福原俊丸

 福原君の祖先は毛利元就の兄であつたが、家督を弟に譲つて家老となり、宇部の藩主として毛利家のためにつくされた。幕末時代の祖父君なる越後は勤王の心あつく、かの蛤御門の変の罪を自ら着て切腹されたのであつた。
 俊丸君は東大工科の業を卒へ、クレーンが専門で、朝鮮にも屡々赴かれ、その作品が歌集「雲」となつた。
 貴族院に入つては、当時の所謂三Fの一人として大いに活躍された。
 君はまた夙く禅学に志し、椎尾大僧正などと親しみ、禅味を歌によみ入れることにつくし、田あれば憂あり、といふ語から、歌集「有田憂田(うでんうでん)」を刊行された。熱海桃山なる彫刻家の藤井浩佑君とも親しく、その訪問の途次に詠草をたづさへ来られたに、遠逝がいたましい。

    藤瀬秀子

 歌集「藤のうら葉」「ゆふ汐」「曼荼羅」の作者藤田富子夫人の発起で、宗方由起子、九條武子、藤瀬秀子、渡辺とめ子、朝吹磯子、樺山常子、吉田雪子、岩原丈夫(たけを)子、伊東暁子、大河内国子、間島愛、井伊文子、三宅千代子さんなどが会員になられた藤波会は、毎月一回自分の講義、小花清泉、斎藤瀏、穴山孝道君などの批評参加もあつて長くつづいた。(巻頭写真参照。)
 藤瀬夫人は軽井沢の槻沢に別墅があつて、「槻の下蔭」、「山窓」などの集となつた高原の佳作、また逗子の別墅に於ける秀逸も少くない。
 その晩年、逗子は田越川に近く桜山のふもとの閑静なすまひで、専ら歌を詠じ、熱海に来られる時は、歌集「野分」の作者で近く住まれる萩原菊世さんと同行された。
 令息の諸氏が社会に活躍してをられるに、世をはやくされたのは可惜(あたら)しい。

    樺山常子

 大正の中年より、わが竹柏会の同人のうちに、藤波会といふ、婦人の会員が各自の短歌を品隲する会を催したが、樺山夫人は中にも熱心で、病を得られる前は毎回出席せられ、時としては、法悦にひたれる歌を出詠して、人々の問に答へ、法の道に就いて語られたこともあつた。
 夫人世を去られて後、国際文化振興会主催の伊太利使節招待の演能会の夜、休憩の時間に、樺山伯に面晤したに、伯は、亡き常子は、能に、茶に、香に、舞踊に、あらゆる趣味に富んでをつたが、今夜のごとき折に世にあらば、わが古典などについて、外人にくさぐさものがたるべきに、と語られた。
 夫人は盛夏を富士の裾野の別墅に過し、大正九年に歌集「富士の裾野にて」を著はされたが、昭和十四年、夫人の十年祭に「樺山常子集」一冊が公けにされた。「富士の裾野にて」を巻首におき、生涯の作をあつめられたのであるが、粘葉本(でつてふぼん)で各種の色紙(いろがみ)を用ゐ、内容にふさはしい優雅な集である。

    吉田雪子

 古今集なる貫之の歌に、また金葉集なる紀伊の歌に詠まれた泉州高師の浜の老松を、明治維新の際、士族授産の料に充つべく伐らうとしたに、時の内務卿大久保利通公が聞かれて、「音にきく高師の浜の浜松も世のあだ波はのがれざりけり」と詠じ、堺なる県令のもとに斬伐の情なきよしをいひ送つて、停止せしめられたといふ。この大久保公が、吉田雪子夫人の祖父君である。
 夫人の父君は牧野伸顕伯で、伯もまた文芸に深い理解を持つてをられた。帝展創設の構想は、伯が海外から帰朝のをり、大塚保治博士との船中談から生れたと伝聞する。折々の歌稿は、予のもとに送られもした。母君峰子刀自も和歌を嗜まれ、明治廿一年歌御会始の「雪埋松」の預選歌に、「兵庫県書記官伸顕妻」として御前披講の光栄をうけられた。雪子夫人の歌心は、かかる淵源を有するのである。
 夫人は吉田茂氏に嫁がれ、よく子女を養育された。しかして、常に花卉を愛好する心の深かつたことを物語るやうに、特に色彩に対するすぐれた感覚を持ち、その意匠に成る図案によつて染められた日本婦人服の展覧会が、高島屋で催されたこともあつた。
 伊大利大使として赴任された夫君と、同行した夫人は、ある時、レマン湖畔の夕陽が染めなす山色水容の美しさに心うたれ、その感動を三十一字に託し、父母のもとに寄せられた。しかして、父君と親交のある西川義方博士を介して竹柏園の同人となり、羅馬と東京との間を、詠草が往来するやうになつた。
 帰朝後は藤波会の一員となり、その席上予の講義を聞き互評に熱心であつた。伊大利の野をいろどるミモザの花の美しさを語られたのは、牧野伯夫妻と共に、永田町に招かれた席上であつたが、時経て、その数枝を贈られたので、西片町のわが書斎は、ゆくりなく南欧の香をただよはしたことであつた。
 さらに、英吉利大使夫人として赴かれた時は、あたかも英国皇帝戴冠式の行はれたをりとて、きはめて多忙であられたに、式の朝、式場のさま、秩父宮同妃両殿下が外国皇族の第一位として御入場のこと等々、数々の作を東京におくられた。また、夫人の深い愛国の熱情は、その時々の歌の上にもあらはれてをつたが、倫敦に於て出版された「せせらぎ」一巻は、特に英文で書かれたものである。
 かく天分に恵まれ、豊かな稔りを想はせた夫人は、不治のいたづきを得て、昭和十六年十月、世界の風雲のあわただしい時に、しづかに此の世を去られた。父君の哀悼の歌に、「思ひ入りて真心かたるおもかげは今も目に残るあ子の姿ぞ」とある。
 夫人の世に遺された多くの歌稿は、不幸にもすべて戦火に焼き亡ぼされ、「心の花」に掲げた折々の作品のみが、そのかみを偲ぶよすがとなつた。愛嬢にして麻生家にとつがれた和子ぬしの孝心は、「心の花」からその三百三十余首を抜抄して、玉堂画伯装幀の「雪子歌集」を編まれた。
 カトリックの信徒としての夫人が、伊太利から渡来した尼僧マドレー・クリスチナさんたちを援助されたやさしい心は、かの「-粒の麦」の譬のやうに、東京及び長野の苦難時代を経て、夫人の名づけられたままに、清泉女学院として横須賀にうるはしく成長しつつある時、夫人の心の日記といふべき歌集が、その短かかりし生涯の永遠のかたみとして刊行されたことは、いとせめてと欣ばしい。

    原善一郎

 ぬばたまの夜の白雪しとしとと降りつむ雪のしづかなるかな。霏々として散りぼふ雪の清らなるかな。まことに夜の雪の清く静かに、まだきに消えゆかれたやうな原善一郎君の生涯であつた。
 君は、読書人であり文化人であつた。学生の頃の芥川龍之介君と親しかつたことはさきに掲げた。君はまた、和辻哲郎君の「古寺巡礼」の開巻第一頁に出て来るZ君でもある。
 父君三渓翁の教養が東洋に深く根ざしてゐたのに対して、善一郎君は西欧を広く身につけたというてよい。若くして米国コロンビヤ大学に学び、後、フランスからイタリーに遊ばれ、エジプトにピラミットを見に行かれた時は、阿部次郎、小島喜久雄、太田正雄、小林古径、前田青邨の五氏と同行されたといふ。
 和歌は、横浜在住の同人のつどひである新月会の中心となつて熱心に作られた。質量ともに一冊の集を成されてよいからと慫慂したに、謙虚で内省的な君は、つねに微笑するのみであつたが、ある時「もし歌集を出す時があつたら『夜の雪』と題しようと思ふ」と語られた。それが、寿枝子夫人の涙にふるへる手で浄書され、刊行された遺稿集の名となつたのである。
 君は先輩木下利玄の作風を深く慕つてをられたが、それはただ作歌の世界のみでなく、教養も人生観も、多分に白樺的であつたといへる。横浜のロータリークラブの席上、君が主唱して料理の一皿をへらし、その分の金をたくはへて、貧しき人々に贈つたといふ話は、いかにも君にふさはしい挿話である。

    西郷春子

 三渓園内の典雅な雰囲気のもとに、長男善一郎君には、遺稿「夜の雪」、夫人寿枝子さんには歌集「夕光」がある。
 長女で西郷家にとつがれた春子さんは、「塔」「あし原」「慧春集」の三集をのこされはしたが、世に在らばなほ数冊をのこさるべきにと遺憾である。
 ゆたかな天分にめぐまれてゐた春子さんは、若くして邸内に住んでをつたミスゲーツに外語をも学ばれたが、兄君よりもより多く父君に学ばれて、晩年の三渓翁の枕頭に、漢籍をすらすらと読んで聞かせてあげられたのは、春子さんであつたと聞く。さういふさかしい女性であると共に、心のやさしい人であつたから、父翁を授けた重役の一人である河野氏の夫人が、新劇の世界に入らうとした時、その強い決意を書簡にしてうちあけ、春子さんのはげましを期待された、といふのもうべなはれる。その人が、後の「桜の園」の「ラネフスカヤ夫人」東山千栄子さんであつた。
 それと方面はちがふが、同じく原合名会社につくされた河杉氏の夫人で、「藤むすめ」「柳の葉」「初子集」の作者初子さんは、春子さんの心の友として、三渓園が育てたすぐれた女歌人というてよいのである。

    長谷川時雨

 紅葉山人の紹介で山岸荷葉(かえふ)君が入門されたが、荷葉君の紹介で、同じ日本橋の通油町なる長谷川時雨(しぐれ)さんが入会された。脚本を専門にとの希望で、明治四十一年に、海軍協会の懸賞に応じての脚本「覇王丸」が当選した。それは自分も相談にあづかつたので歌舞伎座の上演に招かれた。歌は折々に作品をたづさへ来て、多年熱心であつた。歳月は流れて昭和十四年の五月の初め、門庭(かどには)の牡丹が盛りであつたので、ささやかな牡丹の宴を催すべく、社友のうち芸界の人として時雨さんを初め、森律子、藤蔭静樹(当時静枝)、木村富子さん、文筆家として津軽照子夫人、社会人として村岡花子さんを招き、相伴にと弥生町の西川博士をもおよびした。時雨さんが主として斡旋されて、楽しい一夕であつた。

    大村八代子

 岡崎邦輔君の紹介で、大村さんは入門された。明治三十三年の春で、その年の竹柏会大会の第二回から、毎年、会の為に身もたな知らにはたらいてくれられた。
 何年の冬であつたが、一人子の重光さんが病気で三保に療養してをられると聞き、京阪に文献捜索に行つた帰途立ち寄つた。見舞ひをへて、たそがれ近く三保から清水へ小舟に乗つた。ふと見た空に何と真赤な富士が見えるではないか。驚いて船頭にきくと、あれは紅富士(べにふじ)です。お山全体が雪にうもれた時、時として夕方にあのやうに染まるので、いつでもどこでも見られるものではありません。運のいい方(かた)です、というてくれた。病気見舞に行つたおかげと喜ばしく、すぐ大村さんに葉書を出した。(その後、同じ景を、静岡市の草深町、用宗(もちむね)の停車場で見たことであつた。)
 毎月の歌会、研究会にも大村さんはいつもよくつくしてくれられた。歌にもいそしまれ、大正七年四月、歌集「山彦」を出された。
 昭和三十年八月、世を去られたので、九月の末に、三角いく代さんなどが住んでをられて度々おとなはれた鎌倉の浄智寺で、安藤寛さん主催の湘南歌会の人々がさかんな追悼会を開かれ、朝比奈宗源老師も焼香して下さつた。自分も列席して多年の思ひ出がたりをしたことであつた。

    富岡冬野

 大正八年の春、賀茂川を隔てて東山の望まれる西石垣(さいせき)の津四楼(つしろう)にとまつてをつたある日、うら若い冬野さんと母君とし子さんを、上村観光(うへむらくわんくわう)君が同伴して来られた。冬野さんが歌をすきなので、父君が藤井紫影博士に相談されたに、わが竹柏会にとすすめられたからとのことであつた。
 いつもの慣はしのやうに、「近頃詠まれた歌を、二三首いうてほしい。眼をつむつて聴いてをる。どんな風の歌をよまれるか、知りたいから」と言つた。冬野さんは二三首の自作をすらすらといはれた。自分は、「よく出来るやうになられませう。これこれの句は、かう改められるとよいでせう」などいふと、にこやかにうなづかれた。「お祖父さまの鉄斎先生は、日本の国の偉(えら)い方。お父さまは、学者としてすぐれた方であつた。あなたもすぐれた女歌人におなりなさい」というた。初対面の印象は心に残るもの、この日の冬野さんは、好もしい、賢い人として映(うつ)つた。さうして、その直観は誤つてゐなかつた。
 その頃は、学問上の用で、しばしば京阪に赴き、京都では京都ホテルの客となることが多かつた。さういふ時、冬野さんはホテルに訪ねて来られ、時には一年上級の曽野(いま原口)喜美子さんや、同級の松村(いま藤野)幸子さんと、打ちつれて来られもした。歌人としての生長は、その度ごとに目に立つものがあつた。
 冬野さんの歌がいちじるしく進歩した時、「心の花叢書」の中に歌集の刊行をすすめ、集の名は老先生の親しい内藤湖南博士が、「微風」とつけられるところまで話が進んだある日、とし子さんは、老先生の画室に行つて、これこれと話され、「微風」といふ題簽を、と請はれた。ところが言下に、「なに、冬野の集――まだ早い」といはれた。とし子さんは重ねて、「佐佐木先生がお選びになり、題名も湖南先生がおつけ下され、序文もかいていただく筈でありますから」といはれたが、黙つて答へられなかつた。とし子さんもつぎほがない。こと芸術に関する限り、一歩も譲られぬきびしさが、たとひ愛孫の作品であらうとも、許されない性格を知りつくしてをられるとし子さんは、だまつて茶の間に退(さが)られた。二三十分経(た)つて、何かの用事でとし子さんが画室に行かれたに、老先生は庭の蔵に本を取りに行かれたのであらう、姿が見えない。ふと机の上を見ると、小さい紙が三四枚おいてあつて、そのどれにも、「微風」、「微風」と書いてあつた。「さつきは、あのやうにおつしやつたのに」と、とし子さんは、喜びのほほゑみと共に、眼頭の熱くなるのを覚えられたといふ。
 冬野さんは、松崎君に嫁ぎ、上海にいつて彼の地でなくなられた。「心の花」四十四巻七号{昭和十五年}の冬野さん追悼号には、内外の知人の多くの歌文が掲げてある。すぐれた歌集「微風」の作者が、世を早くされたことは、まことに歎かはしい。
  附記 とし子さんは冬野さんよりおくれて入門されたが、竹柏会京都支部歌会の中心として、たゆむことなくいそしまれ、さきに「好文木」、近くは「玉兎」と、名もみやびな好歌集を出された。

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