栗林加寿子
栗林加寿子(かずこ)刀自は、越後中山村佐藤氏の女。東都に学んで香蘭女学校を了へ、明治二十八年、薫堂栗林五朔氏に嫁がれた。当時、室蘭の地を卜して創業されたが、その困苦も尋常でなかつたに、能く夫君を助けて艱難を共にし、今日の隆々たる栗林商船、及び諸会社の基礎が定められた。しかも平素自らを持すること厳であつたが、社会公共の事業といへば、率先事に当つて、北海道大学が温泉療養所を登別に建設せんとするや、故薫堂翁の遺志を継いで献金し、その功によつて紺綬褒章を授けられたのは、刀自及び栗原家のこよなき誉であつた。刀自七十有二歳の昭和十四年、家風いよよ起れるを以て、故翁の足跡を訪ひ、和歌に託して雅懐を遣り、以て余生を慰め、その秀逸を撰び、歌集一巻をも印行せられたが、会社創立二十周年に当り、社員一同は、刀自に温泉に因ある作の揮毫を請ひ故翁が心血を注がれた登別の公園に歌碑を建てて謝恩の忱(まこと)を表し、併せて刀自の高齢をことほがうとしたので、
いたどりのしげりかぶさる谷川に湯の香ただよふ夏の真昼を
と書かれた。
刀自は石榑千亦君の教をうけ、予にも折々に示されたので、この歌の碑陰の記を予がかいたところ建碑の当日(十月十日)二人に臨席してほしいとのこと、予には、さきに夏の北海道には赴かれたが秋のここかしこを社員に案内せしめようとのことで、式の前日室蘭に、翌日登別に赴いた。クランドホテルの前の小公園につどうたのは、札幌の女歌人藤本鳥羽子ぬしをはじめ、知友及び社員の諸氏、神官の修祓、孫嬢が除幕の紅白の綱を引かれた。《注:「クランドホテル」は底本のまま。》
自分はまづ、「家の風おこり栄えて栗林よき花かをりよき実みのりつ」、石榑君は、「やはらかきこの湯の山の湯煙につつまれてとはに歌の命の」、藤本ぬしは、「数しれぬ君がいさをは湯の山のこの石ぶみにかがやき匂ふ」。各の朗詠がすむと、刀自はしづかに重みのある声で、
身にあまる今日のこの光栄(はえ)よろこびの心をいかにうたひいでまし
とうたひあげられた。やがて数々の余興がはじまつた。
石榑君と予は、ホテルのバルコニーにいつた頃、紅白の幕を張つた櫓の上から、紙に包まれた小さな餅が、雨あられのやうに撒かれる。湯の町の老も若きも、今日のよき日の幸にあやからうと、とよめき拾ふ間に、五俵の餅は撒かれたやうである。当日の写真と歌碑は、心の花四十三巻十一号に掲げてある。
石榑君は東京に用があつて翌日帰られ、自分は社員の案内で、十勝野を過ぎ、神威古潭、大雪山、層雲峡及び定山渓の紅葉を見めで、北海百首を詠じた。(信綱歌集三三七頁。)
なほ、刀自は昭和十七年十一月、世を去られたが、栗林家は、徳一、友二の二君が、はやく船舶業を嗣がれ、定四郎氏は釧路で運輸業を営まれてをるが、その夫人せつ子ぬしは、数年前竹柏会に入り、斯道にいそしんでをられる。
熊沢一衛
熊沢君は三重県河原田の出身、四日市製紙会社に入社、東海道富士川の上流なる芝川支店に勤務、ほど遠からぬ岩淵に自適の生活を送られた元宮相田中光顕伯の知遇を得て、高雅な趣味性を養ひ、号を月台といはれ、その蒐集にかかる古筆帖をも、月台帖と命名された。
君の奥さんは、菰野の高田顕允翁の女、翁はわが父の門弟であつた関係から、上京の際、古筆を見てほしいとて訪問されたこともあつた。
関東大震災の折、十数年の学究的努力をつづけた校本万葉集が、その原稿も、製本所にあつた五百部も、全部焼失したことを聞いて、自分は驚きのあまり脳貧血で倒れた。そのことが新聞に出たのを見られた田中伯は、上京の途次訪問した熊沢君に、慰問するやういはれたので、君は西片町を訪はれた。そこへ校正刷二部が発見されるといふ不思議な幸運にめぐまれて、
一すぢの光さしぬれぬばたまの心の道のをぐらきに今
と詠んだが、幸に再刊の運びとなつた。これは熊沢君の激励によるもので、後に、「評釈万葉集」の際に山副博士(ひろし)君から援助をうけたことと共に、恩義は忘れられぬ。
その後、熊沢君は事業の行過ぎから蹉跌されたこともあつたが、歿後十七年の昭和三十二年、四日市市制六十周年記念祝典に、君が図書館を寄附された等の功労により篤く表彰された。在天の霊は、積年の暗雲一時に吹き払はれた思ひであられたらう。
君の女てる子さんが、遺稿をつどへて記念に、歌集「月台集」を出版されたことはまことに喜ばしい。
追記 かつて、君を四日市に訪うた折、珍しく二日の暇があるからとのことで、菰野の湯の山温泉に遊んだ。第一日は休養し、第二日には蒼滝に遊びなどしつつ歌を考へて、「白雲は空にうかべり谷川の石みな石のおのづからなる」、「渓中の大岩にゐて時ひさしむかつ尾上(をのへ)にしみ入る夕日」等十数首を得て喜んだことであつた。近く、貞享四年印行の「菰野湯山手引草」といふ、画も文詞も稚拙な一冊を得て、当時すでに、八軒の湯屋のあつた事などを知り得た。
西原民平
昭和十四年の秋、北海道へ行つた時の帰さ、小樽で乗り換へたが、汽車はひどく混んでをる。席をさがしてゐると、コンパーメントの一室に三人がけのやう、小さな窓から見えたに、向うから、「やあ、佐佐木先生」といふ力強い声――見れば、日本倶楽部歌会の同人西原民平君と妻君と、会社の社員との三人であつた。
良い席を得たばかりでなく、樺太ドウヱの紙業会社からの帰途とて、ドウヱは十一月末には海岸から凍つて、廿五六里西のシベリヤ対岸まで氷がはりつめるといふやうな物がたり、ソビエート人は個人的にはよいが、時として、云々と語られた言葉は長く胸に残つた。
戦争がたけなはの頃、毎日新聞社から依嘱されて軍歌を作詞することとなり、自分は全心全力を傾けて作りたい気持から、どこか静かな思索の場所をと思うたに、ある社友が、熱海西山の上なる来宮荘を紹介してくれた。考へるにふさはしい部屋があつたので、そこに宿り、三日間に作詞、一度帰京更に考ふべき歌があつたので、何日何時ゆくといふ電報をうつたに、その時刻に熱海駅に降りると、出迎へてくれた荘の女あるじの側に、西原君が笑顔で立つてをられる。「どうして」とたづねたに、僕の山荘は来宮荘の下の方であるから、おいでの事をふと聞いたのでといはれた。翌日の夕方しごとがすんで、西原君の招きのまにまに、君の別墅を訪うたに、夫人の心からなるもてなし、広いといふではないが、庭のたたずまひも情趣ふかい。つくづく良い家と思うて一夕を歌がたりに過した。
昭和十九年の十二月、自分は病後を養ふため転地するやう、医師山川博士や下村海南君から奨められた。ふと思ひついたままに、西原君の別荘の都合を聞くと、幸にあいてゐて、快く貸してくれられるといふ。君は自分を迎へるために、徳富蘇峰先生を訪ひ、軒近く老梅があることを語り、王荊公の「牆角数枝梅、凌寒独自開」の詩によつて凌寒荘の名をつけてもらはれたほど心を配つてくれられた。君の好意に厚く感謝しつつ、きびしい終戦前後の時局下に、心静かな老学生の生活をなし得た。後、君に請うてこの山荘を譲り受け、晩年のつひの住み家と定めるに至つた。
西原君は佐賀の人、夙く東大の工科を出て、日本鉱業会社常務の職にあつた。学識、胆力、熱情を兼ね具へた士で、昭和十九年、釜山鉱山で君の指導によつて行はれた七百米坑踏前落(ふまへおとし)大発破のごときは、世界の鉱業史にも特筆せらるべき作業であつたといふ。君は心も剛く、体も強く、従つて、歌も力づよい詠みぶりであつた。誠実一途な性格で、自分の喜寿祝賀の会には委員長をつとめてくれられた。惜しい年齢で世を逝られたのは、まことに夢のやうである。君亡きのち、郁子夫人と子息英治君夫妻とが幸福な家庭を営んでをられることを、いとせめてと思ひつつ、その冥福を祈つてをる。
久我貞三郎
多年海外にあり、また、国内にして貿易の業に尽瘁される久我貞三郎君は、子息太郎君と共に、わが竹柏会の同人として歌臘十数年に及んでをる。去年{昭和二十七年}夏より秋にかけて十二週間の旅程に、東南亜細亜七箇国を巡り来られた。印度にネール首相を訪うて記念帖に書かれた「日本と日本の人に幸あれ」の語を喜び、フィリッピンにアギナルド老将軍と東亜の前途を語り、台湾に蒋総統に会うて、その旅がたりを問はるるに答へ、或は視察に或は会談につとめられたのみならず、雪山を望んでは仏陀の足跡をしのび、チークの葉蔭に隠れをる象を見、野をゆるらに歩む孔雀をながめなど、当時折々にその感想を歌詠にしるして予のもとに寄せられたが、その歌稿を整理し、人々の筆蹟、写真等を添へて一冊とされた。再読するに、随処に感懐をもらされ、風俗習俗を写された作等、みな生彩がある。予さきに云うた。「旅行の途上その作品を留めるのは、その所々に自己の心の記念碑を建てるものである」と。今ここに詩歌人の訪ふことの少い各地に、多くの心の記念碑を建てられたことを喜ぶ。
以上は、君の歌集「東南アジアの旅」に自分の記した序言である。
君は千葉県九十九里浜に近い片貝の人。さきにその別墅が成つたから月見にと招かれて、成東の駅に小松つる刀自たちに迎へられ、八鶴湖に近い旗亭に歌を愛する数人に遇つて歌語りをし、君と二人片貝に赴いた。木の香も新しいベランダの椅子によつて、月の光さやかに、潮さゐのかすかに響きくるに聴き入つてをつた。翌朝は、早く浜辺に出た。折から漁船が着いて、獲物の水揚げがはじまる。魚をおろす、魚籠に分ち入れる。こぼれ落ちた小魚を子供らが競ひ拾ふ、めまぐるしい漁場の作業が展開する光景は、生きいきとした生活の讃歌を聴くおもひであつた。しかも、海は爽やかに晴れて、かつて石榑千亦君とやどつた大東崎は右に、同人と共に遊んだ犬吠崎は左の端に遠望されて、海洋の自然が、雄大豪放な画面を成してをつた。その時、砂上に点々と清くⅤの字形の跡を見て問うたに、「千鳥の踏んだ足跡です」と答へられた。鳥の迹、千鳥の跡といふ詞は夙くから知つてをつたが、見るのは、この朝が初めてなので、暫し見入つたことであつた。
帰途、伊藤左千夫君の旧宅のある地を通つたので、車上、君に語つた。伊藤君のは九十九里浜の自然の大観を見た傑作であるが、漁村の朝夕に奏でられる個々の人間生活の交響楽をよく表現した九十九里浜百首を詠まれるやうすすめたに、君は大いにいそしみつとめて、二百首近くよまれたが、急に病んで失せられたので、太郎君は「九十九里浜百五十首」を印行して故旧に頒たれたのであつた。
高橋刀畔
今は昔といふべき頃、千葉県滑川町の高橋刀畔君が上京して入会された。篤実な地方人らしい風丯であるが、しんのしっかりした人で、庭園につづいて広い果樹園を造つてをるとの話をされた。自分は果樹を作る苦心も歌をつくるのも共に情熱から生れるものであらうといふ話をしてから、下総は、佐原に伊能魚彦(なびこ)が出たので、その感化から、かの地方に神山魚貫(なつら)、伊能頴則(ひでのり)、鈴木雅之(まさゆき)、椿仲輔(なかすけ)等が生れた話をした。
然るに、やがて刀根川会がおこり、同じ町の桜井常吉、神崎(かうざき)に寺田憲(けん)、高柳義方、笹川に多田忠昭君が出られたので、ある時は石榑君や木下君と一緒に刀根川の鮭網を見に、また野遊会の人々と果樹園見物にもいつた。その後、さらに「農人の歌」や「且つ耕し且つ歌ふ」「薮蔭(ぼさかげ)の花」の椿一郎君が神崎在の立向から、更に、「機関士の歌」四冊を刊行した成田の飯田恒治君をはじめ、佐原でも一グループをなしてをられることは、高橋君の熱誠な感化とよろこばしい。
宇野栄三
戦争前入会された若人で、歌に長じ、人格も学芸もすぐれてゐて、自分の子のやうに親しく思うてゐた小城正雄、林大、村田邦夫、久我太郎、宇野栄三の五君があつた。戦争おこるや、招集されて、ビルマに、中支に、朝鮮に、仏印にそれぞれ出征された。
めでたく帰還の日を祈つてゐたに、四君は無事帰国、宇野君一人のみは仏印からニューギニヤにむけ乗船せられたに、船と共に戦歿せられた。
宇野君は大阪の人、近松を研究し、上京して「鴬」の同人でもあつた。ニューギニヤに向ふ船中より細字の葉書に、戦地にての詠草漸く三百首に達し清書はしたが、紙数が多く兵卒ゆゑおくることが出来ぬとあつた。
母一人子一人の君、いとせめてその三百首の歌稿が届いたならばと痛歎せられる。
市河彦太郎
外務省の若い外交官なる市河彦太郎君が入門された。沼津の出身で、聡明な人格者であり、従つて明朗な作風であつた。自分は夙く王堂先生の教によつて、万葉集及び古い歌謡の英訳のすぐれた本を出したいとかねて考へてをつたので、翻訳者によい人があらうかと問うたに、君は、それは実によいおたづねである。外務省の翻訳官に小畑薫良(しげよし)君がをつて、若くして米英に遊び、英文の「李太白」をも出した人であるとのこと。それはと喜んだに、次の土曜日に小畑君を同行された。爾来話が進んで昭和七年、自分の還暦の賀会が華族会館で盛んに催された折、自分の今後の希望二三を述べ、その一つに万葉集の英訳があり、今日はその小畑君も、紹介された市河君も出席してをられると、喜び述べたことであつた。後、数ヶ月、この話が日本学術振興会の事業の一つにする方がよいとの事になり、数人の委員により原稿を作成し、翻訳に小畑君と石井白村君があたり、四年を経て大成し、岩波書店から出版された。
市河君は、後、イランの公使となり、戦時中を善処して帰朝されたが、不幸にも病を得て歿せられた。未亡人かよ子さん亦文芸に志あつく、「ミキコちやんのおけいこ」といふ幼い人の為にかかれた洋楽の本を出版された。
附記 自分は英訳万葉集が成つたので、世界各国の語の良訳の書を出したいと苦心し、「漢訳万葉集選」は、中華民国の学者で日本滞在中の銭稲孫君に委嘱し、昭和三十四年六月に出版された。独訳は滞日中のツアヘルト君に託し、帰欧後完成されたが未だ出版の機に恵まれない。仏訳は巴里のグランヂャン夫人及び長島寿義(ひさよし)君によつて、また露訳は、昭和初年来日したアンナ・グルスキナ夫人が訳をすすめつつある。なほ、イタリヤ語スペイン語、朝鮮語、ヒンズー語、エスペラント語にもと考へてゐる。(二八頁参照。)《注:二八頁は市村瓚次郎の項。》
鈴木敏一
丹崖(たんがい)鈴木敏一(としかず)君は明治十八年、兵庫県は源平の戦で名高い鵯越の附近の山寺に生れられたが、労働しつつ小中学の勉強をつづけ、所々転学して、大正三年、東北大学理学部数学科に学び、卒業して、第一生命保険会社に入社された。(弟君、寿岳文章博士も同じく苦学せられたといふ。)
七年に米国に学ぶ事二年、日本に於ける保険数学の権威者であり、アクチュアリー的感覚をもつた経営者として、昭和三十二年まで副社長の職をつづけられ、晩年熱海西山の別墅が凌寒荘に近いので訪問され、若い時から万葉を味読し、花を愛好してゐるからと、夫妻及び五女武子さん三人が入会、道に勤しまれた。
昭和三十四年六月七日は、予の米寿賀会が熱海の観光会館で催されるので、出席の筈であつたに、とみに遠逝、四日に三越から新調の洋服が家に届いたとのこと、遺憾のきはみであつた。
なほ、五女黒沢武子さんは、歌才に長けて、歌集「冬の虹」を公けにされ、熱海に於ける天才の女歌人として、石川不二子さんと肩を並べたたへられてをられる。
石井衣子
「石井夫人は自分のたづねるまにまに語り続けられる。「亜爾然丁(アルゼンチン)」といふ言葉は、「銀」といふ意味で、むかし欧州から新大陸をめざして、夢のやうな富を求めに来た人々が、目的の銀鉱は発見しなかつたが、記念の為にその土地に、その志して来た名をつけて国をたてたのである。首府ブエノスアイレスは、『昼は紐育(ニユーヨーク)であり、夜は巴里(パリ)である』と云はれてゐる。それは昼の商業区域の取引の盛んな様子は紐育を思はせ、夜の盛り場の賑はしさは巴里に似てゐるからである。建国百年祭を十数年前にすませた若い国だけに、すべての物が新しく、町なども区画整然として、繁華な町の処々に小公園を配し、其処には必ず幾つかの芸術的な像が置いてあつて、花壇には草花が絶えず、手入がよく届いて居る。市中はあらゆる文化的の設備がととのつてをるが、市外に出ると、それは大きな自然に圧倒されてしまひさうな気がする。際限も無い平野の景色は、恐ろしいもののやうに眼にうつる。この広野に移住して来て、最初に国を開いた人々は、非常に勇気に充ちた人々であつたとおもふ。今はあらゆる国の人々が集まつてゐるので、その国の人も、また外国人たちも、人種的の偏見といふものを持たずに暮してゆける。伊太利人の八百屋から野菜を買ひ、独逸人の花屋から花を買ひ、仏蘭西人の仕立屋に着物を作らせ、英吉利人の医者をたのんで暮して居る。実生活の上でもさうであれば、また仏蘭西のよい彫刻も、伊太利のオペラも、独逸の音楽も、露西亜の舞踏も、いづれも立派なものに接する事が出来る。かつてはカルーソーも来てうたひ、近くはタゴールや、アインスタインもおとづれた。日本では余り名も知られてゐない南米の一角にも、世界と通ずる脈搏が強くうつてゐるといふ事は、考へなければならぬことである。これは、夫人が亜爾然丁に就いて語られた一節である。大正七年にかの国に渡られた夫人は、十年に一度帰朝し十四年三月再び帰朝し、更に十月、秋の海を越えて三たびかしこに赴かうとしてをられる。しかして、その折々にうたはれた歌の中から選んで一冊とし、そを祖国の友にわかつべく予に託された。明治より大正にかけて、わが婦人にして遠く海外にあそび、海のあなたに在る人は尠くない。しかもその地の風物をうたひ、情懐をのべた人は多くないにこの一巻を得たことは、わが国の婦人のためにも、歌壇のためにも、喜ばしいきはみである。」
以上は、大正十四年に出版された歌集「波にかたる」の自分の序の一節であるが、爾来何回か帰朝せられ、自分の八十賀会の折も、帰京中とて夫人の歓迎会をもかねたが、かの地の風物について述べられた。心の花七百号にも文をよせられ、一昨年の米寿賀にも上京中とて出席されたに、近くかの地にて逝去とのことを聞いて、かつ歎きかつ悲しんだ。(昭和三十五年六月)
附記 衣子さんの長女なる井上歌子さんが、母君の随筆集「五人の娘たち」を出版された。
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