心の花の人々
石榑千亦
石榑(いしくれ)さんは伊予の人、横井辻五郎といはれたが、上京して石榑家の養子となり、辻五郎の名によつて、千亦(ちまた)と名づけられたのである。
若くして、讃岐琴平で、堀秀成(ひでなり)、松岡調(みつき)氏などの教へられた明道学校に学び、上京されるや、琴平神社の宮司琴陵(ことをか)翁と亡父との縁で自分のもとを訪はれ、明治二十六年に入門された。
人としての石榑さんは、極めて情味の深い親切な人であつた。と同時に、伊予の大海に近いところで育つた強い気性を持ち、時としては、一歩も譲らぬ剛直な人でもあつた。しかし、自分とは、長い年月の間に一度も相争うたといふやうなことはなかつた。
歌人としては、君は、海の歌人であつた。歌の歴史から観て、万葉人には海洋での作品が多いが、平安朝以後には、歌枕的となつて、真の海の作に乏しい。その意味で、君は得がたい歌人であつた。しかも石榑さんの本当の価値は、まだ正しく理解されてゐない。「白玉は人に知らえず」と古人も歎き、石榑さんもみづから「天地に吾一人なり」と詠まれたが、海の歌人としての石榑さんの名は、後の和歌史を書く人によつて、その光が正しく発揚されるものと思ふ。
水難救済会のために公人としての一生を尽くしとほされた石榑さんは、「心の花」のためにも誠心誠意努力せられたのであつた。また君によつて水難救済会からは数人の歌人が出た。古泉千樫君は勤務中身体をわるくして晩年を長く休んでをられたが、石榑君は最後まで千樫君を援助された。あたかも東京朝日新聞社に於ける編輯長佐藤北江君が、石川啄木君を援助されたと対をなすものであつた。新井洸君も、佐藤秀信君も、共に石榑さんの友情に感謝してをられた。
石榑さんは、趣味として酒を愛された。明治時代の小出粲翁とは、歌会の席上でよく話をしてをられたが、二人は共に、酒の歌人ともいふべきであつた。
君はまた筆蹟にすぐれて、気力雄渾、一点の匠気がなかつた。酒の酔が進み、興の湧くままに、盃を措いて筆を執られると、真に雲煙飛龍のごとくであつた。
君は御殿場なる神山に屡々赴いて、塩川孝君や萩倉ちさゑさんと勝田見佐子さんはらからの家の客となられ、その筆跡を多くのこされたので、君の十七年なる昭和三十三年十一月、御殿場の駿河展望台にその歌碑が建つた。歌に曰く、「万の物みなひそまりて大地(おほつち)は一つの富士となりにけるかも」。自分は足を疾んでゐたので、建碑式には治綱君が代つて赴いた。百余人が参列、盛んな式が行はれたと聞いて喜ばしく思うたことである。
附記一 吉井勇君の父伯爵は、水難救済会の会長をつとめてをられた。それで、勇君の極めて初期の作には、石榑さんの感化があると聞いた。
附記二 石榑さんの三男茂君は、五島理学博士の養子となられ、外語大の教授、かつ、歌人で、皇太子殿下の御歌を拝見し、美代子夫人は竹柏会の古い同人であるが、皇太子妃殿下の御歌を拝見してをられる。石榑さんもいかに地下に喜んでをられることとおもふ。
橘糸重
自分の名が文献に初めて見えたのは、と書くとことごとしいが、生まれた翌日、父は「言の葉の道伝へむと」といふ歌をかきそへた手紙を、亀山の橘幸子(さちこ)さんに送つた。{その手紙は、後に橘家からもらつて自分の誕生日にかけることとしてゐる。}
幸子さんは、亀山の藩医の奥さんで父のをしへ子、子息が東大の医科を卒業されたので、上京して西黒門町に住んでをられた。(後、五軒町に移られた。)それで、父に伴はれて自分が上京した時も、数日を橘家の客となつた。
糸重(いとへ)さんは幸子さんの二女、音楽に熱心であつたから、父が保証人になつて音楽学校に入学され、その式の日は、父に代つて自分が列なつたが、当時は寛永寺の別院で、浅草全体が見えるやうな高台にあつた。
幸田延子さんのバイオリンに並んで、糸重さんはピアノの教授となり、後に日本芸術院ができた時も、二人がそろつて第一回の会員となられた。(巻頭写真参照。)
糸重さんは歌の才にも恵まれてをつた。明治の女流の歌は、与謝野晶子さんによつて新しくなつたが、糸重さんは、晶子さんの歌にない沈痛な風で、明治和歌史にその名の伝はるべき人である。作品は、「竹柏園集」(一篇二篇)、「あけぼの」、「玉琴」等に出てをる。
心の花の第三巻九月号に、「小諸の半日」の文詞が載つてゐる。島崎藤村君の「家」には、橘さんの姓を曽根として、訪問した橘さんを案内して小諸の古城趾に千曲川を共に望んだ話等が出てをる。
橘さんは昭和十四年九月一日に世を去られた。十月の心の花は君の追悼号として、乗杉音楽学校長の弔辞に「育英のため力を尽くさるること実に四十又九年」とあり、幸田さん、伊藤嘉夫君、多賀谷千賀さんなどの思ひ出の文の数々が載つてゐる。
《注:書状と入手の経緯、文面等については「亡父の書簡」(大正4年(1915年))に記されている。》 大塚楠緒子
楠緒子(くすをこ)さんが大磯で逝かれて一年、今日は自宅の授業の日に当つたので、朝早く墓参に出かけた。電車を音羽におりた。初冬らしい曇り日が何となくうらさびしい。桜紅葉のかげに遊んでゐる鳩も寒さうな護国寺の前を通つて、小川を渡り、紙すきの小家についてだらだら坂をあがつて、左に折れると、赤土道の右側には、ポプラや公孫樹の小植林がある。やがて墓地の茶屋に寄り、手向の花をといふと、人の好(よ)ささうな老人が、折角であるが、榊と樒より無いと云ふ。年若く美しく世を終へた君の霊に手向けるのであるから、同じくは、花をと思つて、近所で求めて来てはもらへまいかといふと、おかみさんと見える、これも親切さうな老女が、それならばといつて、小さい庭に咲いた手造りの菊を切つてくれたので、それを手にして墓所へ行つた。
歩いてゆくと、去年の事が思ひ出される。亡き人の遺子を抱いて乳母が立つてゐた草原には、今は誰かの新しい墓が並んでゐる。
開き戸をあけると、同人が手向にと植ゑた山茶花は、まだ莟ながら活々(いきいき)として、まさに心づくしの花が開かうとしてをる。持つておつた菊を供へて、黙然としてゐる。去年十一月四日の夕べ、大磯の大内館にをられた君の病床を見舞つた時、美しい頬に例のゑくぼをたたへて、種々の話をされた面影が浮んで来る。
君は、その容(かたち)、その心、又その才、花のごとく美しい人であつた。殊に芸術の方面に於いては、絵画、音楽、詩歌、小説、戯曲、すべてに渉つて深い趣味と勝(すぐ)れた才とを持つてゐた。中でもその得意は小説にあつた。わが国小説界の過渡時代に遭遇した人であるから、初めは紅葉を崇拝して、その文体などに私淑し、後年は、夫君の親しい友人の夏目漱石君の感化を受けたことが多かつた。併しその晩年、所謂自然派の盛んになつて来た機運に動かされては、君の心にも新たに自己の境地を開いて見ようとの考が起つた。君になほ数年の齢を仮して、その才を一層発展させたかつた。この一年、わが文学界に於ける婦人の活動は、目覚しくなつて来たに、君はすでに此の墓の下の人である。
君はまた、家庭の人としても、貞淑な夫人であり、母であつた。友人としても真心の厚い人であつた。日本婦人の美点を備へて、しかも新しい時勢、新しい機運に対して、十分な理解力を有してゐたのであつた。その君は、最早ここに永久の眠についてゐるのである。
向うに見えるのは、見おぼえのある大公孫樹である。黄金色に色づいた梢には、雲間を洩れる朝日の光が漂つてゐる。自分はなほも君の上を思ひつつ、去年葬送の帰さの同じ道をたどるのであつた。
ひと年は語らむことの多かるを「青踏」うまれ「ノラ」もうまれし
(明治四十四年十一月)
追記一 楠緒子の名はクスヲコで、ナヲコとよむはよくない。高知では、長男とか長女のなくなつた次に生れる子供には、郊外の社の老楠に因んで、楠(くす)の字をつける人が少くないとのことである。
附記二 楠緒子さんは大磯に病を養うて逝かれた。数年前、鴫立沢に歌碑建立式のあつた日、帰途、大内館によつたに、主婦は、この帳場に掲げたいと東照宮御遺訓をかいていただいたのでありますと示した。頼まるるままに病の苦しさも忘れて、にこやかに書かれたことと仰ぎ見た。
小花清泉
清泉(せいせん)小花(をばな)(貞三(ていざう))君は、東海道藤枝の商家の長男に生れられたが、早く東京に出て同人社に学び、続いて大学文科の哲学の選科に二年.英文学の選科に二年、暫くしてまた英文学の選科に入り、卒業といふことを念頭におかず、選科に七年をられた。外遊をと考へて、坪内博士に相談にゆかれたが、それは中止されたのであつた。
大学の先生では、小泉八雲氏に傾倒してをられた。上田敏氏が同時代であつたので、親しく交はられた。氏がまだ学生すがたの頃、小花君と一緒に小川町の自分の家を訪はれ、三人うちつれて五軒町なる橘糸重さんを訪問した思ひ出もある。{一三八頁参照}《注:上田敏の項。》
竹柏園に人会されたのは、随分古い時代。或る年の夏、君の故郷を訪うて、共に浜名湖に遊び、舟で、名もうつくしい引佐細江(いなさほそえ)の、水尽きんとして尽きざる細江はた細江の幾つを見つつ、館山寺(くわんざんじ)の裏山に登つて、岩躑躅を眺め、帰さ、舞坂館にやどつた。又、ある年の晩夏に、修善寺に遊んだ帰さ、熱海の旅宿にある君のもとにと、足不精な自分は、大仁より駕籠にのつて、軽井沢から日金をすぎて訪うた。君の携へ来られたウォーズオースの詩集の話を夜ふくるまで語りあひ、翌日、人車鉄道で帰つたこともあつた。
君は、人と交はることを好む風でなかつたが、竹柏会の会合には、殆ど出席せられた。その頃は、春秋に野遊会を催した。その郊外のつどひにも、いつも同行された。後に述べる新井洸君もさうであつたが、真に楽しんでをられた。
君は、初め短歌を、続いて詩を作られた。学問としては英詩を深く究め、神話に興味を持つて研究してをられた。故郷の家の業は姉君の夫に譲られ、名利に対して全く恬淡、風丯もその性格に伴つてゐたので、誰もが仙人のやうであると言うて居つた。
英訳万葉集の事業が、日本学術振興会によつてはじめられた時、会の方にいうて、会から、訳語の妥当か否かについて検べることを君に嘱託した。また、愛国行進曲の選の時、数万の応募作があり、選択の期日が短かつたので、情報局にいうて、白秋氏は大木惇夫氏を、自分は小花君と伊藤嘉夫君を推薦して予選に携はつてもらつた。
君は、歌の鑑賞に、また批評にすぐれてをられたので、藤波会、印東氏の楓会などに出席、いつも懇篤な評をされた。
学と才と、加ふるに時を持つてをられたのであるから、多年の蘊蓄を傾けた著述をと幾度か勧めて漸くその時機が到来したと思はれる頃、あやにくに病気に罹られて、神話の研究の発表もされる時なくして逝かれた。ただ病中に短歌の感興が復活して、新たに詠まれもし、旧稿の整理もされた。それが歌集「影の境地」となつたのである。
心の花四十六巻三号{昭和十七年}の小花君追悼号には、長寿吉、川田順、村岡典嗣君をはじめ、むすめ君綾子さんの長い追悼文が載つてゐる。
村岡典嗣
村岡典嗣(つねつぐ)君の父は、丹波山家(やまが)藩士の家に生れて、心の正しい人、母は武蔵忍(をし)の藩士佐藤氏の女で、心のやさしい人であつた。しかして、佐藤氏の妻君は、自分の母の姉であるので、君の叔父なる佐藤宗次君と自分とは特に親しく、従つて村岡君をその幼時から知つてをつた。君は一時、自分の小川町の家に寄宿して、上述の小花君に英文学に就いて質し、また歌文を嗜んで、「心の花」「竹柏園集」等に寄稿してをつた。また、大島に赴いて「大島物語」を、「さすらへびと」の名で詩を数回「心の花」に寄せられた。
君の学んだ開成中学の同級には、小泉親彦、内田祥三、斎藤茂吉、山川一郎、大屋敦の諸氏があり、中でも吹田(すゐた)順助、菅原敬造氏等と親しく、よき友人に恵まれた。早稲田大学卒業後、横浜の日独郵報社に暫く勤務してをつたが、内田銀蔵博士と、早大時代の恩師波多野精一博士の推輓によつて、広島高師専攻科に教鞭を執り、海外に遊学し、帰朝後さらに東北帝大の教授に進まれた。晩年の君は東北大の教授であると共に、東京文理大の教授と、東大の講師とを兼ねられたから、月の三分の一は、東京で暮すといふほど、その学的活動は旺盛、且つ多忙であつた。君が文学から入つて哲学に進み、日本学の体系をととのふべく、はやく「本居宣長」を著し、本居学、平田学の新たな学問的地位を定められた功績は大なるものがある。今や古い日本学は、新しい時代の真摯な研究によつて闡明せられねばならぬ。その現実に対する貴重な基礎的文献として、その著書の一部なる「日本思想史研究」が新しい時代の脚光を浴びつつ蘇つたことは、広く学界の慶事といふべきである。ただ君の世を早くされたことが歎かはしい。
附記 君の七年(昭和二十七年)には、門下の人たちにより「つねつぐ歌集」が刊行された。君の子息哲君は、長く山形大学に教へて学位を得られ、今は早大の歴史の教授である。
三浦守治
三浦守治(もりはる)博士は、独逸に留学してウィルヒョオの教を受け、帰朝後、東大の医科に初めて置かれた病理学の教授の椅子に就かれた。学士院にも、夙く明治三十九年九月、会員になられたのであるが、ここには「移岳集(いがくしふ)」(集の名は故郷三春の移岳(うつしだけ)によられたもの)の歌人として、歌の方面のみにおける君を語ることとする。
君が初めて携へ来られた詠草の中に、「天雲をさしつらぬきて真白なる富士が嶺たてりきさらぎの空に」といふごとき、当時すでにあざやかな特色をそなへた作があつた。その後、和歌に於ける君の勉励は、まことに驚くべきものがあつた。しかして歌は、君のためには固より業余のすさびではあつたが、君の性格として、あくまでも真面目にこれを学ばれ、その専門以外に於ける唯一の道として、また慰安としても、熱心に研究せられた。嘗て君のいはれた言葉に、「歌によつて得る心の転換が、わが学問に如何ばかりの益あるかは、殆どはかり知りがたい。自分がもし歌を学ばなかつたらば、自分の学者的生命は、早く枯渇したかも知れない」といはれた。君は、君よりもはるかに年若き予を、斯道に於いてはあくまでも師と尊ばれ、詠草の添削について疑義のある時には、反覆して質問され、時には、明瞭に、「よく了解しました」と言はれた。また同人の研究会にも屡々出席されたが、一同の評を十分に聴かれた後、その心に協つた歌のある時は、唯一言、「佳」と、言はれるを常とした。その熱心のこもつた強い声音(こわね)は、今も消えせぬ印象となつてをる。
晩年やや健康をそこなはれたが、その後も日日研究室に行つて、年若い助手を相手に研究をつづけられた。それとともに、歌も絶えずいそしみ詠まれ、その結果として、かの歌集「移岳集」は成つたのであつた。巻頭の一首に曰く、「うつし世の千とせ百とせ何かあらむとこしなへに人は生くべくありけり」。
附記 森鴎外博士は、在学中三浦博士とことに親しかつたので、葬送の日、「告亡友三浦子文」といふ弔辞を読まれた。木下川(きねがわ)に偕に梅を探られた時の逸事、君が同学中首席であつたこと、独逸に於いて講学倦まれなかつたさまなどを、簡潔に漢文でかいてある。(心の花大正七年四号)
なほ、十数年の後、東大病理学教室五十年の記念に「移岳集」に増補した「三浦守治先生歌集」を撰び、その五十年史下巻に、「人間性を表現せる歌人」なる長文を、自分が執筆した。その小目次を略記するに、道・学問・著書、未来、医道、自信、論議・論敵、師・弟子、我、人を厭ふ、述懐、愛惜、自誡、諧謔、相聞、故郷、旅行、天象、自然・富士、等に分類し、詳述した。{佐佐木信綱文集には縮めて収めた。}なほ、治綱の文章にも「移岳集」についての詳しい観照がある。
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