人々のおもかげ (尾崎行雄氏までは歿年順による。)

    勝海舟

 鈴木重嶺(しげね)翁は、人柄のやさしいかたであつた。歌会は一月と十二月の発会と納会は靖国神社の近くの万亀楼(まんかめろう)の二階で、毎月は今川小路の玉川堂の裏の細長い座敷であつた。自分が十二歳の正月、父は何か差支へもあつたので、自分に代りに出よ、当座題や歌合のある日はその題などを苦心して詠むとよい、剣術に他流試合といふこともあるから、といはれるままに出席した。正月のこととて大勢の出席であつた。当座題を詠草にかいて翁の前に出したに、二首のうちのよい方に点をつけられ、隣席の立派な老翁に、「これは、歌人(よみ)の佐々木弘綱さんの子で、幼いながら歌をよみます」といはれたに、「それは感心だ。一寸詠草を見せよ」といはれたのでさし出すと、よまれて、御褒美に短冊をかいてやらうといはれ、「盛年不重来 一日再難晨……与信綱子 海舟散人」とかいて下さつた。{短冊凌寒帖所収}自分はありがたくて、お辞儀をしてもとの席に帰ると、隣の人が、仕合せだよ、こんな席では、かいて下さる方ではない。鈴木先生がもと幕府に仕へて佐渡奉行までなさつた方ゆゑ、海舟先生は、正月だけは必ず御出席になる、との事であつた。家に帰つて話すと、父母の喜びは大きかつた。
 一年の月日は早く流れて翌年の正月出席したに、海舟先生はやはり御出席であつた。席の前に行つて、「昨年はありがたうございました」というたところ、「日本人が外国へ行つてよんだ歌を知つてをるか」とのお言葉で、「万葉にある山上憶良の歌は存じてをります」と答へたに、「幕府の末に、アメリカから来たポーハタンといふ船にのつて大勢が行つた中には、歌を詠んだものもゐるが、わしは同じ時に日本でつくつた最初の蒸気船の成臨丸といふのに乗つて荒い海をこえ、アメリカに近づいた時、月のよい夜であつたので、『月見れば同じ空なり大海原五百重千重雲たちへだつれど』と詠んだ。これはアメリカにいつた日本人のはじめての歌だ」とおつしやつた。自分は「ありがたうございます」とあつく御礼を申上げた。《注:「成臨丸」は底本のまま。》
 年経て、古典科を卒業した後に、赤坂の先生の邸に伺つて、幕末時代の学者の話をお聞きしたことであつた。

    伊藤博文

 富士登山に出発しようとする前日、末松博士より、夫妻共に大磯の滄浪閣に滞留してをるから遊びに来られるやうにとの手紙が届いた。年来の希望であつた登嶽を了へて大磯に下車し、まづ停車場の上の西周先生の未亡人升子刀自の邸を訪うた。刀自は亡父以来の門人なので、かねて東京から送つておいた風呂敷包の着物と着かへたのである。平素服装にかまはぬ自分ではあつたが。
 松並木の側の黒門を入つておとなうたに、末松博士夫妻も、伊藤梅子夫人も出て来られて、歌語りをしてをつた。暫くして梅子夫人が、「幸ひ今日は主人も在宅で、おいでの由をさきほど話しましたところ、昼食を共にするとのことでした、時刻になつたやうですから」と座敷に案内された。松林をとほして海の見渡される広間に、やがて出て来られた伊藤公は、帷衣の着流しであつた。後に気づいたのであるが、角帯を貝の口にきちんと結んでをられた。「暑いから羽織も着ないで失敬だが」とまづ言はれて、次の室なる食堂に導かれた。公の指ざされるままに、自分は、公の前の椅子にかけた。公の右には、「金子君で」と紹介された金子堅太郎氏、今一人太つた女性は、公が、「これは」といひかけられたのを引取つて、「わたくしは横浜の富貴楼のおくらで」と名乗つて、梅子夫人の次に腰かけた。
 食事中、富士登山の帰途であると聞かれて、公は、富嶽の詩に就いて語られ、末松博士がそれに応答された。公がふとナプキンを落されたに、金子氏はいそがはしく立つて、拾つて公の膝にかけられた。終りに近く、スープの皿が出た時、おくらは大きな声で、「お好きな菜飯の御馳走をお相伴します」と云うた。菜を細かく刻み入れた、塩加減のよい飯が盛り分けられた。
 食事が終ると、公はすぐ葉巻煙草を手にしつつ、自分を招かれてベランダに二つおいてあつた籐椅子によられた。「詩は錦山にも見てもらふが、槐南がすぐれて居る。槐南は当代第一の詩人である。自分も偶々、これは歌に詠んで見たいと思ふ心が起らないではないが、詩をのみ作つてゐる。山県君の歌は、西園寺君の俳句と好一対である」など語られ、話を転じて、「かつて欧羅巴を巡つた時、博物館で見た絵があつた。雪を帯びた山が聳え、近く拓いたとおぼしく、切り倒された木材の横たはつてをる深林を、白い烟を立てた汽車がくる。その轟々たる音に、驚いて走り出て来た二疋の猛獣が、まつしぐらに汽車に襲ひかからうとする図であつた。汽車だけでは絵にならぬが、その構図に感じて目に残つてゐる。詩も歌も絵も、題材や構図を選ばねばならぬ」と言はれて、葉巻に火をつけられた。真夏の日に光り輝く海から、松原越しに吹きくる風と、波の響とがすがすがしかつた。
  附記 後年、梅子刀自の遺詠集「のこるかをり」が成つた時、末松夫人から、父君伊藤公が絹の色紙に歌を書かれたのを贈られた。「嵐ふく木の葉はらへばひまもなし枝折る風の時を待たばや 贈躍起」とある。当時、政治家の中に躍起組といふのがあつたのに贈られた下書きであるとのことであつた。(巻頭写真参照。)

    東久世通禧

 築地なる東久世伯の邸に父が折々うかがつて、歌の御相談をうけたので、父なき後、自分は若かつたが、築地に、後は麻布の邸に参上した。それで、竹柏会の第一回大会の開会式には、祝辞をよんで下さつた。
 「国民歌集」ができて、まづさし上げた時に「集中、そが歌を採録せる久坂通武、平野国臣、真木保臣、武田正生、野村望東尼等の諸志士烈婦は、いづれも親しく面会して倶に国事を語りしことあり」云々と長い手紙を送つて下さつた。お逢ひする時は、いつも葉巻を手にしつつ、、静かな声で種々お話しになつた。《注:「、、」は底本のまま。》
 まだ十余歳の少年の頃、高雄の紅葉見に行つた。ある茶店に休んだに、そこの主人が、新しい障子を水にひたし、紙をはがしとつてをるのを見、なぜかと問うたに、主人のいふには、さきほど千種(有功(ありこと))様がお立寄り下さつて、お戯れに此の障子に一筆書いてお帰りになりました。名だかい卿の御筆の跡ゆゑ、このやうにはがしとつて保存したく思うてをります、というた。自分は胸のうちに、如何なる方面でも、人より抜けでたいものである。自分らがざれ書(がき)をしたならば、主人の叱りをうけるのみであらうのを、卿なればこそ、仮初の一筆もこのやうに大事がられる、自分も、君に仕へ国に尽くして、人にあがめられる人になりたいと、感奮したことであつた、とのお話は、長く心に残つてをる。
 お若い時には七卿落の一人であられたと思はれる風格、堂上華族の最後を飾られた一人といふべきかたであつた。
 万里小路通房、甘露寺義長の二伯も、ともに自分の父のやうな年配であられたが、伯の紹介で竹柏園に入り、その作を示された。

    乃木希典

 明治三十九年、文部省の小学読本の中に編入すべき唱歌数篇の作詞を委嘱された。そのうちに、「水師営の会見」といふ題目があつたので、固より世にきこえた事実であるが、いやが上にも正確にと、森軍医総監の紹介を得て、赤坂の邸に将軍を訪うた。刺を通じて応接間に入ると、直ちに出で来られた。これこれにてと述べたところ、しばらくだまつてをられたが、それは御辞退したい、自身のことなどを読本にとは恐縮であるからことわるといはれた。暫し話して帰らうとしつつ、この題目は文部省できめたのでありますから、誰かが又まゐるかとも思ひますからお考へおきを、というたに、一寸待つてくれといはれ、暫し考へてをられたが、さうきまつてゐるものならば、あなたにお頼みしよう。しかし間違ひがあるとよくない、当時の副官安原大尉がいま少佐になつてをるのと二人でお話をしよう、いづれ時日は手紙で、とのことであつた。(巻頭写真参照。)
 やがて、偕行社にて会ふべき由、いひおこせられたので行つた。会見当時の様をつぶさに語られ、安原少佐も折々詞をそへられた。固より小学生の料として、長さ、文字などの上にも制限があるので自分が特に将軍の直話によつて得た感銘、また知り得た事実を十分に歌ひ出だすことはできぬと思つたが、時間がたつたので、椅子から立たうとして、ふと、その庭には何か木がありませんでしたかと問ふと、棗の木がただ一本あつたのう、と云はれる。少佐は、ありました、弾丸(たま)の跡がおびただしうついてゐました、といはれた。それで、「庭に一もと棗の木……」としたのであつた。
 その後、間もなく末松さんの城山の邸に観月の宴のあつた時、相会したに、虫の音の繁い庭園の木蔭に、少し曇つた月光を仰ぎつつ、旅順の荒あとに咲いてゐた撫子の花をあはれと愛でて詠まれた歌をかたられた。
 其後に、親しく詞を交はしたのは、明治四十五年七月十日、天皇陛下東京帝国大学に行幸の時、天覧所の天覧ををへて、便殿にいこはせ給うた時、将軍は二三の人々と共に室内に入り来られ、自分が説明し奉つた万葉古鈔本の前に立つて、暫く言葉をかはされた。
 畏くも親しく御稜威に接しまつり、天顔のうるはしきを拝し奉つた陛下の、思ひもかけぬ御大喪儀を送りまつったその日さへあるに、御あとを追うて、将軍夫妻が自ら刃に伏し給うたとの悲報を耳にした。ああ精忠無二なるわが将軍よ、温容は目にあれども、すでに世にいまさぬのは悲しいきはみである。

    井上馨

 古筆手鑑の「三大名物」とも、「三鑑」ともいはれる名品に、「見ぬ世の友」と、「翰墨城」と、「藻しほ草」がある。三つのうちの二つは嘱目することを得たが、「藻しほ草」を見たく、原田嘉朝翁の紹介で、麻布内田山の邸に初めて世外井上侯を訪うた。雷親爺とのあだ名をかねて聞いてをつたが、自分には、まことにやさしい人と感ぜられた。侯は、「古筆を見たいとのことであるので、ここに架蔵の台帳を出しておいた、所蔵の書画はすべてしるしてあるから」と言ひつつ、傍なる某をかへりみられて、「この男が道具方で、蔵の出入は一切まかせてある。学問の為ならば、何でも在るものは出させるから、遠慮なくいはれたがよい」とのことであつた。この淡々たる態度には、実に驚いた。茶道といふことによつて、墨蹟や古筆のたぐひが尊ばれ、永く保存されて来たことは喜ばしいが、茶人は蔵品をとかく見せ惜しむ慣はしである。まして侯のやうに、所蔵の目録の全部を示されるやうな人は、これまでの諸処の訪問に於いて空前であり(また絶後といつてよい)、いたく感激した。それで、台帳を開き見て、その中から数点を出だされんことを請うたところ、さらに別の人を呼んで「庭が広いから御案内をさせよう、六窓庵を見て来られるうちに、藻しほ草その他を出させておかう」と懇ろな言葉であつた。庵の中で六窓の説明を聞きなどして座敷にもどると、赤い毛氈を敷いた上に手鑑が置いてあつた。絶品「藻しほ草」に初めて相対する自分の胸はさわだつた。侯は傍に在つて、静かに披きみる自分に、「どれが特に目にとまつたか」など問はれたりした。かくて、其の日半日、大いなる眼福を得て帰つたことであつた。
 ある日、「明朝八時に必ず来てほしい、使ではわからぬ用事であるから」との電話。その時刻にゆくと、由緒のあるといふ格天井の室で侯は朝食をとつてをられた。「起きぬけに是非といふ客に逢つてゐたため遅くなつた」とことわられつつ、「実は、水野家の元暦万葉を、都合で手放したいと同家の親戚の南岩倉男から頼まれたので、自分が顧問をしてをる古河家に話したいと思ふ。自分も古筆は好きで、元暦万葉の古筆としての尊さは知つてをるが、古河家の当主はまだ若く、此の方面には趣味がないかも知れぬから、学問上に大いなる価値のあるといふことを自分が聞いて、それを話したい」とのことであつた。それで、万葉集の古写本の尊さから、元暦本の貴重なことを、くはしく述べた。侯は一々頷づいて、「よく理解した」といはれた。やがて元暦万葉十四帖本は、古河家の手に移つたといふことを聞いた。
 二三ケ月の後、侯が病気であると伝聞して、見舞に玄関までいつたところ、気分がよいから逢はうといはれる。通されたのは、有名な周文の襖絵のある室で、床上に坐してをられた。暫く話してをる所へ、古河男が見舞に来られた。つづいて好古堂の主人中村老が来た。中村老は、「今日は実に珍しい日であります、と申しましてもおわかりになりますまいが」と前置して語り出した。「今日の此の周文の間(ま)は、不思議なあつまりでございます。実は、元暦万葉が水野家から発見されたことを聞きましたので、私はそれを得たく、水野家の旧臣某代議士の手を経て同家に交渉しましたところ、画餅に帰したことでした。今ここには、発見された佐佐木博士、斡旋の労をおとりになつた侯と、購はれた古河男と、得たいと思つて奔走した自分とが、斯うして居るのであります」との話、「さうであつたか」と驚いたことであつた。
 後数年、侯の銅像が興津の別荘のうちに建てられるについて、詠んだ歌を其の下に彫刻するから、見てほしい、との依頼をうけた。その秋の末ごろ、除幕式があるとて招かれたので赴いた。一室一室の床には、秘蔵の書画の名幅が掛かつてゐる。大勢の客と一緒に縦覧しつつ、侯の居間に入らうとして、今まであれほどの幅がかけられてあつたに、此の室には、何が?と思ひつつ入ると、伊藤公の半折で、「国のためつくす誠を大君のしろしめすをもいとふ君かな 博文」といふ幅が掛けてあつた。「これは、侯がある恩命を辞退されたをり書いて贈られたもので、愛蔵の掛物であります」との執事の話であつた。庭園の蜜柑畑は、折から美しくみのつてをり、此処彼処に、「自由におとり下さい」といふ札がかかつてをつた。その下蔭を、写真で見知つてをる原敬氏や、その他、知名の人々が歩いてをつた。

    高田相川

 京都から帰られた徳富先生より電話で午前に、午後京都図書館なる森潤三郎君よりの来書に、西本願寺から売立に出た古書の中に、貴重な万葉集があり、これこれの価との親切なしらせを受けた。
 丁度東大の講義の日が休日に当るので、金子を用意し、翌朝の急行で京都に著く直ちに書肆を訪うた。初めて主人に逢つたに、徳富先生にも森さんにも価を申上ましたが、たかくなつてこれこれですといひつつ万葉集を出して見せた。鎌倉末期の二十巻の完本、大形の蝴蝶装本である。実に善本ではあるが、なぜ一両日中に価がそのやうにたかくなつたのですかと問ふと、笑ひつつ、それはずんずん価の高くなる書物もあります、今日ならば先刻の価ですが、今月末か来月後には倍にもなるかも知れませんといふ。自分は初対面の主人であるが、あまりに失礼な態度に、胸の内に、「マーチャント・オブ・キヨウト」といひたい思ひをつつんで、いつもやどる京都ホテルへいつた。《注:「京都に著く直ちに」は原文のまま。》
 東京の高田慎蔵翁から数日前の書状に、子供らを伴うて京阪に花見かたがた来てをるからといふ来書のあつたことを思ひ出して、祇園坂下の旅館に電話をかけると、明朝来たまへとのこと、翌朝いつたに、長女次女と従者と五人で高野山と和歌の浦へゆくから同行されてはとのこと。自分はこれこれでと残念であつた話をすると、翁は、それならば高田が求めておきませう、そして学問上に用のある時にいつでもおかしし、又お譲りしてもよいとのこと、感涙が浮ぶほど喜ばしく、不足分を借りて、書肆にいつて支払ひ、高野行の一行に加はつた。春は盛、花も盛で、高野山は本坊にやどり、翌朝は明王院の赤不動や、契沖が義剛に贈つた書状(清浄心院所蔵)の巻物等を見、高野めぐりををへて根来寺の花を見、和歌の浦にやどり、翌朝紀三井寺にいつた。反対のがはから和歌の浦を見渡すと、山すそに芦の生えた藻屑川が見える。自分は数年前和歌の浦を訪うて歓迎会のあつた当日、市の観光課の人が出席されて、ここには毎年冬の初め頃鶴が必ずくる。ある日干潟におりた数を数へると五十八羽であつたといふ話を聞いて、赤人の歌にある芦辺をさしてはこの下の藻屑川辺の方に鶴が群れ寄つたのであらうといふ話を語り出た事であつた。ここで一行に別れ、京都へ寄り、古鈔本をたづさへて、森君を訪ひ、帰京したことであつた。
 高田慎蔵翁は佐渡相川の出身で、相川(さうせん)と号し、国家に多くの功をたてられた人、はやく歌を好み詠まれ、その作歌の数も多く、岡山高蔭翁の筆によつて、和装のうるはしい「相川歌集」第一集第二集の二冊が成つた。先輩知友との交遊のさまが多くうたはれ、第一集の巻頭には、箱根の別墅を訪はれた山県公の色紙の歌が掲げられてある。

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