見た時である。初めて逢つたのも、上野の楽堂に於いてであつた。小川町の家を訪問されたのは夏の夕方で、大学の制服姿の君は、小花清泉君とともに来られた。うちつれて神田五軒町の橘糸重さんを訪うた。その時、鹿鳴館の慈善音楽会で、チーチェ夫人のソプラノを聴いた夜のことを自分が話したに、上田さんも聴きにいつてをつたとのことであつた。
 その後、自分は、君を、下谷御徒町に、本郷西片町に、京都の岡崎に、帰京して住まれた白金三光町に訪問した。唯一人の令嬢で、源氏物語の玉かづらの姫君、すなはち「藤原の瑠璃ぎみ」といふ名によられたといふ瑠璃子さん(嘉治隆一氏夫人)が同人となられて以来、一層親しく交はるやうになつた。君は、純粋の江戸つ子で、風采は典型的な紳士であり、著書の序文の末に「東京上田敏」とあるごとく、横浜以西へは一度も行つたことのないうちに欧州に遊学され、京都大学創立後、同大学の教授になられたが、晩年は東京で終られた。四十三の若さで世を去られたことは、我が国の文芸史の上に最も大いなる損失であつた。
 君が明治三十八年三月竹柏会の歌会で、イブセンの「海の夫人」に就いて談られたのは、わが国に於いて「海の夫人」を最も早く紹介されたものであらう。明治四十五年の大会の講演を快諾されて、京都からふりはへ上京し、「旧思想新思想」といふ題で述べられたが、その豊麗な修辞、ことに「永遠の旅人である人間は、生命の波に乗つて冒険の航海に出る、その船の舵となるものは誠である」といふ結語は、当時同人が屡々語り出たことである。
 君の談話は、常に人を魅する力があつた。外遊から帰られた時、竹柏園の小集会で、泰西の風景、人情等に対する、極めて趣味深い観察談を聞くことを得た。鋼鉄の如く底光りのする色をもつてゐる黒潮の流を過ぎてから、太平洋の青海波の模様のやうな波の美しさや、太白星の波に沈む時の壮観を語られ、大西洋の波と太平洋のとを比較して、太平洋のは大きくゆるく打つに、大西洋のはやや小さく鋭いことを説かれた。また、巴里のシャンゼリゼエの大通の端麗なさま、朝夕の色の変化が著しいノオトルダム寺院の建築、その他、風車、朱い屋根、清い淀に名ある和蘭、夢のやうなナポリあたりの景色など、親しくその地に行つてみる心地がした。
 話が終つたあとで、「此度の旅行で最も深く感じられたことは何でありましたか」と問うた。その時君は考へて居られたが、暫くして、その快活な面わをやや曇らして、頗る感慨に堪へぬごとく語り出された。それは、「自分が巴里の博物館を訪うて、維新前、彼の地にものした吾が国人の一行が、彼の国で写した幾葉の写真を見た時、ふと、其の中の一葉に、自分の亡父の立つてをるのを見出だした。その頃は、父はまだ上田家の人とならなかつた時で、乙骨氏であつた。自分が十五歳の時に世を去つて、おぼろげに頭にのこつてゐる父、しかも若い時の面影が、さすがにそれといちじるく、海外万里の客となつて、ゆくりなく亡父の写真に接した時の感じ、これこそ、自分の最も感じたことであつた」と述べられた。二十余年の交はりの間、屡々相語つたが、君の曇つた面ざしを見たのは、この時だけであつた。
 大正五年七月九日、君の訃を白金に弔うて、夜ふけての帰さ、桑木博士、与謝野寛君、長田秀雄君と三光町を出て、電車道に向つた。雨もよひの空ながら月の光がかすかに洩れて、黙しつつうちつれて行く吾等の影をしづかに照らした。
  附記 今は亡き瑠璃子さんが、一九三一年に巴里からジャルダン・デ・ブラントの博物館に、自分には祖父なるその写真が在つたのを見たとて、なつかしまれた長い手紙をおこされた。心の花{第三十五巻第十号}に掲げてある。
 明治三十八年二月の心の花に、「千朶木山房のまとゐ 一月二十一日の夕べ、森鴎外の君の誕生日をことほぐとて千朶木山房につどひし人々、大久保ぬしのかきたる絵葉書にかきそへて、戦地なる君のもとに寄せたる歌ども」として、上田敏、千葉鉱蔵、大久保栄氏、小金井喜美子夫人、及び予の歌が載つてをる。上田博士の短歌はめづらしい。「星影も異なる沙河の冬の空をしのばひ語るうづみ火のもと」。しのぶあまりに、詠まれたこととおもふ。

    夏目漱石

 夏目さんの小説は夙くから愛読してをつたが、大塚家の事から文通するやうになつた。
 大塚保治博士は夏目さんの親友で、熊本から東京に来られるやうになつたのも、大塚さんの推輓であつたと聞いた。大塚夫人楠緒子(くすをこ)さんは、わが竹柏会の古い同人であつたが、不幸世を早くされたので、夏目さんと自分とが大塚家の事に関係するやうになつた。或る日牛込南町の夏目さんを訪うたに、所謂訪問日以外の日とて、用談の済んだ後は、ゆつくりと文芸談を語りかはした。「硝子戸の中」の構想を練つてをられた頃であつたとみえて、その日話されたことが、いくつも載つてゐる。その後吾が家に来られた時も、午前から夜までをられたことがあり、古筆の類やその模本などを見て興がられ、中でも高野切や三跡切を、頻りにながめ入つてをられ、以前に歌を作つたことがあるなど語られた。大学の話が出て、図書館の教員閲覧室は気持がよかつたと云はれもした。{四三頁藤岡君の條にかいた室のこと}博士会の話も出たりした。
 市ヶ谷の大塚家を二人で訪問した折、自動車をおりて狭い道を歩き歩き、夏目さんは度々時計を出して見られる。どうしたわけかと思つてゐるうち、ふと立ちどまつて、ポケットから散薬の包を出し、仰向(あふむ)いてそのまま服(の)まれた。驚いて問ふと、「薬をのむ時間を、厳格に守らなければならないので、途上でも水なしでのみつけてゐる」といはれた。
 「明暗」が新聞に出てゐた頃、自分が湯河原の天野屋(もと本館、後に別館)に行つたに、宿の主人が書画帖を持つて来たのを見ると、夏目さんの句がある。聞くと、中村是公さんのもとに客となつて滞在中にかかれたとのことであつた。天野屋旧館の浴室の前の三角のやうになつた板の間、大きな鏡のあるところの様子が、「明暗」の中に実によく写されてをる。いつか其の話をと思つてをるうち、機会は永久になくなつた。

    島村抱月

 島村抱月君の思ひ出のうち、一番深く印象に残つて居るのは、君の外遊帰朝の祝宴が、紅葉館で催されたをり、盃の数も追々にめぐつて、たしか自分の隣席であつた小杉天外君が、「早稲田よいとこ目白をうけて、魔風恋風そよそよと」と声高に唄うてをられたに、抱月君は自分の前に来て、きはめて真面目に、テームス河畔の古書肆のことをいろいろ話された
 芸術座の第一回の上演のをり、開幕前、幕外に立つて挨拶をされた。その態度は、いかにも真摯な、力のこもつたものであつて、長く忘られない。

    松居松翁

 松居君の外祖父なる上野国大間々(おほまま)の二渡(ふたわたり)信経翁が、わが亡父の門人であつたため、君は若い時に詠草を持つて、或はそれを取りに小川町に度々いつたと、後に時好倶楽部の会の席上で聞いたことであつた。
 後進に親切な人で、木村富子さんが劇作の方(ほう)で君の門人であり、歌は自分が指導してをつたので、会などで逢ふごとに、富子さんの話が出た。また、歌を詠まれる子息桃多郎君のことも、よく話してをられた。
 昭和八年五月、自分が中村魁玉の為に、戯曲「静」を書いて、歌舞伎座に上演したをり、子息と共に訪問された。恰もその日、東京朝日新聞に某氏の批評が載つてをつたが、君はその評に対し、また素人の作に対して、なるほどと感ずる評をしてくれられたのであつた。

    大町桂月

 与謝野氏等と新詩会を興すべく会合した時、吶弁ともいふべき弁舌ながら、種々主張を述べてをられたのが桂月(けいげつ)君であつた。
 最も深い思ひ出は、共に水戸に遊んだをりのことである。好文亭から、更に西山なる義公の遺蹟を訪うた。一度焼けたが、往時のままに建てられたのであるといふ山荘に昔を偲んで、小蒸気船で那珂川を下り、大洗なる金波楼の別館に宿つた。月光、金波銀波に砕け散る良夜を賞しながら、夜ふくるまで盃を挙げた。君は酒豪、自分は数盃を傾けたのみであるが、君が詩を賦するに従つて、自分は歌を詠じたのであつた。
 契沖の伝記としては、はやく明治二十二年に、上田照遍の「契沖阿遮黎伝記」があるが、極めて簡単なものである。然るに大町君の「契沖阿闍梨」は、伝記として画期的の著作というてよい。和泉の万町の伏屋家へは、君の文を道しるべにして、二回訪うた。
 かつて十和田湖にいつた折、君が逝かれた蔦温泉にもと思ひつつえ訪はず、遥かに黙礼をささげたことであつた。

    小栗風葉

 紅葉山人の手紙に、「又々一人御厄介願ひ上候。此状持参のもの、小栗磯夫と申候。国文及文法等御教授にあづかり度、委細は本人より御聴取被下度、何分よろ敷願上候」とある。「又々」はさきに山岸荷葉君を紹介せられたのであつた。
 さういふ縁で「心の花」九巻一号に「息災延命」といふ文章、十巻一号に「機械」、同じく十一号に「母の血」といふ小説を寄稿せられた。
 風葉君は尾張知多郡半田の薬種店の子息とて、さういふ家の若檀那といつた風の人柄であつた。
 自分は、いま熱海に住んで、海岸のお宮の松の前を折々通るごとに、山人によつて熱海の新名所ができ、風葉君の句によつて、よい点景をなしてゐることをなつかしみ思ふことである。

    芥川龍之介

 芥川君の綿糸堀中学時代に同窓の原善一郎君から、同級に文学に熱心で、文章にすぐれた友人があるから、その文を心の花に載せてはと、「大川の水」一篇を送られた。読み見ると天分豊かな文章であるので、喜んで、大正三年四月号にかかげた。ペンネームで、柳川隆之介とかいてあつた。それが縁となつて、五月号に「紫天鵞絨」、七月号に「薔薇」、九月号に「客中恋」と題した短歌、十月号に「若人」と題した旋頭歌をおくられた。その題名の示すやうに、いづれも芥川君らしい、香気の高い作品である。その後も書信を贈答した。
 大正十四年の夏、渡辺留子夫人の歌集「高原」の出版記念会が帝国ホテルで催された日には、与謝野氏夫妻、菊池寛氏も、君も出席された。七月七日の夕べのこととて、特につくられた梶の葉の形の黄いろいメニューに、君と署名を書きかはしもした。
 昭和二年七月、松村みね子夫人が来られて、近刊の「改造」に、芥川さんの「西方の人」といふのが載つてをり、すぐれた文であると話されたので、早速読んだ。その二日後、新聞に君の死を知り、驚きもし、歎きもしたことであつた。

    小山内薫

 千朶木山房の奥の庭(後に博士の胸像が建つてをつた)に面した室で、主人の鴎外さんと話をしてをるところへ、上田敏君が来られて、「今、宮下町へいつて小山内君に逢つて来ましたが」云々と言はれた。当時はまだ学生であつた小山内君の、「めざまし草」へ投稿された原稿がすぐれてをつたので森さんに代つて上田君がふりはへ訪問されたのであつたと記憶する。これが、小山内君の名を聞いたはじめであつた。
 文科大学の学生七人で雑誌「七人」を出された頃、はじめて君と逢つた。その時に、「以前、心の花へ、投稿したことがある」と話された。明治三十八年の「心の花」一月号に元朝風雨、四月号には「なでしこ」の名で短詩を寄稿された。
 君は、よい意味に於ける才子といふべき才人ではあつたが、その作品中に、東北人の血のなす型かと思はれるところがあつたやうにおもふ。
 自由劇団の公演には、予約会員として毎回行つて観た。第一回のをり、君が幕外へ出てせられた挨拶は、まことに真摯を極めたものであつて、さきに述べた芸術座の抱月氏の挨拶とはまた別の印象を与へられた。イブセンの「ボルクマン」の主人公になつた左団次の、コトコトコトコトと歩いてゐた靴音が、橇馬車の鈴の音と共に、耳に残つてをる。
 横浜の八戸坂(やとざか)上のゲーチ一座に、英国の旅役者が来て「サロメ」を上演するといふことを聞いたので、当時メーテルリンク等の諸作を愛読してゐた自分は喜んで見物に行つた。居留地の外人や、グランドホテル滞在の外客が、晩餐後の一(ひと)時を楽しみにあつまつて来るので、開場は午後八時であつた。折から夏の夜の月光は清く涼しく照らしてをつた。座の前は広場になつてゐて、多くの外人が開扉を待つてをる中に、自分も佇んでをつた。日本人はごく少数であつた。ふと肩をたたく人がある。驚いて振りかへると小山内君であつた。――不幸、君が短命で世を去られた時、追悼歌にこの月夜の思ひ出を詠んだことである。

    内田魯庵

 魯庵(ろあん)君は、不知(ふち)庵といはれた頃から知つてをつたが、時好倶楽部の席で度々あひ、趣味のゆたかな話を喜びつつ聴いた。
 いつの新年であつたか、奈良時代の桑原安麿の一月に因める書牘を印刷して、賀状として諸方に贈つたに、折かへし、安麿に就いて問うておこされた。
 大震災の後、君の訪問をうけた。それは震災のために湮滅に帰した文献に就いて執筆されるためであつた。自分の知つてをることどもを語つて、ともに惜しみ悼んだ。
 君の著書はいつも寄贈せられたので、自分も「百代草(ももよぐさ)」を印行した際に贈つたところ、中央公論であつたか、懇ろな紹介をせられた記憶がある。

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