島木赤彦
{この一篇は、大正十五年三月、芝増上寺に於ける追悼会の談話の筆記である。}
私は、歌壇人の一人として今日島木君の追悼会に列なり、君の霊に敬意を表したくてまゐつたところ、階段のところで斎藤茂吉君から、何か話をするやうにとの頼みを受けました。急に思ひ浮べ急に述べるといふやうなことに慣れてをりませぬが……。「世の中にあらましかばとおもふ人なきが多くも」と古人の歎いたやうに、昨年木下利玄君を失ひ、今年島木君を失つたことは、歌壇のためまことに歎かはしいことであります。
先般、下村海南君が歌壇の人々を招いて小集を催したいとのことで、その招待の人名を見ました。最初に島木君の名があつたので、自分は久々で君に話を聞きもし、又したいと思つてゐましたに、その会より前に幽明境を異にせられたことは、まことに残り多く思ひます。話をしたいと思つたのは、自分が近く読んで感動をうけた書の一つである、君の著「万葉集の鑑賞及びその批評」に就いてであります。万葉集の研究は一般的に進んで、種々の著述は刊行されたが、後世に残る書は少いやうに思はれます。かの書は、万葉研究史の上から見て、長く世に残り伝はる書であると思ひます。かの書のはじめに、この書の人麿、赤人、憶良観には、異議のある人が多いであらうと書いてあつたやうに思ふ。学問に従事してをる者は、時としておのがじし意見を異にすることがある。自分は君の挙げられた赤人の歌、また憶良観などについて、同じ考を持つことの出来ない点があるも、それはおのがじしの考の相違であるから、といふやうな話をしたいと思うてゐたのでありました。
自分は歌壇に在ることが久しいために、正岡君、伊藤君の葬儀にも列なりました。いふまでもなくいづれも「あらましかば」と思ふ人々であるが、正岡君は、創業の人として各方面に為さむとしたことを十分に為しとげられたと思はれます。伊藤君も十分になしとげられたかと思ふ。勿論、一日は一日世にをられたらば、それだけのものを、多く残されたにはちがひないが。島木君は、天がもし齢をかしたならば、なほ一層残されるものが多くあつたであらうと思ひます。
賀茂真淵の著書は、その大部分は五十歳から七十三歳までの間に為されました。学者の晩年は貴いものである。島木君が、かの書の後編をも書かれずに世を去られたことは、まことに惜しく、「あらましかば」と思ふ情が痛切である。ここに君の霊に向つて、哀悼の意を表すると共に、忌憚なき言葉を述べたことを許されむことを望む次第であります。
古泉千樫
千樫古泉(ちかしこいづみ)幾太郎君は、「心の花」と古く関係があつた。君の年譜に、十三歳から漢学の塾へ通つて詩作を習つて居たとあるが、その頃から「心の花」の読者であつた。第四巻第四号{明治三十四年四月}に、「魚」の競点中に「安房 古泉幾太郎」として「時を得ばたぎつ早瀬も昇るべき魚はひそめり青淵の中に」とあり、その後の号、また、第五巻、第六巻の選歌中にもある。この頃の投書家の中には、吉植愛剣(庄亮)、氏家真琴(まこと)(信)君などもある。七巻より十一巻までにはかなり多く載つてをり、十二巻二号{明治四十一年}には、「最近十年間に於ける歌界の概観」といふ君の文が載つてゐる。冒頭に、
{我が「心の花」は、此の二月を以て満十年に達する。予は、「心の花」初号よりの読者である。「心の花」が満十年に達し、しかも益々盛大になりゆくは、斯道のために喜ぶべき事で、吾々読者の一人として、又大いに愉快を覚えるのである。}
とある。これは、君の二十二歳の春、上京以前のものである。その年の四月の竹柏会大会には出席され、十月号に、出郷や仮寓の作を出し、十一月号に、「玉琴をよみて」の批評を書かれた。
さういふ「心の花」の縁故から、石榑君が主宰してをられた水難救済会に入られたのであつた。しかるに、救済会同僚の新井洸(あきら)君も、君も、共に世を早くせられた。歌の道のために、まことに歎かはしい。
久保猪之吉
久保猪之吉(ゐのきち)君に初めて逢つたのは、落合君の会で、君が高校生の時であつた。医科の学生の頃来訪されて親しくなつた。いかづち会を組織し、読売新聞の紙上で、同人の作品を発表し、歌壇の作品の批評に、力づよい筆をふるはれた。同時に、若菜会もおこつたが、いかづち会の方が盛んであつた。
福岡の医大に耳鼻科の主任として赴かれ、夫人のより江さんが俳句に熱心だつたので俳句をも嗜まれたが、やはり歌人であつた。昭和七年十月大阪で竹柏会支部の講演会を催した時、同じ大阪ホテルに泊つてをられたので講演を頼んだに、「芸も長く命も長い」といふ題目で話してくれられた。又、その後、言道や望東尼の事を調べに福岡にいつた時訪問して、野村家から借りられた望東尼の書翰数十通をみせてもらつたが、年月等の整理はしてなかつた。近く自分が「野村望東尼全集」を編纂し、書翰の全部をも併せて印行した時、君あらましかばと思うた。
上京しては、ステーションホテルに泊られた。昭和五年六月、君の友なる小池重(じゆう)君が、君を中心にした歌人の会を催されて、与謝野君夫妻、尾上柴舟君、金子薫園君、斎藤茂吉君と予とを招かれた。八人いづれもまだ若々しさの満ちた時代とて、夏の夜のふくるをも忘れて語りかはした。後に、当日の写真を小池博士から借りて、自分の「作歌八十二年」に掲げてある。
同十二年六月、自分の祝賀会には上京して、「四十年の交はり」といふ題目で、親しい交はりについて述べてくれられた。
追記 昭和三十五年五月、九大医学部内に博士の歌碑が建つた。
与謝野晶子
今は昔といふべき頃、九段は中坂下の教会で催された文芸講演会に講話を頼まれ、大隈言道と野村望東尼の歌に就いて述べた。述べ終つて帰らうとして玄関に出た時、二階からおりて来た一女性に呼びとめられた。それが晶子さんであつて、望東尼の話を聞きに来たといはれた。自分は立ちどまつて暫くそこで話をした。これが初対面であつた。
その後、会の席上などで、度々逢つて語りもしたが、「新万葉集」完成の竟宴の会が、上野の精養軒で催された日、司会者から指名されて、選者たちはそれぞれ所感を述べたが、晶子さんは、自作の二首の歌を朗吟された。その声の若々しくうつくしいに感ずると共に、亡き夫君を偲ばれた情の深い其の作に感じた。晶子さんの朗吟を聴いたのはこの日が初めてであつたが、晶子さんと話したのは此の日が最後であつた。
北原白秋
北原白秋君とは、森さんの会で初めて知るやうになつて、明治四十一年の心の花三号に「若き喇叭」、七号、八号に「断章」、九号に「瞳の色二十篇」などを寄稿もせられた。
それからかなりの年月がたつて、下村海南君が朝日の副社長であつたころのある夕べ、新橋の某亭に若い歌人を招かれた。「部屋の隅に色紙がおいてあるから、歌でも絵でも肖像でも好きなものをかいてほしい」とのことでそれぞれ筆をとつた。やがて、北原君が「見給へ」というて示されたのは、白秋と署名された竹柏園主人の像であつた。下村君にたのんで自分がもらはうかというてをると、傍から斎藤(茂吉)君が、「一寸見せ給へ」というて前において、「春の日のてりかゞやける国原の大河の水は心ゆたけし」といふ歌をすらすらとかいて、「茂吉」と署名してくられたので、よろこんでよい家づととした。(昭和三十二年二月の「心の花七百号」の巻頭に写真が掲げてある。)
又十年余の歳月がたつた。山本君の「新万葉集」については同君の條に述べてあるが、選を頼まれた人々にとつては盛夏である上に寄稿の数が多いので、実に一通りならぬ苦心であつたが、誰もが、わが道のためにと身もたな知らにつとめた。何回か数人づつの集まりがあつた。星が岡茶寮に会した夜、終りに近づいた頃、自分が北原君に対して何か冗談をいつたとみえ、低い声を出してののしられたやうである。自分は自分の言うたことを現に記憶してをらぬほどの事であつたが、翌月の君の雑誌の、君の文中に極めて激烈な言葉で自分のことがかいてある。驚いて、誤解であると書状をおくつたが、返事がなかつた。しばしたつて、君は眼があしく入院と聞いて駿河台の病院にいつたが、たしか夫人が出て来られて、面会謝絶であるからといはれた。その後、しばらくして隔世の人となられた。
自分も、もとより他に対して喜怒はもつてをる。しかし、まのあたりその情をもらしたやうなことは、幼い時代に一回あつたが、それ以外には全く記憶せぬ。星が岡のは今も遺憾に思うてをる。
金子薫園
薫園(くんゑん)金子雄太郎君とは、落合君の歌会で初めて会つた。当時自分は小川町に住み、君は小川町より南甲賀町、その中途から右に折れて淡路町に出る横丁に住んでをられたので、しばく訪はれた。夙く歌集「片われ月」を出し、翌年、尾上柴舟君と合著の「叙景詩」を出された。当時流行してをつた明星派に対峠せむとの著作であつた。また結社白菊会を起して、田波御白、土岐哀果(今の善麿博士)吉植庄亮氏等の優秀な同人があり、新潮社に関係して、その歌欄を担当し、後進を誘掖されたのであつた。
岡麓
麓(ふもと)岡三郎君をはじめて知つたのは、明治も二十年代のことであつた。下谷の根岸に住んでをられた多田親愛(しんあい)翁は、明治時代における上代様(やう)仮名書きの第一人者であつた。明治二十三年に、父とともに「日本歌学全書」を編纂した時、翁に題簽を請ふとて、何回か訪問した。そのをり、「門下で若くて書道に熱心なのは岡君である」といはれ、「岡君と吉田知光(ともみつ)君とは古筆をもあつめ、田中親実君は、古筆を観る眼がすぐれてをる」と語られた。初めて同君の名を聞いて後、しばらくして、翁のもとで岡君と初対面の挨拶をかはした。
君が湯島から神田に移られて後、熱田の書家岡山高蔭(たかかげ)君が上京された際、ある夜、伴うて君を訪問した。門をくぐると、数株の竹の植ゑられてある瀟洒な住居であつた。愛蔵の古筆類を快く示されるので、夜のふけるのを忘れた。その中で、頼政の書状が今も心に残つてをる。帰さ、夜ふけて仰いだ夏の夜の月は清く涼しく、「ああよい晩であつた」と、岡山君と語りあつたことも忘れがたい。
多くの年月が夢のやうに過ぎて、昭和二十四年四月、芸術院会員になられた。二十五年の晩春、自分は信州の戸倉に行つた。その帰さ、天竜峡へと赴いた折、案内の人から、「岡さんが疎開して仮寓してをられるのは、あちらの方にあたります」と指し示された。その時の旅程が、信州から豊橋へ出る切りつめたものでなかつたならば、と残念であつた。しかも、この逸した機会は、遂に再びめぐり来なかつた。
斎藤茂吉
斎藤茂吉君は、いつ逢つても、その率直な性格に対して、新鮮な親しさを覚えるのが常であつた。
昔がたりとなるが、歌壇人の歌集の出版記念会が催された時、自分は、平素語りあふ機会の少ない人にもあへるから、つとめて出席するやうにしたが、斎藤君も、さうした会に比較的よく出席され、自分と隣席されることがしばしばあつた。特に、新万葉集の編纂の際には、数回席を共にした。また英訳万葉集の委員会には数年にわたつて、毎月何回かを、君も自分も殆ど欠席せず、学問のために忌憚なく論じあうて、一層の親しさを増したことであつた。
青山に君を訪問し、西片町に君の来訪された記憶はどちらも一二回で、用事があれば電話で話すか手紙を往復するかであつた。さうした関係で、君からの書状は多く来た。君の筆蹟は風格があつて、いつも克明な墨書であつた。ただ一度、山形県の疎開先から、「所労中ゆゑ」として、代筆でおこされた。書状以外では、亡父の五十年祭に手向けられた短冊、戯曲「静」が、歌舞伎座で先代の歌右衛門によつて上演された時、君を招待したに、観に来られて、その翌日おくられた色紙がある。また、君の「柿本人麿」による学士院賞授賞の祝宴が学士会館で催されたので、列席した直後、大阪の鹿田書店の書目によつて金槐集の写本を購つたところ、君も注文されたに、自分の方が早かつたので貸してほしいとの手紙が来た。その本は、古写本とはいはれぬが、江戸初期のかなり良い写本であつたから。君に贈呈した。その際におこされた短冊、それらを蔵してをる。
昭和十二年の初夏、自分のための祝賀のつどひが、芝の三緑亭で催された時、君は長い話を述べてくれられた。それは、自分の初期の作品に対する本格的な批評であつた。君はこの話のために、亡父の編纂した「明治開化和歌集」から自分の歌集「思草」に及ぶ歌を丹念に調べられ、「秋は秋なる」といふ歌の出典、また明治三十年に「めざまし草」に発表した「ささやくごとき水の音かな」の上句が三十三年に改作されてゐることにまで言及され、「天地のかくろへごと」といふ句に就いて委しく述べられ、更にさかのぼつて幼時の作にまで及んで、眼鏡ごしに上眼づかひにちらりと自分の方を見つつ、瓢逸であり、しかも真剣な態度でいはれるので、自分は、微笑もし、傾聴もし、深思もさせられた。
同じ意味で、「余情」の「佐佐木信綱研究」に寄稿してくれられた「明治和歌革新者」の一文は、過褒のところもあるが、知己の言と喜ばしく思うたことであつた。
君に関する記憶で、最も印象に残つてをる一こまがある。それは、文学報国会の短歌部長を決(き)める相談の時であつた。君と窪田空穂君と自分とが、報国会の世話人を交へて赤坂の某所で逢つた折のこと、自分は「しかじかの著作に専心したいゆゑ、斎藤君に」と頼んだに、君は、「病院があるから」と云うて聴かれない。空穂君もまた、寒い時はかうかうであるからと引き受けられぬ。さういふ押問答が続くうち、斎藤君は自分に向つて、「先生が死なれたら、私が引受けますが、それまでは駄目です」と言はれた。自分は返事もできず、苦笑するほかはなく、遂に引受けることになつた。このやうなことも、今はなつかしい思ひ出となつた。
尾上柴舟
柴舟(さいしう)尾上八郎君に逢うたのは、与謝野君帰朝歓迎の会を、落合君が催された日が初めてであつたと思ふ。
その頃、淡路町の横丁に金子薫園(くんゑん)君を訪うた帰さとて来られたが、自筆の名刺の文字のうつくしさに深く感じたことであつた。
爾来訪ひ訪はれて年月は流れ、昭和二十二年に、「平安時代の筆蹟に関する研究」といふ題目で、学士院の学術研究費補助を斡旋してもらひたいとのこと。幸にすぐ通過したので、伊東なる君の別墅を初めて訪うた。修善寺街道を左へまがつた所の瀟洒な家。見晴しのよい二階で語りかはし、帰途、物見の丘を訪うて、「つけすてし野火の烟の」の君の歌碑を瞥見したことであつた。
その後、自分が万葉集より百首を選抄、注釈を加へた一冊を成したが、習字の料となすべく一冊に執筆を請うたに、快諾、一葉ごとに書き方に変化を加へてものせられた。その二冊を、一組として、昭和廿四年二月、好学社から出版したことは喜ばしかつた。
芸術院の会のある日には、上京していつもお逢ひしてゐたに、君の遠逝の前から、自分は足を疾んで、欠礼したことであつた。
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