田山花袋
明治時代の文学者の中には、和歌に対して全く趣味のない人もあつたが、中には自ら詠じた人もあつた。田山君はその自ら詠じた人の一人で、松波遊山翁の門人松浦辰男氏が主宰した紅葉会の門人であつた。紅葉会には、自分も招かれて出席し、歌がたりをしたことがある。従つて田山君は、桂園門下の歌書をも蔵してをられたので、続日本歌学全書を刊行した際、当時何処を尋ねても得られなかつた熊谷直好(なほよし)の「浦の汐貝続篇」を、君から借りて載せたことであつた。
紅葉会の夜、君は直好の歌をいたくたたへてをられたので、自分は「直好よりも木下幸文(たかぶみ)の歌を重んずる、殊に幸文の貧窮百首はすぐれてをる」というたに、君はうべなはれず、「いや、直好の方が まさつてをる、歌がらがすなほでよい」といはれた。
巌谷小波
巌谷一六(いちろく)翁と亡父とは交はりがあつたので、その子息なる小波(さぎなみ)君の名は夙く知つてをつた。文人として逢つたのは、紅葉山人の條に記したごとくであるが、当日のことで今もおぼえてをるのは、「漣山人」と印刷してあつた名刺は、表が水色で裏が白かつたが、川上眉山君は、名刺を持たぬからといふので、小波さんの名刺の裏へ、美しい筆蹟で、所を書きつけてくれられたことであつた。
博文館から出る少年雑誌は、小波さんが主宰をしてをられた。それで君からいはれて、童謡や幼い唱歌を毎月寄稿した。
明治三十四年外遊の記念としては、「伯林文壇隙見話」を「心の花」{第六巻一号}に寄せられもした。
君が幹事であつた時好倶楽部の会では、年に数回逢つてゐたが、いつも懇ろな君は、天草に行かれた時、自分の竹柏会の名に負ふ那木の老樹を見られて、その絵葉書を送つてくれられもした。また、少病を養ふとて、小田原辺にをられた時、見舞をおくつたに、スケッチ風に蜜柑の木をかき、「湘南の柑橘黄なり病む人の顔この頃はやゝ紅うして」の歌がしるしてあつた。
三宅花圃
田辺竜子(たなべたつこ)、後の三宅花園(くわほ)女史に逢つたのは、中島歌子刀自の歌会の席であつた。床には、千蔭(ちかげ)の描いた人麿の像の細物がいつもかかつてをつた。女の弟子が大部分であつたが、中年老年の男の人も数人は出席してゐた。はじめていつた時に、「夕紅葉」といふ題で当座の歌合があり、判者は伊東祐命(すけのぶ)氏であつた。自分では記憶がないが、後に竜子さんから聞いたことを記さう。それは、歌合で二人が組み合はされたに、竜子さんの方が負けられた。従姉なる片山工学博士の夫人が、当日出席してをられて、「あんな田舎出の年下の子供に負けたのは」と悔しがられたとのことであつた。
竜子さんの父君は、有名な元老院議官田辺太一氏で、番町なる長屋門の大きい邸宅に住んでをられた。竜子さんに招かれて訪問したこともあり、小川町に来られたこともある。かの西鶴物の喧伝され初めた頃であらう。神保町の書肆三久の老人が、自分に、「当世女容気(かたぎ)」や、「日本永代蔵」などを貸してくれた。それを読み、その文に深く感じてをつたので、竜子さんにも話したものとおぼしく、花圃女史の明治回顧の談話中に、「西鶴のものは可成り読みました。佐々木信綱さんからすすめられて読んだのです」と出てをる。{「国語と国文学」第十七巻八号}
竜子さんは、同門の樋口一葉よりは年上(うへ)、中島門下としても先輩であり、かつ明治廿一年にすでに小説「薮の鴬」を刊行されて、当時のいはゆる閏秀作家として認められてをつたので、一葉が小説家となるに、精神上の影響を与へたことと思ふ。後に、一葉の作品を「都の花」や「文学界」に紹介されもしたといふ。
雪嶺博士の夫人となられて後、帝劇盛んなりし頃は、よく夫妻相携へて見に来てをられたので、廊下で逢つては昔語りをまじへもした。
昭和何年のことであつたか、竜子さんから、「歌子刀自の何十年祭の追悼会を星が岡茶寮で催す、刀自を知つてゐる方は少いから、是非出席してほしい」との懇ろな手紙が来た。千葉胤明(たねあき)翁と自分との外は、いづれも女の門人で、鍋嶋直大侯の未亡人栄子刀自が年長者であつた。数十年前に教を受けた人々があつまつて、亡き師の追悼会を催すといふことは、うるはしいことであると思うたが、諸事斡旋された竜子夫人の尽力にもよつたのであらう。
島崎藤村
藤村君の兄君島崎友弥氏は、「心の花」第三巻{明治三十三年}からの寄稿家であり、君の姪いさ子さんは、竹柏会に入つた。君が小諸にをられた頃の知人神津氏の夫人蝶子さんも、竹柏会の同人であり、君の小説「家」に出てをる女流音楽家も同人なので、小諸にたよりをしたことがあり、有島生馬氏からの話で、君の藤村会の発起人の一人に加はりもした。
昭和九年三月廿四日、幕末の歌人安藤野雁(ぬかり)の六十八回忌の当日、「安藤野雁集」を渡辺刀水氏の出版された記念の講演会が東京朝日の講堂で催された。その折自分は話をするために、野雁が中山道にさすらへてゐた頃、島崎家に宿つてゐたのであらうと思うて君に問合せたところ、「御申遣の、庭に松あり裏に竹薮あり、恵那山の見える家とは、わたしどもの故家でございます。父正樹(まさき)は重寛(しげひろ)とも申し、吉左衛門はわが家主代々の通称でありましたが、「山窓にねざめの夜半の明けやらで風に吹かるる雨のおとかな」などの歌を遺して居りますのも、その家でございます。今回御手紙により、安藤氏のごとき客人の御宿をせしこともあるを知り、めづらしく思ひました」との返事があつた。それからしばらくして、野雁の短冊が見つかつたからとて贈られた。短冊の裏に、「安藤野雁」とかいてあるのは、父君の筆とのことであつた。(父君、すなはち「夜明け前」の青山半蔵である。)
中央公論社から、自分の「万葉辞典」が出版せられたをり、同社の企画部で、数氏の推薦文をパンフレットにして編むこととなつた。藤村君のところへも同社の記者が訪問したに、推薦文は一切かかないが、佐佐木さんのならば書かう」というて一文を送られたので、自分は初めて麹町の君の邸を訪うてその厚意を謝したことであつた。
附記 藤村君が第十四回国際ペン大会にアルゼンチンに赴かれた前、同地に記念の歌碑をたてられる参考にと人麿、実朝等の歌の相談に手紙があつた。帰朝の後に公けにされた「巡礼」の中に、その記事があつたやうにおもふ。
木下杢太郎
木下君を知つたのは、観潮楼での歌会が初めてであつた。伊豆伊東の出身といふ君は、豆南の人らしい快活な、しかも真面目な風格の人であつた。それは、おのづから作品の上にも反映してをると思ふ。真面目な面影をつたへる一挿話ともいふべきは、鴎外さんが文学博士の学位をうけられた直後の会の席上でのことである。君は容(かたち)を正して、「先日はおめでたうございました」と、祝辞を述べた。「やあ、どうも――」といはれた博士の微苦笑と、真面目な君との対照は、今も忘れがたい。
晩年は西片町に住んでをられたので、折々往来した。交換教授として南欧に出発される前、孫が病にかかつたので、医学博士としての君に診察を請ひに行つたに、懇篤に診察された。帰朝後、かの地の古美術の話などを聴かせてくれられたのも、なつかしい思ひ出となつた。
人々から贈られた絵葉書を帖にした中に、南欧旅行中の君から送られた一葉がある。「其後は御無沙汰仕候。寒中御変りもなく候や。森先生御永眠被遊、傷心之事に御座候。小生儀、目下即興詩人の名所を漫遊致居候。ナポリ附近、殊にアマルフィ、ポジタノ辺の奇勝瞠目仕候。二月廿一、ソレントにて太田正雄」。
附記 昭和三十一年八月、伊東松川の灯篭流しを河野氏に招かれて見にいつた折、相客は前市長の太田翁で、木下君の兄君、伊東公園に木下君の詩碑が建つた時の記念に頒たれた「木下杢太郎の横顔」といふ冊子を贈られた。表紙の表には、君がスケッチされた藤村、漱石、抱月、竹風、裏表紙には、鴎外、竹二君及び予の肖像画が刷つてある。先輩や友人、中年の頃の自分に逢つたやうな心地がしてなつかしかつた。
三宅雪嶺
「君が佐々木君か、お父さんから名を聞いてをつたよ」。雪嶺(せつれい)博士から初めて聞いた言葉は、かういふ親しみのこもつた言葉であつたと思ふ。時は明治二十年四月、処は東京大学の図書館であつた。
当時の図書館は、独立した建物でなく、大震災前まで在つた法文科の建物の二階、閲覧所の奥に書庫があり、夥しい典籍が蔵せられてゐた。その書架の間の窓よりのところに、教授や卒業生など特別閲覧者の卓子と、四五脚の椅子とが置いてあつた。自分は古典科卒業の一年前、卒業論文を書くために書庫への出入を許されたので、喜んで日々いつては書架の前に立つて、古典籍に親しんだのであつたが、自分のいつた、いかなる日にも、特別閲覧席で読書してをる人がある。給仕に名を聞いたに、三宅さんであつた。自分は、父が大学の編修所に勤務してゐた時、卒業直後の三宅博士や、井上哲次郎博士が、同僚として机をならべてをられたと聞いてをつた為、なつかしく思つて静かに言葉をかけたに、上に述べたやうな返事をされた。これが初対面であつた。
昭和の初め頃、自分は、丁酉倫理会の依嘱により、学士会館で、「上代東国人の歌謡」といふ題目で話をした。来会者の中に博士夫妻がをられた。話の終つた後、博士は夫人を指ざして、「これの歌は古今風であるが、同伴して来た。万葉の東歌には胸にしみる歌が多い」といはれた。
昭和十九年五月、最近の文化勲章拝受者の招宴が文相の官邸で催された。自分は少しおくれていつたところ、玄関前に馬車があり、その馬は美しく逞ましい白馬であつた。食事の際、誰かが、「馬車はどなたのですか」と問うたに、「わしのである」と答へられた。隣席にをつた自分は、「あまりに良い馬なので、暫く立つて見てゐました」といふと、「知つた人のを借りて来た、車台はよくないが馬は良い」と云うてをられた。帰られる時自分は、車上のうしろ姿をながめてをつた。
その翌月、芸術院の授賞式が同じく文相官邸であつた。式後、食事のをりの椅子は、また翁の隣であつた。「今日も馬車ですか」と問ふと、「車台がこはれたので、書生をつれて来た」との答であつた。自分は「平素、家に籠りがちなので、たまたまかういふ会に出ると、旧知の方に逢ふことが出来て喜ばしい」というたところ、「わしもそれで出席する」と答へられた。「お父さんの死なれたのは何年前になる」との言葉に、「三年前が五十年で、記念講演会に、井上哲次郎先生にお願ひしました」といふと、「大学の編修所で一緒であつたが」といはれた。これが、博士と話をした最後であつた。
初対面の時、最後の会談の時、偶然にも亡父のことをいはれたのは、自分には感銘が深かつた。
附記 博士の歿後、遺著「大学今昔譚」を遺族から贈られた。その中に、大学の図書館に毎日入つてをられた時のことが記されてゐる。「学生の頃に図書館で読書しても、書名と冊数を記し、係員に取出してもらふのであつて、一日に読むところが限られてゐる。自身で書庫に入り、何でも自由に読み得るとなつては、平素全く気のつかない書物を見、それを読むやうになる。一寸開いてそのまゝにするのもあるけれど、ともかく三年間書庫に出入したことは、学生として読書したのに幾倍したといへる」とあつた。
また、「チェンバレンが日本文典を編纂するので、その助手のかたちとなつた。自分は一週何回か、チェンバレンの私宅で口述を筆記した」とある。この事をはやく知つたならは、王堂先生の赤坂時代の様子を聞いたであらうにと、遺憾に思つたことである。
上司小剣
上司小剣(かみつかさせうけん)君と逢つた星が岡の茶寮の会は、少数のつどひではあり、ことに隣席したので、奈良の神官の出である君に、正倉院のものがたり、春日本万葉集のこと、また「伴林光平全集」を自分が編纂してゐた時とて、話が尽きなかつた。その後、君に用だてた書物についての来信は、九月九日の日附で、奥に、「むろん陰暦ではございますが、重陽は光平大人の誕生日にあたります」とあり、また、「私の方の伝記小説伴林光平は、書くのに四ケ月、出版文化協会の許可に一ケ月、印刷校正に三ケ月かゝり、これまでに八ケ月を要したことになります。いつできるかわかりませんが……」とあつた。
その後、芸術院の会員になられて、会に出席された日に逢つたが、間もなく世を去られたのは悼ましい。
菊池寛
菊池さんに初めて逢つたのは、京橋に近い大通りの鴻の巣の二階、上田敏博士歿後まもなく、博士をしのぶ会に於いてであつた。幹事の与謝野寛君の指名のままに、人々が追悼談を述べた。筋向うの若い人は、「自分は京都大学に学んだが、上田さんの講義にはあまり出なかつたので……」との詞、率直ないひざまなので傍の人に聞くと、時事新報社の記者なる菊池さんであつた。
最後に逢つたのは、一昨年{昭和二十二年}十二月、野間賞授与式の日、隣席にをられた君が、小さい声で、「さきに帰るが、東京駅まで送つてあげよう」とのこと、好意を喜んで、君の自動車に乗つた。「車が小さいので」といひつつ、熱海へ持ち帰る本の入つたカバンを自身の膝の上に載せてくれられもした。「大映には社長用のが二台ある。これこれの番号に電話をかけられるとよい」とのことであつた。その後、上京の際、二度ほど君の好意によつて、足弱の自分が助けられた。
芸術院が組織された当時、あることを君と談り合つて、清水院長へ提案した。その文案の相談に、初めて雑司ケ谷の君の邸を訪うた。清楚な洋館であつた。君が万葉集を愛読してをられるとの話を聞いたのは、その時であつた。
附記 讃岐は高松の旅館にやどつて、屋島見物に行かうとした時、自動車の運転手に、「途中に、何か由緒のある所があつたらば知らせてくれ」といつて乗つた。やがて、ある通りの細い横丁の見える処でとめて、「あそこの高い所が、菊池寛先生の生れられた処です」というた。此の話は、君にいうたか、記憶がない。
真山青果
青果真山(せいくわまやま)彬君から、書状を贈られた。きはめて真面目な書きぶりであつた。君は仙台の出身、殊に林子平の家とは縁故もあられたので、子平の父笠翁(りふおう)の事蹟に就いて調査されてゐた。笠翁は真淵門の楫取魚彦(かとりなびこ)との間に師弟の関係もあり、建部綾足(たけべあやたり)とも交はりがあつた。君から、笠翁の著「儀式攷」をおくられて、子平の学芸に、その精神に、来由するところあることを知つたのであつた。
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