大隈重信

 竹柏会の大会には、各方面の名士に講演を請うてをつた。明治四十一年には、大隈侯に講演をと、高田早苗博士を経てお頼みしたに、承諾されたとの電話があつたので、初めて早稲田の邸を訪うた。洋館の広い室に、四五人の先客があつたが、侯はそれぞれに談話を交はされるのであつた。自分には「いろいろの講演も頼まれたが、歌人の会には初めてである。妻(さい)は鈴木重嶺さんの弟子で歌も詠んだが自分には歌の嗜みはない。けれども文学観といふ題目で話をしよう」と言はれた。傍らにをられた天野為之博士は、「私の妻も中島歌子さんの弟子であります」などと言ひそへられた。それから鈴木翁が佐渡奉行であつたといふ懐旧談から、佐賀では古川松根が歌人であつたことを語られ、園芸談に転じて、花卉と歌との話が続いた。
 しかるに、大会の朝の新聞を見ると、松浦伯が世を去られた由が出てゐる。伯は大隈侯の令嗣の実父であられるから、いかがと思うてゐたに、定刻より少しおくれて会場なる日本橋倶楽部に来られ、「自分は時間はいつも正しいのであるが、今日はやむを得ぬことがあつたので」といはれた。さて壇上に立たれての話の中に、「殆ど一千年以前に源氏物語といふ大作、日本文学として世界に誇るに足る大作が女性の手によつて出来た。世界のいづれの文明国でも、一千年前に女性によつて斯くのごとき大作が成されたといふことはないのである。西洋では、エリオットのやうな人が現はれて、立派な小説を書いたが、それは近世のこと。希臘も、羅馬も、或は中古時代の仏蘭西、日耳曼、西班牙、伊太利にもないのである」と称(たた)へられ、歌の将来に就いては、「どうしても時代の精神に基づき、時代の精神に伴つて、歌そのものを進歩させてゆかなければならぬ」云々と述べられた。
 その後、原田積善会の幹部の数人と共に、早稲田の邸に晩餐に招かれた。その卓上での話で、今もさだかに記憶してゐることが二つある。一つは、先年紀州の有田郡から蜜柑の若木を貰つて、庭園の温室に培つてみたが、成績はよくなかつた。贈つてくれた人が来た時、そのことを云うたに、温室にいつて見た後、「これは自分の疎漏でありました」と云うて帰つた。暫くして、船便でかなりの土を送つてよこしたので、それを根に入れてみると、果してその年はよい実がなつた。すべて土壌が大切である。いくらよい苗でも木でも、土壌がよくなければ立派には実らぬ、人間もさうである、といふ風に話を結ばれた。
 いま一つは、自分が万葉の食物の話から、巻十六の蟹の長歌の話をしたところ、侯は、郷里佐賀では、ガニというて珍味にしてをる。その調理法はこれこれと詳しく語られたので、千二百年前の歌の真実を、その席上でさだかに知つた。「いづれ、その時期になつたらば、あちらから送つてくるのを贈らう」といはれたが、やがて使でガニを贈られたことであつた。

    山県有朋

 含雪山県有朋公は、明治維新の際に、かの「夏も身にしむ越の山風」といふ名高い歌を詠まれた、武人中の歌人である。
 晩年に常磐会を催された。小出粲翁、井上通泰氏、大口鯛二氏と自分とが選者で、賀古鶴所氏、森鴎外博士が幹事、岡山高蔭君が書記の役をつとめられた。その第一回の会が、八月に江戸川の新々(さらさら)亭で開かれた。一同が揃ふと、公は羽織袴の謹厳な態度で挨拶され「自分は若い頃から歌を好み、維新前、国事に奔走して京都に上つた時にも、馬に乗つて女歌人蓮月を訪うたこともあり、同藩の近藤芳樹に歌を示して……」云々と語り出でられ、「この頃は、歌の風が大いに変つて行く。これから隔月に諸君に来てもらつて、歌の選を、また、歌がたりをねがひたい。自分は、『行灯のもとに山家集を読む』といふやうな歌はよまぬけれども、時勢の移り変りであるから」など語られ、「ここはささやかな庭であるが、池のまはりを巡れるやうになつてをるから、おり立たれたい。その間に晩餐の用意をととのへさせるから」との言葉に、一同は、樹立ものさびて、庭のわりあひには広くとつてある池、つなぎ捨ててある小舟などを観めでつつ歩みを移した。その途中自分は、小さい声で森さんに、「さきほど、行灯のもとに云々といはれたのは、自分の『思草』の歌であるが」とささやいたに、森さんは、「山公(さんこう)(森さんも賀古さんも、かう言つてをられた)は鋭いかたであるから、君を此の会の選者に招く前に、『思草』を読まれたのであらう」と微笑しつつ話される。自分は、「あゝいふのがいかぬとのことならば、選者になるのはどうかとも思ひますが」といふと、森さんは、「君、君、さうではない、ちがつた歌風を承知しての会であるから」と細いながらいつになくつよい声でいはれるので「それならば出ます」と答へたことであつた。
 話は前後するが、前の月の末に賀古さんが自分のもとを訪はれて、何日に浜町の常磐に必ず来るやうにとの話――折から少病であるからといふと、「自分がついてをるから安心して来給へ」との話。賀古さんは小川町の近傍で、自分も子供ら皆も耳鼻がわるいと数年みてもらつてゐた。さてその日にゆくと、上述の選者と森氏と賀古氏。何の為の夕けかと思うてゐたに晩餐がすんで、賀古さんは「今夜諸君を招いたのは、自分が平素恩顧を蒙つてをる山県公が歌の批評会を催したいとの企である。八月は公の江戸川の邸――椿山荘は修理中であるから――九月は賀古の家、十月は椿山荘に」との話。九月の賀古さんの家の会では、まづ会の名を定めたいとの話、森さんの、「常磐で始まつたのであるから常磐会」との命名に定つた。お二人はどうして御親しいのかとの誰かの問に、「森と自分とは同窓、自分は軍医でも耳鼻科であるが、先年の山公の欧州行に随行した。森は伯林に留学中で、あの『舞姫』の終にあるのは……」などとの話を聞いた。
 爾来十余年――盛夏の八月は小田原の古稀庵で――百回になつた時の会には、特に余興の舞踊などがあつた。{二〇九頁参照}《注:藤間勘右衛門の項。》椿山荘の大広間で会のあつた日に、ただ二回だけ乃木将軍と渡辺外相とが来られ、広間の隅で用談がすむとすぐ帰られた。
 山公が麹町の英国大使館の横に移転の後、世を去られるまでつづいた。

    島田三郎

 竹柏会大会は、毎年一回春季に催すならひであつたが、明治三十六年には、自分の南清漫遊の送別の意を兼ねて、秋季に社友の人々が大会を開いてくれられた。その折の講演に、同人の弘田長博士から、島田三郎氏にお頼みすることとなつた。快諾されたとの返事に接したので、ある夜、番町の邸を訪うた。自分は、「開国始末」を夙く読んだこと、また、九州の山田武甫翁は自分の祖父のやうな年齢であつたが、わが門に入つて折々その作を示されたに、すぐれた歌があつた。その山田翁の葬儀の折、島田氏の棺前演説に深く感じたことなどを語つた。ふと見ると、柱の短冊掛に、「秋の野をめぐりめぐりて出でぬればもと来し道のちまたなりけり」といふ神山魚貫(なつら)の短冊がかけてある。しかし、筆蹟は魚貫とは違ひ、短冊も新しいので、問うたところ、氏は、「お覚えであらう、毎日新聞にあなたの歌論の寄稿を木下尚江君から請うた時、数回にわたつて魚貫の歌を紹介された。その時、この歌に深いこころの汲まれることを感じ、高津柏樹翁に書いてもらつたので、かうして朝夕ながめてをる」と語られた。かつ耕しかつ歌つた下総の農歌人の作が、明治の政治家の壁間を飾るのも、歌の徳と感じたことであつた。「まだ書いてもらつたのがあるから」と、夫人を呼んで持つてこさせられた短冊の歌は「竹なれば境のまがき折れふして野辺よりつゞく庭の白雪」、「苔づたふ岩間の清水せきためて一人すむには足(た)れる庵かな」、「白樫の古葉ちる音におどろけばおのが宿なりうたたねの夢」、「涙こそよそには見せね子ゆゑには物を思はぬ日ぞなかりける」、なほ他に三葉あつた。これらの魚貫の歌を選ばれたのを見ると、彼の歌集「苔清水」から自分の紹介した中でもすぐれた歌であるので、島田氏が歌の鑑賞の力の並々ならぬを思うた。この時の講演は「国歌に対する私見」という題で、心の花六巻十一号に掲げてある。
  別記 島田氏は、その永眠の前日、店子夫人を枕頭に呼ばれて、「自分は、政界に生活すること数十年であるが、自ら省みて心にやましいと思ふことや、良心に恥づる行をしたことは曽てなかつた」と云はれたといふ。この詞を聞かれた尾崎行雄氏が、霊前に手向けられた歌、それは、「かへりみてやましき事のなき人は一人ゆきてもさびしかりけり 行雄」。
 ついでに書き添へる。島田夫人から、故人の形見にとて、田中正造翁の短冊を贈られた。「民を狩る国の司の悪魔らが春の谷中に罪のつみくさ」として、傍に「丁未正月六十六年正造」とある。丁未は、明治四十年、谷中は渡良瀬川に沿つた下野国の谷中村のことであらう。田中氏が歌を詠んだといふことを初めて知り、またいかにも田中氏らしい歌、めづらしい短冊であると、短冊帖にはさんで珍蔵してをる。

    弘田長

 明治三十四年、皇孫殿下の御生誕あらせ給ふや、弘田長(ちやう)博士は拝診御用を仰付けられ、翌年、宮内省御用掛を拝命された。(医科大学教授にして、宮中に召されたのは、博士が始めてであるといふ。)しかして、側近に奉仕し、大磯に、箱根に、沼津に、殿下の御避暑、御避寒に供奉した。
 殿下には、極めて御健やかにあらせられた。従つて、側近の人々にも、時間の余裕があつたので、修養のため国文学の講義をといふ御養育主任河村伯の話によつて、自分が、大磯にまた箱根に赴いてその事に当つたのであつた。当時、万葉集等の講義を聴かれた人々のうち、弘田博士、樺山常子夫人小坂頼之侍医等は、歌道にも長く精進せられるやうになつた。
 弘田博士は土佐の人で、気象きはめて男性的、熱情的で、殿下に奉仕しては、身もたな知らに仕へまつられた。架蔵してをる博士の短冊に、「沼津にさぶらひける頃 しつが屋のあひるのひなをめでたまふ御心やがて民おもほさむ 長」といふのがある。
 博士は、自分の話によつて、曙覧・言道・望東尼の作を愛誦され、従つてその筆蹟を蒐められたが、福井にも福岡にも医学上の門弟があつて、便宜が多く、よく蒐まつた。就中、酒を愛した曙覧が屡々遊んだ福井の割烹店風月亭の主人が、数年間の酒債のかはりに、家にのこすべく短冊を書いてほしいと請うて、曙覧の好みの丁字引の短冊千枚を持参したに、これには曙覧も驚いたが、力(つと)めて六百枚を書いて与へたといふ。その全部が、一時衰へた風月亭から売りに出したのを購はれた。しかも、その六百枚のうち、愛誦の歌二十枚ほどを留めて、あとは人々に頒つべく自分に嘱されたので、同人にわかち、また当時は価が極めて廉であつたので、「心の花」の競点の賞におくりなどした。曙覧の短冊が今日流布してをる中には、この六百枚のわかれが、かなりあるやうである。
 また博士は、福岡の平岡浩太郎氏と懇意であつたので、言道・望東尼の筆蹟も多く蒐まつた。殊に言道の歌論として歌学上不朽の二書「ひとりごち」「こぞのちり」は、博士をとほして捜索を請ひ、それに梅野満雄君の尽力が加はつて、つひに発見するに至つたのである。
 また、故郷土佐なる鹿持雅澄の筆蹟も熱心に蒐められた。ある年、谷家より祖先の遺書全部を山内家に献じたのを、博士の紹介によつて、麹町なる同邸に就いて見るを得た。その時、谷真潮が万葉の白文研究をはじめたことを委しく知り得、雅澄が真淵の学統なることをも明らかにし、大正四年十月史学会に於いて、自分は、「土佐に於ける万葉学の源流」といふ講演で発表した。今日では国文学界の常識となつてをる土佐万葉学の伝統も、当時に於いては珍しい発見であつたから、博士も自分も共に喜んだことであつた。
  附記 昭和二十四年十月、芸術院会員として宮中にて賜餐のをり、自分はおほけなくも、陛下のお隣の椅子にさぶらうたので、上に掲げた弘田博士の「賎が屋の」の歌や、樺山常子夫人の「箱根にて みこの宮片言宣りて母牛にむつるゝ子牛めでみますかも」の歌を聞えあげたことであつた。

    後藤新平

 後藤新平伯の台湾民政長官時代のことである。徳富蘇峰翁を介して、台湾に関する唱歌の制作を思ひ立つたので、添削を請ひたいとのこと。歌詞も作曲も成つた後、日本橋の偕楽園に招かれた。客は蘇峰翁、作曲家の納所氏、自分の三人であつた。この曲をレコードに吹込んで、、台湾の各学校に配付するといはれた。唱歌のレコードに吹きこまれたのでは、最も早きに属するものであらう。しかしてその歌詞は、台湾人に見せる為にと漢詩をも添へ、表紙は中沢弘光画伯の筆で、日本服及び台湾服を着た二人の児童を、口絵には、世界の児童が桜花の蔭に遊戯せる図が挿入されてゐた。《注:底本のまま。》
 後、麻布の邸に訪うた折、若くて上京の際に父君の詠み与へられた歌を掛物とし、常に誡めとしてをると話された。また父君は、保田光則の撰んだ訓誡和歌集を愛蔵してをられたので、かの集を愛誦し、旅中にも抄本を携へゆくと話された。後、明治四十年にその歌集を刊行し、一部を贈られた。
  附記 伯の長女愛子ぬしは鶴見祐輔君の夫人となられたが、その長女和子ぬしは竹柏会に入会、さきに渡米の際、和装の歌集「虹」を著し、その跋には英文で短歌についての一篇が添へてある。最近カナダに招かれ行かれ、帰朝の土産としてかの地の土人の手に成る陶器に、歌を添へておこされた。

    原田嘉朝

 原田二郎翁は、嘉永二年十月十日、伊勢松阪に生れられ、雅名を嘉朝といはれた。嘉は嘉永の嘉より、朝は十月十日の字を集めて名づけられたとのことである。吾が父とは松阪以来交はりがあつたので、明治二十年九月、翁が再度の上京に際して小川町なる自分の家の裏に住まれたので、歌を父に就いて学ばれるやうになつた。
 自分が古典科を卒業した時、翁は、「我が国の学のわざは君を頼み世を経る道はわれ栞せむ」と詠んで贈られた。自分はその言に感じつつも、「世を経る道の栞」を請はず、わが父の歩んだ道をひたすらに進んだ。しかし、父なき後、翁は自分に歌を示され、世を去られるまで親炙した。その遺稿の「嘉朝集」には、気魄に富んだ歌が少からず、松阪なる樹敬寺には、「ますらをの真心こめて一筋に思ひいる矢の通らざらめや」といふ歌碑が建つてをる。
 翁が、国家社会に対する遠大の理想を実現するため、全資財を挙げて、財団法人原田積善会を創設されたのは、大正九年七月であつた。大いなる理想家といふべき翁の反面には、堅実な実行家としての半面があり、そのあらはれである積善会は、種々の公共事業のために、絶えせぬ善事を積まれつつある。自分の還暦の記念に故郷石薬師小学校に寄附した石薬師文庫のためにも、寄贈を忝うした。
  追記 翁の母刀自、時雨子ぬしは、実に賢母であり、歌も好み詠まれた。

    土肥慶蔵

 土肥博士は、本邦人の詩集を蒐集されてをるので有名であつた。毎年一月、自分は鎌倉に赴いて、海浜ホテルに滞在の児玉一造氏を訪問した。同じく滞在中の土肥博士に食堂で逢つた時、県居翁が若い頃の詩を自らあつめられた「維陽詩草」といふ詩集のあることが、清水浜臣の随筆に出てをるからと捜索を依頼したが、その翌年も翌々年も同じく海浜ホテルで逢つた時、「まだ真淵の詩集は見つからぬので」と忘れずにいつてくれられた。集は出なかつたが、その厚意は喜ばしかつた。
 ついでに書き添へる。博士の夫人の追悼会に星が岡茶寮に招かれた時、食後に、琵琶をお聴かせするからとのことで、楼上に席が移つた。琵琶法師は、深川照阿(てるくま)翁であつたと記憶する。語られる前の儀礼として、琵琶を膝の上におき、「お望みの曲がありますならば」と会釈されたところ、誰かが、大きな声で、「北白川宮の台湾入を願ひます」というた。薩摩琵琶や筑前琵琶のみを聞いてをつて、平家琵琶を知らないその人の言葉に、翁は苦笑もせずに、「それでは屋島の段を」といつて、静かに語りはじめられた。隣席の入沢達吉博士が小さな声で、「こまりましたね」と笑つてをられたのも今は昔の思ひ出となつた。

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