入江為守

 大正五年十月、御歌所長の入江さんから、明日の夜是非来てほしいとの電話、翌日の夜行くと奥まつた室にとほされた。いつものやうな静かな調子で、「二三日前にお耳に入つてゐるかとも思ふが、この度、宮内省に臨時編纂部が設けられて、明治天皇の御集を御編纂になるについて、御歌所の寄人四人と御伝記編纂主任の池辺義象君と、民間の歌人として貴下が委員になるやうにと定められたので、承諾してほしい。寄人の資格であるが、貴下は官位がないので、最も低い順位になるのではあるが」とのことであつた。自分はしばらくだまつて考へてゐたが、「明治の大御代に生れて明治天皇の御製のためにつくすといふことは、この上もなくありがたいことで、お引受申上げます。誠心誠意自分の力のある限りおつとめをします。官位の高低などはもとより念頭にありませぬ。ただ、野人礼にならはずで、失礼なことがあつた場合はいつでも辞職いたします。かつ御集のお仕事がすんだならば寄人を辞したいと思ひます」というたところ、「承諾されて喜ばしい。ただ官吏にはあらかじめいつ辞職するといふやうな約束は規則として出来ぬものである」といはれて、毎月何回御歌所の一室において行はれる等のことを聞き、帰らうとすると、玄関まで送つてみえる途中で、「予約は出来ぬもその時が来れば云々」といふやうな話を巧みにいはれた。
 翌日の夕方、渋谷なる高崎先生の孫君のお宅を訪うて、応接間の先生の油画にお辞儀をしたいからというて通され、心の中に、二度までもお歌所へとの恩命を蒙りつつ御辞退いたしたのでありますがこの度のは特別の御用でありますからと御詑びを申上げ、さて本郷の森鴎外博士の邸を訪うて、三日前に漠然と入江氏から近日中にたよりがあらうとだけの電話であつたが、昨夜参つてこれこれといふと、この度の御編纂には山県公が顧問であるので、池辺君と君とを推薦されたのであるといふことをはじめて聞いたのであつた。
  附記一 或日宮内省へあがつた時、階段の中途で入江さんにお目にかかつたに、佐佐木君、君の家へ行きたいんだが、いつがよいとの事、わざわざ御出でなくともここで承つてよくばというて階段を一緒にあがつたに、「今度大学に入つた子供が、国文を専攻したいといふので、君から久松君によろしく話してほしい」との事、夜鶴の情さこそと感じた。大学卒業後、国文に勉められたが、後、宮内省に入つて侍従となり、近く随筆数種を出された才人相政君の事であつた。
  附記二 昭和三十四年六月七日、自分の米寿祝賀の会が、熱海観光会館で催された前日、入江侍従は、熱海の自分の宅に来られて、陛下のおことばと、皇后陛下の紅葉山御養蚕所産の真綿一包と御菓子九重と延寿の春を賜はつた。まことにかしこき極みであつた。ここにその御ことばを記し添へておく。「この度、米寿を迎へること、まことにめでたく思ふ。この上もますます大切にして、いつまでも元気でゐるやうに。」
  附記三 昭和卅五年は、明治神宮鎮座四十年大祭に相当するので、宮内庁の御許可を得、明治天皇御集、昭憲皇太后御集の続篇を御編纂につき、自分も委員の委嘱を忝うした。入江侍従も同じく委員の一人である。

    長岡外史

 長岡外史(ぐわいし)将軍は長州に生れ、少年時代から日本外史の素読に通じ、藩公から外史といふ名を賜はつたといふ。陸軍に入り中将まで進まれたが、漢詩も書もたくみであつた。在官中、陸軍臨時気球研究会会長を兼任し、また官を退いてからは国民飛行協会の会長、飛行倶楽部の理事長などをつとめ、専らわが国の航空界の発達につくされ、「天地のわかちなかりし上(かみ)つ代にたちかへるなり天(あま)がけりつつ」とよまれた。
 又、高田師団長であつた時、オーストリヤからレルヒ少佐を招き、わが国にはじめてスキーを輸入して普及させた、スキー界の恩人でもあり、「汝(なれ)にして指導をすべきスキーぞと妻に穿(は)かしむ新らしきスキー」といふ歌をもよまれた。
 大正の末年、自分は、毎年盛夏を軽井沢に過したが、社友朝吹磯子夫人の別墅を訪うた時、夫人の父君で、有名な髭(ひげ)の長い将軍が邸内にをられるに逢うて、示される歌をみたことであつた。

    村山竜平

 香雪村山竜平翁の父君守雄翁は、伊勢久居の歌学者で、「神風の伊勢の海」といふ歌格上の書を著し、明治二十一年に出版された。父君とは斯く生国を同じうし、学問をも同じうするので、香雪翁にも何となく親しみをおぼえてをつた。当時、大阪朝日新聞社から近松全集等が出てをるので、自分は同社から契沖全集の出版をと希望した。この契沖全集については、上田万年博士もかねて、望んでをられたことであつた。それで大阪に赴き、新聞社に翁を訪うたに、出版部長の小西勝一翁と二人で逢はれた。自分は希望の次第をくはしく述べると、暫く考へてをられた。傍から小西翁が、「近松のは他にも出てをる、契沖のはまだ無い。大阪で、我が社で、出版すべきもののやうに思ふ」と言を添へられた。すると香雪翁は、「よろしい、お引受けします。但、小西さん、もしこの全集で損失が出来たらば、社に迷惑をかけたくないから、自分のポケットマネーで補ふやうに」といはれた。それで、上田博士を監修に、新村橋本武田三博士及び、予と久松君とが編輯の衝に当つて、契沖全集が九巻、長流全集が二巻、公刊された。幸ひに予約の応募者が多く、翁に迷惑はかけなかつたやうである。
 完成した際に、上田博士と共に大阪に赴き、新村博士も京都から来られて、円珠庵なる契沖阿闍梨の神前に全集をささげたことであつた。帰途、鶴屋に昼餐に招待された。その席上で、新聞社の幹部の人の一人に、自分はふと、「来年は天平元年から一千百年に当るから、何か記念になる事をしたいものと思ふ」と、雑談をした。後、半月ばかりたつて、大阪朝日の社員が上京して吾が家に来訪し、「あの鶴屋でお話の一千百年記念に、何か催される御予定ですか」と問うた。希望してゐるだけの旨を答へたに「それでは大阪朝日で天平文化記念会を催したい」とのことであつた。やがて会が組織され梨本宮殿下を総裁に、多くの評議員が選ばれ、自分もその一人に依嘱され、盛大な展覧会や講演会等が催された。其の際、記念出版として、何を選ぶべきかにつき、社から内藤湖南博士に相談されたところ、博士は、元暦万葉集をまとめたものをと提案された。それがもとになつて、自分が依嘱され有栖川王府本、古河本及び残簡の全部を集めた元暦万葉集大成本十五巻、解説一巻が刊行された。巻十一は従来全く知られなかつたものであるが、この大成本のために各所の好事家所蔵の断簡を自分が捜索して、数頁ながら発見した。これは大成本のたまものである。さういふ二度の出版で、自分は殆ど毎月京阪に赴いた。或は契沖全集の資料のため、京都上賀茂の三手文庫や大阪の平瀬家に借用を請ひ、また元暦万葉の断簡を求むるために京阪の古筆愛好家を歴訪するなどで、大阪に到ればいつも朝日社の二階の一室を与へられ、そこが自分のいつた時だけの編輯所にあてられたのであつた。
 従つて、香雪翁にはいつも面会した。翁が茶人で古筆を愛玩してをられることをかねて聞いてをるので、一見を請うたところ「万葉の断片があらば、いはれるまでもなく招いてお目にかけるのであるが」というてをられた。後、自分の華甲記念の会が大阪で催されたので赴いた時、やどつてゐた京都ホテルに翁から使があり、茶事の招待を受けた。所蔵の古筆もお見せしよう、とのことである。喜んで新村博士、浜田博士と翁の邸に同行した。行つてみると、広い庭園の傾斜地に建てられた、かけ作りの家の、広間の二方と床とに、三十余幅の歌切、色紙、懐紙等が懸けられてあつて、優秀な品の多いのに、且つ驚き且つ喜びつつ見たことであつた。朝日の幹部の人も数人をられたが、帰られた後、新村浜田二博士と茶席に入らうとすると、翁は「代点で失礼いたす。長挙夫婦がお相伴をするから」とのことであつた。その時、自分は、ふと考へた。既に、あれほどの古筆の名筆が掛かつてをつた。茶席の床には、何がかけてあるのであらう、或は花が生けられてあるのか、などと思ひつつ席に入つた。さて床の前に坐つて仰ぎ見たところ、そこには俊頼の古今切で雑の部の「貞観の御時万葉集はいつばかりつくれるぞと」云々の詞書、「神無月」の歌の切がかけられてあつたのである。自分は実に感歎した。真に眼福に眼福を重ねたのであつた。茶事の半で、代点の宗匠が、「この茶杓は軽いものですが」といひつつ示したのは、歌人僧大綱の歌を彫つたものであつた。
 帰京して後二日、東京会館の結婚の宴で隣席した塩原氏に、村山邸の展覧の話をしたところ「それは羨しい。茶人は一度の会にただ一幅こそ示さぬ習はしであるから、三十余回の茶会におよばれになつたのである」といはれた。そこまではよかつたが「それで、お茶碗は」と問はれた。新村博士たちと話の花が咲いて正客の自分が「お茶碗は」と聞くのを失念したのである。早速村山翁へ手紙を送つて問うたに、長挙氏夫人から何々といふ名物であるとの返書。それを塩原氏に送つたことである。
  附記 上記した「神風の伊勢の海」は、美濃紙本五冊であるが、縮刷した一冊とし、解説を附けてほしいと翁より依嘱され、印行が成つた。それと前後は失念したが、翁が貴族院議員として東上中、ある夕べ招かれた。近衛文麿公と予、長挙氏、海南博士等であつた。葡萄酒の盃を挙げつつ翁は、今日のメニューは自分がきめたので式にかなはぬであらうが、毎夕の食事のうち特に感じたものであるからとのこと、まづ、スープは当時としては、めづらしかつたロシヤ風の模様のある竹筒がたの陶器のであつた。

    益田孝

 鈍翁益田孝氏は品川御殿山に住まれたので、眺望の勝れたのに因み観涛とも号された。茶人として明治古筆界の長老として名声高く、自分はある日訪問して、いはゆる三手鑑の一なる翰墨城を見る眼福を得、大師会の茶会に招かれもした。
 常磐会は、山県公の條に記したごとく、盛夏は小田原の古稀庵で催される習はしであつた。明治四十三年の夏、選者が打ち揃うて行つた汽車中、井上通泰君や大口鯛二君の問はれるままに、近く水野家から発見された元暦校本万葉集十四帖本のことを語つた。
 古稀庵に着くと、間もなく、同じ山の地続きに住まはれる益田翁が来られた。そして山県公にむかつて、「今日の会がはてましたら、佐佐木さんには特によい葡萄酒を抜いてあげて下さい」といはれる。山県公が不思議な面持をされたので、自分は、「それは元暦万葉のことでありませう。今日の途中の汽車のなかも、その話でありましたが――」と言ひ、さらに、「どこで、もうお耳に入りましたか」と尋ねると、翁は「知る人ぞ知る――といふ古歌がありますが」と微笑された。
 ある時は、常磐会が早く終つたので、益田翁の観涛荘に赴いたこともある。ここからは同じ湘南の海もやや変つて眺められた。林のなかの胡蝶花の咲いてをる小径をゆくと、急に大きな乳牛がのそつと曳かれて出て来たのに驚いたりした。
 数年後のこと、翁から使が来た。「これまで数人の先生に朱を乞うて来たが、これからの晩年の作を加筆して欲しい」との由であつた。自分が文化勲章を授与された時、翁は祝ひに「名物高砂釜倣」と箱書して、蓋に「観涛于時九十又一」と記した茶釜を贈られた。老松と波と亀とを配した素朴な模様も好ましく、大きく竹柏と銘があり、松のかげに鈍翁と花押があつて、まことに立派なものであつた。大切にして、折々の茶事に用ゐつつ、翁をなつかしんでゐる。

    田中光顕

 「万葉漫筆」の終に掲げてあるやうに、大口鯛二氏から、万葉関係の鎌倉時代の二書を見られた話を聞いたが、持主が秘蔵してをるので、その姓名をいふことは出来ぬとの話であつた。自分のためではなく、万葉学のためであるからと数回頼んだが、「兎に角、自分の知つてをる人であるから、君が捜索されたらばわかることもあらう」との返事に、氏の親しいと思はれる人々の家を歴訪しようと、まづ楢陰田中光顕(みつあき)翁を岩淵の別墅に訪うたのは、大正四年一月であつた。
 話は遡るが、明治四十年十月、香川景樹に贈位があつた。従来国学者の多くは、階位の恩典にあづかつたが、それは、その学問の影響した国家的功労によつてであつて、純文芸家としては景樹を以て嚆矢といふべきであるから、式典に列したいと京都へ赴いた。その汽車中、正午の食堂車に、歌会で見知つてをる時の宮相田中翁と、某氏とが向ひあつてをり、自分もその近くに腰をかけたに、列車が富士川の鉄橋を渡る時、翁は川のあなたを指ざされて、かしこに別荘を建築するつもりである云々といつてをられたのが、聞くともなしに聞えてをつた。京都二條聞名寺の位記伝達式には、大臣として宣命を墓前にささげられ、続いて南禅寺内の金地院(こんちゐん)における記念会の会場に赴かれ、自分もその会に列席したが、特に言葉をかはすといふことはなかつた。
 それで、此の度の岩淵訪問は、初対面といふべきであつたに、いたく厚遇され、目的の万葉関係の書は無かつたが、古い経巻の数々をはじめ、多くの眼福を得た。かつ、類聚古集を有栖川宮家の御虫干で発見されたをりのこと、又、今は所蔵してをらぬが、小杉君の斡旋で、会津の松平家伝来の藍紙万葉集を購うたが、など語られた
 爾来数回、岩淵の古蹊荘に、後は蒲原の宝珠荘に、また上京された際は青山の邸にも訪問したが、上代の文化に心深く、話題が豊かであられるので、いつも帰る時を忘れるほどであつた。
 自分は古い文字をよむことはすきであるが、かくことは好まないというて、ある時次のやうに語られた。自分は蛇が嫌ひである。しかも止むを得ぬ時は手づかまへにする、筆を執ることは、蛇よりも嫌ひである」といはれた。その故でもあらう、雅用の際は、詠んだ歌を電報で人々に送られた。人々からもおこせた返電の歌を丹念にあつめてあつて、二巻の巻子として、「いなづまの巻」といふ名がつけられてあつた。
 岩淵、また蒲原へ自分がゆく時、電報で時間を通知したので、駅には抱への人力車が迎へに来てをる。どちらも、門を入ると、両側に、南天が植ゑられてある。車夫は梶棒につけた鈴を鳴らしつつ、ゆるい勾配の坂路をあがる。すると玄関に、いつもにこやかに待ち迎へられた。後に、久我太郎君と外孫藤田純一君とを伴うて蒲原に下車したついでに、宝珠荘をおとなふと、門前の紅白の梅が盛りで坂路の左右の南天は、くれなゐの実がふさふさしてをる。しかし、玄関に待ち迎へられる翁の影のないことを寂しく思うた。

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