白岩龍平
明治三十六年の秋、子雲(しうん)白岩龍平(りゆうへい)君が、芝南佐久間町の定宿(じやうやど)なる信濃屋に来られたと聞いて訪問したに、つや子夫人もをられた。君曰く、「年来の希望であつた湖南への航路が開かれて、湖南汽船会社で、沅江丸、湘江丸を注文したところ、湘江丸が長崎造船所を来月出航することになつた。逓信省から永滝氏が初航海に視察かたがた行かれ、わが会社では白岩、大阪商船では堀上海支店長が同行する。初航海に一緒に行かれてはと頻りにすすめられ、あとから是非来るやうにといはれた。自分は、生来船に弱いため、海外への旅行は望みを断(た)つてをつたのであるが、南清にはいつて見たいと思つてゐた。それは、和歌の歴史的研究にこの数年ひたすら没頭してをつたにつけて、わが国の文運に最も感化を与へた南清(なんしん)地方を一見したいとの考があつたからである。
かくて自分は、信濃丸で上海の碼頭(はとば)に着き、迎へられて兆豊路の邸に至り、自分の部屋にと定めておかれた楼上の一室にゆくと、古い聯(れん)などがかけてあつた。
湘江丸は船底の浅い船とて、初冬の海の上海には来られない。間にあはないので、漢口までは大東汽船会社の船でゆき、漢口からは民船(んせん)を傭ひ、洞庭を横ぎり、長沙湘潭まで至り、帰途は子雲君らに別れ、通訳にとつけられた井上良平君と二人で、三峡の下峡までいたり、南京・錦江・揚州を巡つて上海に帰つたのであつた。この漫遊は、自分によつては記念すべき旅行であり、それは子雲君の厚意によるものであつた。《注:「自分によつては」は底本のまま。》
後、歌の門人となられた加藤正義翁の発起で、子雲君、田辺碧堂君、藤島範平博士等と、洞庭を越えた人々の記念といふ意味で、洞庭会の雅会の催されたのもなつかしい思ひ出である。
生涯を中国と日本との結合に全心全力を注がれた子雲君が、今の時代に居られたならばと、我が国の為にも惜しまれる。つや子夫人が、夫君の思ひ出の記を、その第三歌集「芙蓉」とともに出版されるので一閲した。中に、子雲君の面目躍如たる逸話が多くしるされてゐるが、ここにその一節を抄出する。
「西園寺公が中国においでになつた時、それは湖南汽船会社創立の頃であつた。湖南の道台(だうだい)に逢つて、公が、『白岩といふ悪者(わるもの)がお国に参りまして、何かするさうでございますから、御気をおつけなさい』といはれた。通訳は当(たう)の白岩である。すまあして其の通訳をした。『白岩といふ心から日支親善を願ふ人間がお国に参りまして、何かいたしますさうですから、宜敷く御願ひいたします』と。席に列つてゐた第三者が、そのことを後に公に告げた。その気転と、人を食つた大胆とを愛されて、一生を通じて御懇意を賜はつた。また白岩の方(はう)では、公がきはどい処で人をおためしになる御(ご)気性を喜んで、生涯尊敬してゐたのである。」《注:「すまあして」は底本のまま。》
附記 つや子夫人は、岡山に近い有名な閑谷黌の西薇山先生の長女、夙く竹柏会に入り歌文にすぐれ、歌集「采風」「白揚」「芙蓉」「芙蓉第二集」があるが、昭和三十四年の七月に世を去られた。
根津一
白岩君は上海の郊外なる東亜同文書院の出身であるので、自分が上海に上陸して白岩君の邸におちついた次の日の夕食に、院長根津一(はじめ)氏を招かれた。院長は、対支経営家として功労多いすぐれた人であるが、酒がすきで頻りにのまれる。白岩君は全くのまず、自分も数盃で満足であるに、院長はうなづくやうな風に眠られる。二人で何か話してをると、目をさまして、「白岩君どこまで話したね」と問はれること数回。帰られた後、酔ふといつでもあれだから謹聴してゐねばならぬと、白岩君は笑つてをられた。
院長が諄々として語りつぐ東方経営策に耳傾け聴く
その翌々日、桃花の時期ではないが竜華(ロンホア)へ行く途上、高昌廟(カオチャンミヤオ)なる同文書院を訪うて、院長の案内で、教室や図書室を見めぐつたことであつた。
趙爾巽
洞庭を越え湘江を遡つて長沙に着いたが、趙巡撫に面会の日取の都合で、さらに湘潭に遡つた。
京都と大阪といふやうに、一は湖南一の都会、一は商業地であるが、ここで逢はうと思つた文廷式翰林は故郷なる萍郷に赴いて病を養うてをられるとのことで、めづらしく小雨のふる一夜を旅宿にやどつた。巡撫から明後日の午前逢ふとの電報が来たので、特に砲艇(ガンボート)に乗つて下江した。
艇長は大尉で、白岩君に名刺を出して頻に何か頼むやうに話す。それは、巡撫に逢はれたらば、いろいろ世話になつたと話してくれとの頼みであるとのこと。この国は広いが四百余州知らぬ処はないとの話。それでは旅行中の珍談をききたいといふと、甲の山で虎に遭つたこと、乙の地で温泉に入浴したことを誇らしげに語つた。白岩君は、長恨歌にあるやうに温泉は此の国では珍しいからというてをられた。
翌日、巡撫の邸に赴くと、
衛門入れば水烟管(すゐえん)を手に語り居し兵ら立ちあがりささげ銃する
ささげ銃をされたことは、自分の生涯に唯一度のことである。
立派な絨毯敷の広間、早速三鞭があけられる。
三鞭(シャンペン)の盞(さかづき)あぐる卓のもと一株(もと)の蘭かをりめでたし
白岩君と堀君は、近く来るべき湘江丸また沅江丸についての、事務上のこみ入つた話のやうである。
自分は歌集「思草」を出して学海居士の序、寧斎君の詩を示すと、次韻の詩は考へてからお送りするとて、一句のみを示された。
晁卿(チャオシャン)の昔を今をかたらへば筆とりて示す「風狂浪急呼同舟」
待たせた輿に乗つて、城外河畔の民船に帰りつくと、すぐ使が来て、答礼に巡撫が伺ふとのこと。ここは民船で、お迎へする室もないからと断る。また使が来て、供ぞろひがすんで玄関に出られたとの事、更に断ると、やがて来た使は、白岩君らにはそれぞれの品、自分には湖南通誌百六十巻を贈られた。
追記 趙巡撫は、後に奉天将軍になられた。
葉徳輝
葉徳輝郷紳は湖南の学者で、曽国藩を祀つた廟の入口の左側の清楚な邸である。
自分らを待ちうける料に、数幅の書画のかけてある書斎の棚には、香木の函や、紫檀の板を上下にあて、紐でゆはへた古典籍の類が実に美しくおいてある。主人は自ら紐をといて示される。杜子美の集を開いて、やはらかな低い声でうたはれる。その調べが実にうつくしかつた。折々にひもといて口ずさんでをるが、やはり李杜の詩にまさるものはないといはれ、又、古書の校合等に日を送つてをるので、中々暇がない。それで、近くお祀りしてある曽文正公も守つてゐて下さることと思ふ、など話された。
苑(その)旧(ふ)りて蝋梅の枝(えだ)花まばらに書斎の書(ふみ)のうづだかく浄(きよ)し
あるじは起居(たちゐ)ゐややかなり香木の函ゆとうで示す唐人の筆
芭蕉葉の風やはらかう窓に入る古き香に心ひたりてあれば
杜甫の集ひらき示して声低くかつ吟じかつ語らふ主人(あるじ)
翌日、趙巡撫と葉郷紳から、思草題詩の次韻の詩を贈られた。心の花第八巻{明治三十七年一号}に掲げてある。
水野梅暁
湘潭から長沙へ帰つた夜、水野梅暁師の来訪をうけた。師は長沙の開福寺にあつて湖南の仏教について研究してをられるとのこと。湖南人は長髪賊の跋扈した以来、幕末前の薩摩人のごとく、外人の来るを厭ふ習はしであるから、貴下ら三人を加へても、長沙に来た日本人の数はまだ百人に充たないなどいはれた。自分は、紙片に記して示した。《注:「跋扈した以来」は底本のまま。》
東亜は支那の前途(ゆくて)はと燭の火をまもりつつ語るわが日本僧
眉をあげて国を憂ふるものがたり夜風はげしう船窓をうつ
師は三十八年六月、笠原芳圃、筏喩仁超、道香宗教の三老師を同伴帰国されたが、偕楽園における子雲君の招宴に自分も招かれて出席、曽遊を偲んで詩歌を唱和した。ついで、竹柏会の集会において「清国湖南の仏教」といふ題目で話された長い談話は、心の花八月号十月号に分載してある。仏教史の上に貴重な参考資料となるものと思ふ。
附記 後、廿数年、東京会館で九條武子夫人の追悼会のあつた夜、ゆくりなく隣席して久闊を叙した。また、己丑の新春、凌寒荘を訪はれて、洞庭をわたつた夜の力作を凌寒帖に書いてくれられたことである。
釈宗演
その著作は夙くから読み、書かれた書画にも親しんでをつたのであるが、初めて宗演(そうえん)老師に逢つたのは、原氏の三渓園内なる寒月庵に於いてであつた。吾が仏尊しならぬ吾が道尊しと思ふ自分は、初対面の老師に向つて、歌をすすめ、「古くは桑門に歌人が多かつたが、明治以後は、行誡上人唯一人であるから」など語つたに、「詩は絶えず作つてをるが、歌は」と云ひつつ、ややしばらく考へられて後、「心よりやがて心に伝ふればさく花となり鳴く鳥となる」といふ一首を示された。
この一日の雅談が縁となつて、老師は「楞伽窟(りようがくつ)歌集」一巻を世にのこされたのであつた。
月ごとに上京され、浅草と本郷との寺院に宿られたが、歌稿をたづさへてよく訪はれた。法衣の下には、いつも茶の無地の着物を着てをられた。「法を説くために東西南北を行き巡つてをる上に、車の中でも客舎でも訪ふ人の多いため、静かに詩歌を思ふ時の少いのは遺憾におもひます」と屡々いはれた。自分は、清い渓間から清い水の湧くごとく、老師の清い胸から清い歌が生れるやうにと希つたことであつた。
香川景樹は、誠拙和尚に歌を導き、和尚から禅を学んだといふ。自分も初めはさういふ心もあつたが、老師の示される歌稿を評することに時を費しがちであつた。しかし時々の短い詞の中に、長く胸に残つてをる詞が少くない。
ある年の秋、鎌倉に赴いたをり、東慶寺へと志した。さきに間島弟彦氏のもとに立ち寄つたので、すでに夕暮に近かつた。石段の下から見あげると、藁ぶきの山門のところに、しやがんでをる人がある。夕方ではあり、近眼の自分は、あがつていつて、それが老師であると知つた。秋の夕暮は老師も寂しいのであらうか、何を観じてをられたのかと思ひつつ、導かれるままに室内に入り、梁塵秘抄の法文歌、西行や慈鎮和尚の歌にこもる仏道の心を問ひなどして時を移し、若い僧の提灯のあかりに送られて、北鎌倉の駅から乗車したことであつた。
ある日、三渓園を訪うたに、主人は、「老師が病んでをられるので、見舞にささげようと羽布団を作らせ、今持つてゆくところ」とのこと、自分も自動車に同乗していつた。老師は床にをられたが、幸に今日は朝から心地がよいから、と言うて、古詩の話など語り交されるのを、傍で聞いてをつた。
老師まづ逝かれ、三渓大人も世を去られた。まことに夢の世である。
原三渓
田中親美君が、「横浜なる三渓園の主人原富太郎氏は、藍紙(らんし)万葉を所蔵してをられる、自分は明後日ゆくから」と誘はれた。わが国有数の古書画の愛蔵家であることはかねて聞き知つてをつたので、喜んで同行した。
園内に入ると、真向ひの高い丘陵、蓮の浮葉に満ちた広い池、芝生のあなたの根岸の入海が、まづ美しく目に映つた。玄関の左の廊下の壁には、観山画伯の「嗣信最期」の大きな図がかけてあつた。
談話室に於ける主客三人の間に雅談が続いた。まづとうでられたのは藍紙本万葉集二巻の巻子本である。まほるがごとく喜び見つつあつたに、主人は、「実は今日は妹なる古郷(ふるがう)の妻の法事の日とて失礼する、すべては村田老人にいつておくから」とのことであつた。
村山直吉翁に案内されて園内を巡り見、その規模の大いなると、衆と偕に楽しまうとされることとに感じつつ、坂路を登つて山上の松風閣に入り、根岸の入江を一目に見おろす奥の室に通された。原家の蒐蔵のすべてを熟知してをられる田中君は、あれをこれをといはれる。それぞれ取出された古い巻子本に、冊子に、古画の幅に、眼福のあまりにも大いなるに感激した。中にも、藍紙万葉と共に、田中光顕翁から譲られたといふ高野切の秋上の巻、さては、「重之の子の僧の集なり」といふ奥書のある針切、白描の画の入つてをる浮舟の巻、有名なる孔雀明王の大幅、玄奘三蔵の像等、永く忘られがたい一日であつた。
この一日が機縁となつて、一面に漢詩人である主人も、後に、歌集「青琅玕」をのこされるやうになり、安子夫人も、長男の善一郎君も、長女の春子さんも同人となられた。
主人は客を喜ばれるので、その紹介で多くの好知己を得た。宗演老師とは園内の寒月庵で初めて語り合つた。間島弟彦氏が同人になられたのも、夏の夜を庭前の篝火のもとで歌論を闘はしたのがもとであつた。安田靭彦画伯とも主客三人で鎌倉の海浜ホテルに赴き、画題としての人麿、実朝などに就いて語りあうた。前田青邨画伯は主人と同じく美濃の人であるので、原家に宿つて制作してをられた頃、かの「神輿振(みこしぶり)」の成るのを見ることを得た。又ある時は、観山画伯と共に、筝曲の名人越野栄松師の筝曲を聴いた。その時、画伯は写生をしてをられたが、それが名作「弱法師(よろばふし)」の屏風の粉本となつたのであつた。かの山上の松風閣の書斎には、タゴール翁が滞在してをられた。招かれて自分も晩餐の卓を共にした。帰欧せられるチェンバレン先生を案内して、上田万年博士と三人で、同じく松風閣に半日の客となつた。先生は屏風が浦の風景を嘆賞せられると、主人は、米人フリヤー氏が、ミシシッピー・アベイに似てゐると語つたことなどをいひ出られた。
三渓園について二つの思ひ出がある。それは、かの徒然草なる自讃ものがたりに似てをるが、書きとめておく。
或る夏の夜、語りふかして一泊した翌朝、未明に、主人と二人、広い蓮池のほとりなるベンチに腰かけてをると、黎明の良風に、蓮の香は清くただよつてをつた。自分は、「この園内には、河内の観心寺にあつた楠公社も奉祀されてをる。グランド将軍が本邦に来訪された際に昼餉をものされたといふ待春軒も移されてをる。松が岡の東慶寺の本堂も建つてをる。出来るならば、あの丘の上に、三重か五重の塔があつたならば」といつて指ざしたに、主人は微笑みつつ、「古い塔などは、得たいと思つても得られるものではないから」と言つてをられた。しかるに一二年の後、山城加茂村の灯明寺の境内にあつた室町時代の三重の宝塔を移し、修補成つて、今日の国宝となつてゐる塔が建つた。自分が預言をしたかのやうな心おごりがせられた。塔を仰いだ折の数首の作がある。中に、
むらさきに海けぶらひて丘の上(へ)の塔の片おも夕明りせり
今一つは、長男善一郎君の結婚のことほぎに訪問した日のこと、挙式の当日の一室の床に掛けようと購はれたといふ烏丸光広(からすまるみつひろ)の掛物を示された。それは、聚楽第行幸の供奉(ぐぶ)の時の歌で、晩年の筆づかひもうるはしく、料紙また古雅な幅である。「この幅について、数日前、あれは時代がちがふ、つくり物であるといふ蔭口を伝へ聞いた、筆跡は光広であると確信してをるのであるが」とのこと。自分は「群書類従があつたならば」と云つたに、「近い頃、新刷の木版本を渋沢さんからお頼まれして購つたから」との話で、「それでは豊鑑を見たい」と云うたに、暫しあつて家人が持つて来た。自分はまづ下の巻をあけると、恰もそこに、光広のその歌が出てをる。めでたい折の供奉の作ゆゑ、若冠の時に詠んだのを、晩年に書いたものと思ふ」と云つたに、主人はいたく喜ばれた。これではわれぼめの記事であると、地下の主人は微苦笑してをられることであらう。《注:思ふ」に対する「は底本にない。》
附記 近く三渓園なる蓮池の附近に、三渓翁の記念碑が建つので、その副碑の文をと委嘱された。字数に限があるので、思ふ半をも記しえなかつた。しかし、園内に文詞をとどめることはこよなき喜びである。(昭和三十五年五月)
コメント