西園寺公望
明治三十六年の初夏、当時駿河台に住んでをられた陶庵西園寺公望(きんもち)公が、小川町なるわが家を訪はれた。此のたび宮中で、維新前の功臣の絵巻をお手許に御保存になるといふことで、自分は三條実万公の伝の執筆を命ぜられた。文章を尾崎紅葉君に見てもらひたいと思うてゐたに、不治の病気と聞いたので、貴下に頼みたい」とのことであつた。爾来、数回にわたつて草稿をおこされた。盛夏の頃、宮の下の奈良屋に滞在中、招かれたので赴いた。詩にすぐれ、俳句を嗜まれるに、「和歌は」と問うたところ、「公卿(くげ)の家であるから、拙い歌はつくりたくない」と笑つてをられた。その晩秋、自分が南清地方に遊ばうとした時、自作では出立前に間に合はぬからとて、唐人の古詩をうるはしい筆蹟で書いて送別に贈られた。
南清をめぐつて帰つてから答礼にいつたに、「自分も一昨年あちらにいつたが、おもしろい思ひ出がある。鎮江の金山寺の精進料理はよいと聞いてをつたので、案内の人に話したに、彼の寺の内規で檀家でなければ料理を出さぬとのこと。それで、その日一日だけ、金山寺の檀家になつた」などと話された。
京都岡崎の清風荘に訪問した時、みづから庭園を案内された。林泉もよいと思うたが、門を入つて玄関にいたる間の背の低い小竹が目に残つてをる。また、湯河原の川沿なる某別荘にいつてをられた時、招かれて訪うた。ひぐらしの声が、川の流にふるやうであつた。いつも趣味の豊かな話に、時の移るのを忘れた。
公の秘書の原田熊雄君は、母堂や、有島画伯に嫁がれた妹君が竹柏園の弟子であるので、夙くから知つてをつた。自分がある時京都に赴く際、原田君は興津に行くべく特急で静岡まで同車した。興津を過る時、彼処が坐漁荘であると指ざされた。興津には訪問しなかつたが、自分のおもだたしい喜びのことを新聞に見たからとて、興津から使で、仏蘭西製の趣の深いガラスの酒器を贈られた。
その書が、高雅な性格をあらはしてをる故であらう、富岡鉄斎翁の画室に、内藤湖南博士の客間にまた、森鴎外博士の書斎に、公の額が掲げてあつた。湖南博士のは記憶を逸したが、鉄斎翁のには、「無量寿仏堂」、鴎外博士のには、「才学識」と書いてあつた。自分の華甲の記念に、社友の好意によつて書庫を建てて贈られた時、公に請うて、「万葉蔵」の三字の執筆を請ひ、それを香取秀真君が鋳造して贈られたのを、蔵の入口の上に嵌入した。
真鍋嘉一郎
上に掲げた弘田長博士は、夫人も長女二女も皆竹柏会の同人であり、長女教子(をしへこ)さんの夫君真鍋嘉一郎君も歌を喜び詠まれた。東大に物療内科の主任となられたが、学位は不要との説で、論文を提出されなかつた。その歌も亦気骨に富んでをつた。竹柏園の授業は木曜と土曜の午後であつたが、玄関で「真鍋です、特診に願ひます」といはれるので、前から来てをられた人々にいうて、すぐ見ることにしてゐた。詠草の加朱をよく見て、疑問の点は十分質問され、「おさきに失敬、有がたう」というていつも帰られた。
某年某月、物療の設置せられた日の記念日に、上野の精養軒にいつた。物療に関する種々の意見を述べられ、式が終つて野口英世の映画の封切があつた。猪苗代湖畔の夜の雪の景、夜の雪の中を酔うて居酒屋を出る父君、その家、大きな囲炉裏、以下は見るに堪へぬ悲痛な場面で、自分はハンケチで涙をぬぐうてゐたが、後は涙がしみとほつて困つた。隣席をみると、西川義方博士もハンケチを目にあててをられた。その傍らに真鍋君が来られて、野口君も喜んでゐませうといはれた。
前田利為
前田利定子は、大学卒業後、直ちにわが会の同人となつて歌集をも出されたが、令弟なる利為侯とは、本郷にをられた頃、古典籍の閲覧を請ふために面会しただけであつた。しかし大久保に移られてからは、数回招かれた。
高松宮殿下が高輪の御殿を御建てになつた時、建築技師が大久保の前田邸の一部を参照したとのことで、昭和十年二月六日の夕べ、高松宮、同妃両殿下がお成になつた。其の際、秘蔵の国文の古典籍を台覧に供するから、自分に説明を頼むとのことであつた。当日一室には、定家筆本土佐日記をはじめ、十数点の尊い古書が陳列されてあつた。自分はまづ、「古筆については、御府は暫くおき、宮家では有栖川家からの御継承で高松宮家、堂上では近衛家、旧大名では当家、民間では名古屋の関戸家に多く収蔵されてをる」と言ひ、次に一々に就いて詳細に述べ、ことに、定家が土佐日記を書写して七百年に当る今年に台覧になつたことは、筆者の喜であらう」など申上げた。やがて主人は、洋館、日本館全部を案内された。ここかしこの室には、油画、屏風、掛物の名品の数々があつた。庭には消え残つた雪の上に月の光が冷たかつたが、室内は暖かであつた。食卓についたのは、両殿下をはじめ主人夫妻及び令嗣夫妻、前田家の教育顧問なる清水澄博士、金沢出身の木村栄博士等であつた。利為君は、食膳の野菜が自園のものであること、その栽培法などを語られた。食後の別室には、海外から将来された偉人文豪の書翰の類が飾つてあり、深い感銘を受けた。《注:底本のまま。『「定家は…』などとあるべきところ。》
追記 利為侯は、昭和十七年四月、陸軍中将として出征、九月、ボルネオにて戦死された。
永田秀次郎
日本倶楽部に日本歌道会が催され、乾博士を初め数人のつどひに、自分は毎月第三の金曜日に赴いたが、永田秀次郎君もその会の一員となられた。俳人青嵐としては誰も知つてをるが、和歌にもすぐれてをられた。ある時示された「海晴れて松風清き丘の上にただしき者の墓とよばれむ」の作をたたへたに、若くして故郷淡路の洲本中学の校長であつた時の感想であるといはれた。
さきに南洋に赴いて帰られた時、数十首の作を示された。彼の地の風物が、たくみに詠ぜられてあつた。
附記一 昭和九年十月、神武天皇御東征記念の塔が宮崎市に建つに市から招かれていつたに、永田君も行かれたので、講演の終つた次の日、自動車に同車して鵜戸神宮に詣でた。日もうらら心もうららに楽しい一日で、自分も数首の作を得た。
附記二 君の歿後、ある雑誌記者から聞いた話がある。それは、その記者が永田君に対つて、いつお頼みにあがつても快諾して下さる。放送局などでも、何かの場合、急にお頼みしても、いつも立派な意見を述べてくださる、と喜んでをりますと述べた。すると君は、隣の書斎に入つて、二三冊のスクラップブックを携へ来て示され、次のやうに語られたといふ。「他からある問題について依頼の電話があると、必ずこれを披いてみる。ここに内外の新聞雑誌の切抜を問題に分けて貼つてある。まづこれを見て、述べることを考へる。この表紙に『桑の葉』と書いてある、蚕も桑の葉がなければ糸を出すことが出来ない」と。
近衛文麿
近衛忠熙(ただひろ)公には自分が少年の頃、藤波家の歌会でお目にかかり、亡父の一年祭には、夏懐旧の短冊をも賜はつた。篤麿公は、外国に赴かれる前、麹町の邸で歌会を催されたが、若かつた自分も、その席末に列したことが数回あつた。
文麿君とは、不思議な初対面の思ひ出がある。或る年の夏、箱根からの帰さの二等車で、自分の前に、学習院の制服を着た二人の少年が坐つた。湯本土産であらう、木で作つてのびちぢみする玩具の蛇を頻りに動かしてをる。自分の方へも突きつけるやうにする。自分は蛇を好かぬので、気になつて仕方がない。そこで、「さういふものは、嫌ふ人もあるから、他人の前であまりいぢるのはやめられたらば」といつた。すると、いかにも素直にやめられた。翌年の春、弘田博士と飛鳥山に花見にいつた時、博士は「鳥渡(ちよつと)失敬する」といつて、彼方の花蔭に立つてをる学習院の生徒の前に行き、何か話して此方に来られた。ふと見ると、確かに去年汽車で乗り合せた、あの玩具の蛇の少年である。問ふと、近衛公の令息との答へであつた。文麿君であつたのである。
二十余年の後、自分は近衛家の蔵書から二度の学恩を受けた。その一は、万葉の古文献を諸家に請うて熱心に捜査してゐた頃、社友の津軽照子夫人の紹介で、下落合なる近衛家を訪ひ、公夫妻に会つて来意を述べた。公は快く、執事を呼んで、数種の古写本や手鑑を、蔵から取り出してくれられた。それら貴重なものを見終つて、この他にも何か断簡のやうなものでもと問うたに、公は、執事に「あの、『虫喰(むしくひ)の歌書』といふ大きな箱を持つて来るやうに」といはれる。二人がかりで持つて来た箱の蓋を開けて見ると、如何にも虫喰の本や、ばらばらになつた断片ばかりである。「ゆつくりお調べなさい」というて公が引取られた後、執事と一緒にテーブルの上に次々に展げてゆくと、テーブルかけが埃をまき散らしたやうになつた。しかも、その底の方から出て来た一つの巻物を見て、驚いて目を見張つた。それには「万葉集目録」とある。其の名は知つてをるが、散逸した古書である。しかし、自分が記憶してをる、あの古書に引用された万葉集目録ではないやうであるが、同じく平安末期に作られた一種の万葉目録である。驚き喜んで、心しづかに巻末まで見終つた後、その旨を執事にいふと、公も出て来られた。その稀覯書であることを述べて、大学の国語研究室に借用し影写したいからというたところ、快諾せられた。
その二といふべきは、大正十二年の大震災後、近衛家では、蔵書の大部分を京大の図書館に寄託された。公は京大の出身であり、火災等の恐れの多い東京に置くよりはとの考からである。その後間もなく、自分は京都に赴いて、内藤湖南博士からその事を聞いた。直ちに京大に赴いて新村図書館長に閲覧を請ひ、全部を披見することが出来た。その時見出でて驚歎したのが、「琴歌譜」一巻である。後に精査すると、記紀万葉に無い古歌謡十三首が入つてをつた。それを初めて見ることを得た喜びは元暦校本万葉十四帖本を初めて見た日と共に、自分の生涯の「生ける験」ある日であつた。その外に古歌謡集があつて、承徳年間に書かれた本であるから、「承徳本古謡集」と名づけたが、其の中にも未知の古歌謡数篇があつた。
ある時、麻布の鶴見祐輔氏より、近衛公を招くから、とて陪賓によばれた。其の日、公は、京都の御室にある所有地に文庫を建てたい、といふことを語られた。それが今の陽明文庫である。
自分は、政治については全く疎い。公は賢明な政治家でありながら、性格的に弱いところがあられたのであらう。その晩年は、公のために惜しむべく、わが国のためには、実に、実に遺憾なことであつた。
附記 篤麿公には、上に記したごとく、麹町の邸に参上すると、若い方々四五人で、自分たちが月一回集まるこの会では特に勝手なことを詠んで評をする。よむやうにと結び字題を与へられた。評の時は、若いにまかせて勝手なことをいふと笑はれたり、時にほめてもくださつた。朝命でやがて欧州へ赴かねばならぬからと会の中止になつたことは残懐であつた。数十年後のこと、古書肆で短冊を見た中に「篤麿」といふのがある。喜んで購うて来て、ある日、好事家数人のつどひに持参すると、中の一人が笑ひ出して、「浄瑠璃坂ものだね」といはれる。聞くと、他のにせがきはよいのを傍らにおいて真似するに、牛込浄瑠璃坂のある男は自分勝手にかくから、似も何もせぬ、と笑はれたので残念であつた。後、桑名の竹内文平氏から散らしがきの懐紙一幅を、これはしかじかの由緒のあるものというて譲られ、喜び蔵してをつた。その後、徳川公の令嬢が詠草を持つて来られたので、祖母君は近衛篤麿公のはらからであられると聞いて、一見を請うた。然るに、祖母君はそれを文麿公に示されたところ、当時、総理大臣の劇職にをられたのであるが、「霞山公真蹟 不肖児文麿敬観」といふ数文字を紙に書いて、返してくださつたので、幅に副へて秘蔵してをる。
尾崎行雄
咢堂尾崎行雄大人とは、原田嘉朝翁のもとで逢つて歌がたりをしたのが縁となり、折々に作歌を示され、品川の家にも招かれて、夫人や令嬢とも歌がたりをした。
後、与謝野晶子女史にも就かれたが、女史は自らの風に直され、自分はその気象をよくあらはすやうにと改めたのであつた。大正六年一月、心の花附録「竹柏園百人一首」に掲げた歌、
オータールーにて
秋の風大野を吹きてますらをの涙のあとに芥子(けし)の花さく
といふ歌は、同人の間にもてはやされた。
予が喜寿の賀の時の作、
歌をもて天地動かさむ力もたずたゞに擲つ喜寿いはふ筆を
は短冊の文字も雄勁であつた。短冊凌寒帖に掲げてある。
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