松浦武四郎

 十一歳で上京した明治十五年の春、父に伴はれて神田五軒町に松浦弘(ひろし)(武(たけ)四郎)翁を訪うた。翁は伊勢一志郡の人、ごく若い時足代先生の門に入られたとのことで、父は幕末に翁を知り、翁の有名な蝦夷日記の一冊に歌を題してもをる。折から病臥中であつたが枕もとにとほされ、父と昔話をされた後、「東京へくる途中、どんな歌をよんだか、これに」と手紙を出されたので四五首かくと、それを見てをられたが、「わしも歌は好(す)きぢや」というて、女中に北野天満宮のあの鏡の図を持つてこいというて示され、この北海道と樺太の図に、「いく年か思ひ深めし北の海みちびくまでになし得つるかな」と書いてほらせ、天満宮に奉納した。「わしは十六の時に伊勢を出て日本国中をまはり、北海道をあまねく探険し、いばらの中や、雪の上にも寝たりして、一生を北海道にささげたというてよい。人間は一つの事に一生を捧げるべきものだ。お前は一生を歌にささげるつもりで勉強せぬといかぬぞ。今日の詞をよくおぼえておけ」といはれた。又、部屋の隅にかけてある画の掛物を指ざされて、「あれはおれの涅槃の図ぢや。樹の下にわしが寝てをる。あのお公家さんは岩倉公ぢや、かはいがつた犬も猫もをるのぢや」といはれた。
  追記 後年、夏と秋と二回北海道に赴き、翁の足跡の地をふんで、翁を偲んだことであつた。

    御木本幸吉

 明治三十七年の冬、四日市に赴いて、いつものやうに川村又助君の家の客となつた。又助君は亡父の歌の門下の長老の一人、維新前後には、信州の伊那地方にをつて伊那神道をも学んだ精神家であつた。「今日は丁度よい、鳥羽から御木本翁が来られるから、松茂(まつも)で夕けを」と一緒にいつた。川村君は、自分は万古焼を生命とはげんでをるが、いくら売つても日本人の金子(かね)が日本人の手に入るのみ、外国へ輸出して外貨を獲得せねばならぬと常に輸出に志してゐる。しかし、万古焼ではいくらでもない。この御木本翁の養殖真珠の海外輸出は実に大々的である。まだ若い佐佐木君の為に真珠談をしてほしいと頼まれたので、翁は数十年の苦心談をきかせてくれられた。
 その一夜の物語がおもしろかつたので、翌年二月竹柏会の研究会に翁に来訪を請ひ、話をしてもらつた。何の道もその道における苦心談は通うてをるので、人々もいたく感じた。(その日の談話は心の花五月号にのつてゐる。)
 翌年四月、自分は山田の神宮文庫を調査した帰途、志摩の多徳島に赴いた。翁は不在中であつたが先年小松宮が御出でになり御手植になつた桜が初めて開いた時とて、英虞(あご)湾を舟こぎめぐらし、海士の作業をも見るを得、廿余首の歌を詠んだ。(その折の紀行は報知新聞におくり、歌は心の花に掲げた。文詞は乙竹岩造博士編纂の「伝記御木本幸吉」に掲げてある。)
 後、鳥羽に真珠島が出来た時、山田の酒井秀夫君と同行して海士と一緒に撮影したのを、心の花に掲げもし、宮島幹之助博士から築地の旗亭に翁と共に三四人で招かれ、翁の真珠談を更に詳しく聞いたこともあつた。

    中村健一郎

 中村健一郎君は、伊勢から上京して親戚なる橘さんの家にをられたので親しくなつた。独逸協会学校に入り卒業後間もなく陸軍から招聘されて法律の掛になられた。独逸学者としてしんのつよい人であつた。自分は英語のわからぬ時は小花清泉君に、独逸語や法律のわからぬ時は中村君を訪うて教を請うた。
 明治二十七八年の役が起つて、自分ら歌の道を歩んでをる者は、軍歌の作成といふことが、み国につくす真髄であると思うて、身もたな知らにつくしてをつた。
 然るに思ひかけきや、二十八年五月十日、三国干渉により、遼東還付に関する詔勅が下つた。終日悶々、夜に入つて新橋駅前の麻屋に赴いた。君が運輸に関する勤務で滞在中なるを訪うたのである。顔を見るや涙がはふれ落ちた。君は、此の時に際して止むを得ない理由を諄々と説いてくれられた。一二時間後、麻屋を出ると、新橋駅前の広場は現在のとは形がかはつて、広々としてゐたが、あたりに誰も人影なく、空には月が朧げである。じつと仰いでゐると、中村君がうしろから来て肩をたたいて、帰りたまへ、車を雇つてすぐ帰りたまへというてくれた。「空仰げば月曇らへり今宵のこの月の光の忘らるべしや」とはこの夜の真情が涙と共にはふれ落ちたのであつた。
 後、中村君は名古屋に赴き任官されたが、不幸世を早くせられた。

    児玉一造

 伊勢に行つた帰途、大阪の児玉君の邸に一夜の客となり、翌日の昼を、伊勢屋に伴なはれた。そのすつぽん料理は美味であつたが、食後、女主人が短冊を持つて来てたのむ。文字が拙いからとことわると、児玉君は、大谷光瑞師は、かういふ席では書かれぬのを、ここの女主人の請には応じられた、すつぽんの歌を是非、といはれる。児玉君は歌をよまれぬので、難題を出されたのである。すつぽんの歌ですか! と驚いたが、苦しい時には咄嗟(とつさ)に思ひ浮ぶもので、「夏は来(き)ぬ伊勢や難波と遊ぶ間に山ほととぎすつぼむ卯の花」と詠んだのをかいた。すつぽんといふ詞を、物名(もののな)にして「山ほととぎすつほむ(ヽヽヽヽ)卯の花」とし、若い時に作つた唱歌の「夏は来ぬ」を思ひうかべて初句におき、伊勢の旅の帰りであるから、古い歌謡の「伊勢や難波」を「伊勢屋」にいひかけたのであつた。――此の話には後日譚がある。九條武子夫人の追悼会が大阪の公会堂で催されたので、講演にいつたに、翌日、大谷家の人々から伊勢屋に招かれた。座敷に入ると、いつもの習ひで、まづ床の間の前にゆくと、短冊はさみの掛物に、「夏は来ぬ」の短冊がはさんであるのに驚いた。女主人が挨拶に出て来た時にいふと、お西様(にしさま)からお電話の時お正客はとお聞きしてかけましたとの答、その機智を感じたことであつた。
 児玉君は実業家で、明晰な人であつた。毎年一月は、鎌倉の海浜ホテルに夫妻で数日を宿られるので、自分もいつては語りあつた。不幸世を早くされて、米子未亡人は今も大阪にをられる。

    三村竹清

 竹清(ちくせい)三村清三郎君は、日本橋の竹問屋の家に生まれられたので、号を竹清(ちくせい)といはれた。江戸時代の雑(ざつ)学者といふやうに、何を聞いても知らぬといふ事がなかつた。自分たち数人で短冊会といふのを催して、一度は三越で展覧会を開いた。毎月の会には、短冊がすむと珍本や書簡類を見せあふ。西片町があつまりよいとの事、自分の家で毎月あつた。竹清君はおもな会員で、記憶がよく人の問にはすぐ答へられる。筆蹟や篆刻にも巧で、熱海海蔵寺なる坪内博士頌徳碑は金子博士の撰文、君の筆に成つたものである。晩年は、青山から疎開して湯河原にをられ、折々に訪ひ訪はれた。万葉公園の万葉橋起工式の日に逢つたのが、君との最後の面会であつた。

    枡富安左衛門

 峡涛(けふたう)枡富安左衛門君は、福岡県門司の旧家に生れ、早稲田大学にまなばれたが、明治三十六七年の交、韓国平野の沃野である事、農事の経営に資を投ずる時と場所である事を新聞に読んで心うごかされ、まづ土地に就いての研究を始められたに、たまたま日露の戦が起り、二等主計として出征し、親しく沃野を視る機会が与へられた。凱旋後、いよいよ着手せられる事になり、朝鮮の西南の海岸地方に広面積の[水田]を購ひ、明治四十一年、枡富農場を設立して、照子夫人も共に群山港に住まれたが、同四十二年、農村の中央である全羅北道金堤郡月鳳里に農場を移された。当時交通の便あしく、農事は幼稚なものであつたのを、種々奨励し指導され、また高敞郡吾山里に果樹園を興された。恰も日韓合併の時に当り、夫人の切なる祈が報いられて基督教に入り、基督の愛に依つて、日韓合併の実を野にあつてなすことを自らの使命とし、先づ教育の必要を感ずると共に、村人が向学の志の乏しきを悲しみ、今日の小学校なる普通学校と、中学校なる高等普通学校を興し、理想の村とすべく、あらゆる労苦を積まれた。内地に於いては旧家の一人子として生ひ立つたのであるが、好んでいばらの道を分けられた。林檎園に働く人々は、朝の鐘に始め、夕べの鐘に終へ、かのミレーの晩鐘を実現せむとしてをられた。併しこの吾山の地は他にゆづり、学校は財団法人として寄附せられた。《注:[水田]底本はタテに一字であるが、テキストに字体がなく、二字で示した。また「明治三十六七年の交」は底本のまま。(ころ)あるいは(あいだ)と読むのであろう。》
 爾来全精力を傾けて月鳳里の農場の事に当り、小作の人々が、神の愛に於いて内鮮融和するやうにと教会を建て、日夜心血をそそがれた。この金堤郡月村面月鳳里の地方は、三韓時代の都で名を馬韓といひ、百済時代には碧骨郡と称し、日本の援助のもとに唐を防いだ古戦場であり、新羅の朝に金堤と改めた。地勢自ら西に傾き、処々丘陵起伏してをるが、概ね平坦で、一望無涯、所謂全北平野の中心を為し、地味肥沃、農業に適し、金堤米の声価全鮮に冠する。水利組合の水源地碧骨堤(へきこつてい)は、新羅の朝に初めて築造して水利の便を計つたが、荒廃して高麗朝に修理したのを、李朝太宗王が一万人を徴して改修せしも終に廃し、更に昭和四年東津水利組合と成りて二万町歩を潤し、旱水害の憂を除かれたといふ。人口は、金堤邑は三万余、月村面は一万五千とのこと。
 以上は、予が盛夏を軽井沢にありし年、枡富氏の山荘を訪うた時、いつか時を得ば訪ひたいと記しつけたもののぬきがきである。
 夫人は、はやくから歌の教へ子であつたが、夫君は事業の為に朝鮮に多くをられたので、詠藻を郵送された。そのゆるやかに重々しい、静かなうちに力が籠つてゐて、滾々と尽きぬ泉を養うてゐる深い山を思はしめる人となりに感じて、韓国と宗教と詩歌とを三味一体にと語つたことであつた。
 昭和九年十一月、君は不幸世を去られたが、その遺歌抄は、翌年出版の「枡富安左衛門追想録」に掲げられてある。また、夫人は歌集「月鳳里の歌」「稔」につづき、「笛」「樫の木のもと」「凝祷」を著はされた。韓国から日本に留学してゐた孫戸妍嬢は夫人に歌を学び、歌集「戸妍歌集」、戦後、韓国の国花の名に負ふ「無窮花(むくげ)」を刊行した。

    阪本猷

 奈良から上市の阪本家へいつた自分は、猷(いう)君と千代子さん夫妻に導かれて、吉野の白雲荘に赴いた。父君仙次翁のをられる白雲荘は、吉野山のうちでも最も景勝の地、竹林院と谷一つを隔てて、院内の桜は真盛、入口なる石南花は半ば莟であつた。仙次翁と千代子さんは歌のをしへ子であるので、旅中の歌がたりをする。翁は、吉野に鉄道を敷かれた苦心談、猷君は、父君の事業を助けられた他に慶応在学中から好きであつた古書の話、欧米の旅がたりなど、楽しい夜がたりに夜は静かにふけた。
 翌朝、西行の苔清水へと、猷君夫妻は歩行、自分は駕籠、道も去りあへぬ花見人のうちには、夫妻に挨拶しつつ、「お駕籠はどなたで」と度々問はれるので、自分は面はゆかつた。苔清水は、廿余年前に訪うた時の前の谷の杉苗が丈高くなつて、眺望にはよくなかつた。帰さは塔尾御陵に詣で、いたる処満開の桜を見めで、白雲荘に暇を告げて、再び阪本家にいつた。楼上は看山臨水楼の名の如く、吉野川の清流に沿ひ、吉野及び川上の山々が一望のもとに見渡される。
 ここに目を見はつたのは、猷君の多年にわたる古書蒐集の逸品を見ることを得た眼福である。経巻写本、古刊本等々は、学問的価値の高いもの、君が古典に関する熱心と愛情の深さに驚いたことであつた。
  附記一 その後、仙次翁逝き、さらに不幸にも猷君が世を去られた。病中、千代子さんに、「文字は不朽である。わが龍門文庫の結集を大成して、わが生命を永久に伝へたい。自分は後嗣(あとつぎ)の子がないも、蒐集の善本を以て子孫に代へたい」といひのこされたので、爾来、千代子さんは専心努力され、龍門文庫善本書目が刊行されつづいて防火防湿の龍門文庫が成り、財団法人とされた。大和の南部に、かく新しい国宝的文庫を成就された千代子さんは、猷君が橡を愛して橡舎(とちのや)といはれたに因み、この十余年の間に、「橡の葉」「橡の葉蔭」、「橡のこのもと」の三歌集を世に公けにされた。
 なほ、書庫の完成は昭和三十三年十一月であつたが、同時に、邸内に、阪本家頌徳碑が建つた。それは自分の撰文にかかるものである。ここにその一節をかかげる。「名ぐはし吉野の山並を望み、真白玉たぎつ吉野川のほとりは、まことよき人をしのぶべきかな。……猷君は父翁の後を嗣ぎて、水力電気事業等に活躍し、山林の開発に関しては、植林に努め、立木法の制定を実現する等、力を尽くされ、また京都大学に山林約百町歩を奨学のため寄贈せられたりき。……」
  附記二 文化財保護委員会から、新たに重要文化財に指定された書跡の中に、竜門文庫所蔵の「万代和歌集」(六冊)がある。(昭和三十五年十一月)

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