木下利玄

 明治何年であつたか、ある日、小川町のわが家を訪れた人があつた。自分の書斎は、二階にもあつたが、玄関の横にもあつた。いつもの習ひで取次のおそい時は自分が出る。すると、中年の篤実さうな人が、「先生にお目にかかりたい」といふ。自分が佐々木であるといふと、歌について、いろいろのことを事こまかに問ふ。問ふままに委しく答へはしたが、何か用事のあつた日なので、「何曜日に詠草を持つて来なさい、実作について評をしてあげるから」といふと、「私ではありませぬ、主人がお願ひしたいので」というて帰つていつた。数日後、学習院の制服を着た幼い人を伴うて来た。「実は私の若い主人が歌を習ひたいといはれるので、先日はお尋ねしたわけで、くだくだしくお聞きしてすみませんでした」といひわけをいふ。自分は、「あなたに試験をされたのですね」と笑つた。この若い主人が利玄君であつた。伴をして来た人は木下丘次郎(をかじらう)といふ木下家の一族で、君が幼くて伯父君の後を嗣ぐべく上京した時、備中足守(あしもり)から随行して来て、君の養育に専ら力を尽くした人であつた。
 初めての日に、君が、歌道の名門ともいふべき木下長嘯子にちなみあることを聞いて、長嘯子のことをいろいろ話し、君が将来、歌の道にひたすら精進せられるやうにと激励した。
 いふまでもなく長嘯子は、江戸時代の初期に新しい歌を詠みひらいた人で、そのために、その家集「挙白(きよはく)集」をさして、破戒偸言集、邪魔俗風集などと、当時の守旧派からひどく謗られた。「難挙白集」といふ書さへも出た。後世の小沢芦庵のごときも、長嘯子を誤解してをつたやうである。自分は早くから長嘯子の歌を賞揚してをつたので、その後も、折にふれては利玄君に、長嘯子の名をあらはす歌人になるやうにというた。この自分の言葉は、利玄君をして利玄たらしめたに力あるものであつたらうと思うてゐる。
 その頃君は、四谷区谷町の家に住んでをつた。学習院の成績がよくて、ある年の正月、皇后陛下のお裳裾持の役を勤仕することになつた。丘次郎氏の喜びはたとへむ方なく、自分にも其の喜びをわかつべく、谷町の家に招かれ、当日の服装をした写真を後に贈られた。
 柏木の広い屋敷に移られた秋、庭に栗の木があるからとて栗ひろひに招かれて、子供を伴うていつた。幼い子等は庭で喜んで遊んでをる。自分は、明るくはないが静かな書斎で、木下君が国から取よせられた長嘯子の古い画像、太閤が末期に書かれた歌「つゆとをちつゆときへにしわかみかななにわの事もゆめの又ゆめ 松」(松は太閤の筆名)、また、大老がささげた起請文などを、見せてもらつたことであつた。其の頃は、長寿吉君も柏木に住んでをられたので、ある日、長君をおとなうた帰途、木下君を訪うて、夜をふかして暗い畑中の道を君に送られて柏木駅に来た記憶がある。いつも微笑をたたへた物いひぶりであつたが、暗い夜道の故か、いろいろの事を語られた。
 東大を卒業後、君は教職に就かれたが、それを辞して、さすらへの旅ともいふべき旅に出られた。その長い間の旅行は、君の生涯のためにも、また、歌の道のためにも意義の深いものであつた。途上からおこされた葉書が少くない。君はよく葉書を用ゐたが、短い文にいつも心ふかく書いてあつた。この旅行時代のある夏のことと思ふ。自分は何かの用で、夜ふけて、夏ながら月の光の薄らつめたい東京駅前の広場に電車を待つてゐた。ふと君に逢つた。どうしました、旅からいつ帰つて来ました、と問うたところ、亡くなつたお子さんの悲しいかたみを持つて来られたやうに答へられた。その時の沈痛な君のおもわは、今思ひ出してもいたましく自分の目にうかぶ。君はお子さんには実に不幸であつた。三人の幼い人がつぎつぎに世を去られた。
 大正十四年には、君もまた世を去られることになつた。それは、わが同人にとつてまことに嘆くべき極みであつたが、君の歌集「一路」が残されたことは、せめてものなぐさめである。「一路」は、その前年の末、君の精緻な芸術的良心によつて、版を組みかへること数回、やうやく君の意にそった集が、「心の花叢書」の一として刊行されたのであつた。
 君のとこしへの別れに、鎌倉にいつた日、冬枯の木立のさびしい名越(なごえ)の谷戸(やと)の奥なる前の家の門(かど)に立つと、老木の梅は多くの花をつけてゐたが、花の色もさびしげであつた。悲しい読経の後、君の棺は門を出ようとする。近親の女の人の背におはれた唯一人の遺(わす)れがたみなる幼い利福君が、無心にながめてをられる姿をみて、自分は堪へられない思ひであつた。
  追記一 昭和十二年一月、君の十三回忌に、旧領地なる足守の近水(ちかうづ)公園に、君の牡丹花の一首を彫つた記念碑が建つについて、碑背の文詞をかいて送つた。{文詞は信綱文集二六四頁にある。}同年五月、岡山医大に講義に赴いた折、田中文男博士の案内で歌碑を訪ひ、足守にも赴いて君をしのんだ。
  追記二 昭和二十九年二月は君の三十年にあたるので、放送局に頼まれて、熱海ホテルの一室で、志賀直哉君と対談し、君の思ひ出を語つたことであつた。
  追記三 太閣の辞世は、近年、大阪城の天守閣に置かれてあるといふ。

    新井洸

 新井洸(あきら)君は、日本橋の生れであるが、幼くて歌がすきであるといふので、父君がつれてこられた。木下利玄君と同じく、幼年からの教へ子であるが、大正十四年に、木下君は四十歳、新井君は四十三歳で世を早くされた。一年のうちに二人のすぐれた歌人を失つたことは、痛歎に堪へなかつた。
 竹柏会の同人には、立派な歌人が少くなかつたが、所謂専門歌人、もしくは、指導者といふべき人が乏しい。木下君は専門歌人といつてよいが、歌の道のために指導してゆくといふ風の人ではなかつた。新井君こそは、歌人としての天分を持ち、指導者といふがはに立ち得られる人であると思うて、幾度も君にいうた。片山広子さんも、君にむかつて大いに慫慂されたと聞いてゐる。
 君を最もよく知り、その生活にも助力を与へられた石榑さんが、「心の花」の新井君迫悼号に書かれたやうに、君は、江戸つ子の長所短所を兼ね備へてゐて、地方人のねばりづよい力を持つてをられなかつた。しかし、江戸つ子の名人気質といふべきその作品を収めた歌集「微明」と「新井洸歌集」は、明治大正の和歌史を編する人が、必ずや意を留むべき歌集であると信じてをる。
 君逝いて三十年に近く、君の作品を愛好し研究された平野順治君が、「歌人新井洸」一冊を著はされたので、竹柏会から出版した。君の霊は、しづかに微笑してをられることとおもふ。
 なほ、君は、小説家にと志して、紅葉山人に紹介を頼まれたままに、紹介状をかいたに、山人は、「雨泉」といふ号を与へられた。また、千葉鉱蔵君のもとへいつて、翻訳の筆記を、心の花に掲げもされたが、小説の方は、惜しいかな、未成功のうちに世を去られた。
  附記 巻頭に掲げた写真は、三浦守治博士の再渡欧送別の野遊会に、中川のほとりでうつしたもの。後列左から中沢弘光画伯、小花清泉、三浦博士、学習院の木下利玄、石榑千亦、印東昌綱、東大の篠崎正、早大の村岡典嗣、予。前列左より、新井洸、雪子、橘糸重、有賀晴子の諸氏。新井君は自ら作つた竹柏会といふ旗を持つてをられる。

    九條武子

 尾崎行雄翁が司法大臣であつた頃、ある日の午後官邸から電話がかかつた。「明夕御差支なくば、紅葉館で晩餐をさしあげたい、取次で失礼であるが」とのこと。幸に他に約束がないから、「伺ひます」と、折から来客中とて、自分も取次で返事をさせたに、「お迎への車をさしあげます。申し忘れましたが、お嬢さんもおいでになりますから、どうか是非」とのことであつた。
 翌日、紅葉館にゆくと、表二階の細長い室(へや)の、床の間の正面に女の人がをられ、横に尾崎翁がをられる。近眼の自分は、不思議と思ひつつも翁に挨拶をして、正面の婦人の方に向ふと、これまで面識は無かつたが、写真で知つてをる九條武子夫人であつた。自分は驚いて、「昨日の電話で、お嬢さんもおいでと聞いて、不審に思うた疑問が解けました」と話したに、翁も夫人も、共にほほゑまれた。翁は「武子夫人は、父君明如上人の感化で幼くから歌を詠んでをられるが、竹柏会の門に入りたいとの希望で、今夕は、御紹介にお招きしたのであつた」といはれた。
 晩餐の後、三人で庭におり立つた。折から秋の夜とて、ものさびた庭園の木立を洩る月の光も美しく、虫の声も清かつた。夫人は、「京都に帰つて詠んだ歌をお送りしますが、『心の花』に発表の時のため、何か名をつけてください」とのこと。「今宵は清い秋の夜、更級日記にも、秋の夜をたたへた歌がありますから」と自分は答へたのであつた。以後、しばらく、「秋の夜」を用ゐられた。
 大正九年十二月、夫人が京都から東京に移り住まれることとなつたので、竹柏会の同人が、夫人を中心とした会を、日本橋倶楽部で催したことがあつた。その会で自分は、夫人の歌が「金鈴」以後、一転機すべき時が来た。恐らくは宗教的「心の歌」といふ方面に進まれるのではなからうか。又さうありたいものである、といふ話をして、歌の道に一層精進せられんことを望んだ。
 その後、自分の希望は実現して、夫人の作には心の底にほり下げてゆく深みが加はり、かつ、そのするどい人生観から生れた歌、宗教味を帯びた歌などは、「金鈴」時代と両目を一新するやうになつた。で、「金鈴」の第二集を出すやう、夫人に話してをつた折から、彼の大震災で、住んでをられた築地の本願寺別院から、青山の大谷家へ火に追はれて逃れられた折、草稿一切を失つてしまはれたのは、まことに遺憾なことであつた。
 夫人には、社交的の花やかな方面があると同時に、外に社会事業のために献身的につくされ、内に主婦としてのつつましやかな方面もあつた。ことに震災後は、自分の着る物はすべて自分で縫つてをられるとのことであつた。次の年の夏は、夫君の用務が繁いため、避暑に出られぬので、夫人も在京された。その暑中の筆ずさみが、かの戯曲「洛北の秋」であつた。同じく京都の人、同じく法の道の人、同じく歌の道を歩んでをられるなどの縁で、はやくから蓮月尼を慕つてをられた。それで西賀茂の神光院に行かれた思ひ出や、又かつて自分の紹介で富岡鉄斎翁をおとなうて聞かれた、雨降りにいつも尼を訪うた庄屋の話、尼が遊女をかくまうた話などが、彼の一篇の戯曲を生んだのであつた。同じ年の秋、生母円明院が上京せられたので、麻田駒之助氏は、西片町の新築の邸に、円明院と夫人と自分夫妻を招かれた。楼上で珍襲の書画の展観があり、庭園の一隅なる茶室で茶事があつた。あらゆる事物に対していつも興味深い、才気のほとばしったものがたりをせられる夫人も、この日のみは、いささか受太刀の気味で、松風の音も静かな茶席にあることを忘れて、円明院も自分も、思はず声高に笑ひ出すことが屡々であつた。それは、麻田氏は大谷家に仕へた家の人で、光明師や尊由師や夫人の幼時に和漢の学を教へられたので、自分らのかつて聞き知らぬ夫人の幼時のおもしろい逸話のくさぐさを、次から次へと語り出られたからであつた。
 昭和三年一月十二日、携へ来られた詠草の中に、「こし方も行く末も見ずたまゆらの我とおもふに生きの尊さ」の一首があつた。「たまゆらの生き」が讖をなして、最後の詠歌となつたことは、悲しいきはみである。かの「無憂華」の巻首にみづから書かれた、「大いなる物の力にひかれゆくわが足あとのおぼつかなしや」、この歌また、今にして思ふと、訣別の意があるやうにおもはれる。
 初めて訪問された日に、自分は、かの狭野娘子や安倍女郎(いらつめ)の古歌を引いて、かたちの美しさは短く心の美しさは長いからと、無遠慮にいうたことであつた。夫人は、かたちの美しさと共に、心の美しさをとこしへに伝へて、世を去られたのである。(巻頭写真参照。)
 心の花は、翌三月号を夫人の追悼号とした。内藤湖南博士の詩、新村博士の文等、その数の多い中から、ここに数首を掲げる。大谷光明師「ほほゑみていもうとはゆきぬ久遠劫厳浄の浄土無量寿の国に」、大谷紝子夫人「読経の声も淋しうふくる夜に思ひつづくる君がありし世」、高楠順次郎博士「還り咲け還り咲かむと誓ひてし無憂樹の花の春ぞまたるる」、バーネット夫人「花もちる君の一人の友ありと春の夢路を又あふ日まで」。
  追記 歳月は早く流れて、昨年昭和三十五年は、夫人の三十三年に当るので、あそか病院の田中もと女史は、「金鈴」の増訂版の編輯を、予に嘱せられたので、写真も数おほく加へ、金鈴以後の作、消息集抄を副へて、うつくしい一冊となしたことであつた。

    斎藤瀏

 斎藤瀏(りう)君が如何にして歌の道に入られたかといふことは、君の第一歌集の「広野」(大正十年刊)に自分のかいた文に詳しいから、それを引用する。君は当時中佐であつた。
 「斎藤中佐は信濃松本の人。養父星軒先生は、甕江川田博士の門に学び、後、松本中学に漢学を教へ、また家塾を開いて子弟を教育され、塾の出身者には、加藤正治、吉田静致、降矢芳郎博士などがある。養母照子刀自は、佐久間象山先生の親友関長尭翁の女で、象山先生から種痘を受けられたといふ。教育に一身をささげて家事をかへりみられなかつた夫君を助けて、よく家を治めた賢母である。実父三宅逸平次翁は、藩に仕へて槍術を得意とせられたが、維新の際意見のあはぬ事があつて、平素釣を好まれたので、梓川穂高川等の合する明科の対岸に住んで、六川漁叟と称し、隠遁的生活を送られ、その筆塚は今も村に建つてをる。実母れつ子刀自また、良人の内君たるに恥ぢない人であつた。中佐は、謹厳篤実な養父母のもとに人となり、陸軍中央幼年学校に入り、日露戦役の時、出征して、遼陽の会戦に負傷し、帰京して陸軍大学に入り、業を卒へて士官学校の教官から、旭川師団の参謀となり、また満洲に駐箚された。君の歌は、かかる軍人生活の間になつたもので、その取材が、すでに常人と異なつてゐる。これに加へて、君の観察と感覚とまた詞藻とは、優に一家を為してゐる」云々。
 次に君の序の一節をあげる。
 「若くして征露の軍に従つた私には、感激と驚異に値する事ばかりでありました。そのためでもありませうか、私は歌ふといふことを、戦地の生活から見出し得ました。其の後、奉天の戦で負傷して内地へ還送され、病院の生活を始めましたので、かねての望が協つて佐佐木先生に教を仰ぎ得たのであります。それからもう十余年。私の生活に就いて、此の天地だけは常に広大で、常に歓喜に充ちて最も幸福な恵沢を与へてくれて居ます。」
 それで、在京中は、毎月の竹柏会の歌会に、研究会に、また藤波会にも出席して、ある時は、その歌稿を示され、ある時は諤々たる批評を力強い大きい声でのべられた。
 昭和四年十月、自分が長崎へ赴いた帰途、雲仙、三角を経て熊本に至り、君の家の客となつた。その夕べ、将校集会所で、歓迎歌会があり、帰つてから更に歌がたりをし、また論議をたたかはしもした。夜がふけたと思うたが、語り続けてをると、夫人が二階にあがつて来られて、「もう二時が過ぎました、先生もお疲れでせうから」と言はれたので、「二時すぎですか」と思はずいうた。自分は、家に在つても、旅に出ても、十二時には必ず寝ることにきめてをつたので、驚いた。君は、「僕は三晩ぐらゐは徹夜をしつづけても平気です」と笑つてをられる。「歌人と軍人とはちがひますよ」と自分は笑ひながらいうて、二階からおりた。どの部屋に行くのかと梯子段の下にためらつてをると、君は、「先生の布団をほうるぞ」というて、二階からほうり落された。それが、自分の頭の上にそつくりかぶさつたのには驚いた。薄い布団だからよかつたものの、冬であつたらと思うた。さう思ひつつ自分は無意識に二三歩あるいたに、「やあ、先生の布団が歩いてゐるよ」と、どなられたのには、又々驚いた。
 その翌朝、熊本師団長であつた君は、馬で出勤される。自分と令嬢の史(ふみ)さんは、門まで送り出た。門前の銀木犀の花が盛りであつた。
 昭和九年十月、秩父宮が宮崎県においでになつた時、市の教育会から招かれて宮崎市に赴いた。次の日一日は自由であつたので、美美津にいつた。それは、神武天皇御東征の時、船出あらせられたといふ伝説地なので、「美美津の船出」といふ長篇の詩を作りたいとの為であつた。数時間を、小学校及び美美津川のほとりにあつて、宮崎へ帰らうと汽車にのつた。二等車が混んでをつたが、幸ひに空いてをるところがあるのを見て腰をかけると、前には、面識のある荒木貞夫大将が乗つてをられた。大将が言ひ出されるのに、「あの斎藤旅団長が免官になつたので、帥団長の自分のところへ暇乞に来た時、陸軍は少将でよしますが、歌では大将になりますというたが、どんなものだらう」との話、「斎藤君ほどの熱心と力量があれば、必ず歌の大将になれませう」と、自分は笑つて答へたことであつた。
 二・二六事件の後、君は豊多摩刑務所に入つた。かつてK君の入獄されたことがあつたが、自分のやうに神経の細い者には、さういふ所に面会にゆくといふことをなし得なかつた。しかし、斎藤君にはどうかして逢ひたいと、一水会の時に話したに、乾政彦君と中村徳重郎君が一緒に行きませうとの事で、共に中野に行つた。門内に入る時には多少たじろいたが、刑務所長は同人の大島雅太郎君の親戚とのこと、電話の連結があつたとかで、所長の室で懇切にもてなされた。さて面会所は広い部屋でテーブルと固い木の椅子がおいてあつたが、誰も他の人はゐない。看守につれられて、青色のあつぼつたい獄衣を着て前の椅子に腰かけられた。着物だけは変つてをるが、いつもの斎藤君で、にこやかに話される。種々の話の中に、他に何も心配することはないが、史さんの夫君の医学士が博士論文をかいてをるに、自分のかういふことが精神的にさはつては困るがと、たけきもののふも、夜鶴の情の数言を洩らされた。
 自分が重要美術委員会の委員であつた頃のこと。国宝や重要美術品は海外に出すことは禁じられてをるのであるが、当時ドイツではヒットラーの勢ひの盛んな時とて、ベルリンで美術展覧会を催すについて、国宝等を出品するために委員の了解を得たいと、時の宇垣外相と荒木文相の連名で、外相官邸に招かれた。それに関する話がすんで、晩餐の席上で、荒木文相の前に自分の席があつた。文相はふと「あの斎藤は云々」といはれたので、その翌日、自分は文相の官邸を訪問した。
 自分の家では、木曜と土曜の午後を稽古の日としてゐたが、ある土曜の午後二時頃電話がかかり、「斎藤であるが、電話に出てほしい」とのことで、どこの斎藤氏かと出ると、「斎藤瀏です、いま、家に帰りましたので」との言葉、自分は、夢ではないかと驚きかつ喜んだ。稽古が終り、夜に入つて淀橋の文相の私邸を訪うたが、不在であつたから名刺をおいて、さて洗足へ行つた。自動車ではあつたが、夜も大分ふけ、あたりも暗いので、かつて訪うたことのある斎藤君の家が中々見あたらぬ。曲り角の家であつたと注意して探すと、門がとざされてをるが、電灯の明るい家がある。見れば斎藤君の家であつた。戸を叩いて中に入り、喜びをのべた。
 獄中の歌を整理もし、疲れをも癒やさうと、熱海桃山なる木下立安君の家に、斎藤君が居られると聞いて訪問したことがある。木下君は竹柏会の年久しい同人で、斎藤君を助けて共に歌誌「短歌人」を刊行した人――かの土曜日に出獄の日にも、中野に迎へにゆかれたのである。
 昭和二十三年六月、保険協会の会館で自分の喜寿の賀会があつた時、斎藤君は長野から上京してくれられた。会が果てて、廊下で古い同人数氏と共に語りあつた。
 二十五年五月、長野県の戸倉に万葉歌碑の建碑式があるので赴いた。著述の間をさいての日数を限つた旅とて、長野へ訪問する時日がないからと葉書を送つたに、戸倉に降りると、清水信雄君をはじめ発起人の人々と共に、斎藤君が立つてをられた。好意を喜んで、自動車に同乗して笹屋ホテルに行つた。その夜、上田から来た小池君や、町長その他おもな人々の催された歓迎の宴があつた。酒をいささかたしなむだけの自分も、心おきなく楽しいつどひとて大いに酔つた。自分は、熊本で夜具をかぶせられた笑ひ話などをしてをるうちに、夜がふけたが、宴はやまぬ。大分閉口してゐると、傍らの斎藤君が、「お疲れでせう、あとは僕が引き受けるから」といはれたので退席した。翌朝は、史さんも長野から来てくれられた。千曲川の清い流を前に、万葉の少女の歌にあるさざれ石を置きめぐらした万葉歌碑の前で、和やかな式もすみ、共に撮影などもした。午後は講演会があつて、自分も、同行された林大君も講演をするので、君にもというたが、昨夜のせいか、今日は少し気分が悪いからとて帰られた。
 又いつか熱海に君の来訪を迎へる日もあらうと思うてゐたに、この戸倉での一夜が、多年の道の友斎藤君と語りあうた最後となつたことは、まことにうらさびしい。

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