タゴール
{大正丙辰六月、印度より来日せるタゴール詩宗に、横浜三渓園に逢ふことを得、「タゴール翁の印象」として、雑誌「太陽」に次の文詞を寄稿せり。ゆゑに、本文は文語体なり。}
富士の勝景三十六をゑがかむとて、ここかしこを探りし広重は、海士が家ちらばりて、烟三五たちのぼれる横浜村を過ぎ、本牧の岬なる三の谷に来りぬ。絶壁の上なる数十株の古松、その真下よりひろごれる紺碧の入海、遊べるやうなる白帆、海をちの金沢わたりの崎々、西の方屏風が浦より続きたる根岸、杉田の村々、そを裾として空に浮べる富士の姿、この美しき景色は、彼をして立ちとまらしめぬ。彼は菅笠を敷きて、腰なる矢立の筆をとうで、その美しき景色を画帖に収めたりき。
この本牧三の谷の地は、今は三渓園として原氏の邸となり、公衆の遊覧を縦にせしむ。門を入りて広き池あり。池には蓮を植う。池をめぐりて道あり。梅桜を植ゑ、また、秋草を植う。道は渓流に沿うてゆるやかにのぼり、松青き山上に導く。山上、海に臨みては松風閣あり。閣にむかひては、山城笠置のほとりより移し来れる三重の古塔そびえたてり。
大正五年六月、東京帝国大学の講演を終へて横浜に来れる印度の詩宗タゴール翁は、原家の客となりて、この松風閣にあり。おのれ原氏の紹介により、日本の一歌人として翁に逢ふべく、この園を音づれしは十九日の夕べなりき。池畔にいたれば、恰も山をおりて散策せむとする翁が、秘書の一人なるビヤソン氏、原氏、及び通訳の労をとらるる矢代幸雄氏等と共に来るに逢ひぬ。丈高き姿、濃き茶色の帽(トウビ)、半白の髪、天地万物を見とほさんとする鋭さにそへて、無限の愛をたたふる眼、長き髭、光ある鼠色の表衣(ジヨツパ)、褐色の履など、遠き国よりはるばる来れる高士の風丯は、瞬間に我が目に入りぬ。黙礼すれば、稍々頭を傾けて、合掌の礼をかへす。同じく東洋に生れ、同じく詩歌の国に住める一人として、今日の会見を喜ぶよしを述べ、共に池畔を歩む。
風につれて薫りくる佳き香は、岸なる睡蓮のなりき。梅雨晴の空の薄ら曇りたるもとに、半ば眠れる花を指ざしつつ、かの国の夜さく睡蓮の花に就いて語り、更に池の半をおほへる蓮のやがて咲くべきを眺めやりて、わが郷国は蓮花の国と低く語る。清らなる声音(こわね)、夢の国の声かときこゆ。
彼方の田の面に早苗を植うるを見て、こは古き日本の歌人にうたはれつる題目なりといへば、翁は稲と蓮のある処、そこに仏教はあり、日本亦さなり、この二つは日本にも仏教のもたらししにはあらじか、といふ。或は印度より伝はりこしならむも、蓮の花は五世紀の歌にうたはれ、稲は太古よりありといへば、さなりやと軽く答ふ。をりから秘書の一人なるアンドリウス氏と、若きベンガル人ムクウル・チャンドラデイ氏とは、横浜の市街より帰り来て、一行に加はりぬ。そのもて来し活花のこと記せる英書をひらきつつ、可憐なる花よ、かく可憐なる花、或はいとけなき子らに眼をそそぐは大いなる人なり、小さなる人は、大いなる建築などにのみ眼をそそぐ、といふ。池に添うて橋を渡り、中島をゆくに、園に遊べる人ら、詩宗の一行と見知りて、歩を留むる者すくなからず。葵咲き百合咲ける道を過ぎて、茶室寒月庵に入る。茶道の簡素なる趣味を喜び、銅鑼の音を聴きては、万有に通ずる阿吽の響ありと喜び、洪岳老師の筆に成れる額の文字の「帰雲」の意を聞きて喜ぶ。
鎌倉松が岡より移せる東慶寺の本堂の前に立ちて、主人、昔邪慳の夫に配せし女人の遁れ来てここに入り、三年仏事を修行して緑を断つを得る習なりしといふ、此の尼寺のことに就いて語れば、翁はうなづきて、印度にも相似たる数々の物語ありといふ。をぐらき堂内に入り、陳列せられたる支那発掘の美術品の数々に対し、黙々として思ひに耽るが如くなりし翁の面には、そこを出でて夕映うつくしき北方の山を仰ぎ見し時、ほほゑみの浮ぶを見つ。木立しげき坂路を登りて、山上の塔のもとにたたずみ、松風閣に入らむとすれば、翁は、彼方の空ににほへる富士を認めて、かそけき色なるかな、黄金色の夢のごとき霊の山よと、殆ど忘我の境に入れるが如し。
観山画伯の壁画――正面に、また側面に花鳥の画――のある食堂に入る。その数時間こそ、ことに印象ふかきものなりしか。
「松の風しみ入りて吾が胸をあふり、鳥のごとく海上に詩の思をまきちらす」とは、翁が松風閣上なる書斎の眺めの美しさをたたへて語れる詞なりき。ついで、「山の線、海の色、微風、この自然の美にそへて、主人が作になれる詩の園よ」とは、この園をたたへたる語なりき。
談は、詩に、音楽に、美術に、教育にうつりぬ。英訳の詩集の近く公刊せらるるものありやと問へば、さなり、此の秋ロンドンにて出だすべしといふ。ここに来りて詩作ありやといへば、米国に於ける講演の準備にいそがはしくて、未だしといふ。そをとく終へて、吾が国の為に美しき文字をのこされまほしといふに、ほほゑみてうなづく。主人、いつ頃まで留まりいますや、と問へば、七月には海のあなたに去らざるべからずと答ふ。いかでなほ長くといへば、忝しといひて更に語をつぎ、許さるべくは、この山上の門をとざし、樹間にやどる鳥となりてとこしへに歌はむといふ。そは智度論なる迦陵頻伽のたぐひならむといへば、さばかり美しき声はなくとも、と答ふ。
能楽はいかに感ぜられしといふに、山姥に就いて、語りかつ問ひ、また、宴会の席に見つる愛らしき少女の舞踊の、運動のやはらかさをたたふ。日本の歌につきて問へば、いまだ読み味(あぢは)はずといひ、予がもたらしし王堂先生訳の「日本上代の詩歌」を喜びうけて、詩歌の訳のかたきこと、サンスクリットに四行の短詩のあることなどを語る。
別室なる大観画伯の五柳先生の屏風の前にて、さらに語りつづく。日本にては、目の芸術の方、耳の芸術にまさりて発達せるやうにおぼゆなど語り、風景談にうつりては、吾が本国には、平原の茫漠たるのみありて、川あれど徒らに大きく、山は木少く、土赤う乾けり。それとはうらうへに、いたるところ緑の木立茂り、丘陵起伏して、山まろく水清きこの国の景色の美しさよ。かかる自然につつまれて、美しき詩成り、美しき絵成る国こそ羨しけれといふ。更にわが国の文明に就いては、物質の文明に酔ひて本来の国粋を忘れざらむことこそ願はしけれ、といふ。
をりから、海より吹き来し夜風あらあらしと見るや、ゆくりなく電灯は消えて、室内暗黒となりぬ。この時、燭台のもたらされしを見て、古き日本の霊いでて、新しき文明をけしつ、と翁は叫びぬ。かの「暗室の王」の作者のほがらかなる其の声音(こわね)こそ忘られね。
またたける灯影(ほかげ)のもとに、語ることなほ少時、復活せる新しき光におくられて、ねもころに、別を告げぬ。
天平の古へ、波羅門僧正、寧楽の京に来たりて、東大寺大仏開眼の導師となりぬ。この僧正の名は、万葉集の歌にもうたはれたり。それより千余年を経て、今日翁を迎へたる吾が国の思想、吾が国の文学に、翁は、いかなるものを贈らむとかする。そはとまれ、親しく数時間を語りあひて、この遠来の詩人に就いて得つるわが印象――おだしく、はた、けだかき風丯、美しく、また清らけき声音(こわね)、しかして、その理想と憧憬とにみてる感情のひらめき、これらの印象は、わが胸に鮮かなり。
バチェラー
ジョン・バチェラー博士の名と業績とは、チェンバレン先生から聞いてをつたが、はじめて会つたのは、自分が改造社の夏期大学の講演を委嘱せられて、札幌に行つた昭和二年の夏であつた。
門に二もとの柳のある、物静かな学者らしい家で、訪問をよろこび迎へられた老博士は、その書斎に導いて、多年のアイヌ研究の草稿を示され、また老夫人をも紹介された。博士の養女であるバチェラー八重子さんが歌を嗜まれるといふ話は、金田一京助君から聴いてをつたが、地方へ伝道に行つた留守とのことで会ふことが出来なかつた。(しかし、この日の訪問が縁となつて、アイヌ婦人の最初の歌集「若き同族(ウタリ)に」が竹柏会から出版されることとなつた。)
のち、上京された博士が西片町を訪はれたので、自分は、伊能忠敬自筆の蝦夷対地図、足代先生の同門とて亡父と親しかつた蝦夷探険家松浦武四郎の短冊、堀田正敦の蝦夷紀行、児山紀成自筆の蝦夷日記、山本蘭亭の蝦夷国風図絵などをとうでて示した。《注:「蝦夷対地図」は底本のまま。》
そのをり、座右にあつた短冊に一筆を求めたに、詩句をしたためられた後、「印肉を」と、いはれる。不思議に思つたが差しだすと、ポケットから、十字架を中心にして「ばちらのいん」とある小さい印を出して捺された。
その詩は、かのギリシャの上代の女流詩人の句である。
汝の能ふかぎりの善をなせ
汝の能ふかぎりの多くの人々のために
汝の能ふかぎりの方法において
サッフォー
なほ、チェンバレン先生の追悼号に寄稿を請うたに、書簡を寄せられた。それは、「王堂チェンバレン先生」の中に掲げてある。
トラウツ
トラウツ君は、歌は詠まれなかつたが、俳句にくはしく、上京するごとに訪はれたので親しくなつた。昭和八年の五月、京都にいつた時、九條山なる君の家を訪うた。君は、日本語がたくみであり、日本の「名所」といふことに深い興味を持つて、東海道五十三次を、バスやら徒歩やらで、上京されたこともあるといふ数寄者であつた。
約束の時間にゆくと、門前に待つてをられて、「先生ようこそ」と手を出された。(いつもは互に頭をさげるのみであつた。)自分も手を出すと、しつかと握られた。君は第一次世界戦争に出られた勇士自分は筆の外に重いものをもたぬやうな者なので、いたいのに驚いた。君は門の標札を指ざして、「これ御覧ください」。見ると、「都良宇津」と墨でかいてある。「わたくし、名所すき、京都の都、奈良の良、宇治の宇、大津の津とかきました」といはれる。手のいたさも忘れて、ながめ入つた。
その翌日、自分のやどつてをる京都ホテルに、夫妻で来られた。君は芭蕉の「幻住庵の記」を独訳して、さきに東京へ持つて来てくれられたが、その石山の幻住庵を、君に案内してもらつて、一緒に訪ふべく、富岡とし子刀自と、折から訪問された大阪の円珠庵の庵主と五人でいつた。
車中、いろいろの話をした。外人で東京大学を卒業して文学士となつたのは、露国人で俳句をも嗜んだエリセーフ君、次に米国人で劇を研究したアーネル君である。芳賀教授がある日帝劇に行かれたに、幕あひに、帝劇に関係してをるアーネル君の案内で、初めて楽屋にいつてみたと云うて笑つてをられたが、今日は独逸人のあなたがたに案内されて、石山に行くことと笑つた。
自動車をおりて山路に入ると、躑躅が咲いてをり、木群にさす初夏の日ざしもやはらかく、松蟬が鳴いてをる。まづ、物さびた八幡宮に詣で、西行上人にならつて、やがて出でじと結んだ庵の趾、自ら炊ぐとて汲んだ谷の清水の今は絶々になつてをるのにも心がとまつた。鳥居の側で、トラウツ夫人は写真をうつしてくれられた。トラウツ君は、持つて来た幻住庵記をひらいて、この文を読んでくれといはれる。椎の木のもとによつて、「石山の奥、岩間の後に山あり……」と長い文を読み終つた。君は、ここの所が訳しにくかつたと指し示される。自分は、文中に引いてある杜甫の詩の岳陽楼に登つて洞庭湖をながめた時のことを話し、琵琶湖の遠望を共に楽しんだことであつた。
爾来多くの歳月が流れ、戦争中帰欧された君は、不幸遠逝されたと伝へきいて冥福を祈つてをる。
大橋新太郎
大橋佐平老と新太郎君とは越後から上京して、はじめ本郷弓町に、後、日本橋本町に住まれた。
憲法発布の日、両国の中村楼に多くの人々を招いて、博文館を世に知らしめる盛んな会が催され、父が頼まれて舞踊の歌詞をつくつた。当日父は行かず、自分が代つて行つた。どことなく和気がただよひ、にぎはしい日ながら、雨まじりの粉雪が折々ふつて寒い日であつた。終りぎはに、森(有礼)文相が暗殺されたといふ報が、どこからかきこえて来たので、人々は小声で、今日のこのめでたい日に、とささやきつつ帰つたことであつた。
佐平老は頑固な強い一方の人であつたが、新太郎君は文化人風のところがあつた。
或日訪問の際、父に千代田歌集、自分には日本文範の刊行を依嘱された。つづいて、自分の出した「歌の栞」は和歌百科全書ともいふべき風のものであるが、革綴の立派な装幀で、一冊一円何十銭といふ、当時としては高価な本であつたが、全国に広く流布した。{一六四頁参照}《注:石川啄木の項。》
落合君らの日本文学全書は、当時の国粋主義を反映して、大いに世に行はれたので、父と自分に、日本歌学全書十二冊を依嘱された。父は八篇の校正中に世を去つたので、九篇以下は自分がすべて校訂した。九・十・十一篇は万葉集であつたが、明治末年までに万葉集に関する唯一のものといふべく(大阪で同年に万葉集略解の出版はあつたが)、今日の万葉学の隆昌から考へれば夢のやうである。数年後に、続日本歌学全書を編纂した。当時として材料の蒐集に骨を折つた。
弟の省吾君が神田に書店東京堂をひらかれ、自分も数冊を印行したが、君は世を早くされた。近年「上代文学史」二巻を刊行した。
妹の時子さんは、竹柏園に歌を学ばれ、後、養子乙羽君を迎へられたことであつた。
岩波茂雄
昭和二年のはじめであつた。岩波君が訪問されて、今度自分のところから、岩波文庫といふのを出す。それはかやうかやうの主旨のもとにと、各冊の巻末にのせる文章を少しよまれ、それについて、まづ万葉集を出したい。万葉集は我が国の書物の中で、最も尊い書の一つであるから、是非第一巻にしたい。いついつまでに上巻の原稿をつくつてほしい、との意気込んだ話であつた。
自分は、万葉集の校訂といふやうなものは、そのやうにたやすく、いつまでにというて出来るものではない。しかし自分には、というて書斎にいつて部厚い原稿をもつて来て、これはよほど前から作らうとしてをる仮名まじりの万葉集である。一たん稿が成つたので、恩師木村正辞先生にこのやうに序文までかいていただいたが、なほかりそめに出すのはとためらうてをつた。さういふお話ならば、これから数ヶ月すべてのことを擲つて作成しませう、と約束をしたことであつた。
幸に、この新訓万葉集上下二巻は版を重ねたので、猶つぎつぎの研究によつて版を新たにしたが、昭和二十九年に改版した「新訂新訓万葉集」は、外見は少しも変らぬが、新たに所々を訂し、寛永本の丁数をも掲げた。
この新訓万葉集が世に行はれ、引きつづいて白文万葉集二巻、分類万葉集一巻をも世に出すことが出来たのであつた。
山本実彦
山本君の創意になる文学書の円本は世にあまねく行はれたが、なほ、その宣伝の一として、北海道に夏期大学の講義を、あちらの学校の夏の休暇中に催したく、これこれの人に依頼をしたので、是非いつてほしいとのこと。
自分は幼少の時、伊勢から三河に渡る小蒸気船で、はげしい暴風雨にあつたので、湖水とか、川の流の舟はよろこんで乗るが、動揺のはげしい海は、好まないやうになつた。それで、明治三十六年の南清旅行以外には、欧米に二回、台湾に三回、外遊をすすめられ、満州には満鉄から招待されたが、遺憾ながら皆断つた。しかし、北海道なら行つて見たいと承諾した。
札幌での講義を終へて、バチェラー博士を訪ひ、金田一君に伴はれて白老村にいたり、狩勝峠まで行つて、幸に、すくなからず歌嚢をみたし得たことは、山本君の勧誘の故と喜んでをる。
ある時、旗亭に少数の客を招かれた時、将来の希望はときかれたので、自分は二十一代集のつづきを編纂したいと思うてをる。しかしこれは自分の発意ではなく、わが父の歌道に対する熱意であつて師なる足代弘訓翁が三條実万公の知遇を得たことがあるので、明治十年代に父は三條太政大臣に上書して、御企画あらむことを請うたことがある。自分も父の遺志をついで、続古今集以後元禄までを一巻、宝永より明治初年までを一巻、明治時代を一巻としたいといふ希望をのべたことであつた。
爾来いくばくかの時を経て、山本君が来られ、先生の話されたのとは規模もちがひ、かつ現在を主とした新万葉集をつくりたいから選者の一人になつてほしいとのことで承諾した。やがて立派に出来たのが新万葉集十余巻である。(巻頭写真参照。)
山本君は戦争の終つた頃、熱海の来宮附近に家を借りてをられた。ある朝ふと道のべで逢つて話したのが、改造君(愛称)との長い別れであつた。
コメント