梅若万三郎
昭和癸酉の春、梅若万三郎翁が訪ひ来られ、謡曲「最上川」を、印行されるに就いて、序文を請はれた。
これよりさき、翁が山姥を演ぜられたのを観たに、「法性峯そびえては、上求菩提をあらはし、無明谷深き粧は、下化衆生を表はして、金輪際に及べり」といふ件に際して、満身の精気、実によく地底に根ざすがごとくであつた。後また、「恋の重荷」を観、「道成寺」をも観た。しかし、翁と面晤してその話を聞いたのは、此の「最上川」の時が始めてであつた。其の日の話で今も胸に残つてをるのは、「数十回演じた能であつても、毎回新しい能を演ずる心ぐみで、精力をこめて演じます。しかも演じ終つてから、自身で満足をおぼえたことは殆ど無く、更に次回にはと、意に満たない点をいろいろ工夫します」といふ詞であつた。
その後、翁が芸術院会員になられた年の暮に、当時の院長清水博士から電話があつた。「元旦に、梅若翁が拝賀に参内する。演奏者として宮中にあがつたことはあるが、拝賀に参内するのは始めてであるからと、同行を頼まれたが、時間がちがふので、貴下に頼みたい」とのことであつた。
昭和十三年の元且、翁は新調の大礼服を着て、わが西片町に来られた。同車参内して、荘厳な宮中正殿に於ける御式につらなり、拝賀を了へて後、青山御所へと再び車を共にしたが、赤坂離宮の側からは自動車が列をなして、容易に進まれない。その車中で、種々の芸談を聞いたことであつた。
しかして、青山御所では、恭しく記帳した後、事務官に導かれて、御広間に入ると、大谷大夫、山川、西川両侍医がをられ、卓を共にして正月の御料理をいただいた。御嘉例の雉酒、御膳部には、海の物・畑の物の御皿、あたたかい菱餅を給はつた。翁はいささかいただいた後、紙を頂戴して、この古い由緒ある菱餅、また海の物、畑の物を包み、「今日午後親しい門弟達の謡初がありますから、この賜物を少しづつでも分ちたう存じます、どんなにか喜びませうから」と、いただいて持ち帰られた。弟子を思ふ情のあついのに深く感じた。
次に、聞いた話ではないが、書き添へておく。那木の葉会から治綱君らが雑誌「鴬」を発行した際創刊号に翁に随筆をと請うたに、快諾して文を寄せられた。その中に、「今年昭和十四年の十二月までで、私のシテをつとめた数は、千六百二十九番になりました。初舞台は明治四年、四歳の折で、『雲雀山』の子方をつとめ、シテは亡父がしてくれました。シテをつとめた初舞台は七歳で、曲は『合浦』でしたが、稽古の時に、後ジテの中の言葉をどうしても一言ぬかすので、父にひどく叱られたことを覚えてをります。さうして、千六百二十九番も勤めたのでございました。考へてみますと、私がかうしてをりますのも、すべて父の導きであると、いまだに身にしみて有難く思つてをります。父には、一六の日に稽古をつけてもらひましたが、その番数は、千二百八十三番ほどでありました。父は非常に熱心で、毎朝の稽古を楽しみにしてやつてくれました。芸術院の会員を仰せつかりましたことは、家の面目、身にあまる栄誉と存じてをります。父がをりましたならば、どのやうに喜ぶことであらうと、その折の心を、「亡き父のみ心づくしあらはれて花さきかをる梅若の家」と一首の歌に詠み出でました。これから先も、私は身体のつづくかぎり舞ふつもりでございます。そして、能の持つ深さを、あらゆる人々に知つていただくことにつとめたいと在じてをります」とある。《注:「在じて」は原文のまま。》
父翁の恩を深くしのび、また教へられた番数、シテの回数を、克明に記された平生の心がまへを、かつは驚き、かつはゆかしく思つたことであつた。
中村歌右衛門
明治十何年かに、団十郎の弁慶で、当時福助と名のつてゐた歌右衛門が義経を演じたのを新富座で観たことがあつた。爾来、淀君をも牧の方をも見たが、逢ふ機会はなかつた。
話は転ずるが、自分は夙く東鑑を読んで、白拍子静(しづか)の運命に深く思ひしみ、また静が鎌倉を去つたのは、文治二年九月十六日、西行上人が鶴が岡の社頭に詣でたのはその前月の十五日、日本一の舞の上手と、うき世をよそにふり捨てた歌人僧とが、同じ時、同じ鎌倉に在つたといふことにも感興をおぼえて、戯曲に作る人があつたらばとおもうたことであつた。ある時、観潮楼歌会の席上で話したに、鴎外さんは、静に就いてはかねて書かうと思うてゐたといはれ、やがて、スバル誌上に公にされた。後また、平山晋吉君に話したに、「西行と静」を作り、請はれるままに自分の校閲といふ名のもとに、市村座に上場された。鴎外博士のは西欧的な深い味ひのある作、平山君のは、黙阿弥の晩年に教を受けた専門家のこととて、舞台面をおもしろく看はしたが、自分の考へてゐた「静」ではなかつた。それは当然のことであるが。
しかるに、昭和八年三月、歌舞伎座の観劇にいつたをり、食堂で某氏と卓を共にした時、「五代目も、身体がとても不自由になり、それにふさはしい脚本がなくて困つてをる」との話を聞いた。自分は、それには恰好の劇の筋がある。静御前の産後、うんだ子を安達等が、連れ去るといふ件である。ことにその時は、西行上人が同じ鎌倉に宿つてをつた。もとより二人が逢ひはすまいが、奇縁ともいふべき場合を想定してみたらば、少しも身体を動かさないでもよい、と話したことであつた。数日後五代目の使が来て、その「静」の執筆を是非に、との依頼であつた。自分は、歌劇ならば、万葉集の竹取翁と九人の処女のごときもの二三を作り試みたいといふ案を胸に懐いてをるが、戯曲に筆を染めることはと断つた。ところが、重ねての切なる請である。自分は折々軽はずみに物をいひ物を処置するといふよくない性癖がある。その時も折角のたのみゆゑと、引受けはしたものの初めてのことで困つたが、東鑑、義経記、頼朝の頃の童謡を掲げてある徒然草野槌などを携へて、ゆかりの地鎌倉大町の村荘にものし、数日こもつて稿をかきをへた。一生にただ一つの創作劇「静」である。それを雑誌改造の記者が伝へ聞いたからとのことで、五月号の改造に掲げた。しかして同じ月、歌舞伎座で、静は歌右衛門君、西行は吉右衛門君によつて上演され、名優の名演により、多年の夢の実現したのを喜んだことであつた。(巻頭写真参照。)
劇の終つた後、千駄が谷の宅に招かれた。相客のうちに、知つてゐたのは関屋敏子さんの母君愛子さんだけであつた。この招宴より半年ほど前に、古い同人の山岸荷葉君が来て、今の福助は自分の習字の弟子であるが、最近に歌を詠んで、「手をとりて教へられたる初役の初の日はてし楽屋風呂かな」など、才気のある作風との話、自分も感じたことであつた。晩餐の席上、歌右衛門君は、「おいでをわづらはしたが、あやにく福助はこの一両日病気がよくないので、向うの家に寝たままでをります」といはれる。はなやかな舞台人の親心に接する思ひがして、いたましく感じたことであつた。丈の立居はやや不自由のやうであつたが、若々しくつややかな声で、問ふままに芸談をされ、「静」に就いて、あそこはかうも考へましたが、などの苦心談をも聞いた。
追記 昭和三十一年の秋、森律子さんが桐大蔵の芸名を嗣いだ祝の会に、箱根の湯本にいつた時、松竹の大谷会長と語りあうたことが機縁となり、三十二年二月に六代目歌右衛門君によつて、再び歌舞伎座で演ぜられることとなつた。初演の時は還暦の翌年、今は八十六翁の老歌人として、「年を経てまた観るべしと思ひきや、いのちなりけり――」などと口真似をしたならば、文覚をも恐れしめたといふ西行上人の痛烈な一喝を受けることであらう。今回は宇野信夫君の演出で、西行は市川猿之助君、藤間勘十郎君の振附、山口蓬春画伯の美術装置等。加ふるに、さきに小萩の役の歌右衛門君が、先代の時よりもちがつた自由な新鮮な感覚で、わが夢の「静」を現出されるであらうことを楽しんでをる。(昭和三十二年一月、巻頭写真参照。)
地方の社友から、原文を読みたいといひおこされたが、さきに掲載した改造はもとより、「わが文わが歌」も得がたくなつたから、「鎌倉三種」の一として(三種は戯曲「静」、権律師仙覚、鎌倉百首)刊行した。なほ、宇野君の演出には第一場が静みづからの舞になつてゐるが原文のままを揚げることとした。
藤間勘右衛門
山県公主催の歌会常磐会の第百回祝賀の宴が、椿山荘の広間で開かれた。客は選者三人と、幹事の賀古鶴所氏と鴎外博士と書記の岡山高蔭氏だけであつた。公が平素愛顧してをられるといふ藤間勘右衛門翁が、弟子なる新橋の老妓瓢箪と二人で鶴亀を踊つた後、公の作「隅田の四季」の振附が、昨日出来あがりましたので、今夕御披露します。其の前にまづ教へますから、といつて、瓢箪を前にすわらせ、歌詞を声低くうたひながら、何の型、何の型といひつつ、手で種々の型を示す。それだけで、やがて瓢箪が踊つた。それが見事な舞になつてをるので、感歎したことであつた。
自分の前にまはつて来た翁は、「先年はお作を有難うございました」といふ。それは、翁の古稀の会に嘱されて、長唄を作つたからであつた。自分は、翁の芸の老来いよよ光彩のあることをいふと、瓢箪は側から、「師匠は、御覧のやうに腰が曲つてをりますが、舞台にたつたり、お座敷で踊ります時は、腰がしゃんとしまして、若い者もかなはぬ若さがあふれてをります」といふ。芸の力といふことを切に感じた。
松本幸四郎
大正何年であつたか、末松博士の紹介状を持つて松本幸四郎君が来訪した。「父勘右衛門の古稀の賀の舞踊会を、帝劇で盛大に催したいと思ひます。ついては、父が舞ふ新作の題は、「雪月花」といふので、雪を末松博士に、花は巌谷小波山人に、お願ひした。月の作詞を」との依頼であつた。長唄を作るといふことは此の時が初めてであつたが、父翁のためにといふことなので承諾した。幸ひに、作曲や振が華やかについて、よい舞踊となつたのは喜ばしかつた。
その後、青山の青年会館で、伊勢新聞主催の伊勢出身者の会があつた。自分は「伊勢と国学者」と題して話をし、幸四郎君は舞踊をされた。控室で語りあつてみると、君は北勢四日市在の生れで、幼くて上京し、藤間家に養はれたとのことである。四日市から近い石薬師で生れた自分は、なつかしさに語り合うてゐたに、新聞記者が色紙をもつて来て、君に揮毫を請ふ。たちどころに、藤の図を描かれた見事さに驚いてをると、自分に賛をとのことで、即吟の歌を認めた。数日後の伊勢新聞に、その写真が掲げられた。
このやうな縁で、同国の親しさから、会などで逢つた時、初舞台の思ひ出や、勧進帳の苦心などの芸談を聴いて、道のきびしさを感じた。
昭和二十三年の秋、日本芸術院の総会が終つてから、虎の門の電車停留場にゆくと、男衆を連れた幸四郎君が佇つてをる。舞台姿とはちがつて、いくらかこごみ気味の姿である。「自動車ではないのですか」と問ふと、「いまの御時勢ですから」と、明るく笑つてをられた。しばらく電車が来ない。「芝居のある間は劇場の近くの旅館に泊つてゐまして、若い者にいろいろ話をします」と。その芸道熱心な老優の精進に心をうたれた。これが君と会うた最後になつた。
杵屋佐吉
佐吉さんが、ある日来訪して、「自分ら夫婦が欧州に旅行してをりまして、御外遊中の秩父宮様を巴里の日本大使館にお迎へ申しあげた時、両人の演奏をお聴きにいれて、御旅情をお慰めしたことがありました。此の度御成婚のお祝の歌詞をお作り願ひ、それに作曲して献上したいと思ひますから」とのことであつた。その頃自分は、埼玉県の秩父郡から同じお祝にと郡の歌を委嘱されてゐて、秩父に赴かうと思つてゐた際とて、幸に案を得たならばと約し、やがて、秩父郡内をめぐつたことであつた。この時、三峯の麓で、同じく宮家への献上画の写生をしてをられる和田英作画伯と会うたので、かくかくと語りあつた。帰京して、「秩父の長者(をさ)」一篇を作つたに、佐吉さんの心をこめた作曲が出来、献上に及んだとのことであつた。
これが縁となつて、その後、数篇の長唄を作詞した。就中、「伊勢参宮(まゐり)」は、夫人ます子さんが得意で放送した。「夢殿」は最も苦心の曲とのことで、聖徳太子奉讃会ではじめて発表されたが、秘曲のやうにして大事にして、をるとのことであつた。佐吉さんは、昭和廿年十二月、夫人は、廿二年の六月世を去られた。
佐吉さんの三味線に対しての進歩的な考へ方と、そのすぐれた技倆とは、現代日本文化のために、貢献することがあらうにと、その急逝が惜しまれる。幸に息子さんがあとをついでをられる。
梅ヶ谷藤太郎
小川町時代、西片町時代、種々の人々の訪問をうけた。もし訪問録を作つて一筆づつ書いておいてもらつたならばと、さういふことには極めて不精(ぶしやう)な自分の性質が今更をしまれる。ある年、社友から書画帖を贈られたので、その年の幾月かは、来訪の客に姓名を書いてもらつた。力士梅ヶ谷関も、数ある来訪者の一人である。
梅ヶ谷関が引退するについて、袱紗に染めるべく寺崎広業画伯に梅の絵を描いてもらつたといつて持参し、賛の歌をたのむとのことであつた。自分の拙い字でこの絵をけがすのはといつたが、是非にとのことで承諾した。さて、訪問録をとう出(で)て、「君にもこれに一筆を」といつたところ、「いや、自分は手習をしなかつたので」といひつつ、筆を執つて書いた。その筆蹟の見事だつたことは、今も目に残つてをる。なほ、心に残つてをる今一つのことは、初め歌を頼むというた時には正座してをつたが、それがすむとすぐ胡坐(あぐら)をかいて、土俵の上の話などを聞かせてくれた。後に謝礼を持つて来たので、固辞したが承諾しなかつた。
其の後、伊勢松阪に赴いて、旧友堀内鶴雄君の邸に宿つた時、君は趣味の深い人とて、伊勢人の書いた筆蹟の数々を蔵してをるのを示して、「奈良の商賈(あきんど)のところにゆくと、奈良反故(ほぐ)とて見せてくれる、これは伊勢反故である。好きなのを持つてゆき給へ」との事。中に、本居内遠の相撲を詠じた長歌の横物があつた。おもしろい長歌であつたので、その一葉を貰ひうけ、帰京して後、額にしたてて梅ヶ谷翁のもとに贈つた。おそらく戦災で湮滅したことであらう。
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