片山広子
明治二十九年頃の大掃除の日、近辺の若衆の手伝ひで早く済んだ午後、吉田広子、新見かよ子さんの二人が来られたので、玄関に近く、狭い庭に面した書斎にとほした。東洋英和女学校の卒業生で、かよ子さんは卒業直後一年余を米国にいつて学んだ、広子さんは家で物語の類をひたすらよんでをつたが、歌を詠みたくなつたので、親しい同志がうちつれ入門に来たとのことであつた。自分は、庭を指ざして、「ささやかな庭であるが、四季折々に草花がさいてをる。又、あの柿の木は美しい実がむすび味はひもよい。今日は大掃除のあととていつも本のちらばつてゐるこの部屋も清浄である。歌は清い心から生れる。うつくしい花がさいてよい実を結ぶやうに、培はねばならぬ」といふやうな話をしたことが胸の底に残つてをる。
広子さんの歌文の道に対する熱心、従つてその進境はめざましかつた。明治三十一年二月に創刊した「心の花」の第一巻第一号にすでにその作が載つてゐる。また、三十二年四月に催した竹柏会大会第一回の記事の文をかいてをられる。
当時の橘糸重さんや大塚楠緒子さんに続く年配で、同じくその才と人とのすぐれてゐるのを認めてゐた自分は、ある日永田町の吉田家を訪うた。父君は米国の総領事を勤めた外交官で、晩年を静かな歳月に自適してをられたのであつた。自分は、広子さんは、文芸の才に恵まれてをられるから、将来その才能が伸びるやうに、理解ある人を良人に選んであげてほしい、と話したことであつた。
その後、吉田氏の郷里埼玉県の教育家として名高い老婦人が父君の代りとして来られ、「近く法学士の片山貞次郎氏に嫁がれることになりました。片山氏は専門はちがふが、自らも文筆に親しむといふ理解深い人で、先生のお心にかなふ人と思ひますから」との口上で、自分は心から喜び、新夫妻の多幸を祈つたことであつた。
暫くたつたある夏の月夜のこと、自分は、雪子と共に駒込千駄木の片山家に招かれて行つた。――この家は後に夏目漱石氏が借りられ、「我輩は猫である」の中にも出てくる家である。――初めて会つた片山氏は立派な人で、「おことばのやうに、歌文の道は必ず続けさせます」との挨拶に、自分は深く喜んだことであつた。後、片山氏は茅山生の筆名で短い詩を「心の花」に寄稿されもした。広子さんの、その後数十年に及ぶ文筆生活には、夫君のかうした理解と援護のうらづけがあつたことを忘れてはならない。
歌文に秀でた広子さんには、いま一つの天分があつた。それは、翻訳にすぐれ、特にアイルランド文学に対する造詣は、早く一家を成してをられたのである。専門以外の道とて自分には原文のことは解らぬままに、当時よく往来してゐた上田敏君に示すと、いたく賞揚してをられた。「船長ブラスバオンドの改宗」を出版する時に、鴎外博士に原稿を示したところ、「実によく訳されてある」というて早速序文を書いてくれられた。また「いたづら者」の時には、自分が逍遥博士を訪うて序文を請うたに、これも欣んで一文を寄せられ、広子さんの才華を認められたのであつた。かく、上田・森・坪内の三家が共に認めて高く評価された片山さんの折々の翻訳は、松村みね子といふペンネームで、折々ごとに「心の花」に寄せられた。タゴールの詩の訳、その他、七百号の「心の花展望」に掲げたごとくである。
かく文芸の天才に十二分に恵まれた広子さんも、妻として、母としては不幸な人であつた。まづ、その良き理解者であつた貞次郎氏は、日銀の枢要な地位にあつて、その未来を、嘱望されてをられたに、余りにも惜しい齢で世を早くせられ、一人のをの子で秀才であつた令息達吉君も若くして遠逝された。そして病に倒れた広子さん自身の晩年も、寂しく、いとほしいものであつた。しかし、女性として文学史上に名をとめられたことは幸である。その歌集「翡翠」と「野に住みて」と、随筆集「灯火節」、アイルランド文学の数々の労作が永く世に光つてゐる。「野に住みて」は昭和三十年度の芸術院賞候補に挙げられたが、貫徹しなかつたことはまことに遺憾である。しかし「灯火節」がエッセイスト賞を贈られたことは、喜ばしかつた。人のいのちは短いが、芸術の生命は久遠(くをん)である。歌人として、翻訳家として、随筆家として、不滅のものを遺した広子さんの生涯は、幸福であり、立派だつたとおもふ。
附記一 この文の初めにしるした新見かよ子さんは、望月小太郎氏に嫁がれたが、不幸、未亡人となられた。かつて盛夏を軽井沢に赴いた時、広子さんの別荘を訪うたに、折から訪問中のかよ子さんに久々会つたことである。その女で高橋家にとつがれた義子さんは現在の会員である。
附記二 「心の花」六十一巻第五号(昭和三十二年)には、諸家の追悼の文を掲げた。中に、長寿吉博士の思出の一文を抄記する。「……ダブリン市に行つた時にも思出した。アイルランド関係の著述をした時にも思出した。トーマス・ムーアの国民詩を、アイルランド史講義に引用した時にも思出した。ケルト精神の文学を、英文学専門の学生にすゝめた時にも、片山さんの業績を称揚した。……」。
下村海南
心の花の創刊は明治三十一年二月であるが、それ以前から入門されて、第一巻第一号に作品を掲げられた一人の佐々木文子さんは、第二十銀行頭取佐々木慎思郎氏の長女、縁あつて海南下村宏(ひろし)君に嫁(とつ)がれた。年譜によると明治三十三年で、下村君は二十六歳の逓信省書記官であつた。
下村君は、ある年、聖路加病院に入院中、見舞に行かれた夫人が新着の「心の花」を持つてをられるのを見て、徒然のあまり手にせられたのが作歌の第一歩となり、自分の加朱を請はれた。爾来数十年、その終焉まで歌を離れられることがなかつた。「体(からだ)はゴルフで鍛へる、心は歌で養ふ――多趣味な自分はいろいろのことに手を染めるが、おのづから中絶するものもあらう。しかし、歌とゴルフの二つだけは、終生つづけてゆく」と語られたが、全くその通りであつた。
第一歌集「芭蕉の葉蔭」は、大正四年から十年までの台湾民政長官時代、第二歌集「天地」、第三歌集「白雲集」は大正十年から昭和十一年までの朝日新聞副社長時代、欧米を初め、樺太、沖縄、朝鮮、中国に足跡をのこすと同時に歌のあとをものこされた。昭和十七年に第四歌集「一期一会」が成つた。廿年四月、鈴木終戦内閣に国務大臣兼情報局総裁として入閣。五月熱海に凌寒荘を訪はれた。近刊さるべき「蘇鉄」の原稿を携へてである。帰京して、「熱海西山歌の別」の一文を、平家物語の俊成忠度の別に擬して草しおこせられた。八月にいたり、三国宣言、広島に原子爆弾投下、ソ連参戦、十五日正午の玉音放送にいたり、職を辞された。三十二年十二月遠逝。嗣子正夫君編の「故海南歌集 歌麿」がある。
追記 近く海南博士の記念として、多摩台公園に「海南亭」、和歌山県潮の岬に「海南館」が建つた。
米山梅吉
横浜なる山川勇木、高橋捨六、岡田源吉君等が歌会新月(にひつき)会(第二月曜日の義をつづめて)を起されたが、会員のうち間島弟彦君が東京に転任後、一水会(第一水曜日の義)を起すと、三井集会所に発会があつた。大島雅太郎、小田柿捨次郎、金塚仙四郎君等と共に米山梅吉君も出席されたが、君が云はるるには、自分は漢詩をまた俳句をものし、姓に因んで八十八山人とも号したが、京都の支店長時代、晩春のある日大津に赴いた時、逢坂の関のあたりで実に美しい落花の吹雪にあうた。所謂関の清水の辺でこれこれと、くはしく話されて、あの日の光景は漢詩でも俳句でもない、歌に詠みたいと思うたが、如何やうに詠んだらばよからうとのことに、自分は暫く考へ、これこれと詠んだならばというて十数年も前の落花の景を胸に深くとめておいでの貴方には、必ずやよい歌がよまれると思ふというたに、爾来長い年月をたゆまず詠みいでられ、米国へ行かれた折は「八十七日」を、米国から欧州へ渡られた時は「東また東」を、庭の陶榻に巣を営んだ四十雀を詠んでは「四十雀」を刊行された。
日本に於けるロータリークラブは、一九二〇年(大正九年)に、国際ロータリーから委任されて、日本に初めて米山君が創設されたのであるが、君は情味きはめてゆたかな人で、自分に託し、匿名で学生に学資を援助されたことなどもあつた。
君の郷里が伊豆の下土狩なので、ある年、その山荘の竜舌蘭の花が咲いたからとて招かれて行つた思出もある。今も世にあられたならば、熱海へも折々に訪問されるであらうにと惜しまれる。
なほ、短歌の遺稿として「藍壷歌稿」が昭和二十七年五月に出版された。また、昭和三十五年五月米山梅吉伝、米山梅吉選集上下の三巻(千三百六十頁)が、君が設立された青山学院初等部創立二十周年記念事業の一つとして出版せられて、君の全貌が世に公にされたことは喜ばしい。
小田柿捨次郎
樟蔭小田柿捨次郎君は彦根の藩士の家に生れ、夙く四方の志を懐いて上京し、海軍兵学校の試験に応じたが、近視眼の為に不合格となり、失望の淵に沈んでをられたに、同郷の先輩は激励して、世界的商戦に進むのも男子の快心事ではないかといはれ、志を翻して東京高等商業学校に入り、明治廿四年卒業、三井物産会社に入つて、爾来海外貿易に尽瘁し、京城支店長としては、明治三十七八年戦役前後の物資供給の衝に当り、上海支店長としては、世界戦争の開始に際し、対支貿易の発展実現の上に力を尽され、後、本社の幹部の一人となられた。
歌は一水会に入つて、毎月出席いそしまれ、その高輪の邸の門前に大きな樟があるので、「樟蔭歌集」を世に残された。
大正十年眼を疾み、不幸遂に失明せられた。ある時訪問したに、「昼の間は来客もあり、家人も看護婦もをるからよいが、人の寝静まつて眠られぬ夜の数時間は堪へがたい。ただ幼い時の母の薫陶によつて仏教を信仰してをるのと、歌の徳によつて常暗(とこやみ)の苦しみを免かれて、歌を考へてをる」と話され、「それについて、昔から今までの目しひた人の歌をあつめて一冊の書としてほしい」といはれたので、蟬丸以下の盲人の歌を歌集及び種々の書から抜抄して「盲人歌集」一冊を公刊した。この一巻は、永く失明の人々を慰めることであらう。
追記 小田柿君の姪君のとつがれた葉山の清家瑩三郎君は、夙くからの同人で、現に毎月の心の花にも出詠してをられる。
間島弟彦
明治の中葉までの歌壇は、専ら桂園派の占める所であつたが、その中に重きをなした一人に、歌の起原に就いて、従来何人も道破しなかつた新説を提供した間島冬道(まじまふゆみち)翁があつた。
弟彦君は翁の子として遺伝的に和歌を嗜まれた。ある年の夏の夜、横浜の三渓園に共に客となつて芝生のかがり火のもとで歌がたりをしたに、何事にも一識見を持つてをられる君は、歌は旧風の重んずべき由を切論せられた。後みづから悟る所があつたというて新月会に入り、更に、一水会をおこして、新興の歌風にいそしまれた。君は天分ゆたかで、すべての道に秀で、美術の鑑識に長け、造庭の術に巧に、筆蹟のうるはしさは専門家を凌ぐほどで、晩年には画の道にも親しまれた。歌に於いてもかつて「旅の歌」一巻を知友に頒たれたことがあり、その後の作をあつめて印行されるやう慫慂したが、他事には胆大であつた君が歌には極めて小心で、苦吟詠作に努め、或は、鎌倉小町なる白水荘の山斎を楽しみ、或は軽井沢なる臥雲山房の閑寂を喜び、歌風一転して、自然を凝視し、深くその奥邃に透るに至つた。
君、談論風発、諷刺、人を刺す言を出される。予は君に、さういふ方面を開拓する人生詩人であるやうにと屡々語つた。しかも多年の病魔と戦うて、後には歌を詠まれることも少かつた。松村みね子夫人への返書に、
病苦とあらそひにつつ寂かなる心もとむと夕日にむかふ
真清水のふく音(おと)かそけき山の家の戸を守(も)りてあらむ小さき𪃹(あかはら)
の歌があつた。仰臥して書かれたこの作が、最後の作となつた。
君は客を喜んで小集を催された。かつて大森時代には、原田照子夫人と卓を共にした。大阪時代には、京都四條の納涼の床(ゆか)に、新村博士、古郷時待、川田順君らと席を同じうした。また、白水荘の庭なる李の花を愛し、折しも谷戸(やと)のあなたに病んで居られた木下利玄君が、李青といふ号があるにつけて、花の枝に歌を添へて贈られたこともあつた。
附記 君の夫人愛刀自また芸道にたけ、歌の道にも熱心で、夫君の遺稿をまとめ「間島弟彦歌集」を出され、後、夫人も喜寿の記念に同じ装幀の「間島愛歌集」を編まれた。茅ヶ崎の桑木博士夫人誠子ぬしと共に月一回凌寒荘を訪うて、午前は歌を学び、午後は隣家の根本氏に於て、小林まさ看護婦他数人に茶道を教へられたが昭和三十二年世を去られた。
関屋貞三郎
毎年盛夏の十日間を軽井沢の万平ホテルにいつて読書することを習はしとしてをつたが、昭和十四年の八月、別墅に滞在中の米山君から招かれて、華陽会の関屋貞三郎君と共に、夕方、浅間庵に赴いた。静かな室で、静かに世相を憂へ語られる二人の物がたりは、わが胸にもしむことが多かつた。
関屋君は昭和十三年十二月より翌年一月にかけて「台湾の旅」を、又、十七年の秋から冬にかけて五十日を旅して「北支那の旅百首」を印行して知友にわかたれた。後者の、「国状(くにがた)をまさ目に見まく樺太ゆ帰りしやがていゆく此の旅」は出立に際しての作。北支に入り、蒙彊に旅し、北京の懐仁堂で汪主席の熱弁を聞いたり、意義の深い作がある。
終戦後熱海に来られ、歌稿を携へて二三回訪はれたので、そのうちおたづねするというたに、翌朝近辺に住まれる俵国一博士が来られて、昨日関屋君を訪うたに、ここ牡丹台は坂の上、歌が出来たらば自分の方から伺ふからといはれたとの伝言である。底心はつよいが、あたたかい性格であつた。
乾政彦
杉栄三郎博士、中村徳重郎君、乾政彦博士は、いづれも明治三十三年の東大法科の出身で、わが会の同人としてもすぐれた人々である。
中に、乾博士は大和十津川郷の郷(がう)士の家に生れ、幕末の十津川の志士の魂を持つてをられ、その歌は、心も調も高潔であつた。
君は東大を出で、東京高商の講師となり、文部省より留学を命ぜられ、海外に在ること三年、帰朝して高商の教授、帝大の講師として民法学を講ぜられたが、大正四年、辞して弁護士となり、弁護士会長に推されること四度、昭和二十一年には貴族院議員に勅選せられた。
君は、一水会の一員となられたが、毎月、職務上の旅行以外は殆ど欠席せられず、覊中怱忙の間にも、必ず其の作を寄せられた。
昭和十九年、作歌二十年の記念にとて、歌集「岩襞」を公にせらるべく、集の名は、君に登山の趣味があり、毎年夏季に日本アルプスに登り、山岳の息吹の凝りて歌となれるものが尠くないので名づけられた。しかるに、印行中戦火苛烈を極めて、印刷所と共に紙型も燼滅し、本郷曙町の邸また兵火の災にあはれ、鎌倉山なる別墅に移り住まれたが、すでに病を得てありし君に、不幸はさらに相次ぎ夫人の君、末男の君も急逝せられる等、憂愁はその一身にあつまつた。この間、君の心の柱とも糧ともなつたのは、実に作歌三昧への一道であるといつても過言ではないであらう。その折々の欝懐をもらされた作は、すべて「心の花」に寄せられたが、宿痾にはかに重つて、自らも遂に白玉楼中の人となられた。
弟君の東季彦博士、同じく竹柏会の多年の同人として、君の遺稿の出版を望んでをられたところ、郷里十津川の諸氏、遺徳を追慕して、上梓のことを計られ、令嬢杉浜子ぬしが詠草を整へられて一冊の歌集が成つた。
自分は常に云ふ、歌は人間の魂の声、その響きくさぐさの中に、崇厳と沈痛との調べを以て最も重しとする、と。乾君の歌は、たまたま擬音を用ゐた軽快な作等もあるが、崇厳と沈痛の作に富んでをり、乾政彦歌集一巻は人間乾政彦を語るもの、君、世になしといへども、君の作は永く光彩を放つものといふべきである。
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