小山作之助 (以下、音楽家等)
東京音楽学校教授小山作之助君は、おだやかな性格の人であつた。わが父の晩年に門に入り、短歌をもつくつてをられた。ある時、今度「国民唱歌集」といふのを作るから日本風の唱歌をと自分にいはれた。折ふし初夏の頃であつたから、「卯の花のにほふ垣根に、ほととぎす早も来鳴きて、忍び音もらす夏は来ぬ」の歌を作つたに、極めて優雅な譜をつけられたので、爾来若い人々にも愛唱されて昨年{昭和三十四年}六月、自分の米寿祝賀会が熱海観光会館で催され、全国から五百有余の同人諸君がつどはれた時にも、会の終に、祝にと来てくれられた熱海中学の生徒諸子が「夏は来ぬ」とうたひ出されたので、同人の多数も合唱された。作歌後六十年後の今日も、新しい息吹によつて歌はれてゐることは作詞者としての喜びであるが、これは全く小山君の作曲の力によるものである。
納所弁次郎
外山先生の「抜刀隊の歌」を初め、明治二十年代の初期に、さういふ歌のうたはれる気運があつたものとおぼしく、納所(なふしよ)弁次郎君が、明治二十五年に訪ひ来て、「日本軍歌集」を編纂するについて、「凱旋の歌」といふ題目で作つてほしいといはれたので、「あな嬉し喜ばし戦かちぬ、百千々(ももちぢ)の敵(あた)は皆あとなくなりぬ、あな嬉し喜ばし此の勝いくさ、いざうたへいざ祝へ此のかちいくさ」を作つた。この歌は日清戦争の時に、凱旋についての作がなかつたので、戦場で屡々うたはれた。(十年後の日露戦争の時もうたはれたので、露人の戦争記に、「あな嬉し」の歌声(うたごゑ)がきこえてをるといふ記事が出てをると聞いた。)
奥好義
明治の中期時代に少年のうたふべき歌を多く作つてをつたに、二十七八年の戦役となり、歌人は、歌を以て愛国の至情をささげまつるべきであると、ひたすら多くの軍歌を作つた。
黄海海戦直後のある日の朝、読売新聞を見てゐたに、三面の中段以下のところに、わづか三四行ながら感動した記事があつたので、早速一篇にものして、「大捷軍歌」の編者に送つたに、奥好義(おくよしいさ)君が作曲されて第三編にかかげられ、とみに人心を衝いてあまねくうたはれたのが、「勇敢なる水兵」であつた。(後年、佐賀高校に講演に赴いた時、森岡校長に駅に迎へられ、まづ東与賀村の栄蔵寺に案内されたに「勇敢なる水兵三浦虎次郎之墓」とあつたので、この村の出身かと、なつかしみぬかづいたことであつた。)
なほ、ここに書かずものことであるが書き添へる。それは数十年後のこと、某といふ海軍の主計大尉が官金を費消して英国に逃れ、時効になつてから帰国して死去したといふ記事が時事新報に掲げられてゐた。それに、尾佐竹猛博士の文が掲げられてあつた中に、この某といふ軍人は、「勇敢なる水兵」の作者であると書かれてあつたので大いに驚いた。平素親しくない人を訪問することを好まぬ自分ではあつたが、尾佐竹君とは時好倶楽部の会で顔見知りであつたので、その朝、君を新宿の伊勢丹の近くに訪問した。自分は「他人の執筆ならば一笑に附するのであるが、明治史の権威であられる貴君の文章に出てゐることゆゑ、今朝うかがつたのである。あの頃は海軍の人に知人もなく知識もなかつたので、大捷軍歌に載つてゐるのには、『その玉の緒を勇気もて、つなぎとめたる水夫あり』とした。恥かしいことではあるが、当時、自分は水夫と水兵との分ちをよく知らなかつたのである。また、『副艦長の過ぎゆくを、いたむ眼(まなこ)にみとめけむ』としたが、海軍では副長であつて、副艦長といはないといふことも知らなかつた。それで後に、『つなぎとめたる水兵は』、『間近く立てる副長を』と、改めたのである」と語つたのであつた。
なほ、二十七八年戦役後、浪速乗組の水兵、吉田又七君が、横須賀から小川町へ添削を請ひに来られた。歌才のゆたかなのに感じたが、それは、「勇敢なる水兵」を発表したずつと後であつた。
奥君は雅楽家で、洋楽を学び、東京女高師の教官を兼任してをられた。自分が東大に於いて上代の謡物について講ずる前、古歌謡の古抄本を調査してをつた時、奥君の邸を訪うたに、古い伶人の家とて、珍しい数々を借り得た。
附記 同じく宮内省の楽師、兼東京音楽学校の教授であつた上(うへ)真行君は、夢香(むかう)と号して、槐南門下の漢詩人、竹柏園の歌人としても重んじられた。君の、「宮中正殿の舞楽に笛の音頭仕(つか)うまつりける時」といふ詞書のある「守りませ笛の歌口(うたぐち)まもりませ一千年(いつせんねん)の家のみ祖(おや)たち」といふ歌は、大正六年心の花一月号の附録とした「竹柏園百人一首」に加へたが、同人の間に語り伝へられたことである。
滝廉太郎
巌谷小波君の條に記したやうに、君の編纂にかかる少年世界の為に、毎月少年の読誦にふさはしいとおもふ歌を寄稿してゐたが、その中の一篇「すずめ 雀」は「すずめ雀 今日(けふ)もまた くらいみちを 只(ただ)ひとり 林の奥の竹薮の さびしいおうちへ 帰るのか。いいえ皆さん あすこには 父様(とうさま)母様(かあさま) まつて居て 楽しいおうちが ありまする さよなら皆さん ちゆうちゆうちゆう」といふ二節の歌であるが、滝廉太郎君編の「幼稚園唱歌」{明治三十四年刊}に、作曲編入され、よき曲のついた為によく歌はれた。明治三十年九月刊行の「少年歌謡」の附録「藻かり舟」の巻頭にも載せてあるに、一時小波君の作と誤りいはれてゐた。
滝君は、東京音楽学校卒業後、海外留学生として渡欧されたに、はやく世を去られたのは、歎かはしい。
宮城道雄
放送局から使が来て、来る紀元節に「大和の春」といふ一曲を作つてほしい、宮城道雄さんに相談したところ、是非、佐佐木さんに、との事であるからとのこと。
万事をうちおいて作詞にかかつた。幸ひに期日に出来たので、牛込に宮城さんを訪うたに、二階の広い部屋に、内弟子であらうか三四人の女の人がをつた。自分の原稿を手にとつて女弟子の一人に、これをしづかに二度読んで下さいというてじつと聞いてをられた。はじめのこれこれは、中頃のこれこれはと問はれて答へたに、すべてよくわかりました。よいお歌によい曲をつけて、紀元節に演奏させていただきます、といはれた。
さて、今日は幸に時間があるからと、弟子の人に、あの古い琴と新しい琴とをもつて来なさいといはれて、古い琴では短い古曲を弾かれ、新しい琴では君の作曲になる新曲を、かういふ風に工夫しましたが、などいはれつつ弾いてくれられた。
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