落合直文 (以下、歌人について述べる。)
古典科の同窓井上甲子(かし)次郎君を飯田橋の土手(どて)の側の家に訪うたに、盛んに話してをられる先客がある。それが落合直文君であつた。落合君は、「君のお父(とう)さんには、古典科で歌の添削を請うたことがある」と云はれた。自分は「父から、生徒の中で落合亀二郎(直文君の前名)といふ人は、非常に歌にすぐれてをると聞いたことがありました」と答へた。さて話のつづきに移られたが、近く出た「日本文学」といふ雑誌を手にとりつつ談論風発といふべきさまに語り続けられた。随分するどい語気で話してをられたが、ふと話を転じて、笑ひながら、「自分はここの近くであるが、隣に詩人の国分青厓君が住んでをる、それである日、こんな面白いことがあつた」と、極めてうちとけた話をされた。(君の家は、後に国学院の建てられた横丁であつた。)
爾来多年、道の上の先輩として尊敬もし、また親しく交はつてもをつた。君の情の篤い一例として次の一事をしるす。小中村先生が世を去られたので、先生の邸につめてをると、葬儀委員の相談の結果、棺脇は特に学恩をうけた数人がフロックコート着用でつとめることとなり、その一人に自分も加へられた。まことにありがたいことであつたが、当時自分は、フロックコートを持つてをらぬので、困りました、明日(あした)ではといつたのを、傍らにをられた落合君が聞かれて、それならば僕の家に行きたまへ、二着はたしかにあるとのこと、感謝しつつ、急いで浅嘉町へゆくと、夫人が出られて、ありはありますが、あなたの方が大きいから、とても着られますまいとの答。それで、他の太つた人のもと竹屋さんを訪うて借着でつとめたが、君の好意は永く忘れがたい。
さういふやうな君が、数年の後、仙台からおこされた書状がとどいた。披見すると、その当時の心の花に載せた与謝野寛君に就いての、今日の所謂ゴシップめいた文に対しておこされたのであつた。固より自分の書いたのでも、石榑千亦君の筆でもなく、寄稿また投稿をさながら載せたのであつた。(寄稿の中には、坂井久良岐君のが多かつたとおもふ。)由来、心の花は、常に極めて自由な立場をとつてゐて、寄稿・投稿の類をも、出来るだけ掲げてをつたのであつた。
自分は、この激烈な書状をおくられたので、先輩に礼を失しては相すまぬと、君の帰京せられたと聞いた夜、直ちに、小川町から浅嘉町たる君のもとを訪問した。それは春雨にはふさはしからぬ雨のはげしく降つてゐた夜と記憶する。座敷に通されたに、古典科の同窓の今井彦三郎君と碁を囲んでをられた。局の終るのを待つて、自分は、雑誌編輯の態度に就いて陳べ、個人に関することを掲げたのはよくないので、将来は注意するやうにさせますからと述べたところ、強ひて争を好まれたわけでなく、斯の道のため革新を計る心に於いては、はじめより一致してをることであり、ことに、今井君が傍からいろいろとりなして言はれたので、君の心も解け、また棋局に向はれた。軒の玉水の音のなほ繁きをも忘れ、夜ふけて辞したことであつた。
歳月は走り過ぎて、明治三十六年の秋、自分が南清に遊ばうとした前、君が病んで駿河台の病院に入院中であると聞き、驚いて訪問した。いくらか衰へてはをられたが、いつもの元気な声で、「黄鶴棲や汨羅(べきら)も見て来たまへ、帰つてからの土産話を楽しんでをる」といはれた。
君の話された汨河口(べきがこう)を過ぎ、遠く、長沙・湘潭に遊んで、三週間ほど日本の新聞を見なかつたが、帰途、南京で三江学堂の教頭なる菊池謙二郎君を訪うたに、「時に落合君もとんだことで」と話された。交遊二十年に近く、和歌革新道の先達として常に尊敬してをつた先輩の永眠を、所は故京建業、時は歳まさに暮れなむとする前二日、窓から見える雲の色も寒い夕べに聞いたのである。自分の胸は旅愁を超えた深い悲しみに痛んだことであつた。
与謝野寛
現代短歌全集に添へられた与謝野寛(ひろし)君の年譜を見ると、明治二十六年の條に「初めて坂正臣、大口鯛二、佐々木信綱、池辺義象、正岡子規諸家と知る」とあるが、君と初めて逢つたのは、落合君の浅香社(あさかしや)の歌会に招かれた席上であつた。しかして、君が二六新報の記者としての訪問をうけたことがあった。二十九年、君が朝鮮より帰られて間もなく、上野公園の、当時、摺鉢山の下に在つた三宜亭で君の歓迎を兼ねた歌会が催された。その席上では、一本の巻紙に、各の詠んだ歌を次々と書きつけてゆくのであつたが、人々が書き終つた後、君がよい声で朗吟せられた。此の年帰られたのは、三樹君の明治書院の編輯部に入る為であつたといふ。その編輯所は、神田区小川町一番地の進徳館といふ学校の前に在つて、自分の住居とわづかに家数三軒ほどを隔てた向側にあつたので、折々に来往した。ある夜、斎藤緑雨君と同道して訪はれ、夜ふくるまで語つた思ひ出もある。
その年の夏、公けにされた「東西南北」には、後の出版記念会の祝の詞のやうな意味で、数人の序跋が寄せられてゐるが、自分も一篇を寄せたことであつた。
三十年には、君と共に新詩会を起した。その会の第一集が「この花」として、三十年三月に刊行されてをる。序文は与謝野君の執筆に成つたのであるが、会の成立等がよく知られるので、ここに掲げておく。
{散文の詩、独り盛にして、韻文の詩の振はざるは、洵に文学の為に慨すべきなり。ここに、新体詩を研究し之が発達を図らむとて、同好の士相集まりて、一会を組織す。名づけて新詩会といふ。其の会員には、落合直文佐々木信綱、宮崎湖処子、塩井雨江、武鳥羽衣、繁野天来、杉鳥山、正岡子規、大町桂月、与謝野鉄幹の十人あり。一年四回相会して、この道の研究をなすと共に、相互の交情をも温め、或は、時にその作れる所の詩を集めて世に公にせむとす。会員にして、詩を出すと否とは、各自の意志に任かす。今、世に問ふところの詩集「この花」は、やがて、その第一集なり。あはれ、詩を好む大方の君子、願はくは高教を惜しむこと莫れ。}
三十三年「明星」の創刊された春、大宮に花見を共にしたが、二号に載せられた花見漫画に就いて自分は、麹町一番町の君の宅を訪うて、抗議したことであつた。(晶子さんと結婚以前である。)明星の出た前々年に「心の花」を発行したのであるが、両誌の間に意見の衝突したことが数回あつた。
歳月が流れて、大正十二年、君の生誕五十年祝賀会が、帝国ホテルで盛大に催された。その折、自分は、君の左側の席を与へられて、祝賀の詞を述べたが、落合君世に在られたならばと語つたことであつた。
昭和四年の夏、改造社の山本実彦氏に伴はれて、君夫妻が、鹿児島、宮崎を歴遊される前、当時の両県知事、北原白秋、斎藤茂吉君と共に、招かれて星が岡茶寮に会した。その折は、斎藤、北原両君の間に盛んな論議の応酬があつた。
昭和十年二月、吉田学軒翁の七十賀会の相談会に、新宿の旗亭で君と二回会つた。二回ともに君は非常な元気で、若々しく語られたのに、急に長逝されたことは、あまりにも夢のやうであつて、かつ驚きかつ歎いたことであつた。
君から贈られた書状は数通あり、また長文であつた。さきに西片町の蔵を掃除した時、こんな状をのこしてはと破つたことを覚えてゐる。今おもへば惜しいことであつた。
正岡子規
日本新聞社は神田雉子町にあつたので、小川町の自分の家から近かつた。社員の坂井弁(べん)君(後には久良岐(くらき)と号して川柳を専ら唱道された)が折々遊びに来た。ある日、子規君が和歌の方面にも力をいたしたいから、歌集を貸してほしいとの伝言をもたらしこられたので、座右にあつた俊頼(としより)の「散木弃歌集(さんぼくきかしふ)」、諸平の「柿園(かきぞの)詠草」を初めに、次に曙覧(あけみ)の「志濃夫廼舎(しのぶのや)歌集」を貸した。曙覧は福井の歌人としては、生前に藩主松平春嶽公の訪問をうけたほど有名であつたが、子規君の推賞によつて一般的に名高くなつたのである。また、田安宗武の「天降言(あもりごと)」をも用だてた。
君の「百中十首」の選を頼まれて選んだのが、日本新聞に載つた。これは、一人が百首中から十首を選ぶと、更に十首を足して次の人に頼まれたから、同じ歌は二度載つてゐない。
大町君、与謝野君等と共に、新詩会を興した時、不忍池畔の長駝亭に会が催されたに、子規君は、人力車に乗つて来られた。その際が初対面であつたと思ふ。落合君も出席されて快談せられた。
根岸なる諏訪家の歌会に招かれていつた日、ゆきがけに子規庵を訪ひ、床の上に坐つてをられた君と暫く語り合つた。上野の森の梢が見えたこと、入口の室(へや)の壁に木曽の旅の記念なる檜木笠のかけてあつたことなどが、目に残つてゐる。
亡父の十年の記念歌会を梅川楼で催した時、「故佐々木先生十年祭に懐旧といふ題にて 世の中に歌学全書を広めたる功にむくいむ五位のかゝふり 常規」といふ短冊を手向けられた。四五句は、いふまでもなく、万葉集十六の巻の歌によつて詠まれたのであるが、和歌であり、さういふ会のゆゑ、本名の「常規」と書かれたのである。同じ時の落合君の短冊と並べて、先人五十年の記念に公けにした「竹柏華葉」に掲げたことである。
石川啄木(以下、尾上柴舟君まで歿年順とす。)
森鴎外博士は、満洲から帰られた後、「歌日記」を発表されるなど、和歌に対する関心が深まつたやうであつた。それで、与謝野寛、伊藤左千夫二君と予とに月々来て小集を催すことを企てられた。これが観潮楼歌会の起原である。その会で啄木君と初めて遇つた。会では無口な、沈みがちな中に、熱情を抱蔵してゐるといつた風の青年であつた。
会はてて、夜ふけの千駄木の通を歩いて、電車のところで別れた。偉大な体躯の持主左千夫君と、背の高い寛君のうしろに、やせぎすな啄木君と、自分とが影を並べて、月影を踏みつつ語りあつて帰つたこともあつた。
この道すがらの話などによつてであらう。「心の花」に歌を送つておこされたのが、十二巻{明治四十一年}第七号にのせた「緑の旗」五十八首である。その名が「工藤甫」とあるのはペンネームで、「本名を用ゐることはいささか憚るから」との書簡が添つてゐた。当時は、主として「明星」に、短歌を発表してをられた為の心づかひであつたのであらう。(この工藤甫の名は、多年啄木研究に従事してをられる吉田孤羊若からの書状によると、「工藤の姓を使用したのは、母堂勝子さんの実家の姓であり、甫は、はじめと訓んで、啄木の本名一(はじめ)をもぢつたもの」とのことである。)次に、同年十二月に「浪淘沙」十八首を、これは、石川啄木の名で寄せられた。改造社の啄木集の年譜によると、「スバル」の創刊のことなどで、自由な立場に立つやうになられたためであつたらう。
それからかなりな月日が流れて、ある日、自分が大学正門前から電車に乗つて神田へ行かうとした時、こみあつてをるので立つてゐると、本郷三丁目から啄木君と老人とが乗つて傍に立つた。君は、「僕の父です、故郷(くに)から上京しましたが、すぐ帰りますので……」といはれた。挨拶すると、老人は懇ろに答礼された。これが君と逢つた終りのやうにおもふ。
かつて、啄木の親友金田一京助博士から、書信を得た。「啄木の賢妹光子さんの書いた、『悲しき兄啄木』といふ本を読んだに、父は、早くから『心の華』を読んで居り、佐々木信綱の本を机からはなさず、暇(ひま)さへあれば書斎にこもつて歌を作つてゐる方(はう)でした。兎も角、村ではひとかどのお師匠さんで、駒井といふ酒屋の若旦那、登記所の書記、その他、村の青年四五人がお弟子さんでした、云々とある。『歌の栞』などで勉強してをられたことと思はれる。父翁一禎師は、師匠の葛原対月に歌の手ほどきを受けたやうである。対月師は名高い禅僧で、その妹が一禎師に嫁ぎ、その間に生れた晩年の子が啄木である」と知らせてくれられた。金田一君のこの書簡によつて、啄木には、歌の血がつづいてゐたといふことを初めて知つた。
伊藤左千夫
犬山城にのぼり、木曽川で今宵はじめて催すといふ鵜飼を見て、夜遅く名古屋に帰り、東京の新聞を見ると伊藤左千夫(さちを)君の訃報が載つて居る。驚きと悼みにみちた胸には、数年前、南清の旅中、建業の雨花台にのぼつた帰途、菊池君から落合君の逝去を聞いて、かつ驚きかつ悼んだ事が思ひあはされて、いろいろ思ひ続けた。
鴎外博士は、明治四十年の三月、観潮楼で歌会を催された。その会ではじめて伊藤君と逢つたのであるが、「心の花」を石榑君と同郷で根岸派の森田義郎君が編輯してゐた当時は、しばしば寄稿されたので、初対面の心地がせず、胸襟をひらいて語りあつた。その会は、四十二年の夏まで継続した。歌会の夜は、いつも夜がふけて人通りの絶えた千駄木から本郷への通を、伊藤君や与謝野君と並んで話しつつ帰つて来た。伊藤君のしつかりした体格、重みのある中に愛嬌のあつた声音、それと、今日のぼつた天守閣の眺め、鵜飼のかがり火、おぼろげになつた南京の景、萩の舎主人の風姿などが、かはるがはる見え聞えるやうで、旅人の眠は成らず、夏の夜のしらじらと明けそめるまで目覚めてゐたことであつた。 (大正二年七月)
長塚節
長塚節(たかし)君の名を初めて聞いたのは、竹柏会の同人なる千葉県の寺田憲君からであつた。両君は縁戚の間柄である。節君は水戸中学校を終へて神経衰弱にかかり、療養のため、当時在京の憲君の実父の家に、数年間、憲君と同居して居り、憲君は歌の話を毎日のやうにきかされて遂に歌を詠み始め、後にわが会の同人になつたとのことであつた。当時、節君は、「新小説」、「中学世界」などに毎月投稿してをつた。節君の二十歳の頃、自分が、「新小説」の歌の選をしてをつたに、鯉幟といふ題で、君の歌を一等に選んだ。節君は非常に喜んで、その賞金で世界地図を買つたとのことである。その歌は「生れしは男の子なるらむあやめ草ふける軒端にのぼりたてたり」といふのであつた。この入選以来、節君は一層作歌に熱心になられたといふ。
君の歿後間もなく、福岡に、大隈言道の遺跡を訪(たづ)ねた際、君の病を治療された久保猪之吉博士と逢つて、博士から病中の君の話を聞き、また、書かれたものを見せてもらつたりした。しかして、かの「鍼の如く」鋭い心を持つた君を、早く失はしめた病を且つにくみ、且つ嘆じたことであつたが、又その病のゆゑに、あのやうな歌が生れたのではなからうかとも思うたことであつた。
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