うからやから

    佐々木弘綱

 予が常に幸に思つてゐる二つの事、その一つは輝かしい明治の大御代に生を享けたこと、他の一つは、吾が父を父として持つたことである。
 佐々木家は、宇多源氏の末流、近江蒲生郡にて和名抄にある篠笥(さゝき)郷(また狭々城・佐々貴ともかく)にをり、佐々木を姓とした。佐々木源三秀義の三男、三郎盛綱の子孫で、中祖従五位下佐々木左衛門尉定政は、織田信雄の臣となり、天正八年、滝川一益とともに、北勢の残党を垂坂山に討つた時、病を得て三重郡小杉で歿した。爾来郷士として小杉に在つたが、父の祖父利(とし)綱は、医学を江戸に修め、儒学を京都に学び、号を独往といつて詩歌をもよくしたが、門弟の請によつて鈴鹿郡石薬師駅に居を移した。父の父は徳(のり)綱というて、京に上り、書博士加茂保孝(やすたか)に学んで書と歌とをよくし、享和三年刊行の東海道人物志にもその名が出てをる。父の母は、日本武尊にゆかりの深い武備(たけび)神社の祠官、田上(たがみ)筑前守等安の女で鳰子といつたが、父が七歳の五月寡婦となつたので、手一つで父を育てた。その頃の歌に、「夏の夜の短き夜半も子の為にこがひ糸とりいとまなの身や」とある。「女親の手に育ちて物知らぬよと、人となりて、世の人にな侮られそ」と諭されたといふ母の心遣ひは、必ずや吾が父の胸に深く沁みた事であらう。父は初め習之助時綱というた。十四歳の一月、名古屋に在つて書道を藩士に教へた伯父康(やす)綱の家の会にて、初めて歌を詠じ、十七歳の一年には千首の歌を詠じた。十八歳、「雅言俗解」を著した。(後補正して、雅言小解と名づけて出版した。)十九歳庄野の専順師に詞のやちまたを学び、和蘭語をも学んだ。二十歳の九月、山田なる本居派の碩学足代弘訓翁の門に入る事を許された。母鳰子は、足袋をつくり、綿をつむぎ、大豆小豆などの袋をおくつて、吾が子の月謝の一部に代へた。父も学資の乏しさに、多くの書を手写した。
 足代翁は外宮の祠官であつたので、その家には、吉田松陰とか、清水浜臣とか、志士学者も宿り、その寛居(ゆたゐ)塾の塾生には、生川(なるかは)春明、佐甲(さかふ)芳介{後、近藤姓}、御巫(みかなぎ)清直などがをつた。父は塾にあること数年、専ら歌学を修めた。翁は、「時綱に弘の字を与へる、代理として行け」と、尾張知多郡や、南勢五桂村などに遣らるるやうになつた。
 先生は門人の境遇や性質によつて研究の方針を示され、父には作歌と国文の書の俚言解をと示されたので、安政三年、源氏物語俚言解の空蝉の巻まで成つたに、その十一月翁がみまかられた。翌四年三十歳の一月、活語全図刊行。七月江戸に出て井上文雄に歌道を問ひ、黒川春村、間宮永好等の先輩と交はつた。南勢射和(いざわ)の名門で江戸店持の竹川家の日本橋の家に泊つて世話になつてゐたが、竹取物語俚言解二冊を版にしてやらうとのことで、竹川正柱の序、同政恕書(政恕は竹川家の五代で号を文心斎というた。七代政胖が有名な竹斎である)が出版された。同五年、大阪にいたり、伴林光平、萩原広道、中島広足等諸先輩に交はり、中にも広足の嘱をうけて、「類題千船集」初編二冊を万延元年に刊行し元治元年に二編、明治元年に三編を印行した。
 やがて故郷に居を定めたに、石薬師を支配せる近江信楽(しがらき)の代官多羅尾(たらを)氏に聘せられて、国学を講じ苗字帯刀を免された。万延元年藤堂侯よりも召された。侯は文人墨客を愛せられ、父にも、津に移らずや、家士に列しよう、と勧められたが、父は多羅尾氏の好意を思うて辞した。この頃より門人多きを加へ、著書も次第に成り、刊行もされたのである。
 世は移つて明治維新となつた。東京なる旧友の中でも福羽美静子の如きは、頻に上京を促されたが、父は、今の世、人才は皆都にあつまる、自分などが田舎に埋れてをるのは、道の為であると考へて、二首の歌をおくつた。
   和歌の浦に老を養ふあしたづは雲の上をもよそにみるかな
   和歌の浦にわれだに一人のこらずば朽ちはてなまし玉拾ふ舟
 父は、安政元年、妻園田須磨子をめとり、その女、景子は幼くて歌を詠じたが、八歳で世を去り、須磨子も失せたので、明治三年、神戸(かんべ)藩士岡元喜藤司の女光子を娶り、五年六月長男信綱が、十年九月、次男昌綱が生まれた。
 同年十二月、鈴屋社歌会の監督をお頼まれして居を松阪に移した。十五年の三月、十一歳の予に、上野隅田の花を見せてやらう、東京のさまをもと、東海道の沿道に名家を訪ひ上京したところ、旧知の人々から、予の教育の為に東京に移り住む事を勧められたので、素志を翻して東京に住むことになつた。
 その頃、東京大学文学部に、国語漢文を専修する古典科が設けられた。父は、官吏となる事は好まなかつたが、小中村博士の、国学を後にのこす為であるからとの勧によつて、同年八月その講師となり、物語を講じ歌を教へた。同十六年東京大学編輯方にうつり、十七年東京師範学校御用掛を命ぜられたが、翌年冬、病を得たので、退いて、身を閑散の地におき、専ら著述をなし、かつ門弟を教へ、弟子は全国に及ぶ有様であつた。
 二十四年五月、一月からの病は重つたが、なほ日々床上に筆をとり、足代翁家集は、歿する数日前に装幀が成つたのを見て、大いに喜んだ。歿したのは六月廿五日、齢は六十四であつた。辞世の作に
   命あらば嬉しからましもしなくばそれもすべなし神にまかせむ
 谷中の墓地、五重塔に近い地に葬つた。
 四十一年十月廿五日、石薬師浄福寺の門前に、「和歌の浦に老を養ふ」の歌碑が、川村又助翁や、北野鈴鹿郡長の発起によつて成り、林三重県知事をはじめ、五百余人の参列のもとに除幕され、小学生徒諸子が、相沢三重師範学校長作詞の父をしのぶ唱歌を唱つた。爾来この十月廿五日に、町の年中行事の一として式が行はれてゐる。(六月は農繁期ゆゑ十月に。)《注:佐々木信綱「伊勢路大和路」(「心の花」12巻第12号)参照》
  追記 父は若い時藤堂凌雲について画を学び、鈴鹿山に因んで、鈴山と号した。また、桜村の佐野氏にあつた梛の大木の若い一本を請ひ得て、那木園と号し、椰園ともかいたが、後、竹柏園と改め、斎藤拙堂翁に額の執筆をこひ、今も予の座右にかかげてある。なぎの葉ははなはだ強くて二枚重ねては力士も裂くことができぬといはれてをる。それで父は、師弟共研の意義を感じ名づけたとのこと。自分も明治の和歌革新時代に、新しい歌の会を興さうとした時、竹柏会と名づけ、また別名をも竹柏園主人を襲ひ用ゐてをるのである。
 なほ、父の伝記については、昭和女子大学の「近代文学研究叢書」第一巻に、松本幸さんの書かれたのが最も精しいから参照せられたい。
  附記 わが家は代々「佐々木」とかいてきたに、自分が明治三十六年渡清して上海についた時、白岩君から、支那人の家を訪問の時の名刺は紅唐紙で縦二十三・五糎、横十一・五糎の大きさとのこと。やがて出来てきたに、佐佐木信綱とある。「〻」の字はあれど「々」の字は漢字には無いと初めて聞き知つた。見た目がよいから、爾来著書の表紙などには佐佐木とかくやうになつたのである。

    佐々木光子

 わが母光子は、石薬師とは鈴鹿川を中に隔てた神戸(かんべ)の藩士岡元氏の女で、江戸神田橋なる本多家の藩邸で生れたので、神田上水を産湯に使つたといふことが、母の誇の一つであつた。長じて、藩主の息女に仕へた。本多家は品川の御殿山に下屋敷があつたので、毎年の花の盛りには、息女が花見に行かれる際、盛装して駕籠脇について歩いていつた。今の若い人には行けぬであらうなど、たはぶれにいうてをつた。明治初年の廃藩置県で神戸に帰つてゐたが、縁あつて父のもとに嫁(とつ)いだ。
 父の生涯は著述と添削とにせはしかつた。母は心もかたちもうつくしかつた人、江戸時代に藩邸で習字や歌の初歩をも学んでをつたので、父の手助けにもなつたが、元来からだが丈夫でなかつた上にわが家が富んでゐないので、女中をも使はず、ことに埼玉の須長球(たまき)君(後の佐藤君)などが書生にをつた時代もあつて、須長君と自分と二人が大学に通ふ朝々の弁当づくりなども骨が折れたであらう。
 父の病が不治の胃癌ときまつてからの母の苦しみ、世を去つて後の歎き、その上に、母自らと昌綱君の病気、まことはいたはしく、かつ尊い母の一生であつた。世を去つたのは明治二十七年九月十日齢四十五であつた。《注:「まことはいたはしく」は底本のまま。》
 父の一周年の歌会を上野の桜雲台に催した折の母の歌、
   こぞの春はともに花みしこの岡にたま祭するけふのかなしさ
 といふ短冊を、近年ものした「短冊凌寒帖」に、父の辞世に並べて掲げておいた。

    印東昌綱

 昌綱君は、昭和十九年二月、六十八歳で世を去られた。四月の心の花の追悼号には、川田順、児山敬一、村田邦夫君、里井柳枝子さんを初め、楓園の書道と歌道の教をうけられた県愛子、真鍋美恵子阿部光子、大森すみ子さんがたの懇篤なる文詞があるが、ここには自分と雪子との短文を掲げることとする。
 信綱――ただ二人の兄弟ながら、末子であつた昌綱君は、父母君、ことに、母君の愛子(めづこ)であつた。益子夫人は先年世をはやくせられたが、賢夫人であつた。一人子弘玄(ひろはる)さんは文理科大学に教へ、学者としておだやかなよい人、その夫人もしとやかな嫁君、孫君たちも健やかで、実によい家庭である。
 この間、海南博士からの来書に、印東君は白梅のごとき感じのする方であつたとの言は、故人も喜んでをることであらう。霜雪を凌いでさく梅花のやうに、精神がしっかりしてをつた。自分の後事をいろいろ託してあつたに、いはむ方なき悲しみである。
 世に残つた、「かへりみて」、「家」、「細雨」の三つの歌集は、はなやかな歌ひぶりではないが、読む人の心をうつものがあると思ふ。はじめ多田親愛翁に、後、岡山高蔭氏に学んだ書道は、日本美術協会や、泰東書道院から賞牌を授けられたが、優雅な書風は長く世に残るものがあらう。自分は、父君の古典学を伝へたが、君は、父君の書道を伝へたというてよい。追悼の詞を書かうとして、筆が少しも進まぬ。我ままな兄に生涯よくつくしてくれられた昌綱君に、今ここで深くお礼を述べる。
 雪子――「西片町より」――昌綱さんと始終いうてをつたので、ここにもさう書かせていただく。何十年の思ひ出は多いが、一番に思はれるのは、仕合せな方であつた。よい家によいお子さん、よいお嫁さんと一緒に安らかに住んでおいでであつて、お苦しみなく安らかに世をお去りになつた。歌のお弟子、書のお弟子、県(あがた)さんをはじめ、多くの方々に惜しまれ、加賀覚次郎さまは、大阪からわざわざはふりの日に御上京くださつた。この追悼号についても、竹柏会や楓会の皆様から真心のこもつた歌文をおくつて下さつた。小花さんと糸重さんとは殊にお親しかつたので、第一に書いて下さるべきにお二方とも先におゆきになつた。昌綱さんが若くて房州にいたづきを養うてをられた時、佐佐木と一緒に見舞にいつて下さつた石榑さんもお逝きになつた。杉田の梅見にたしか御一緒であつた大塚楠緒さんは早くおなくなりになつた。いろいろ思ふと夢のやうである。
 村田さんの真心のこもつた御文は喜ばしい。時が時ゆゑ頁も少なく写真などもざら紙ではと思うてをつたところに、藤蔭さんと大森さんとの御厚意によつて、ふと思ひついて舟越さんにお頼みしたところ、幸にも両面アートが得られて、写真と筆蹟がうるはしく載せられるやうになつたことは、昌綱さんもどんなにか喜んで下さるであらう。ほんたうに仕合せな方であると思ふ。
  附記 信綱歌集(二六五頁)に、昭和九年の作、
      原田積善会の一行と共に賀茂川のほとりに宿る。
      印東昌綱君と同室なり
   おのがじしの家に住み離れはらからの四十年(よそとせ)に近し同じ室(へや)に寝(ぬ)る
   水のおと枕を流るはらからの語りいづるは遠き思ひ出
 同十三年(三一八頁)に、印東君還暦賀会の時、
   唯一つのわが誇らひの思ひ出は泣くを背負ひて須田町にゆきし
   須田町まで鉄道馬車のかかかりしを見せにぞ行きし泣くをすかしつつ
   本にのみかじりつきゐし「本虫」の一人の兄にさびしくありけむ
《注:「かかかりしを」は底本のまま。『作歌八十二年』「昭和十三年」には「かかりしを」。》

    佐々木雪子

 雪子は藤島氏の女。明治七年一月東京に生れ、幼くて父君の任地なる仏国リオンに母君と共にものし、かの地の小学教育をうけ、帰朝して明治女学校に学び、卒業後、竹柏会に入り、美文に志して、博文館の小説の雑誌、一葉女史の「十三夜」の載つてゐる「閏秀小説号」に、「手箱の内 藤島雪子」といふ小篇が掲げられてある。明治廿九年二月わが家にとついで、一人のをの子は早世したが、三人の男児、五人の女児の養育と教養に身をも心をもささげた。
 毎年の春季大会、野遊会、月々の研究会、折々に先輩友人を招いた会などにはよくはたらいてくれた。心の花編輯をも手伝つて、小川町時代には「ともしびのもと」、西片町時代には「西片町より」、熱海に移つては「熱海だより」を毎月かきつづけた。その中から、自分との合著にして、「竹柏漫筆」「筆のまにまに」の後半にかかげたことであつた。昭和二十三年十月十日脳溢血にかかり、十九日の朝歿した。享年七十五。
 心の花五十二巻第十一号を追悼録とした。自分の文、「さびしき秋」――「『天地にさびしきものは吾いものあらず成にし秋ぞありける』といふ狩野芳崖伯の歌は、自分の今夜の心もちをさながらうたはれてゐる。長い間かきつづけた文章も、やや不自由な身体となり、書く文字がまがつてゐたが、ノートブックに絶えず何かかきつけてをつた。その何冊めかが一ぱいになつたから、自分が十二日に上野にゆく日に、新しいのを買つて来てほしいというてゐたに、その十日の夕方にたふれたのであつた。――夜がふけて門川の瀬の音は高くきこえる。虫の声はしげい。雪子の還暦のをりに、向井潤吉画伯の描いてくれられた油画の前に、思ひ出の文を書かうとして筆を執りは執つたが、心が乱れてゐて、書きつづけられない。」
 次に、伊藤嘉夫、渡辺聡子、中山昭彦、阿久津心影氏らのいづれも真情のあふれた文詞がある。
  追記 雪子の生んだ長男逸人は、有坂勉男爵の妹季子さんを、二男文綱は、丘博士の女久子さんをめとつた。三男治綱は鈴木博士の女由幾子さんをめとつたに、次の文詞に述べたやうに未だ惜しい齢で世を去つた。
 長女綱子は上述した如く東大工学部の教授朝水研一郎博士に嫁した。朝永君は専門以外に音楽を愛されたに昭和二十九年二月遠逝された。二女弘子は三井物産社員慶応理財学士河野一郎君に嫁いだ。一郎君は登山家であつたに、昭和十五年七月世を去られた。嗣子の哲郎君は一昨々年農学博士となり、米国の大学に二年間講師として赴き、昨年十月に帰朝した。三女三枝子は久松潜一博士にとつぎ、三人の男子いづれも家を成し孫たちも栄えてゐるに、一昨々年十二月不幸世を去つた。四女富士子は法学士で住友銀行の支店長なりし小島正雄君に嫁いだに、正雄君は、昭和二十五年二月世を去られた。嗣子琢磨君は声学家、千葉大学の音楽部講師。五女道子は北里研究所の藤田秋治博士にとつぎ、長男純一君は、一昨々年理学博士となり、一昨年米国の大学に、二年間講師として赴いてゐる。(巻頭写真参照。)

    佐々木治綱

 昭和二十六年七月一日の朝、いつも着物などにかまはぬ自分であるが、よい羽織、よい袴をというて、上京しようと玄関へ出た時、伊豆山の淙々園の主人が、泰山木のつぼみ二枝を持つて来てくれられたので、喜んでそれを携へて列車にのつた。車中極めて静かであつたので、いろいろの事が思ひ出された。治綱君が歌集「秋を聴く」を印行するやうになつて、今日がその出版記念会であると思ふと、胸の底から喜びがわいてくるやうに思はれた。
 おもへば治綱君は、八高時代におもい病気にかかつたので、自分と雪子との苦しみは、たへがたかつた。
   やめる子に心は暗しかへりみて今日も暮れぬと妻にものいふ
   梅雨空(つゆぞら)のおほひかぶさる頭おもさ子は病みてあり遠く離れゐて
など折々に詠み、
   なげくなかれ悲しむなかれ日輪は人間の上を照らしたまへり
と詠みもした。しかるに、中西先生と谷口牧師とのあつい御好意により、すつかり全快して、東大の心理学科を卒業、さらに国文学科をも卒業、よい内君をめとり、よい幸綱君に恵まれて、著作に従事し、「短歌鑑賞の心理」「平田篤胤歌文集」「永福門院」「伏見天皇御製の研究」等を著し、白百合短大の教授にもなつてゐるのである。
 くさぐさの思ひ出にふけつてをるうち、いつか東大の山上集会所にいたると、林、村田、小城、中山、栗原、遠山さんたちの斡旋によつて、会場には、ここかしこに歓談がわいてゐた。やがて、土岐善麿、長寿吉、久松潜一、岡山巌、中河幹子、長谷川銀作、吉田精一、木俣修、阿部静枝、大橋松平、五島茂生方たつゑ、中野菊夫、千代国一、伊藤祷一、木村捨禄、小宮良太郎、伊藤嘉夫等がつぎつぎに祝辞を述べられ、治綱君の謝辞にうつった。自分はコップに水を入れさせ、かの泰山木のつぼみをさして治綱君の前に置いたに、謝辞の半頃に、大きな二花がぽつかりと開いた。それを見てゐた自分は、来会者諸君に感謝の詞を述べようとして立ちは立つたが、夜鶴の情、喜びの涙で暫し声が出なかつた。
 以上は、治綱君の処女歌集「秋を聴く」の出版記念会を終へて記した文である。
 一昨々年の七月から、自分は、膝の関節炎をわづらつて、いたみがつよく、足が一歩も歩めなかつた。しかし、ベットの上に小さな机をおき、晩年のしごとと読書とをつづけてをり、一昨年六月には、数へ年の米寿を迎へたので、社友の人々の好意により、盛んな祝賀会が熱海市の観光会館で催され、山川博士や浜田博士、原田マッサージ師にかかへられて行き、盛んな式が無事にすみ喜んでをつたに十月四日の朝、東京よりの電話で、昨夜治綱君が跡見学園の図書館よりの帰さ、校庭の石につまづいて転倒、都立大学病院に入院したとの報(しらせ)、自分は上京できぬので、ひたすら快癒を祈つてをつたに、八日の午前零時四十五分永眠したとのこと、ただただ悲しい夢である。
 いとせめて由幾子未亡人が治綱君に代つて東京の竹柏会の事を執り、幸綱君が早稲田大学の国文科に在学、歌をもよろこび詠みつつあることを、治綱君地下の霊が守つてをるやう、祈願してゐる。
  附記 小西甚一博士から「玉葉集時代と宋詩」といふ論文を送つてくれられた。中に治綱君の意見が引用してある。「解釈と鑑賞」の短歌の本質と実体号の大久保正君の論文中にも「短歌鑑賞の心理」が引いてある。
  追記 一年祭に、由幾子さんは「続秋を聴く」を印行、人々にわかたれた。

    岡元管太郎

 わが母の出た岡本(後に、岡元とかいた)家は、長女が佐藤氏、二女が湯原氏三女がわが母、末の子が男で英明といつたが、君は、父と自分が越前加賀に赴いた留守中、世を去られたので、一人子の管(かん)太郎(もとは菅(すが)太郎)君は、中学時代までは、いばらの道を歩まれたが、精神力つよく、商船学校に入り、卒業後、郵船会社につとめること廿八年、その間欧州メールの船長として往復すること二十五航海、それで、チェンバレン先生のおいでのゼネバのホテルまで、象牙細工や竹細工のやうなものを届けてもらつたこともある。又、ロンドンのウェーリー君が梁塵秘抄の抄訳を出されたのを喜んで、自分が短冊に歌をかいたのに添へて新しい短冊を持つていつてもらつたに、ウェーリー君は、「敷島のやまとの国の言の葉を遠人までも散りいたすかな」といふ即吟を短冊に書かれたので、それを持つて来てくれたこともあつた。又、いささかの金子を託して、アントワ-プのお土産館の和蘭焼の玩具などを買つて来てもらつたこともあつた。また、古書肆で文人の筆跡を売つてゐたらばと頼んだに、短い音信を裏にかいたイブセンの名刺などをもとめてくれられもした。
 停年退職の後、捕鯨母船日新丸の船長として南極に赴くとのこと、船おろしをした船が神戸にをるとの事で、昭和十一年十月、伊勢への途次に立ちよつた。港内に船の数は多かつたが、マストの形が変つてをるのですぐわかつた。甲板が他の船とは異なつてをり、マスコットの黒猫が日向に眠つてゐた。船長室に導かれると、一間(ひとま)には机がすゑられ、中央に卓子、窓ぎはに作りつけのソファー、次の一室には洋服箪笥と寝台がみえてをる。世界的競技ともいふべき業に赴く君は、南極についてのことをよく調べてゐて、極光(オーロラ)やプランクトンの事などを委しく話してくれた。(信綱歌集三〇〇頁)
 十三年四月、横浜に来てをるからとのことに、孫たちをつれていつたに、案内して種々話してくれられた。そして船長室のソファーによつてをると、「ア、さうさう」というて隣室にゆき、洋服箪笥の引出しをあけて、何かを持つてくる。欧州航路とちがつて南氷洋では何の土産(みやげ)かと、胸とどろかしてをるに、綺麗にたたんである手拭を卓子の上に置いて、「これは一昨年神戸で君がこの室に忘れていつたもの、時節がらとつておいた」とのこと。自分は驚いて、岡元君とは対蹠的で、南清以外、海外へいつたことがないに、この手拭は二度も南極にいつた仕合せ者であると思うて、大切に懐にをさめた。管太郎君は、かくごとく几帳面で緻密な人であつた。《注:「かくごとく」は底本のまま。》
 退職後、二十六年九月、大隈会館における竹柏会大会に捕鯨談をしてくれられた。片瀬南浜に児孫と共に楽しく住み、ゴルフをよろこび、予が年うへの従兄であるからと、熱海へも折々来てくれられ予はたまたまこそ訪はなかつたに、昨年八月、八十三歳で世を去られたのであつた。