ゆかりある人々
徳富蘇峰
三代の文豪蘇峰徳富先生を、若い頃から知ることを得たのは、自分の大いなる喜びである。先生の著作は夙く愛読し、後、国民の友に長詩「長良川」や、「花さうび」を寄稿し、国民新聞歌壇の選をも担当した。又、わが妻雪子が先生の姻戚になるので、逗子の老竜庵に一敬先生をおたづねした折、お逢ひしたに、わが国民全体が読むにふさはしい歌集を撰んでほしい、とのお話により、明治四十二年に、民友社から「国民歌集」を上梓した。また、竹柏会の大会や、祝賀会のをりをりには、度々講演を請ひもした。
昭和十九年十二月、自分は病後の静養をかねて熱海西山の山荘に移り住んだ時、まづ先生を伊豆山の晩晴草堂におたづねした。先生も、秘書や看護婦を伴うて、途中お休みになる為の三脚を携へさせておいで下さつた。妻雪子の逝(な)くなつた時には、一封の書に傷心の自分をはげまして下さつた。それは、儀礼的な弔辞といふものではなく、「かかる時、男子は自己の責務とする研学に直進し、もつて悲傷の心を忘れ慰すべきである」との切々の文章、自分はこの先輩の芳情に感泣しつつ、一族のものに読みきかせたことであつた。
先生は、「国民の友」時代に折々歌を詠んで示されたが、終戦後、門を閉ぢて籠居なさつた間に、抑へがたい憂憤の情を歌として折々に示された。後、それを撰びととのへ、米寿を記念して、「残夢百首」を刊行された。最も感銘の深い作、やる方なき感慨を託された、すぐれた百首である。
藤島正健
藤島大人は熊本に生れ、東京に出でて大蔵書記官となり、リオンの領事として、仏蘭西にあること数年、帰朝して富山及び千葉県の知事、勧業銀行の副総裁となり、後、南米貿易の発展に力をそそいでチリに赴き、計画する所があられたが、明治三十七年七月、六十歳で世を去られた。
母刀自は熊本矢島家の出で、女はらからは、横井小楠先生の夫人、徳富一敬翁にとついで、蘇峰翁、蘆花氏の母君、女子学院の矢島楫子院長、熊本女学校を創立された竹崎夫人等である。
正健大人も文才ゆたかで、自分がかつて安房北條に遊んだ時、郡長を初め社友のあつまつた歌会に知事として巡遊中の大人も列席された。それが縁となり、竹柏会の同人となられた。後、一敬先生のなかだちで、大人の女なる雪子がわが家にとつぐやうになり、長男の逸人が藤島家を嗣いだのであつた。
心の花第八巻八号には、親友の野田豁通男、蘇峰翁の哀悼の詩文等が掲げてある。
丘浅次郎
その著書「進化論」を読んで、丘(をか)博士の名は早くから知つてをつたが、長女久子さんを文綱の嫁にもらふやうになつて、牛込の邸を数回訪うた。
君は生活ぶりが極めて正しく、日々の食事の時間も、散歩の時間も、散歩の距離もきまつてをつたとのこと。若い時には、英仏独西伊蘭希羅、八つの国語を並行的に勉強されたといふが、国際語の必要を感じて学界に発表されようとした時、海外でエスペラント語が唱導されたので、自説を放棄して爾来、その日記はエスペラント語で書きつづけられたといふ。晩年の論文は、深奥な意見をも平易に叙述されて、名文であつた。
夫人のつき子さんは、岩村高俊君の三女で、おだやかな人であつた。
朝永正三
大正八年三月一日、京都ホテルにおける結婚披露宴――青柳教授は、「新婦の父君は和歌の達人、新郎の父君は機械の学者、これこそ和気藹々である」と、たくみに祝辞を述べられた。次につつましやかに立つた中年の人は、「自分はかういふ席でお祝の詞を述べる資格があるかないかと考へましたが、新郎を小学校で導いた教師でありますので、朝永博士より是非出席するやうにとのお詞によりまして……」云々と挨拶された。自分は、長女が此のよき朝永家にとついだことを、胸のうちに感謝した。
上京(かみぎやう)は広小路寺町を東へ入つたところ、物さびた老樹が繁り、苔のうつくしい閑雅な庭に向つた卓によつて、しきりに盃を傾けつつ、何事についても一つの意見を持つてをられる朝永博士は、酔が進むと眼鏡を額の中央(なから)におしあげて、温和な面ざしで語り続けられる。
朝永家は、嗣子も工学博士、女婿菅原君も工学博士、弟君なる三十郎君は文学博士、その嗣子振一郎君は理学博士、学者に富んだ家がらである。
正三博士は昭和十七年七月逝かれ、磯子夫人は二十年十一月疎開地信州で世を去られた。京は深草の宝塔寺に、老いたる妹背は安らかに眠つてをられる。その墓畔には、自分の手向けた歌が碑になつて建つてゐる。
鈴木庸生
鈴木庸生(つねお)博士の二女と予が三男との婚約が成つて、初めて訪うた時、室内にも屋外にもサボテンの鉢の多くおいてあるに驚いた。これは、メキシコから種をとり寄せたもの、これは何処のと説明された。壁間には、清水浜臣の「うま酒にわれ酔ひにけりかしら酔ひ手ゑひ足ゑひ我ゑひにけり」といふ竪幅が掛かつてをつた。酔筆であらう、筆勢躍るがごときよい出来であつた。自分が訪ふのでかけかへられたといふこの幅の前の卓で、うま酒をすすめられた。君は数十杯を傾けて陶然とされ、予は数杯に「われ酔ひにけり」であつた。
不幸にも君は早く世を去られた。君の通夜の夜に隣席した君の一友人は、君がアルミニウム及び、光学の研究に尽瘁せられたこと、理研の研究室で若い学士の指導に懇切であつたことを声低く語つて「実に惜しい人を」と痛歎してをられた。また一人の友人は、ウヰスキーの半ば入つた壜を写真の前に供へて、「君、君が来た晩に一緒に飲んで又来ようといつた、あの残りの壜を持つて来たのだよ」と、生ける人に物いふがごとき言葉は、深く胸にしみた。
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