橋本雅邦 (以下、画家・書家)

 今は昔といふべきある年のある夜、大橋乙羽君を小石川戸崎町に訪うたに、来客はあるがこちらへといはれて座敷に通つたところ、橋本雅邦画伯が盃をあげてをられた。初対面ではあつたが、自分はその少し前に、谷中の日本美術院の講演会に招かれて、「源氏物語と絵画」といふ話をしたのであつた。それで画伯は、あの日は行かなかつたが、いづれ「日本美術」に載るであらうから、といはれた。しばらく雑話をした後に、自分はまだ若かつた時分とて、かたちを正して、「今夕の記念に、画に就いての御話を何かおうかがひしたい」と云うたに、画伯は、別にお話をする事はないといはれたが、ややあつて語り出でられた。
 郷里なる川越の有志の企てた画宝会といふ会があつて、上野公園の常盤花壇で毎月一回あつまり、絵を一幅づつ頒つことにしてゐた。その会では、依頼者が画題を選んでもよいといふさだめであつた。ある時、翌月の籤に当つた商家の老人が、「家の宝にしたいから算盤の画を」との懇ろな頼みで、困りはしたが、つい引きうけて、翌月の会にその絵を持つて行つた。一同は、どんな絵であらうと目を見張つてゐたやうであつた。その図は、算盤を斜に描いて前後をぼかすやうにし、二一天作の五といふ意味で、左に二、右に五の珠を描いた。人々は感心した様子であつたが、自分の心は寂しかつた。画にかくには画になるものを選ばねばならぬ、算盤をかいたのでは、よい画のかける筈はないから、と話を結ばれた。さうして、前なる盃を手にとりあげられた。自分は歌の道もさうであると深く感じた。
 時がたつて、帰らうとされる前に、「いま一つお話をしませう」といつて、「私(わたし)の若い時は明治維新に間もない頃とて、生計に苦しみ、海軍省に雇はれて製図をひいたこともあつた。また画の道でも実に苦しんだ。苦しんで漸く今日に来たのであつた」と、ものしづかにいはれた。その静かな言葉は深く自分の胸にしみた。乙羽君も、じつとうつむいて聴いてをられた。

    富岡鉄斎

 富岡桃華(たうくわ)君が、長野清良(きよら)の定本万葉集を蔵してをられると伝聞し、京都にいつた時、訪問した。折から小川琢治(たくぢ)博士が来談中で、三人でいろいろ話しあうたが、父君鉄斎翁に面晤の機会は得られなかつた。桃華君の二女冬野さんが入門された後、或る年の秋、正倉院の拝観に何日頃行くとやうのことを、詠草の端(はし)に書いて送つたに、翁から「奈良の帰りに寄つてほしい。一度逢ひたい、何日に待つ」との書簡が来た。その日に魁星閣を訪ふと、応接間に出られた桃華君の未亡人とし子さんは、「あやにく、さきほどから持病の胆石症が起りまして、今すやすやと寝て居りますので、暫くお待ち下さい」と云はれる。明日にでも又まゐりませうと云うたが、今朝から折角お待ちして居つたことゆゑ、と止められた。しばらくすると、春子老夫人が来られて、「目が覚めてお逢ひするから」といはれる。導かれて、幾間(いくま)かを通り過ぎ、一番奥なる、庭に面した画室に通された。そこに寝て居られた。自分は静かに黙礼した。右の目が少しわるいとのことであつたが、その目でじつと自分を見つめて居られる。病気に障つてはと黙つて居たに、突然大きな声で、「先生はまだ若い、これからぢや、道のために尽くされたい」といはれる。驚いたまま答の言葉をいふと、床の間の掛物を指ざされる。立つて見るに、加藤文麗筆の上田秋成の像であつた。また指ざされるので、とし子さんが立つて自分の前に置かれた。それは、大雅堂の妻玉蘭女史が、冷泉家から贈られたといふ紅木綿の前垂と、蓮月尼の手紙の巻物であつた。とし子さんは、「今朝から掛物を掛けかへたり、かういふ物をお目にかけようと出しておいたのであります」といはれた。
 これが翁との初対面で、その後京都に赴くごとに訪問した。翁は、明治初年に和泉の大鳥神社の宮司であられたので、国学に造詣が深く、学問上種々有益なものがたりを聞くことを得た。其の折思うたことは、自分は多年多くの人々の知を得たが、初めて訪問する際に、とかくたゆたふくせがある。なぜ早く翁を訪はなかつたかと悔いたことであつた。当時、大阪朝日新聞の契沖全集の出版に携はつて居た為、屡々京阪に赴いたので、いつも一、二時間の余裕を作つては翁を訪ひ、清談を聴くことを旅行の喜びとした。
 或る時訪問したに、県門の人々の話のあつたをり、「千蔭は画が上手やつた、何というても本式に画を習うたのやから」といはれた。自分は、千蔭の画はほんの小品しか見てをらず、誰に師事したといふことも知らなかつたので、もしや翁の記憶の違ひではあるまいかと、ふと思つて、「素人画なのではありますまいか」といぶかしげにいつたところ、微笑しつつ他に話を転ぜられた。
 翌晩帰京するので、明日の午後を約して帰り、次の日に行つたに、何かの話の中途で立たれて、庭に下(お)り立ち、書庫の大戸をがらがらと開(あ)けられる音がした。御所からいただかれたといふ楓、桃華君が西湖から持ち帰られた梅をはじめ、藤、椿、青桐などの繁つてゐる物さびた庭を眺めてをると、数冊の本を持つて来られ、自分の前に置かれた。「寒葉斎画譜」とあつた。あけると、建涼岱の画集で「門人橘千蔭、豊島琳玉卿同校」とあつた。自分は思はずおもてが赤くなつたが、翁はそんなことには頓着なく、次の間から千蔭の盆踊の画を出して来られて、「よう描いたる。盆踊の画を頼まれた時は、これをお手本にするのや」といつて、いつものやうにやさしいゑみをたたへてをられた。昨日のあの時に示されなかつたのは、自分が顔を赤らめるであらう、明日来た時に見せようと思はれたのであつた。
 その次に訪問したに、翁は三十六冊もある夫木抄を前にして何冊かをひろげて居られた。「何々といふ歌をさがしてゐるのやが」といはれる。自分は、「活版本ならば索引が添うてゐますが、しかし」といつてさがすと、幸にすぐわかつた。その時、翁は、「さすがに先生や」というて褒められて今度は面(おもて)おこしをしたやうな幼な気がした。
 或る日の訪問の折、応接間に木炭画の富士の画の額が懸つてをる。聞くと翁の作であるとのこと。冬野さんの姉君弥生さんは、高等工芸の都鳥氏に画を学んでをつた。ある時、画紙に木炭でデッサンをしてをると、をりふし其処を通りあはされた翁が、「鳥渡(ちよつと)貸して見なさい、わしにも画(か)ける」といつて其の木炭をとり、さらさらと富士山の絵を画紙全紙に画かれたのであるとのことであつた。
 大正十三年の十二月、京都に行つた時、「竹柏園」といふ額の揮毫を請うた。自分は父の号そのままわが号としてゐるので、父が斎藤拙堂先生に「竹柏園」の三字を書いてもらつて、額として、遺したのにならひ、自分も翁に執筆を請うたに、快諾せられて、発(た)つ日(五日)の朝贈られたので、喜び携へて帰京した。装潢師が額に仕立てて持つて来たのは、大晦日の昼頃であつた。然るにその夜、逝去の電報が届いたので、かつ驚きかつ歎いた。平素健康であられたから、十一月頃からは、依頼者の請ふまにまに、画幅に、「年九十」とかかれたといふ。わが竹柏園の額も、「鉄斎時年九十」とある。いま一日長らへられたならばと歎かれた。翌年の正月八日、京都に赴いて弔問した。とし子さんも冬野さんもしをれてをられたが、応接間に、栄啓期が牛に乗つてをる図の半折が、表装をせぬまま掛けてあつた前で、二人がこもごも話されたには、今年が丑年ですから、亡くなる二日前にかいたのであります。此の絵はいつものやうに力が満ちてをります。私どもは、九十はおろか、百までもと祈つてをりましたが、精神力が衰へて、鉄斎もあんなまづい絵をかくやうになつたと万一いはれてはつらうございます。世を去る二日前にかいた画に、いつもと少しも変らない気魄がこもつて居るのは嬉しうございます」と云はれるのを聞いて、自分は頭がさがつた。芸術家としては、最後まで旺盛な気魄がその制作にこもつてゐなければならぬと、再びその牛の絵を眺め入つたのであつた。
  附記一 翁の邸には、玄関に曼陀羅窟といふ呉昌碩の篆書の額がかけてあつた。ある時翁に号の由来を問うたに、幾度か建て添へた上に、和洋とり混ぜのまだらな家であるから名づけたと言つて、笑つてをられた。
  附記二 この邸は京都府に譲られ、府会議長の公舎に用ゐられてゐるとのこと。東隣は知事官舎(烏丸通)、南隣は府庁の役人の官舎で、府にとつては恰好の場処であるからと聞いた。かの洛北の詩仙堂や、松阪の鈴屋などのやうに、翁の邸、ことにその画室が、元のままの形で永く保存せられたならば喜ばしいと思ふ。
  附記三 昭和三十年五月、薬師寺の歌碑除幕式に赴いた帰さ、富岡とし子刀自を訪うたに、田中訥言筆の大伴旅人像を鉄斎翁が若い頃模写された小品の画稿を贈られた。瓶子をもつた童子の前に杯を手にした旅人の酔態にはゆたかな品位がただようて居る。こよなき旅の記念と、帰宅後直ちに表装した。その写真は「作歌八十二年」にも掲げた。
  附記四 翁の夫人春子刀自は、歌を嗜まれ、折々示されたが、昭和十五年一月、九十四歳で遠逝せられた。

    富田渓仙

 京都の富田画伯が、「万葉春秋」といふ絵を展覧会に出品したいから、とて相談に来られた。其の後も、上京するごとに訪はれた。君は古書が好きなので、架蔵の古典籍を蔵からとうでて、何くれと古書がたりをした。ある時、斎藤瀏君、服部四郎博士などを相客として、晩餐に招待した。力づよい斎藤君の声にもまけないほど、画伯の話ぶりには力がこもつてをつた。席中では年の若い服部君は、蒙古語の研究に二箇年を彼の地にあつて帰つて間もない時のこと、画伯は蒙古に就いていろいろ聞いてをられた。
 画伯に随筆「無用の用」がある。ゆたかに挿まれた画はいづれも趣味深いもので、文と相俟ち相扶けてをる。「昔人の花見を観る」の記には、万葉集に三十七首の桜の歌のあること、秀吉や契沖の歌を引いて、古人の桜花に対する心境を趣味ふかく述べてある。また、仙厓の芸術、鉄斎翁のことなど教へられることが尠くない。
 ある年の秋、京都へいつた時、自分は画伯を嵯峨に訪うた。大堰川の流に近く、門を入ると秋草の咲き乱れてをる閑雅な住居であつた。絵がたり歌がたりに語り興じてをつたに、夕食をとて、六本木に伴はれた。東京の画家のよく来り宿る旗亭とて、なじみの深い画伯は、嵯峨のわが家と同じやうな様子であつて、夜ふくるまで語らうた。
 ゆくりなく早世されたので、上洛した際、嵯嵯に未亡人を訪うたところ、心のゆゑか、門の戸を入る時からうらさびしく、かつて語り合うた部屋で、焼香をして帰つたことであつた。

    横山大観

 竹の台の美術院展覧会の早い頃、大塚楠緒子さんや雪子と一緒にいつた時、大橋乙羽君に逢つたに画家の諸君もあちらに来てをられるから一緒にといはれて、撮影(うつ)してもらつたが、大観、観山、孤月、春草、鞆音(ともね)の諸君、いづれも若かつた。{竹柏華葉に掲げた。}
 不忍池のほとりの邸にある日訪問したに、盃を手にしながら、「自分は強いんだよ。水戸の天狗騒動といふのが近辺でおこつた時、産み月の母は竹やぶの中ににげこんだ。そこで自分が生れたのだ。昔のかぐや姫は、竹の林で生れた天人だといふが、竹やぶの中で生れた自分は強いんだよ」といひつつのみほされた。しばらくして、「橘糸重さんはお弟子だつたね」といはれ、「僕が若い時、五軒町の近辺に住んでゐたので、正月の歌がるたによばれた事もある、歌がるたもつよかつたよ」といはれた。自分は、「露伴君がお成道の通(とほり)にをられたとのことですから、画と文学と音楽の三つのかがやかしい星――糸重さんも第一回の芸術院会員――が外(そと)神田に光つてをられた時といふべきですね」というた。
 熱海に移り住んで後、自分の歌集「山と水と」の装幀をお頼みに、伊豆山の邸にいつたに快くかいてくれられた。(題簽は安田靭彦画伯にお頼みした。)いつも逢はれる室(へや)は、狭くはあるが、とても高い崖の上、眼下は伊豆相模の広い海原が一望のもとにひろがつてゐ、日にきらめく遠波の色は、画伯のすまひに最もふさはしい地であつた。
 清水澄博士の追悼の会の日には、卓子がわかれてゐたが、隣に大観さんがかけられた。あの日、自分の家から見える海岸に流されて来られたので、真にお気の毒に堪へなかつた、などいはれた。
 ある日の午前、市内の新聞記者Ⅰ君が来て、明日は横山先生が東京へ移られますというたので驚いた。すぐ訪問したに、往来からおりて表門にゆく自動車道はふさがれてゐる。台所の門から入つて狭い横を通つて玄関へゆくのである。「やあ、くだらんめにあつて、ここの海にも別れだよ」といはれた。なぜ画伯を帰京されるやうにしたかと歎かはしい極みであつた。
  追記 昭和十二年四月、第一回文化動章を授与されたのは、理科(長岡半太郎、本多光太郎、木村栄)、文学(幸田露伴)、邦画(横山大観、竹内栖鳳)、洋画(岡田三郎助、藤島武二)、及び予(国文)の九人であつた。しかるに八人はすでに白玉楼中の人となられ、のこるはただ予一人のみ、うらさびしく思はれることである。 (巻頭写真参照。)

    黒田清輝

 明治三十年の第二回白馬会の展覧会で、黒田画伯の有名な「智・感・情」を見て、油画といふものが初めて胸に深く印象づけられたといふ感じは、忘られがたい。
 明治三十四年二月の「心の花」には、画伯の筆になる「農婦」を口絵に掲げた。
 ある会で隣席したをり、画伯が黒田清綱翁の長男であられる事を初めて聞き知り、自分の若い頃、翁の歌会に列したこと、その席上、指宿(いぶすき)近春氏の披講の声が、高く、強く、独特の節まはしであつたこと、また、黒田邸にをられた中沢弘光君が、竹柏会のはやくからの同人で、心の花創刊号{明治三十一年二月}にもその作の載つてゐることなどを語つた。
 大正九年四月の竹柏会大会に、樺山常子夫人が来会者に頒たれる歌集「富士の裾野にて」に、夫人の肖像を黒田画伯がかかれ、装幀をもせられた縁故から、当日の講演をと請うたに、快諾せられて、「仏蘭西の四季に就いての追懐」といふ題で、静かに春を楽しむ巴里の郊外、その空の色、木々の色五月のリラの花。夏は麦圃の虞美人草、矢車草。秋の光線、秋をよくあらはしたミレーの牧場の画。冬は当時まだランプのもとでの物語、路傍に売つてをる焼栗など。さては、名画や佳い詩の連想によつて感じを深めるといふことなどを、おだやかで、しかも力のある声で述べられた。

    小林万吾

 明治三十一年二月に発行した「心の花」は、昭和三十二年二月に七百号を迎へた。それについてまづ偲ばれたのは、創刊以来尽瘁せられた石榑千亦君であるが、次に、小林万吾画伯への感謝である。
 画伯は伊予の人、石榑君と郷国が同じいので、心の花の表紙画を昭和十九年まで描いてくれられた。毎年一月号には新しいのに代つたので、昭和十一年の四百五十号記念号には、数々の表紙画を縮写し、二頁の口画として掲げてもある。また君の出世作といふべき「門づけ」を初め、その制作が、口絵として屡々巻頭を飾つてゐる。ことに、第十六巻から第十八巻にかけての外遊の文詞は、マルケン島行をはじめとして、三号にわたる「伊太利行脚」で終つてゐるが、行文流暢、読みもてゆくに、瑠璃紺青の濃厚な色調の水に、茜・柿色などの帆をあげた小舟を、大伽藍の建築を、マドリーの風俗を、伊太利のここかしこを、共に巡歴し見めぐる心地がする。「二時間ほどは、その画の前を立ち去ることが出来ませんだ。」「吾々をして読ましめるかのやうに、また教を垂れんとするかのやうで、此の未成品を実に昆山の片玉のごとく思ひました」など、感銘の深い文字がある。
 君は温厚の君子人で、しかも確固たる信念を持つてをられた。五島茂君と美代子さんの結婚の時、君と二人で媒妁した喜びの日のことなども思ひ出でられる。

    安井曽太郎

 西山の上の通り、景勝の地なるS氏の別墅を借りて、湯河原の安井君の住んでをられた頃、同人の近藤信さんが君の家にをつたので、安井君が来られ、雑談に時の移るを忘れ、自分も散歩の折に訪うた。ある時、某氏から祝賀にと予におくられたものを、空しく費すよりはと携へ行いて、何か作品をというたに承諾された。一二回まだできぬとの葉書が来た。ある日近辺の「重箱」へと招かれたので行くと、夫人も来てをられて、ささやかな肖像を画くから、家内と何でも話してをられたいとの事。傍の障子を明けられた。すぐ描きはじめられる。習癖(くせ)といふのであらうか。一筆かき終られた時、しゆつと走るやうな響がきこえる。やがて出来た。寒かつたせいか、平常よりも寒さうな自分の面もちではあるが、喜び持ち帰つて額にいれ、「心の花七百号」の巻首にも掲げたことである。
 君の急変を聞いて湯河原に赴いたに、九折(つづらをり)の坂道の上で、のぼるにたやすくない。うるはしい家づくり、実に立派な画室であるに、主人の影のみえぬことが歎かはしかつた。

    和田英作

 和田画伯は山田清定君をとほしてはやくからの知己、若い三人でうつした写真もあり、自分の歌集「豊旗雲」に、「奈良の秋」「秩父の渓流」「著者肖像」の三葉をかいてくれられた。また、芸術院の会合の日や、藤蔭静枝(いま静樹)さんの舞踊の会には隣席して語りあひもした。
 昭和廿九年、毎日新聞の静岡歌壇大会に静岡に赴いた帰途、車を清水港に馳せ、軽金属の相沢君に導かれて、三保なる和田画伯を訪ひ、近業の富士数葉をみる眼幅を得、共に羽衣ホテルにいつた。
 戦時は、伊勢物語の八橋の辺に疎開されたが、戦後、三保に移り住み、朝に昼に夕べに、雲に日に姿のかはる富士をうつしつつ飽くことを知らず、この地を生涯の地と定めたいと思うてをると、苦心談を語られた。聞いてをるうちに夜がふけて、松原の上の月が傾きそめた。

    岡山高蔭

 岡山君が熱田から上京して、歌の師なる小出粲翁の歌会に列した帰さ、小川町の宅を訪はれたのは、夏の月夜であつた。当時今川小路にをられた岡麓君のもとに同行して、同君愛蔵の古筆を鑑賞した。君と親しくなつたのは、この清興を共にした日からであつたと思ふ。
 君は、仮名にも真名にもすぐれてをられた。誰からか、仮名は上代の風に遠く、真名は海屋を学んだものとの言を聞いたことはあるが、自分は君の書を重んじて、碑の撰文を依頼される時、君に執筆を煩はした。その中でも、猪苗代湖畔に建つてをる碑が最も大きく、武蔵小川町なる仙覚律師の碑はそれに次ぐ大作である。昭和十五年十一月、紀元二千六百年祝典の記念に、大日本護国会によつて、和田倉門外に建設せられた和気清麿銅像の副碑は、はやく宮城前に建つてをる楠公のは武、新しく建つこれは文、永久に宮闕のもとを離れずお守りする尊い像の副碑とて、自分はその文章に最も心を砕いたが、岡山君も文字の配置に深く苦心されて、うるはしく成つたのであつた。
 君は終日筆を離されず、大師の心経の臨摸の如きは、八千二百巻にも及んでゐたとのこと、心経庵と名づけてをられた。(自分が君から贈られた奥には「第五千二百十二巻七十五高蔭謹写」とある。)
 戦争がいよいよはげしくなつた頃、甲州に疎開されて、そこで遠逝されたと伝聞して、深く歎じてをつた。しかるに、近く子息の泰四君が来訪されての話に、蒐輯された古筆のたぐひも、書写された般若心経数千巻も、むなしく爆撃に湮滅したとのこと、また、疎開先から一時帰京され、大久保病院で、昭和十九年七月廿九日に永眠せられたとのこと、まことにいたましき極みである。
  附記 君は弟子は多くとられなかつたが、現代女流書家の第一人者なる熊谷恒子刀自は、君の門下である。

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