内藤鳴雪 (以下、俳人・詩人について)

 何年であつたか、民友社の新年宴会に招かれて行つた時、鳴雪(めいせつ)翁と隣席したことがある。自分は、若い時に、支考の「本朝文鑑」や「和漢文藻」の和詩を愛誦したこと、荷田在満の「国歌八論」の名が、支考の「俳諧十論」の影響であるといふ説のあることなどを話した。翁は「支考はこまるが」といひさして、「和歌でよまれることは俳句ですべてよまれると思ふが、恋の歌の情緒のふかさ、やさしさだけは、歌の方がまさつてをる」と話された。

    湯浅半月

 明治十八年、湯浅半月(はんげつ)翁が若冠にして米国へ留学の直前に刊行された「十二の石塚」は、植村正久氏の序文に、「日本には未だ類をみざる史話(イピツク)なり」とあるごとく、画期的といふべき長篇であつた。
 明治四十三年三月、自分は京都に赴いて、当時京都図書館長であつた君から、その趣味深い物語を聞くことを得、また君の宅に招かれて、景樹の像を譲られもした。
 翁の晩年に中野に訪ひ、西片町に訪はれなどして、文壇の懐古談に時の移るのを忘れた。翁は琵琶の名人で、その正しい伝統の最後の一人であつた。
 自分の祝賀会が、日比谷の山水楼で知友によつて催された雅宴の時、翁に嘱して「八島」を語られむことを請うた。当日の案内書にその由が書かれてあつたので、若い学士諸君は、平家物語の活字本を持つて来て聴いてをられた。
 また、目白なる椿山荘に、藤田夫人愛蔵の古い雛の陳列のあつた日、同人がつどひ、翁の琵琶を聴いたことがあつた。時は五月、広間の前なる古木の白玉椿――山荘の名に負ふ椿の花は、なほ咲き残つてをつたのを覚えてをる。それを前にして、翁はゆるやかな調子で、二曲を弾ぜられた。この日の思ひ出は今も新たである。

    萩原朔太郎

 人麿の歌によつて名高い讃岐の狭岑(さみね)島に、人麿の記念碑建立を思ひ立たれたのは、島に近い坂出市出身の中河与一君であつた。中河君から、その除幕式にと誘はれたので、瀬戸内海の景観をも見たく、赴くこととした。式に列つたのは、碑の筆者の川田順君をはじめ、萩原朔(さく)太郎君、前川佐美雄君保田(やすだ)与重郎君、その他は幹子夫人門下の人々であつた。式がをはつて後、狭岑の島より少し離れた本島に宿り、翌朝は島の頂上から、内海の眺望を楽しまうと、松山へ登つた。つづらをりの路は遠いので、松群(むら)の中を押し分けつつ、近道を選ぶこととなつた。いかにも砂が深く、一足登つては二足さがるといふやうなところで、枝につかまりながら辛(から)うじて行くのである。若い元気な人々は皆のぼりをへたが、萩原君と自分とだけがすつかりあとになつたので、先に行つた若い人々のうち二人がおりて来て吾々の手を曳いてくれた。かうしてやつとたどりついた頂上で、一行に加はることが出来た。さて互に顔を見合すと、萩原君の洋服には、松の枯葉がたくさん刺(さ)さつてゐた。自分は例の和服姿であつたが、汗を拭はうとして帽子を脱ぐと、枯松葉がはらはらとこぼれ落ちた。二人は思はず苦笑して佇んでをつた。詩人として、また詩論家としてすぐれた君と、この日の思ひ出がたりをしたいと思つてゐて、年月が過ぎたに、君は世を去られた。
 君は、前橋の医師の家に生れ、若くして音楽を好み、マンドリンやギターの音楽会を主宰してをられた。たまたま雑誌に歌を投稿して、歌を愛するやうになり、更に詩に進み、ニーチェに傾倒して、立派な詩人となつたのであると、君と共に若くてマンドリンなどを奏した根本謙三君の話である。

    野口米次郎

 野口さんと親しみを重ねたのは、姪なる高木春子さんを入門に同伴され、後、春子さんの父で君の兄なる高木真藤(まふぢ)君が、竹柏園の社友になつたので、文人の会などで逢ふ時、いつも語り合うた。ある時、米国の詩人が来たとて、中野の家に茶の会の陪賓として招かれた。極めて清楚なこころよい会合で、君の通訳により、米詩人に万葉の歌の一二を話したことであつた。
 また、西片町に二三人の客と共に君を招いた夜、記念にとて短冊に英詩を書いてくれられた。(訳を掲げる。)
  いのちにむかひすゝめ……
  古きをやぶり新らしき歌をうたへかし
  雲はをどり、花はひらく
 かつて君の著「日本詩歌論」を贈られて通読した。在外中の講演その他で、英文であつたのを、自ら邦訳せられたもの、その中の「日本詩歌遡原諭」は、古事記の歌のあるものに就いて、わが上代の詩人が、生と歓楽との詩人であつたことを説き、日本人の祖先達は、その死の断末魔の吐息に於てさへも、かの近代の所謂悲観主義とか感傷主義とかいふ考は一つもなかつた。太古に帰れ、日本人の心が、純真で純潔な心であつた時代に帰れ、といふのが主旨であつた。
  附記 「心の花」の九巻九号に「英詩と雲雀」、十五巻五号に「詠帰集跋」、十九巻十号に「足の音楽」、十八巻十号に「ハウムスオルスの浮世絵」などを寄稿された。

    土井晩翠

 明治三十二年の秋、初めてみちのくに遊んだが、三十四年の四月、吉野臥城、吉岡郷甫、氏家信、佐藤秀信君などが新韻会を結ばれたので、再び仙台に赴いた時、晩翠君を青葉城に近いところに訪うた。旧家のこととて、古くからあつたといふ世界地図の金屏風の、玄関にあつたのが、目に残つてゐる。翌日塩竃への汽車で、扇渓にゆかれるといふ君と同車したに、君は、松島の美は大鷹森で望む夕日にあるといはれたので、舟を大鷹森にやつた。松島の果(はて)で金華山の方に近い。春の日が長いから、蕨などを折りつつ歌を考へてゐたに、山番が来て、こんな画をかきますと云うて画帖を示してくれたには感心した。漸く日が暮れそめたので、遠刈田(とほがつた)の山の方に沈む夕日が、百千の島々の上をこえてみえる景は、げにも天下の絶景というてもよいと思つた。山も暮れ、海も暮れ、四辺全く暗くなつた。陰暦十三夜の月は山を照らし海を照らしてをる。その島々の間を縫つて、舟は五大堂の方に近づいた。
 土井君が、芸術院会員となられて、度々逢つた.東北人らしい、高校の多年の先生らしい話ぶりであつた。

    中野逍遥

 逍遥中野重(しげ)太郎君は、伊予宇和島の人。明治二十七年十一月、詩集二巻を天地の間に留めて、齢わづかに二十七にして世を去つた。君の学才を愛された島田重礼博士は、その逍遥遺稿に、「遺芳馥郁」と題し、其の終に、「中野文学士有才而無年、今覧其遺稿、慨然不堪蕙折蘭摧之歎」と識され、その友正岡子規君は、「春風や天上の人我を招く」と哭し、宮本正貫君は、「蓋君之所志、文則不降秦漢、詩亦不下漢魏、書則殊慕王衛」と述べ、小伝には、「更進於帝国大学攻其漢学科而専修文詩、蓋帝国大学有漢文学生、以学士為蓬蒿」「又嗜剣又嗜詩、好誦西人志留礼留翁詠、自期以翁」と伝へてをる。
  君の熾烈の情は、血と涙とを以て綴つた多くの詩篇を透して世に遺された。君逝いて後数年、明治三十年八月、島崎藤村君が、若菜集に、中野君の作「思君十首」の訳をかかげられ、昭和四年九月には、逍遥遺稿の訳文と本文とが岩波文庫によつて世に公にされ、君の詩を愛誦する人の少からざるを聞くことは、君の友人の一人として真に喜びに堪へない。
 君は実に、自分にとつて益友であり、心友であつた。君と自分との交はりは、明治二十五年十月の城南評論なる、雨夜文談と題した自分の文に、「学ぶ所同じからずといへども、志す所同じきをもて相親しき狂骨残月の二子、秋雨軒を撲つ夕べ、月明雁を照らす夜、一室に会して文を談ず。文は二千年の昔に遡り、下当世に及ぶ。談は天外に馳せ、また人情の微密に入る。静かに羽觴をあぐれば、談益々深く、談益々深ければ、興益々高し」。云々とある。狂骨は君の号、残月は当時の自分の号であつた。

    森槐南

 明治三十九年の十月、槐南(くわいなん)君から手紙が来た。「軽井沢なる末松博士の別墅に、何日に同行を」との誘なひである。本田種竹、大久保湘南、永坂石埭、大江敬香君等と同行し、博士の泉源亭に小憩し、碓氷に登つて紅葉を賞し、帰つて各詩歌を賦した。翌日は、当時出来て間もない三笠ホテルに遊んだ。その折、末松夫人が庭の紅葉二葉を貼(は)られた葉書の形の用紙に、槐種二詩宗が、「澗泉浄照晴峰雪、楓桕紅分翠麓霜 槐南」「詩人毎与雲来往、秋色自因山浅深 於井陘関 種竹山人題」と書かれたのを自分に贈られた。なほその時槐南君が、母君なる春涛翁夫人国島せい刀自は、歌を多く詠まれて、「庭すゞめ」といふ集があるといふことを話され、帰京の後一本を寄せられた。読み見るに世を慷慨された長歌などもあつて、幕末の一女歌人といふべき才女であることを初めて知つた。父翁の詩、母刀自の歌が、詩宗の文学に影響したであらうことは、あたかも頼山陽の父が学者、母梅颸夫人が女歌人であつたのと揆を一にする。
 かつて伊藤春畝公に自分が初めて逢つた時、公は、森君を漢詩人の第一人者と推重してをられた。かのハルビン駅頭の凶変の折、同行の君も微傷を負はれたとのことであるが、公の遺骸をのせた船に随行して、一百韻を作られたのは、公の恩誼に報いられたものと、深く感じたことであつた。
 明治四十四年二月、文部省から学位を授与するとのことで、当日出頭したに、森槐南、幸田露伴、夏目漱石、有賀長雄君と自分との五人であつたが、槐南君は病中とて来られず、露伴君は、後に聞くと、向島への書状の着き方が遅かつた為に、午後に文部省に赴かれたとのこと、漱石君は、次の朝の新聞で見ると、辞退して来られなかつたのである。それで、有賀君と、槐南君の代理と、自分とであつたことも、今は遠い思ひ出となつた。

    野口寧斎

 寧斎(ねいさい)野口弌(はじめ)君に初めて会つたのは、星が岡茶寮で数人の文人の会のあつた時のやうに記憶する。その席上、隣席にをられた槐南君が、「中野逍遥といふ人は貴下の親友であると聞いてをるが、逍遥遺稿の中に、『怪槐南矣妄寧斎』といふ句がある。その怪と妄とがここに並んでをる」というて、高笑ひされたので、野口君は苦笑してをられた。
 君と特に音信をかはすやうになつたのは、漢詩人の上夢香、松田学鴎の両君が、竹柏会の同人となつて歌の相談に屡々見えるので、漢詩が我が国に入つて以来、少数の歌人を除く外は、漢詩は漢詩、和歌は和歌と、どこまでも分離して居る。しかし或る点で、漢詩と和歌とは一致すべきものと思うてをるといふことを話したに、野口君が此の事を伝へ聞いて、和歌を詠み試みたいからと、松田氏を介して詠草を送られたのであつた。
 その後、雑誌「百花欄」の双魚小観を見ると、野口君が哲学館に学ばれた事がかいてあつた。自分も通学したが云々と言ひ送つたに、それは不思議である。僕も同館の開校当時に入学したのであつたが、其の時は互にそれとも知らずに過ぎたといふやうな詩をおこされた。
 自分が南清に旅行する前に、歌集「おもひ草」を印行しようとして題詩を請うたに、贈られた。
 その旅中、杭州の西湖にいつたのは、一月某日の朝であつた。湖岸にはりつめてをる薄氷を、舟人が棹で打ち砕き打ち砕きつつ、舟を進めた。案内の伊東学士は、詩に「打氷行」といふのがあると語られた。孤山にあがつて林和靖の放鶴亭の趾を訪ひ、その墳に詣でた。墳のうしろの梅がまさに蕾んでをる。自分は林処土の霊に請うて一枝を折り、伊東君と共に舟中で飲んだ麦酒の空壜に西湖の水を満たし、それに挿して、帰途の汽船、また汽車中、心して持つて来たに、東京に帰つた折、花が開いたので、「おもひ草」の題詩に和韻された趙巡撫、葉郷紳の詩の写しと共に、寧斎君に贈つたに、喜んで詩を作られ、また、其の散つた梅の枝を地方の詩友に贈るに添へた詩と共に、「百花欄」に掲げられた。
 野口君の和歌は、豪壮の作、沈痛な詠に富んでをる。ここにその数首を掲げる。
   山淡く村幽かなる夕空に小鳥むれ行く画に似たる秋
   笠深く蓑も重げに網代守る翁ものいはず雨さむくふる
   春十里天の竜駒むちうちて躍りて越えむ花の白雲

    国分青厓

 落合君が主宰された浅香社の江崎操子さんは、国分青厓(せいがい)詩宗の夫人となられた。それゆゑ夫人には折々逢ふことがあつたが、その千駄が谷の邸を訪うたのは、石南花の縁によつてであつた。某氏が来訪の時、自分が石南花を好むというたところ、国分翁が石南花礼讃の一人であるからとて、案内してくれた。詩宗はあやにく不在であつたが、夫人はをられた。庭も家のめぐりも、うるはしい紅(くれな)ゐの花につつまれてをつた。門下の人々から贈られたとて、巻煙草の箱にも、茶卓にも、テーブル掛にも、石南花の模様がにほつてをつた。
 芸術院の授賞式が、永田町の文相官邸で催された日、翁も出席された。その帰途、永田町の電車の停留所まで同行したところ、翁はまことに足が速い。驚いて話しかけると、「このやうに足は丈夫であるに、家の者が心配して一人で出さぬやうにするので困る」など笑つてをられた。
 翁の永眠を歎じて弔歌をささげたに、翌年の春、令息が西片町に来られて、遺愛の石南花一鉢を贈られた。
 翁が歌をもよくせられるといふことは伝聞してをつた。操子夫人の姪なる奥田千代子さんが、竹柏会の同人であるので、短冊の揮毫を請うたに、翁はその高雅な筆蹟で、
   雲掃ふいふきもかもな高千穂の
   高きたか嶺に朝日影みむ  高胤
といふ歌を書いて贈つてくれられた。翁が揮毫を厭はれるといふことは、有名な話であり、まして、歌を短冊に書かれたのであるから、喜んで秘蔵してをる。

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