女流の人々
高畠式部
幼い頃をつた伊勢松阪の櫛屋町の家は、かなり室数(へやかず)があつたので、国々から来た弟子の人が泊りもすると、母はよくもてなした。明治十一年ごろ、京都で蓮月と並び称された女歌人高畠(たかばたけ)式部が来て、松阪にしるべがあるからと思うて来たが、わからぬのでとめてほしいとの事、父は京都へ行つた時、たづねたこともあるので、喜んで二三日とめ、門人をよんで歌会を催し、幼い自分も列なつた。式部は「ぼんさん{ぼつちやんといふに同じ京詞}おぼえておおきなさい。人間は、しようと思へば何んでもできるものです。わたしは東海道の名所が見たくて、八十いくつの時、日和下駄をはいて、京都から東京まであるいて行きましたよ。わたしは細(こまか)い字をほることがすきで、この筆たてに百人一首をほりました。又、これは笑ひ話ですが、私の名の式部は千種有功(ちくさありこと)さまからいただいた立派な名ですが、そねむ人は、式部は式部でも、色が黒いから鼠(ねずみ)式部だといひましたよ」と、老顔をほころばせてをられた。その時、齢は九十四五、極めて丈夫であつたが、食物(たべもの)はごく少量で、いささかのお粥、それを腹がすくと日に何度でもたべる。夜中でも母を起して、「粥を」といふので、滞在中、母はおちおち眠れず、それには困つたと、後によく話したことであつた。
式部刀自は、音曲にも秀で、家集には「麦の舎集」の外に、あとを嗣いだ千畝氏が式部の十七回に「かたみの蕨」を出版した。論語の章句を歌にしたもので、漢学にも長けてゐたことを示してゐる。
附記 近く千畝氏の孫女とその姪の二人が熱海を訪問され、遺物の数々の残つてをることを聞き、喜んだことであつた。
税所敦子
税所敦子(さいしよあつこ)刀自の若くて著はされた「心づくし」は、はやく通読し、高崎先生からも、刀自の歌のことを、度々お聞きしたので、明治二十三年に「日本文範」を著したをり、お贈りして以来、数回書状をさしあげ、返事をもいただいた。晩年、市ヶ谷佐土原町三丁目にをられた時に訪問した。いかにもつつましやかな態度で、自分の問うた八田翁のことについて答へられた。また、福田行誡上人の徳の高く、歌のすぐれてをられたことなど話された。女官の正装の姿で、九段の鈴木写真館でうつされた写真を、記念にとて贈られた。(後にいづこから聞き伝へたか、女学校の読本にいれるからとて、その写真を借りに来た書肆が少くなかつた。)
婦徳と文藻とを兼ね備へて、明治の紫式部とたたへられた刀自であつたが、あまりにつつましいその性格から、宮中奉仕の文章としては、「宮城御移転記」と、「大婚二十五年盛典記」との二部があるのみで、その他には公けになつてゐない。紫式部日記のやうな、明治宮廷に仕へられた日記、もしくは自伝をかき遺しておかれたならばと、遺憾におもはれる。歌集として「御垣の下草」の正篇続篇また、その選ばれた「内外詠史歌集」が残つてをりはするが。
中島湘煙
明治三十二年の夏、海水浴をするため、大磯に家を借りてをつたに、小花清泉君と長寿吉君が訪はれたので、相模川にいつて舟を浮べて魚をつり、帰途、花水川のほとりに、万葉用字格の著者花水庵春登(くわすゐあんしゆんとう)のをつた処を探しもした。二君のとまられた翌日、川田順君が、一高へ入学したといひに来られた。喜びの記念に撮影しようと、近くの別墅にをられる西升子刀自、幼い逸人、文綱を雪子が伴ひ、八人で写真師にいつた。刀自らは家に、小花君は海に、自分は、長、川田二君と共に、かねて訪問したいと思つてをつた中島湘煙(しやうえん)女史の邸を訪うた。玄関の壁に、病中ゆゑ長座は断るとの張札がしてあつた。突然であるがというて名刺を出すと座敷に通された。「お目にかかつて詩文の話をお聞きしたいと思うてゐたに、長三洲翁と川田甕江先生の子息の二人が来られたので同伴しました」といふと、喜ばしげに、漢詩漢文のこと、自由民権説を主張された当時のこと、伊大利の風物の話などをされる。自分は姻戚に当られる伊達千広翁の隨縁集の歌がたりなどをしてをると、母堂が庭の里芋であるからというて出された。「玄関の張札もあるに、長座してすまない」といふと、「話のあふお客ならば、いつまでも話してをります」というて笑はれるに、女史もほほゑんでをられた。
後にきいた伊藤梅子夫人の話に、書を中島先生に習つてゐたが、ある時、伊藤公は上京して留守がちゆゑ、一人で楽しめることをなさるがよいとのお話、それはと問うたに、花卉を作られるのと、今一つは歌を詠まれるとよい、和歌を嗜むのは、心の園に花を植ゑることである、とのこと。先生はと問うたに、竹柏会に入会なさるがよいといはれたので末松にいうてお弟子になつたのです。中島先生とは古いおなじみですか、と問はれるに、これこれでただ一度です。しかし其の後書信は贈答して、女史の面影の偲ばれる清楚な竹の画を贈られもしました、というたことであつた。
跡見花蹊
花蹊刀自は、明治大正を通じて、五十年の長年月を女子教育のために尽くされ、跡見女学校の数千人の卒業生から、「お師匠様」といふ親しみ深い詞で慕はれてをられた。
刀自の父重敬翁も和漢の学にたけ、晩年は歌を鈴木重嶺翁に学ばれ、自分も幼い頃、鈴木翁の歌会で同席したことがあつた。その感化で、刀自も夙くから歌を詠まれたが、長く中絶してをられたに、大正十年にわが竹柏園を訪はれた。爾来稽古日には、誰よりも早く来られ、風雨の折にも欠かすといふことなく、八十二歳の七月から八十六歳の夏まで、大震災の後半年を休まれた以外、満三年半の間をたゆまず通はれた。刀自ほどの地位で、また高齢で、道を学ばうとつとめられた心は、その頃同じ日に稽古に来られた九條武子夫人や、藤田富子夫人たちの心をも動かした。いつも詠草を出されて、「今日のは一所懸命に作つて来ましたが」といはれ、自分の批評を熱心に聴き入られる。よいのは佳い、わるいのはわるいと率直にいふと、ほほゑみつつ耳を傾けてをられた。それは、年齢を超えた、みづみづしい若さであつた。おだやかな中に、力の底ごもる刀自の歌風は、すなはち刀自の面影を伝へてをる。
仏教を深く信仰された刀自は、大正十二年八月廿七日の明方、大宇宙一ぱいになつた仏の姿を拝して後の作に、「天地に充ち足らひたる御仏の御声を聞かぬ人や何なる」と詠まれた。かの更級日記の作者が、仏の来迎の姿をまのあたり見たといふ文詞も偲ばれて、信仰の尊さと、それに徹した刀自の心魂の清さとが思はれたことであつた。
附記 刀自は、万里小路通房(までのこうじみちふさ)伯の女を養女とせられた。その李子(ももこ)先生は二代目の校長としてよく尽くされた。昭和二十五年五月、創立七十五周年の祝に招かれて、伊藤嘉夫(よしを)君の案内のままに、まづ、校長室に入つたに、お出と聞いてお待ちしてをりましたといひつつ扇をとり出し、お覚えはありますかと示された。白檀(びやくだん)の骨にほりのある中国の扇なので、開いてみると、先年外遊の時に自分が贈つたものであつた。枕草子にあるやうに逢(あ)ふ期(き)との詞の縁から、送別には歌をかいてよく贈つたのであつたが、それから数年をしまつておかれたのを恐縮に思うた。
徳富久子
熊本の矢島家からは、竹崎順子ぬし、横井小楠先生夫人、矢島梶子女史、藤島正健君の母堂、また淇水徳富一敬先生に嫁がれた久子刀自など、卓越した女はらからが出た。
刀自は、一敬先生の良き内助者として、蘇峰・蘆花の二大文豪の賢き母堂として、夙くからキリスト教に帰依してをられた。晩年は静かに天寿を楽しみつつ、折にふれては歌稿を携へて竹柏園をおとなはれた。明治四十一年十月、八十の賀のをりに出版された歌集「浜久木」は、かうした自適の生活から生れたのである。
当時、国民新聞の蘇峰先生と、万朝報の黒岩涙香氏とは、論壇上対蹠的な位置にあつたとおもふ。しかし、刀自と涙香氏の母堂信子刀自とは、同じくキリスト教の信者として、親しい交はりがあり、久子刀自が信子刀自を伴つて、わが竹柏園を訪はれ、仲のよい歌友達でもあられたのである。
森峯子
森鴎外博士の母堂峯子刀自は、真に賢母であられた。博士も、母堂には、いつも鄭重な態度であつた。かの「即興詩人」の出版された際、菊版の大型の本であつたが、天地をあける必要がないとて、上から組んで、活字は四号であつた。それは老いたる母君の読まれる為にといふことが、序文に書いてあつたとおもふ。
自分が千駄木へ訪問するのは、いつも夕方からであつた。殊に、博士がファウストを訳された時、「この訳したのを読んで、原書を知らぬ君が、字句のいかがと思ふところをいうてほしい」といはれたので、度々おとなうた。それで、かなり夜のふけることもあつた。しかし、いかなる夜も、帰る時には、母堂が必ず玄関まで送つてこられ、丁寧に挨拶された。さうして、団子坂の方へ十数歩あるいてゆくと、表門をしめられる音が、夜の空気を伝うて静かに聞えてくるのが常であつた。あの門のしまつた音は、母堂をしのぶ敬虔な懐かしさとなつて、今も耳底によみがへつてくるのである。また、いつも黒い被布を着てをられた姿も忘れがたい。
竹柏会の大会を催した時、お招きしたに、母堂は、夫人や茉莉子嬢を伴つて来られもした。その折の写真が残つてをる。
附記 近く鴎外全集の月報に、母堂の日記抄が出てをるを読むと、自分のことを「佐々木先生」とかいてあるので、恐縮におもつたことである。
さきに於菟博士から、「森鴎外」といふ著書を贈られた。その巻頭に「祖母峯子」といふ一篇の文章が載つてをる。母堂が、鴎外博士をはじめ子女の教育にいかに尽くされたかといふことが知られて、賢き母刀自であられたことを更に追懐した。
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